第1節 作品の評価
満映は満州国の特殊国策会社であり、国策映画の制作がその主要な使命であった。満映の初期の主な作品には、『壮志燭天』『国法無私』などがあるが、どれも統治者としての立場から制作方針を実行した国策映画で、強い宣伝的性格を持っている。しかし当時、映画市場を独占するために、満映は民衆のニ−ズを考慮に入れなければならず、こうした事情のもとで宣伝臭のあまりない娯楽映画が制作されたものと思われる。そうした主な作品には『明星的誕生』『七巧図』『知心曲』『慈母涙』『真仮姉妹』『万里尋母』があるが、全体から見ればやはり国策映画の構成部分ではあったようだ。満映の最初の2年に制作された、李香蘭主演の『蜜月快車』はじめ5本の映画は人気を得たが、作品そのものよりは彼女の魅力に注目が集まったと言える。彼女が主演したのはほとんどが満映の国策映画であり、「日満親善」「王道楽土」「五族協和」を政治的に宣伝するもので、芸術性においてはあまり評価されていない。(註1)
こうした作品の評判について、坪井與は「文化映画の一部を除く全作品は全満の満系館に上映されたが技術的にも上海映画を数段抜いているのに満系大衆を娯ませるには何かなじまないものがあったようである。」と述べ、その原因として、昔から日本人が作る漢詩などに日本臭いところがあるとし、「満映作品にもこの和臭があった」こと、また「俳優のセリフが北京官話の発音ではなく、山東なまりのある満語であった」ことも挙げている。(註2)
また、日本においても、「満映は何をしているのか、作るものと示へば日本映画の焼き直しばかりではないか、何も創造的なものは生れないではないかと示ふ非難と不満の声」(註3)が聞かれ、佐藤忠男も「それらの作品がときに日本で試写されると、安易な作り方であるとして批判されることが常だった。」と言っていることから、満映作品は大分悪評であったことが分かる。
新スタジオが完成され、満映が発展期に入ると、松竹との第1回提携作品である『黎明曙光』が制作されたが、これは上映後、満州国策映画の力作と言われ、辰巳龍吉はその紹介評論文で次のように言っている。
この映画を見終わってまず感じたのは、我が国はすでに映画らしい映画を作れるようになったのだということであった。
『黎明曙光』はその名に違わぬ国策映画である。これまでの国策映画はどれも娯楽性に欠けていたので、面白いとは思わなかったが、『黎明曙光』はその弊を完全に克服し、観衆の情緒を緊張させることができる。(『満洲映画』康徳7年3月号)
一方、この映画は日本でも封切られ、成績は普通であったが、評論家友田純一郎は酷評した。これに対し坪井與は「満系大衆によく分からせるためだと考えてわざわざ表現を平易にしてだらけさせることは満洲映画の将来のためにならないと示う助言は耳を傾けるに足る」と述べている(註4)。しかし中国人の側からは、「この映画は、日本の侵略と統治に抵抗する中国東北地方の人々に対する日本統治者の武力による鎮圧と思想宣撫を描いており、満州国策映画の代表作である」(註5)と断言されている。
また胡昶・古泉は、『黄河』についても、
日本の華北派遣軍の依託によって作られ、汪精衛政府の皇協軍の指導と協力によって撮影された。
この作品は至るところで日本軍と汪精衛政府の皇協軍を美化し、日本軍の「功徳」を賛美している。「日満一心」を宣伝する典型的な国策映画である。(註6)
とし、この他『愛焔』『現代日本』『現代男児』『地平線上』『王属官』『新生』などの作品も、「これらは、さまざまな角度から満州国傀儡政権の正体を隠蔽し、『王道楽土』を謡いあげ、日本統治下の現実を美化するものであった。」(註7)と評価している。
第2節 満映の思惑と民衆の反応
佐藤忠男は、満映創設の背景として、
(満洲国の)人口の多数を占めるのは漢民族であり、(略)一般大衆が見ていた映画は中国映画である。中国映画のほとんどは上海でつくられていたし、そこには相当数のいわゆる抗日映画が含まれていた。
抗日、排日に燃え上る上海の空気が、大衆娯楽をつうじて直接に満洲の中国人民衆に伝えられることには官僚は神経をとがらせたであろう。
政治的にだけではなく文化の面でも満洲を中国から分離独立させなければならない、と日本人が考えた。そして満映が創設された。(註8)
と述べている。また、当時の満映の制作態度について、
ほとんど既成の映画人を使わずに(満映が)出発したのは大胆不敵であり、すでに存在していた中国映画に対して、あんなものなら容易に作れるという見方があったのではないかと思われる。
向う見ずでもそれがやれたのは、やはり満映が国策会社であり、特権的な会社だったからであろう。脚本も監督も俳優も素人でも、(略)長期の計画でゆこう、という考え方だったのであろう。それだけバックが大きかったし、(略)ゼロから創造する余裕を信じて、当分は試作のつもりだったのであろう。(註9)
と述べている。
満映はこうして中国人民衆を映画で手なづけようとしていたが、実際、彼らはそれに対しどういった反応をしたのだろうか。大塚有章は日本映画『ハワイ・マレ−沖海戦』の巡回上映で次のような光景に出くわした。
大衆は日本海軍の飛行機が真珠湾に突入して大破壊をやるときにも歓声を上げるが、同じく日本海軍の飛行機がプリンス・オブ・ウェ−ルスから射ち出す高射砲によってバタバタ撃墜される光景に対しても拍手大喝采を送るのです。この大衆は飛行機と軍艦との戦闘に興味があるので、その軍艦や飛行機がどこの国籍のものかに対しては神経を尖らさない。そんなことは俺たちの知ったこっちゃねえ、といった表情です。(註10)
満州の民衆は満映の映画を娯楽としては楽しんだが、満映が期待した宣伝の効果はたいしてなかったのではないかと、この光景を見ると考えられなくもない。
また、満映内では「中国人社員と日本人社員との関係は他の企業よりは比較的にうまくいっているようであり、俳優だけでなく中国人の脚本家や監督も養成され」(註11)たので、満映自体は「五族協和」という理想を実践しているつもりだったかもしれないが、、日本の植民地支配という現実があまりにも明白で、映画でそれをごまかそうとしても中国人には無駄であったのではないかと思われる。
第3節 李香蘭主演映画がもたらした影響
日本内地の人間にとっても、満映の作品は不評だったが、歌う女優李香蘭が登場してからは注目されるようになった。
李香蘭は本名山口淑子という日本人であるが、父親が中国人と交友が広く、親しい家族同士の子を養子にする中国の習慣で、瀋陽銀行頭取李際春将軍の養女となり、李香蘭という名をもらった。彼女は女学生時代から歌を習い、その美声と素晴らしい美貌のため、思いがけなく映画に出演することになったが、彼女はまた、北京語が大変上手でふるまいも中国人のように努めたため、満映は彼女を中国人として売り出すこととなった。デビュ−作は1938年の『蜜月快車』で、その後『冤魂復仇』『鉄血慧心(邦題美しき犠牲)』『東遊記』など立て続けに出演し、翌年東宝制作の『白蘭の歌』に起用された。当時最も人気のあった二枚目スタ−長谷川一夫との共演で、大変ヒットし彼女は日本映画界の大スタ−となった。この映画が日本でこれほどヒットしたことについて、佐藤忠男は、
長谷川一夫の役は日本を代表し、李香蘭の役は中国を代表する。中国がこんなふうに日本を信頼し、日本に頼りきるならば、日本は必ずや中国を愛するであろう、というのが、この映画がラブ・ロマンスに託して表明しているメッセ−ジであり、それは中国人にとっては日本人が一方的に中国におしつけてくるバカバカしく偽瞞的で屈辱的な思想以外の何物でもないが、日本国内で日本の中国侵略の現実を知らずにいる日本人にとっては、甘い自惚れを満足させてくれる甘美な幻想であった。日本の映画ファンはこの幻想に酔った。だからこの映画はヒットした。李香蘭は心から日本男子を慕う純情可憐な中国娘に見えた。このように中国人から慕われているから日本は中国を指導するのであり、それは侵略ではないという理屈になる。(註12)
と述べている。
これに味をしめた東宝は1940年、長谷川一夫と李香蘭のコンビによる『支那の夜』と『熱砂の誓ひ』を製作、これらは「大陸3部作」と呼ばれ、いずれも彼女の歌う主題歌とともにヒットし、日本では興業的に大成功であった。一方中国では、『支那の夜』は『上海の夜』として公開されたが、中国人にとって侮辱と映るシ−ンがあり、反発が大きかった。それは、李香蘭扮する中国人少女が長谷川一夫扮する日本人船員に殴られるシ−ンで、山口淑子はこれについて次のように述べている。
戦前の日本では、男が女を殴ることも一種の愛情表現で、殴られた女が殴った男の強さや思いやりに感激し、改めて愛に目ざめるという場面は、芝居やスクリ−ンでよく見うけられた。しかし、それは日本人だけにつうずる表現だった。(略)殴られたのに相手に惚れ込んでいくのは、中国人にとっては二重の屈辱と映った。(略)映画の教宣目的は全くの逆効果で、抗日意識をいっそうあおる結果となったのである。(註13)
こうした日本側の勝手な思惑から、彼女が日本を慕う中国人の代表というふれこみは重要な
意味を持ち、日本人であることは公にされないでいた。このことから戦後、彼女は漢奸裁判にかけられ、中華電影を設立し中国人に絶大な信頼をおかれていた川喜多長政の奔走により、無事無罪となったが、裁判長はそのとき、
この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸罪を裁くことにあるのだから、日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは、中国人の芸名で『支那の夜』など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える。(註14)
とつけ加えたと言う。
1942年に満映に戻った李香蘭は、『黄河』『迎春花』を撮り、43年に東宝との合作『私の鴬』(未公開)の撮影後満映を去る。彼女自身と主題歌には人気が集まったものの、作品についてはいずれも不評で、『迎春花』の批評などは、
・・・それにしても之は何と言う貧しい作品であろう。之は観客を喜ばしめ、楽しましめるものを僅かしか持っていない。物語は先づ良いとしても、映画表現の貧困さは結局、此映画が、李香蘭を売りものとした興業価値に頼る以外に取り柄の無いと言う感じを與へる。二人の女性に日満婦人を象徴せしめた脚本の組み立は大船映画の常道であるにしても、此処には二人の女の心は明確に汲み取り得る程には描かれていない。(略)満映作品には、之に及ばぬものが数限りなくあるには違いないが、松竹スタッフの全面的な生産である点、それが満映作品としての輝かしい存在理由を持たぬ点に、何よりの不備が感じられる。(註15)
とあり、満映の一般の作品は酷評されたこの作品よりもレベルが低いはずと決めつけられていた。
李香蘭はその主題歌とともに、社会現象ともなるほどの注目を集めたが、日本を慕う中国人の代表として売り出されたことによって、結局は日本の思惑に利用され、中国人を侮辱するような結果を招いてしまった。作品に表れる日本の思い上りに対して、中国人は猛烈に反発し、宣撫されるどころか、ますます満州国そして日本に対する怒りを強くしたのではないか、と考えられる。
第4節 中国民衆が注目した作品
1941年から42年にかけて、比較的国策臭の少ない娯楽作品が作られ、民衆の多少の注目を浴びたものがあった。
従来、北京語映画として作られながら、東北三省(満洲)以外に公開されなかった『満映』の劇映画(娯民映画)から優秀作品をえらんで、上海ではじめて公開した。それは『竜争闘虎』と『?脂』の二本であり、ことに後者は情感のある秀作であった。
(註16)
これらの作品は、古装片(時代劇)といい、中国の故事に派生するものであった。これに関して坪井與は、
中国同様に満洲に於ても一般大衆の古装片に対する嗜好は時装片(現代劇)に比べて圧倒的に強く、観客調査によれば、その要求の程度は時代劇は現代劇に対して二倍の要求がある。(註17)
と言っている。取材制限や時代考証、衣装などに苦心し、製作費もかさんだが、「大衆の要望する古装片を何としても作り上げる、その窓口を開くと示ふ決意と熱意」(註18)を持って制作されたこれらの作品は、結果的にある程度の評価を得た。
この時期の日本映画は圧倒的に戦時色に染まっている一方、満映のこの2本の作品に宣伝的要素がほとんど含まれなかったことについて、佐藤忠男は、
彼ら(満映の幹部)が満人と呼んだところの中国人たちが、表面的には日本人に従っているようであっても、実質は決してそうではないことをよく知っていたからであろう。宣伝色を丸出しにした作品では、いわゆる満人たちに決して受け入れられないことを知っていたからこそ、まず理屈抜きの娯楽映画を作らなければならなかったのだと思う。
と言っている。(註19)
ここで、当時の「満人が喜ぶ劇映画とは」「満人がどのような役を演ずる俳優を歓迎するか」を、20数人の意見を聞いてまとめている貴重な資料を発見したのでまとめてみる。
(満人の)喜ぶ映画は、「絶えず笑わせる、愉快な」映画で、「深い刺激と新しい工夫」を求めているという。また、歓迎する役どころは、「三枚目の道化役」「堅苦しくない女」「豪傑派」「中心人物」「特殊技能を持つ者」(人を愉快にさせたり、希望をかなえてくれたり、人から頼られる存在に関心が向いていると思われる)。そして考察するに、映画に対する中国人の観念とは、「映画は一種の芝居だ」とみなし、劇には「架空的なもので真実の事ではない」という考えで接するため、好む映画や役どころにこのような影響が表れると思われる。(註20)
この資料は、国策色のある作品よりも古装片の作品が中国人に好まれた、という事実を見事に裏付けているように思う。満映は、なんとかして中国人が喜ぶ映画を作り、作品の評価を高め、その上で徐々に国策を宣伝していくつもりであった。したがって、満映にとって、作品は、純粋に人々を楽しませるものでも、芸術的に評価されるものでもなく、あくまでも満州国の正当化を知らせるためのものであった。しかし、中国人は、そのような現実を突き付けられるものよりも、純粋に楽しめる、そして希望を託すことのできる、一種の夢物語的存在としての作品を求めていたと思われる。
上海の中華電影(満映が3分の1出資)に『木蘭従軍』という作品があるが、これがヒットしたことから、もう一つ考えられることがある。唐時代、病気の父に代わって、娘木蘭が北方異民族と戦うという物語で、ここに日本は「鬼畜米英」を想定し、非常時には一致団結して戦うという意味をこめたからこそ上映を許したのではないかと思われる。が、中国では、これは典型的な抗日映画であり、それは暗黙の常識であった。昔の伝説にたとえて現在の世を風刺するという「借古諷今」という言葉が中国にはあるが、まさにこれを実現する『木蘭従軍』は好まれたわけだ。したがって、豪傑に希望を託し、現世を暗に批判することのできる古装片の人気が高かったということは、当然のことであったと言える。
第5節 芸術を追求した映画人
そのような時期に、『私の鴬』(1943年)の監督島津保次郎が、「(プロデュ−スした)岩崎さんたちと『世界に通用する芸術映画』を合言葉にしていた」(註21)というように、芸術を追求した映画の制作をめざした者もいたことも事実である。島津は欧米の音楽映画のようなものを『私の鴬』で実現しようとし、李香蘭に多くのオペラを歌わせ、ロシア人の歌手とオーケストラを使いセリフも歌もロシア語という、まさに「ヨ−ロッパ的」な映画に仕上げたが、胡昶・古泉によると、やはり「形式上は音楽映画だが、実際の内容は関東軍の侵略行為を美化する国策映画である」という評価である。結局この映画は、「反革命のロシア人が多く出演していることもあるので何か政治的理由がある」(註22)からか、「あまりに戦争と無関係な作品だったせい」(註23)か、「内務省の検閲で、時局に合わないということで」(註24)、満州でも日本でも公開されなかった。(というのが定説であったが、岩野裕一著『王道楽土の交響楽 満洲−知られざる音楽史』p288で、「(1945年)6月24日から30日までの1週間、李香蘭主演の『哈爾濱歌女』が平安戯院で封切られていたのだ」とあり、終戦間際の上海で公開されていたらしいことが分かった。後記)
国策映画であるには違いないかもしれないが、少なくとも芸術を追求しようとする気持ちを持って制作されたこの映画が公開されなかったことは、残念である。中国人や日本人のこの映画に対する反応がどのようであったか、ぜひとも知りたいと思うのは、私だけだろうか。
註1 胡昶・古泉『満映 国策映画の諸相』パンドラ1999年9月p51,55〜61 参照
註2 坪井與「満洲映画協会の回想」佐藤忠男・佐藤久子編集発行『映画史研究』第19号 1984年p14
註3 坪井前掲文p23
註4 坪井前掲文p12
註5 胡昶・古泉前掲書p106
註6 胡昶・古泉前掲書p107
註7 胡昶・古泉前掲書p110
註8 佐藤忠男『キネマと砲聲』リブロポ−ト1985年9月 p75
註9 佐藤忠男前掲書p76〜77
註10 大塚有章『未完の旅路』第5巻三一書房 1961年5月 p96
註11 佐藤忠男前掲書p191〜192
註12 佐藤忠男前掲書p84
註13 山口淑子・藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮社1990年12月p155〜6
註14 山口淑子・藤原作弥前掲書p381
註15 『キネマ旬報』1942年4月21日号、村上忠久/佐藤忠男前掲書p187〜 188
註16 『映画史研究』第11号、辻久一/佐藤忠男前掲書p189
註17 坪井與「満洲映画協会の回想」佐藤忠男・佐藤久子編集発行『映画史研究第19号』 1984年p24
註18 坪井與前掲文p24
註19 佐藤忠男前掲書p190
註20 譚復「映画に対する満人の観念」『満洲映画』康徳5(1938)年10月号p22〜25参照
註21 山口淑子・藤原作弥前掲書p275
註22 坪井與前掲文p59
註23 佐藤忠男「満映作品『私の鴬』発見」『映画史研究第20号』佐藤忠男・佐藤久子編集発行1985年巻頭
註24 山口猛『幻のキネマ満映』平凡社1989年 p184