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 女主人公の存在が純粋な手の運動にまで還元されていたのと同様に、『マディソン郡の橋』においては、東部から来た写真家を演じるクリント・イーストウッドの存在は純粋な〈顔〉にまで還元され、また二人が心と身体を接近させてゆくプロセスは、一本の対角線をもつ矩形の上での幾何学的な運動にまで還元されている。どういうことだろうか?

出会いはこんなふうにはじまっている。まず、ポーチの上にフランチェスカが立っている。夫と子どもたちとを送り出した後、留守を独りであずかる退屈と孤独に早くも音をあげはじめたかに見える彼女は、それでも努めていつものように、カーペットを勢いよく柱に打ちつけてほこりをはたいている。カーペットがバタバタと打ちつけられる勢いで手前の植木が激しく揺さぶられ、ほこりが朦々と舞いあがる。するとその舞いあがったほこりに呼応するかのように、地平線の彼方に土煙があがる。一台の小型トラックが、公道からそれた脇道を、フランチェスカのいる家のほうに向かってまっすぐに接近してくるのだ。なにごとかと訝しげに来訪者の車を見つめるフランチェスカの見た目は手持ちキャメラで撮られており(なぜかこのショットは、謎めいた男がやはり女のもとを訪れる、ゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』[1990年]冒頭を思い出させるのだが)、瞬時にして画面に緊張が走る。かつて少女の一心な祈りが蒼ざめた騎手を召喚したように(『ペイルライダー』[1985年])、今また、家庭の主婦のひたすらな手の酷使が、救いと災いを同時にもたらす冥府からの使者を招き寄せたというのだろうか?

……ともあれ、奇妙なのはこの先だ。訪問者の不意の出現に一瞬身をこわばらせたはずのフランチェスカは、だがその訝しげな表情とは裏腹に、フレームの対角線上を斜めに横断してくる小型トラックの動きに吸い寄せられたかのように、やがてトラックが停止する地点に向けて、ポーチを伝ってまっすぐに歩み寄ってしまうのである。砂利道の上をタイヤが転がる乾いた音があたりに響き、女はその音につられて高鳴る動悸を静めようと水差しの水をぐいと飲む。キャメラは両者の動きを若干の加速をともないつつ追い、互いに接近しつつある彼らの姿を幾度か切り返しながら、やがて二人をフランチェスカの肩越しに同一ショットに収めたところで、被写体ともども動きを止める。車から降り立ったのははたして道に迷った写真家だったのだが、いくらこれが今日とは比較にならないほど犯罪の少なかった時代のことで、しかも誰それが浮気したという程度の「事件」で村中が大騒ぎになってしまうような片田舎のことだといっても、普段着に裸足という無防備そのものの女が、家族の留守中に突然の来訪者の前へと進んで身をさらすというのは、心理的にはいかにも納得しがたい行動ではないだろうか? だが真に重要なのは、ここでのフランチェスカが、まるで事前に示しあわせたかのように男の乗る車と運動を共有し、二人して一つの運動を補いあって完成させてゆくプロセス――それ自体を注視することなのだ。

 フォードの『捜索者』1956年)において、重要なのは奥行きとしての一本の直線であった。荒涼たる大地の茫漠とした――非人間的な――拡がりと、そこに向かって振り下ろされた鍬の刃先のような人家のポーチとを結ぶ一本の線―地平線の彼方へと旅立った男は、そこを通って女の待つ家へと帰還を果たしたのであり、奥行きとしてのその直線を際立たせるため、『捜索者』の冒頭と末尾は、ドアの輪郭というフレーム内フレームによって水平的な拡がりをあえて断ってさえみせたのである。今、『マディソン郡の橋』において重要なのは、一本の対角線をもつ矩形である。だがこの図形は、先に記述した出会いのシーンにおいては未だ潜在的なものにとどまっている。ここではまだ、四角形の片側の二辺しかもちいられていないからである。どういうことか、説明しよう。

 一つの矩形を想像してほしい。四角形ABCD(図参照)。写真家の乗る小型トラックは辺AB上を移動し、フランチェスカのたたずむポーチは辺BCである。つまり、AからBに向かってトラックが移動するのと同じ時間をかけて、フランチェスカはCからBへとポーチを渡り切ることになる。そして同じ点Bで、二人は同時にぴたりと停止してみせるのである。こうして、二人ははじめて言葉を交わす以前から、矩形上の隣接する二辺を同じ一頂点に向けて、同じだけの時間をかけて移動するという運動を、知らぬ間に協力して成し遂げていたことになる。これが「運命の出会い」であるとすれば、そうした意味においてでしかない(そして、ここで二人が描き出した運動の軌跡は、そもそも映画の冒頭から、母親の訃報を聞いて駆けつけてきたマイケルの車と一足先に到着していたキャロリンによって知らずに反復されていたものである。過ちを犯して死んだ母親と子どもたちとの結末での和解は、冒頭から早くも暗示されていたことになる)

 だが、この運動は未だ完全な充足には至らない。欠けた矩形の半身が、充たされずして残っているからだ。この欠如を充たすため、対角線ACが引かれる必要がある。二人に対角線ACを経由させることで、矩形はあまねく踏破されうる。この対角線こそ、写真家のそもそもの来訪の目的であった、マディソン郡の屋根付き橋にほかならない。

 橋を撮影するためにここまで車を飛ばしてきたのに道がわからなくなってしまったという写真家――ロバート・キンケイドを案内するため、フランチェスカはトラックの助手席へと乗り込む。すでに写真家との「運命の出会い」を果たしてしまった彼女にとって、それはごく自然な行動だといえよう。ローズマン・ブリッジへと向かう車中で二人はぎこちない会話を交わし、フランチェスカは緊張からか、いつものようにしきりに手を顔へやることになる。走る車がフレームの対角線上を幾度か横切るうち、やがて前方に――それ自体がフレームの対角線として――赤錆色の矩形が見えてくる。ローズマン・ブリッジである。ここで二人は車を降り、写真家は撮影のための下見をはじめ、女は手持ち無沙汰にあたりを散策するのだが、このとき二人になにが起こるか?

今、対角線ACがローズマン・ブリッジである。はじめ二人はCにいる。写真家キンケイドは、カメラの三脚を立てるために橋の下へと降りてゆく。彼がCからDへと移動するのを眺めながら、フランチェスカも移動を開始する。橋を渡ってCからAへ――所在なげに両腕を後ろ手に組み合わせながら、彼女は裸足のまま、ゆっくりと歩を進めていく。飛んでくる虫をはらったり、気分の昂揚を静めるかのように頬をぴしゃぴしゃ叩いてみたり、相変わらずその手の動きはいそがしいのだが、橋の上と下とで言葉を交わすうち、彼女は橋の中ほどまでやってくる。ここでトラックの荷台に冷えた飲み物が積んであることを教えられたフランチェスカは、今来たほうへと引き返す。ACの中点からCへと戻り、先ほどポーチの上でも水差しの水でそうしたように、瓶入りのジュースをらっぱ飲みしてみせる。一息ついて男のいたほうを眺めてみると、さっきまでカメラのファインダーを覗いていたはずの写真家の姿が消えている。どうしたことかと周囲を見まわしたとき、彼女の目に飛び込んできたのは、橋の向こう側―屋根付き橋が奥に向かって開けた先に置かれたカメラの三脚だった。このあるじなきカメラのイメージは、それ自体で戦慄的な美しさをそなえているが、ともあれこの操作主を欠いたカメラに導かれるようにして、フランチェスカは橋を渡り切ることになる。キャメラは、ここではじめてBの側から屋根付き橋の出口を捉える。消えたかに見えた写真家は、女に贈る花を摘むため、橋の反対側へと降りていた。フランチェスカがAにたどり着こうとするとき、キンケイドはBにいる。彼女がジュースを飲んで一息ついている間に、写真家はDからAへ、そしてBへと移動していたのだろう。こうして先ほどの出会いを反復するかのように、キンケイドがBからAへと上がってくるのと同じだけの時間をかけて、フランチェスカは残りの道程を踏破するのだ。そして二人は再び出会う。今や対角線ACは踏破され、出会いのシーンにおいては潜在的なものにとどまっていた矩形が、ここではじめて姿を現すのである。

 では翌日、ホリウェル・ブリッジで再会した二人にはなにが起こっただろうか? 今度も対角線ACが橋だ。キンケイドはカメラを抱えてDにおり、フランチェスカが車でやってくるのに気づくと橋の上へ駆け上がる。彼は彼女の車が対角線を渡り切るのをCで待ちかまえ、近づいてくる車に向かってカメラのシャッターを切る。車から降りた彼女と握手を交わしたキンケイドは、撮影のために再びDへと降りてゆき、フランチェスカはまたCからAへとぶらぶら歩いていく。なにもかもが昨日のくり返しだ――そう思われたとき、フランチェスカの前に突如カメラを構えたキンケイドが現れ、彼女の写真を立てつづけに撮る。女がCからAへと対角線上を移動するあいだに、同じだけの時間をかけて、男はCからDを経由してAまで移動してみせたわけだ。いうまでもなく、ここで撮られた写真こそ、われわれがこの映画で最初に眼にした、両手を頬に押しあてているメリル・ストリープのイメージにほかならないのだが、フランスのモデルのように、ジーナ・ロロブリジーダ風にポーズしてという写真家の指示に、照れ笑いを浮かべて幾度も手を顔にやるだけのフランチェスカは、むろん倦怠に沈むのとは反対に、思いがけない喜びに上気した顔をいっぱいに輝かせている。

 

 

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