第4章 日本敗戦後の満映

 第1節 満州国の崩壊

 1945年8月9日明け方、ソ連は対日作戦を開始した。当時、日本は中国東北地区に関東軍70余万人を駐留させていたが、精鋭部隊はすでに太平洋の戦地に移動し、実戦力は精鋭部隊の3分の1にも及ばなかった。加えて対ソ作戦の準備もおぼつかず、ソ連赤軍の強大な攻撃を防ぐことはとうてい不可能だった。8月15日正午、裕仁天皇は自ら「終戦の詔書」を読み上げ、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏することを宣言した。8月20日、ソ連赤軍は長春、瀋陽、ハルピン、吉林を完全に占領、22日には旅順、大連を占領した。関東軍は次々に降伏し、傀儡政権・満州国はここに至り完全に崩壊した。
 1944年下半期に入ると、満映専門職の社員も召集されはじめ、特にカメラマンの大部分は関東軍報道班に編入させられ、関東軍の作戦行動を報道するかたわら、満映制作の『満映通訊』と『満映時報』に素材提供した。8月11日、ソ連が新京に近付くと、甘粕は「本日午後11時、日系全社員は家族を帯同して本社に集合せよ。歩行困難な老人、病人も担架で運ぶこと。すべて衣服は清浄なるものを用い、男子は武器を携行すること」という最初の指令を出した。12日、「残された男子によって満映を守る」という第2の指令を出し、集合した日系職員とその家族による集団防衛を実行した。13日午前、新京市長公館で最後の諮議会が開かれ、「全市民を動員し、ソ連を迎え撃つか」という議題で大多数は「全員玉砕」を主張したが、甘粕は降参すべきと唱えた。同午後、関東軍からなんとか一列車確保した甘粕は、日系職員の家族千余名を通化に疎開させ、朝鮮を経て日本に帰国するよう命じた。14日、彼は満州興業銀行総裁・岡田信に連絡して、満映の全預金600万円を引き出させ、15日正午、「玉音放送」を聞いた。午後、渡瀬成美に満映の全施設の管理を命じた。17日、職員に退職金を支払い(日本人職員には5千円、中国人職員には在籍機関に応じて300〜3000円)、19日夕、ソ連航空隊先遣部隊200名が長春に進入、20日朝、甘粕は服毒自殺し、ソ連赤軍は長春を完全に占領した。
 当時、社員は総数約1600名、うち日本人約1000名、中国人約500名だったとされる。甘粕は自殺前、中国人社員たちに「これからは皆さんがこの会社の中心になって働かなければなりません、しっかり頑張って下さい」と言い、日本人幹部には「今後、この会社が、中国共産党のものになるにせよ、国民党のものになるにせよ、これまでここで働いてきた中国人社員が中心になるべきであり、そうするためには機材を大切に保管しておくことが大事だ」と指示したという。(註1)そこで「中国人職員は自主的に組織を作って機材設備を破壊から守った。」(註2)という。

 第2節 東北電影工作者聯盟

 満州国が崩壊すると、毛沢東の八路軍と東北民主聯軍、そして蒋介石の東北最高軍政機関や各種団体が生まれ、長春は非常に複雑な政治状況にあった。
 満映という重要な文化施設を人民の手中に収めるため、中国共産党長春市委員会は、8月下旬、地下党員劉健民と趙東黎を満映に派遣し、職員と結びついた。彼らは従来の職種に従って「東北電影演員聯盟」と「東北電影技術者聯盟」を組織した。9月上旬、劉健民と趙東黎の指導のもと、2つの聯盟をまとめ、「東北電影工作者聯盟」を設立し、活動を展開するため、ソ連の支持を取り付けた。一方、国民党勢力も積極的に活動し、満映製作部次長だった姜学潜らと結んで対抗した。劉健民と趙東黎は、満映の設備を掌握するためには、日本人のスタッフと手を結ばなければならないと考えていた。そこで日本共産党員・大塚有章らを通じて、積極的な働きかけを開始した結果、日本人スタッフの多くが「東北電影工作者聯盟」の側に立つこととなった。佐藤忠男は、
  中国人従業員たちは旧満映で身につけた技術で引きつづき映画をつくりたいという意欲満々であったが、まだそれぞれの技術で一人前になっている人は少なかった。(略)彼らはまだ、これまで彼らの上にいた日本人技術者たちの協力を必要としていた。(註3
と述べている。
 甘粕の自決後、満映は和田日出吉と渡瀬成美の二人の理事が守っていた。「東北電影工作者聯盟」は満映を撤収するため、9月上旬、交渉に入ったが、和田は、会社は中国当局に引き渡すべきだとして物別れに終わったが、ソ連軍文化処のアレキサンダ−少佐の介入もあって、和田は満映の権力を「東北電影工作者聯盟」に委譲した。日本が8年間統治した満映は、ついに人民の手に戻った。
 劉健民と趙東黎の指導で、10月1日には東北電影公司を創設し、満映という植民地主義文化の推進の場であったところが、今や人民映画事業の基地となった。満映で働いていた多くの日本人スタッフも参加し、1946年5月に東北電影公司が合江省興山市(現黒龍江省鶴崗市)に緊急避難したときも、その中核をなす人々は公司に従い、中国の映画人と苦難を共にし、人民映画創設に携わった。「解散時の満映にいた日本人のたぶん半数ぐらいが新しい公司に参加した」(註4)という。芸術部門11名、技術部門51名、行政部門13名、計75名と子供を含む彼らの家族もいた。1948年と55年に個別に帰国した人々を除き、大部分の人は53年4月11日、日本に帰国した。

 第3節 東北電影公司の北上

 東北電影公司は、1946年4月14日ソ連軍が東北から全撤退するまで、ソ連映画の中国語、朝鮮語、日本語版の作製を依頼されていた。ソ連軍が撤兵し、人民解放軍が長春を解放するとまもなく、国民党を撃破してきた八路軍が長春に入ってきた。同時に、延安から派遣された何人かの映画人や文化人たちが、東北電影公司の接収にやってきた。しかし、国民党の軍隊がアメリカの支持のもとに、続々と東北入りし、5月には国民党の大攻勢が迫った。このとき、「八路軍から徐群という人物が東北電影公司にやってきて、日本人従業員を集めて状況説明を行なった。急いで長春を撤退し、ハルピンに撮影所を移す、というのである。」機材を運ぶのに日本人従業員の力を借りたい、という申し出に日本人たちは迷ったが、「徐群の演説に感じられた誠意が人々を動かし」、内田吐夢をはじめ、木村荘十二、そして日本初の女流監督坂根田鶴子も北上を決めた。結局ハルピンは予定変更、炭坑の町鶴岡近くの興山(地図2)に、6月1日到着した。「ここはかつて日本人が多くいた土地であり、土地の中国人たちはかつての支配者日本人たちに対していい感情は持っていな」かった。しかし八路軍は我々の仲間だと説得した。旧日本人小学校を改造して撮影室などを作り、記録映画を撮りはじめた。8月になると日本人の半数は帰国することになり、残った日本人は70〜80人になった。

 第4節 東北電影製片廠へ

 10月1日、東北電影公司は東北電影製片廠(東影)と改組され、中国共産党が持った最初の本格的な映画撮影所となった。旧満映育ちの中国人と、延安からやってきた中国人、そして技術面では自身のある日本の映画人とが入り混じり、問題は微妙であった。
 翌年2月、ニュ−スなどを細々製作していたために従業員が余っていた東北電影製片廠は、余剰人員の整理(精簡といった)を発表し、結局日本人の半数の3〜40人が整理されて内田吐夢と木村荘十二も炭鉱で働くことになった。(註5
 興山では、映画製作現場に残った日本人が活発に仕事を始め、その中でもアニメ−ション作家の持永只仁は、国民党総統蒋介石を風刺した『甕の中で捕えられた亀』という短篇を作り、「おそらく、日本の敗北後の国共内戦の時期に、共産党の開放区の中国人にもっとも歓迎された作品のひとつ」となった。
 ニュ−ス記録映画『民主東北』は解放戦争に相呼応して制作され、移動映写機で解放区の村々で上映された。人気は上々で、大衆の戦闘意識を盛り上げる役割りを果たした。
 東影の当時の幹部のほとんどが映画の仕事の経験がないため、映画業務を学び、映画の芸術性や技術を身につける必要があり、幹部養成に48年6月、西北電影工学隊が到着、参加した。前後して3期の映画訓練班を組織、350名の青年映画幹部を養成し、その後の映画の大きな発展に備えた。(註6
 一方、長春の旧満映撮影所は、国民党直轄の東北電影公司として仕事を続けていた。機材はほとんど運ばれていたが、上海からのスケットもあり、『松花江上』という「抗日戦争集結後の中国でつくられた最初の傑作と言うべき作品」(註7)を制作した。

 第5節 中華人民共和国建国後

 1949年、人民解放軍は国民党軍を一気に撃破し、9月には北京で毛沢東が中華人民協和国建国を宣言した。それより早くこの年4月3日、鶴岡の東北電影製片廠は長春の元満映スタジオに戻った。炭鉱で働いていた日本人たちも復帰したが、映画製作の中心は言うまでもなく中国人たちであり、日本人はこれを助ける立場だった。アニメの持永は本拠地を上海に移すことになり、上海美術電影製片廠の中心的メンバ−になった。
 長春に戻った東北電影製片廠はこの年、初の劇映画「橋」を製作したが、「映画の技法、語り口としては、ソビエトの革命宣伝映画のお定まりの型にそっくりと言える」(註8)というものだった。
 東北電影製片廠はこうして、党の指示に従って、北京、上海新解放区における人民映画の開拓の仕事を支援していくこととなった。(註9

 第6節 養成所卒業生のその後

 1940年12月27日、養成所は設立され、その目的は、国策の使命を実行する映画専門技術者を育成することであった。学生はシナリオ、監督、撮影、美術、録音、編集、映写、経営、演技(俳優)などの専門をほぼ網羅していた。日本の敗戦、満州国の崩壊、満映解体に伴い、満映社員と同様、各地に散り、多くが別の職業についた。また、続く東北解放戦争で多くが生きるために戦火の長春を脱出し、映画界に業績を残すことができたのは少数の人となった。一貫して映画に従事してきた養成所出身の中国人は約43人である。
 新中国の映画技術は多方面からもたらされた。早くは上海の映画技術者がおり、延安電影団の人々、そして新中国で育った人々もいる。満映養成所の学生はその中の一グル−プである。彼らが映画技術の仕事に従事し成果を収めたのは、映画を愛し、重大な社会変革に際して正しい選択をしたこと、そして本人のたゆまぬ努力のたまものであるといえるだろう。加えて彼らが養成所で受けた映画に関する基本的教育が、その後の仕事の基礎となったことも忘れてはならない。

 第7節 現在

 1955年2月28日、東北電影製片廠は現在の長春電影製片廠に改称した。(註10)1993年まで長春電影製片廠に勤務した胡昶によると、現在中国の3大映画製作所の長春、北京、上海のうち、長春は特に多くの映画人や俳優を送り出し、活躍している、また、長春電影製片廠は新中国映画の基礎となったことから「ゆりかご」と呼ばれているとのことである。
 胡昶が最も強調する点は、満映は長春電影製片廠の元ではあるが、引き継いではいない、別のものである、ということ。建物はそのまま使ってはいるが、満映と長春電影製片廠は全く切り離して考えてほしい、ということである。
 最後に、満映に対する評価については、今現在、客観的に見る姿勢は徐々にできてきたが、やはり否定的であることに変わりはない、ということである。満映で働いていた日本人に対しては、本当に映画を作りたい「映画人」として満映にいた人は、侵略者とはいえない、とはっきり言っている。

註1 佐藤忠男『キネマと砲聲』リブロポ−ト1985年9月p231
註2 胡昶・古泉『満映 国策映画の諸相』p250
註3 佐藤忠男前掲書p232
註4 佐藤忠男前掲書p233
註5 佐藤忠男前掲書p240
註6 程季華主編森川和代編訳『中国映画史』平凡社1987年p400
註7 佐藤忠男前掲書p242
註8 佐藤忠男前掲書p249
註9 程季華前掲書p406
註10アジアフォ−カス福岡映画祭99 企画委員会特別プログラム「今、語る満洲映画協会(満映)」より

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