おわりに


 満州映画発行所というところが毎月1回発行していた『満洲映画』(日文版、満文版もあった)の、1938(康徳5)年6・7月号(p14〜19)に、「明日の満洲映画を語る」という座談会の報告が載っている。政府の役人と満映映画人とのやりとりの中で、呂露霞という演員(俳優)が、役人に「俳優をやっていてどうですか」というようなことを聞かれたとき、次のように答えている。
 「私たちは芸術を習ひに来たのですから。どんなに辛い訓練でも忙しい撮影でも皆んな愉快に仕事をして居ります。」と。
 私はこれを読んだとき、「本心から言っているのではないだろう」と直感した。それはなぜか。確かに、俳優たるもの、芸術を究めるためには辛い練習にも耐え、しかし励まし合っていくことだろう。だが、彼がいる所は満映であり、日本の支配下にあって日本人の満州国建国を正当化するための会社なのだ。芸術を身につけるための訓練よりも、もっと辛い現実に囲まれていたはずだ。中国人の自分が、満映の国策宣伝に協力しているという現実である。とても「愉快」など感じてはいなかったであろう、と私は想像する。
 また、山口淑子は1942年、満映・中華電影・中華聯合製片公司(中国映画各社の統合組織)の3社合弁製作『萬世流芳』に出演した当時のことをこう語っている。
  『萬世流芳』は、民族主義的愛国映画(阿片戦争敗北百周年にちなんだ企画で、阿片撲滅のためイギリスと闘った林則徐を描いた古装片)だったにもかかわらず、中国人俳優のなかには、満映、中華電影など日本の息のかかった映画会社が背景にあることに不信感を持つ出演者もいた。
 また、(当時上海映画界トップ女優だった)陳雲裳は「満映との合作映画に出演すると知ったファンから、恥知らずとか売国奴と非難する脅迫状がきたのよ。」と打ち明けたと言う。
  中国人俳優たちはみな筋のとおった抗日文化人だった。
  事実、上海映画界でもっとも親日的といわれた張(張善?)氏ですら抗日映画人だった。(山口淑子・藤原作弥『李香蘭私の半生』p293〜5参照)
 また、中華電影の川喜多長政は、「私たちの周囲にいる中国人のことを考えるとき、『心ならずも日本軍の占領下に住むことを余儀なくされている不幸』を忘れてはならない」と説き、「日本語ができて、日本の社会に雇われていたり、日本人と親密にしていた方が生活の上で有利な立場にある人たちが一見、親日派に見えるだけで、中国人なら100人が100人、日本軍の占領から一日も早く解放されたいと願っているのだ」と言っていたという。
 このように、中国人はしたたかに日本への抵抗を秘めていたが、日本人は、そういう反抗的精神を直し、導くためと言って、宣撫工作を進めていった。そのための有効な手段として、視覚と聴覚に訴えかける映画は利用されていた。
 満映は、満州国におけるまさにその役割を担っていた。日本の侵略行為、満州国建国、開拓団の入植、あらゆる植民地的活動を宣伝し、正当化し、日本はあくまで反日的中国人を教育するのだという思い上りに酔っていた。
 しかし、多くの人々が主張したように、あまりにも国策宣伝を表に出した映画では、中国人がついてこないことが分かりきっていたため、まずは「どうしたら喜んで見てもらえるか」という点に注目し、そうした上で徐々に国策へ引き込もうと考えていたようだ。が、肝心の作品の評価が少しもよくなかった。辻久一は『中華電影史話』(p151)で、
  満映の娯民映画は、ほとんどが日本人の脚本・監督によるものであった。民族を異にし、思想、感情、心理、風俗、習慣のちがいがある場合、それを克服して、異民族の心にふれるドラマを作ることは容易ではない。満映は、何度も実験を重ねながらほとんど成功を見ないのに、日本人による「満州国人」のための映画を反省しようとせずスタ−不足を言いわけとしていた。
と述べている。多少評判がよかった作品を考えてみると、「一見、単なる伝統的な古装片のようだが」実は「愛国的な抗敵救国精神の高揚をうたうこと」を暗示した中華電影作品『木蘭従軍』(山口淑子・藤原作弥『李香蘭私の半生』p285)などや、中国の故事を題材にしたものが多く、やはり辻の話にもうなずける。
 李香蘭の作品も好評であったが、あくまでも彼女の魅力とその歌に人気が集まったのであって、「日本の青年に恋する中国娘の周辺で親日派と反日派が争い、やがて反日派は抗日精神から目覚める」という日本側の独り善がりには反発こそすれ、それになびく中国人はいなかったと言っていい。
 胡昶・古泉の『満映』日本語訳が出版された後、(1999年)11月7日の朝日新聞書評欄で、京大人文研究科教授の山室信一は、「総合芸術である映画を筋立てだけで判断することには限界がある」として、「作品の評価を『侵略行為を美化し、中国人を奴隷化する国策」に沿ったかどうかという基準で弁別していく筆法には違和感も残る」と述べている。中国人の著者たちの立場からではやむをえないことかもしれないがとも言いつつ、その国策映画製作によって育成された人材が東南アジア各地で活躍していったという事実も否定できないと評価している。「一つの映画作品のどこまでが抗日的で、どこまでが芸術的か、見きめるのはきわめてむずかしい。」と山口淑子も言う。
 しかし、日本側ははっきりと国策宣伝を意図していたことは間違いないし、中国側もそれが分かっていたから反発し、現在もそう評価する。満映の中で学んだ中国人が映画技術を広め、現在の映画界の発展があるということは否定できないことだとしても、それと作品が中国人に深い傷を与えたこととは、同じ土俵で語ることのできない問題なのである。
最後に、満州だけでなく、台湾や朝鮮ほかアジアの国々でも行われていた、同じような映画政策について、今回触れることも比較することもできなかったので、今後それも視野に入れていきたい。また、資料を探す過程で、新年のカレンダーである中国の「年画」というものが実は国策と関わりがあったという論文に行き当たり、そういった映画以外の国策宣伝活動についても、研究してみたいと考えている。

 

後記

 これは1999年12月に早稲田大学第一文学部に提出した卒業論文に、事実の誤認を訂正し、後から分かったことなどを付け加えたものである。それから1年半の「満映」に関する動きを以下に記す。
 2000年3月に、山口猛氏が『幻のキネマ満映』から10年を経て、『哀愁の満州映画』(三天書房)を出版、10年の研究で新たに分かったこと、軌道修正しなければならないことなどを書き下ろした。今年(2001年)7月には、四方田犬彦氏著『アジアのなかの日本映画』が出版され、その中で満映についても触れている。また、2000年7月に明治学院大学で開かれた「李香蘭シンポジウム」を元に『李香蘭と東アジア』(東大出版会)が近々出版される予定である。
 2000年6月2日から14日の13日間、当時満映でカメラマンをされていた岸寛身氏、編集をされていた岸富美子女史夫妻、そして映画史家で長年貴重な資料を収集されている牧野守氏が企画された、名づけて「中国映画をめぐる旅」(研究者等総勢20名のツアー)に、私も参加させていただいた。北京、長春、ハルピン、さらにその北のジャムス、鶴岡まで北上し、当時の記憶をたどる旅であった。北京の電影資料館では貴重なお話をうかがい、また長春電影製片廠では8ヶ月ぶりに胡昶氏とそのご家族にお会いし、現在の資料収集や研究の成果などについてうかがうことができた。
 さらに最も貴重であったことは、12日間を通じて岸夫妻のお話をうかがうことができたことだ。特に、敗戦後、国民党の攻勢を逃れ、映画の機材を抱えて長春から北上し、鶴岡までたどり着き、そこで中国人と日本人が協力して映画制作に励んだこと、人員整理での辛い思い、日々の生活の苦しさ、など一言では語れないすさまじい体験を事細かに話してくださった。私は、「映画人とは、どんな環境でも、映画を作るということに全身全霊を傾けるものなのだ、そしてその情熱が、映画というものを支えているのだ」と実感し、さらに、彼らの苦労と努力が、中国映画・日本映画(そして北朝鮮映画も)の礎となっていることに驚くばかりであった。しかし、それをどれだけの人が知っているのだろう。中国では満映は語られないものであり、偽りであり、日本でも知る人は数少ない。私はこれをとても残念に思った。是非、岸夫妻の体験を、中国人・日本人だけでなく、映画や歴史に少しでも興味のある人には知ってもらいたいと思った。
 このような貴重な機会を与えていただき、そして語り尽くせないほどの体験と現地の空気に触れた私は、満映の研究を続けていくことで、岸夫妻はじめ満映そして東北電影で活躍した映画人たちの思いを伝えていくことができたら、とおこがましくも考えている。
 修士論文では、満映後期の作品『私の鶯』を中心に、映画人たちが、映画法や検閲など様々な制約の中で、いかに芸術としての映画作りをめざしたか、それは達成できなかったとしても、そうした努力があったことだけでも、探ることができたらと思っている。また、満映から戦後引き揚げ、東横(その後東映)で活躍した映画人が日本映画に与えた影響があるとすれば、それはどういうところか、などについても考察していきたい。そして、それらについては、中国・韓国等アジアの多くの人々に与えた苦しみと深い傷をふまえた上で初めて、研究していくことができると思っている。
 

第4章へ     資料編へ


Top Page