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占領下米国教育映画についての覚書 ―『映画教室』誌にみるナトコ(映写機)とCIE映画の受容について みんなで映画を見に行こう! ――アメリカにおける映画館の文化史

日本映画興行史研究

日本映画興行史研究

――1930年代における技術革新および近代化とフィルム・プレゼンテーション

藤岡篤弘

 

 はじめに

本稿は1930年代における日本の映画興行の実態を概観する試みである。明治の揺籃期と大正の成長期を経て、ある高みに達した日本映画がトーキーという技術革新に直面し、構造改革を迫られた1930年代は、真に実力ある監督たちがサイレント期に積み重ねた文体を開花させ、つぎつぎに秀作を生み出した「黄金時代」であった。この頃はまた、西欧文化を享受した人々が華やいだ文化生活を謳歌していた一方で、軍部がさまざまな戦端を開き、戦況に応じてナショナリズムが昂揚していくなか、映画の政治的な利用価値が認められ、映画史が新たなる段階に入った時期ともいえよう。そうした状況のなかで、1930年代という日本映画の「黄金時代」に、数々の映画作品が行き着く場としての映画館の様態を、体系的に考察する試みはこれまでなされてこなかった。本稿では、1930年代の映画業界誌や映画雑誌を中心に、各種統計数値や映画興行に関する記事を渉猟し、日本の映画興行の状況を広い視野で客観的に捉えることを目指す。そこでは映画館というミディアム空間の様態にさまざまな角度から検討をくわえることで、それが映画の技術革新や日本の近代化プロセスと連関しながら機能していたことが明らかになるであろう。方法としてはまず、トーキーという全世界的な映画の技術革新によって、映画説明者や楽師など旧興行形態を形成していた存在が姿を消し、映画興行形態が変化していったことを確認する。そしてこの時期、生活に快適さを求めはじめた都市の映画観客の欲望が映画館の内部構造を変化させ、また増大する映画人口を収容するべく大映画劇場の建設が相次いだ。そして商品としての映画の価値が高まり、映画館は全国的に宣伝合戦を繰り広げた。さらに交通機関と映画館の密接な関わり合いは、興行者にとって看過できない問題となった。こうした事項を確認することで、1930年代、日本の映画興行の実態を検証する。

 

1.    1.   1930年代の映画興行

1895年にパリで初めて有料一般公開上映されたリュミエール兄弟によるシネマトグラフ(スクリーン照射型の撮影機兼映写機)は、2年をおかずして日本でも上映されはじめるが、当初は演芸小屋にて各種演芸の幕間などに上映されるものであった。しかし時代の要請によって、そうした多くの演芸小屋は常設映画館(以後、常設館)に鞍替えし、映画中心のプログラムを組むようになる。日本最初の常設館は、1903(明治36)年、「電気仕掛の器具類や、X光線の実験を見せて、電気の知識を普及し傍々、見世物として入場料を取っていた」浅草の電気館である[1][1]

21世紀をむかえた現在でもその区分がまったくないとはいえないが、戦前は常設館のなかでも日本映画専門館、外国映画専門館、そして併設館という比較的明確な区分があった。まず以下の図1を見て頂きたい。

 

1 

 

1は1930年代における全国の各種常設館数の変遷を辿ったものである[2][2]。この統計によると、全国の常設館総数は1920年代後半から30年代を通じて一貫して増加を続けているが、なかでも日本映画専門館数に大幅な増加傾向がみられる。その一方で外国映画専門館数にはあまり変動がなく、併設館数は減少傾向にある。各種映画館数の変遷をめぐる、こうした傾向によって、何が見えてくるのか。1930年に発刊されたある代表的な映画業界誌は次のように分析している。

 

殊に茲一二年来、日本映画の常設館に於ける躍進振りは目覚しく、漸次外国物の人気を奪ひ、次いで外国物専門常設館を足下に降し、日本物を専門に上映する常設館の数は月を逐ふに従って増加する趨勢を示した。そして外国発声映画が紹介されるに及んでその傾向は益々著しくなって来た(下線は引用者による、以下同)[3][3]

 

発声映画を上映するやうになってから、従来の観客中知識階級に属する何十%かの純粋外画鑑賞家を残して、一部の外画ファンが近来頓に台頭して来た日本映画に走るやうになったのは特記に値する事実である[4][4]

 

以上に評されるように、日本映画専門館数の増加傾向は、日本映画の躍進という要素に加え、外国発声(トーキー)映画が輸入されはじめた1920年代後半から始まるのである。また日本映画の躍進が「外国物専門常設館を足下に降し」たとされるが、実際影響を蒙ったのは外国映画専門館ではなかった。つまりトーキー化の問題に左右されない一部の根強い外国映画ファン層(「知識階級に属する何十%かの純粋外画鑑賞家」)が存在したとすれば、外国映画専門館数はそれほど大きく変動しない。その一方、文字通り客層が一定しない併設館では、日本映画と外国映画の興行成績に明確な優劣が生じ、その結果、この時期に多くの併設館が日本映画専門館に鞍替えしたのではないか。それはいまだ推測の域を出てはいないが、日本映画の躍進と外国トーキー映画の上映開始が重なったこの時期、「映画ファン」の嗜好が明確に別れはじめたことを考え合わせると、妥当であろう。

映画館は作品というソフトを観客に提供するハードでありながら、常にそのソフトたる作品と受容する観客の動態に動揺させられる不安定な存在であったことはまちがいない。また翻って、この時期の映画観客が、トーキーという新技術導入に伴う興行形態の変化に翻弄されるばかりではなく、各種常設館の興行方針を変えてしまうほど強い個体だったのである。

 

2.    2.   トーキー映画の影響

では、ここからはトーキー映画が従来の映画興行制度に与えた影響を検討したい。日本初の外国映画トーキー興行は1929年5月9日、新宿武蔵野館と浅草電気館における、「ムーヴィートーン」式発声映画[5][5]『進軍』(マルセル・シルヴァー監督、1929)とハワイアン・ダンスの短編映画『南海の唄』の上映である。その後、各社系列映画館がつぎつぎと改良型の発声装置を購入するに至り、この年の「下半期に入ってからはトーキーの跳梁愈々目醒ましく、完全に外画興行界をリードし、発声装置を設備する常設館の数も漸次増加し、同年末には全国で二十三館の多きに上った」[6][6]という。この後、発声装置を設備する常設館の数は激増していき、1938年には全国の常設館1,875館中1,811館までが発声映写機を有するようになる(図1)。

とはいえ、トーキー上映初期にはその是非をめぐって活発に議論が繰り返されていたようである。なかでもトーキー否定論者の説は、その多くが無根拠と思われるもの(「演劇に逆戻りする」「一時的流行」「一部の科学者と興行者によって要求されたもの」)やその成功によって早々に解決した費用の問題ばかりであるが[7][7]、いずれにせよ映画のトーキー化問題は従来の興行形態に多大な影響を及ぼすことになる。ここでは、この時期の映画興行を形成していた重要な制度として、映画説明者(弁士)と「ステージ・プレゼンテーション」に、その影響を確認することにする。

 

2.1.        2.1.      説明者

説明者の存在は、その是非をめぐって大正期(1912−26年)からさまざまに言及されてきたし、昨今でも、日本映画研究者による説明者の再評価は盛んであるが、本研究で説明者の問題を取り上げるのは、なによりも彼らがこの時期の映画興行を形成する不可欠な存在であり、制度であったという事実によるものである。この説明者に関してはふたつの問題が持ち上がる。

まず筆者がここで用いる「説明者」という呼称こそが、重要な問題を孕んでいる。なぜ本論では「説明者」を用いるのか。それは1930年代の映画に関する言説上で一般に用いられている呼称だからである。この呼称に関しては、日本映画研究家のアーロン・ジェローが以下のように分析する。

そもそも「説明者」とは「スクリーンの横に立ち、口頭で物語細部の語りや登場人物の会話の補足をした」「弁士(活弁)」という当初の呼称が、1910年代後半からの純映画劇運動[8][8]をはじめ映画言説界における改革論者たちによって改められた呼称であり、「活動写真」が意図的に「映画」と称されるようになる時期とほぼ重なる[9][9]。つまり映画の自立性を主張する改革論者たちが、「過剰な言語で観衆をはらはらさせる」「弁士」から、その権限を取り上げ、「映画がその固有の意味を伝達する際の手助けを義務とする」「説明者」へと降格させる過程をジェローは粗略するが、同時に、そこには弁士に依然根強い愛着を示していた「社会的に劣った群衆」に対する、改革論者たちの軽蔑的意図が存在したと主張する[10][10]。この呼称の変化にみられる事情から、当時の映画興行場における各観客の位置関係と、その「差異(ディスタンクシオン)」が少なからず明らかになるし、また同時に説明者の存在の大きさを再確認できるのである。

それではなぜ、説明者は映画興行においてそれほど大きな存在になりえたのか。この制度が日本で独自の発展を遂げた経緯がもうひとつの問題になる。説明者に相当する存在は日本だけの事象ではない。例えばアメリカでは、「lecturer(解説者)」が1910年代前後まで存在した。ジェローは映画学者トム・ガニングと映画史家ミリアム・ハンセンの論説を援用し、「解説者」が1908年前後には中流階級観客への心理描写と物語的細部の情報提供を行い、初期アメリカ映画に(中流階級観客を取り込むための)重要な役割を果たしたことを明らかにする。しかし結局その直後、映画と解説者との「非連続性」から彼らは不要とされ、次第に姿を消していったのである[11][11]。ところが日本では1930年代の半ばに至るまで、説明者は存在しつづけた。映画評論家四方田犬彦は日本における「弁士」の存在、存続理由を的確にまとめている[12][12]

そもそも日本では、「活動写真が人形浄瑠璃のように映像(形態)と音声の分離を前提とした大衆演劇の延長線上に受け容れられたという経緯が」あり、映像と音声がかならずしも同質のものである必要はなかった。また伝統的な語りの芸があったために、「弁士のような複雑にして洗練されたパフォーマンスが可能となり、またそれを支持してやまぬ大衆の嗜好が醸成」されたとする四方田は、さらに「現在の地点」から以下のように述べる。

 

弁士は単純に先行して存在するフィルムを従属的に解説する人物ではなく、むしろフィルムを素材のひとつとして扱うパフォーマンスの主体であった。彼は観客の映画体験を自在に操ることができたばかりか、制作サイドに対しても一定の発言権をもち、日本映画を、無声の自己完結をもってよしとするハリウッド映画とは異なった方向へと発展させるのに効があった。リュミエール以来、映画がすべからく表象の次元で止まっていたとき、唯一日本だけが表象を越えた現前の次元に到達できていたとすれば、それはひとえに弁士があってのことである[13][13]

 

つまり日本の「弁士」とは単なる映画の説明者ではなく、日本の伝統が保証するパフォーマーであり、映画が撮影や編集の技法で独自の「物語り」を編み出しても、また西欧の映画雑誌を読み耽った改革論者がその存在を否定しようとも、日本の大多数の映画観客には支持されつづける存在なのであった。説明者に対するジェローと四方田の現代的視点は、説明者の存在が当時の映画観客間に「差異(ディスタンクシオン)」をもたらし、また日本映画の質そのものを独自に高めたという重要性を明らかにする。しかし、それでもなお説明者が減少しはじめるのが、1930年代なのである。以下の図2を見て頂きたい。

 

2 

 

2は1926年から1930年代初頭にかけて、全国の説明者数の推移を示したものである。その減少傾向[14][14]のなか、1931年に一時的な増加回復傾向が見られる。この傾向をある映画業界誌は以下のように分析する。

 

オール・トーキー中の台詞がチンプンカンプンの上に、外国事情にくらく音楽的に訓練を欠いた一般大衆が発声映画を歓迎する筈がない。そしてその窮境を、一時は発声映画の為めにその存在を危ぶまれた説明者が、わずかに救ってゐる現状は確かに皮肉な事象である[15][15]

 

たしかにトーキー化によって映画史は新たな段階を迎えたといえようが、それまで無声映画に親しんできた映画観客のすべてがその技術革新を喜んだとは考えられない。とくに登場人物が外国語を発する外国映画が本格的にトーキー上映され始めた1930年頃には、説明者が再要請されたのであり、統計結果はその跳ね返りとして理解できる。

そしてまた、「弁士が、有害なメッセージを除去すること、もしくは建設的なメッセージを付加することで、テキストを変え」ることによって、「画一的な観衆を作り上げる」教育者としての役割を国家が弁士=説明者に期待したことをジェローが述べ[16][16]、「日本ではある時期から弁士は免許制となり、国民に忠孝の愛国思想を訓導することを要求されるようになった」と四方田が述べるように[17][17]、日本が満州事変を勃発させ、日本人一般の目に見えないところで侵略戦争を開始した、まさに1931年に説明者数の一時的跳ね上がりが見られることは単なる偶然として看過できない問題ということになろう。しかし、両者の説も、翌1932年から減少の一途をたどる説明者数を説明するものではない。

さて、その後、説明者数は再び激減に転じ、1930年代末には全国で388人、東京ではわずか5人しか存在しない。ただし、この時点でも、北海道に75人、熊本に54人存在したという記録[18][18]から、地方ではまだ映画館のトーキー設備の不足からか、説明者が必要とされていたのではなかろうか。

 

2.2.        2.2.      ステージ・プレゼンテーション

トーキー移行期に苦境に立たされたのは説明者だけではない。映画館で無声映画の伴奏を担当していた楽師たちもまた大量に解雇された。つまり「従来各常設館附の管絃楽団に依って伴奏されてゐた映画は自ら舌と音楽とを持つやうになったので、必然的に興行者は楽師を解雇した」[19][19]のである。その結果、日本各地で単発的に起こっていた映画館の楽師争議は、やがて全国的な労働争議にまで発展することになる[20][20]

また一方で、映画常設館での舞踊、演芸、唄などのライヴ・パフォーマンス、いわゆる「ステージ・プレゼンテーション(アトラクション)」が「興行政策に行詰った大小の興行者を直接に刺激」[21][21]し、1929年上半期あたりにまず外国映画専門館で流行する。それはやがて日本映画専門館にも波及し、小唄・舞踊などによる「余興」が東京の常設館を中心に上演され、また地方では、「怪しげな唄手や踊子の跋扈となり、安来節や人形振り芝居、万才等の常設館における跳梁となって、観客を喜ばせ、或ひは顰蹙させた」[22][22]と、その過熱ぶりがうかがえる。なかには、「他の館と競争上必要に迫られてレヴィユを上演」していた映画館や、そうした館に舞踊団などを売り込む「レヴィユブローカー」も存在していた[23][23]。ただし松竹は、本来の「お家芸」でもあることから、この風潮を一時の流行に終わらせずに、この分野に力を注ぎつづけた。

実際、幾多の絢爛たるレヴュー、ヴォードビルを公演して好評を博した松竹は、岡田嘉子、月形竜之介、岡田時彦といったスターまでも舞台に上げた。また「ターキー」こと水ノ江滝子を第一期生にもつ専属楽劇部(1928年創立、のちの松竹少女歌劇団[SSK])が繰り返し女生徒を募集しつづけたように、常にレヴューの内容充実をはかり、この分野では他の追随を許さなかった。松竹はトーキー移行後も、さらに力を入れて楽劇部を拡張させ、それを映画上映の幕間に差し挟んでいた。その結果、「松竹座のステージ・プレゼンテーションは遂に各地に圧倒的人気を獲得し、新たにレヴュウ・ファンまでも吸引」するに至ったのである[24][24]。1932年の東京宝塚劇場(東宝)創立後は東宝が松竹を逆転し、宝塚少女歌劇団やその卒業生からなる東宝劇団、さらに古川ロッパ劇団などを全国の東宝系劇場や映画館に巡回公演させ、観客を喜ばせた[25][25]。映画界における松竹と東宝はそのライヴ・パフォーマンスを主体とする本来の興行の性格上、映画製作、配給、興行に止まらず、映画以外のライヴの「呼び物」に至るまで熾烈な争いを繰り広げたのである。

そもそも前述したように、映画興行初期においては、映画はこうした一連のステージ・プレゼンテーションの幕間に上映される見せ物のひとつにすぎなかった。やがて産業が成熟し、独立興行として定着した映画上映の幕間にそれらが「流行する」という逆転現象は、映画史的に重要な問題である。いずれにせよ本節で確認したかったことは、1930年代に日本映画が「黄金時代」を迎える前段階には、トーキー導入という映画産業界全体を揺るがす一大革新の波が押し寄せ、その過渡期には、抗いながらもやがて消えゆく説明者や楽師あるいはレヴュー団が存在したこと、そしてなによりも彼らが当時の映画興行を形作っていたということである。そして、そうした日本の映画興行の制度が、トーキーという技術革新によって形を変え、姿を消していった1930年代は、日本映画史上、最も重要な転換期のひとつであることにはまちがいない。

 

3.    3.   映画館建築と文化格差[26][26]

本節では1930年代に起こった映画館のさまざまな形態の変化について概観する。1930年のある代表的な映画業界誌は、1920年代末に起こった映画館建築(増改築を含む)「ラッシュ」の理由として、次の三点を挙げている。

 

一、震災のバラック建築を本建築になすこと

二、従来の木造バラック建築では狭小なるため増築したもの

三、映画館設立が経済的に確実なる企業の立脚点を有する気運が進展してきたこと[27][27]

 

まず一点目の「震災」とは無論、1923年の関東大震災のことを指す。関東大震災によって関東地区の主要撮影所が倒壊したために、重要な映画人が多数京都の撮影所に逃れてきたことは日本映画の「製作史」において重要な出来事であるが、映画の「興行史」において映画館建築が新たな局面を迎えたこともまた重要であり、今後の検討項目である。

 つづく理由の二点目は、都市の膨張に伴う映画人口の増大に呼応し、手狭になった映画館が増、改、新築をはじめたことを明らかにする。それは映画館の建築構造にさまざまな新機軸をもたらした。つまり映画館はそれまでの内部構造を一変し、また一方では新たな外観を現したのである。

 

3.1.     3.1.    映画館の内部構造

1930年代以前は、多くの映画館の内部構造はいまだに歌舞伎劇場などの伝統的ライヴ・パフォーマンス劇場のそれを引きずっており、観客は有料で下足を下足番に預け、座布団に座って映画を観覧していた。1930年代初頭にまだ旧来の興行形態を残していた地方都市の住民は、その煩雑さを以下のように皮肉を交えて嘆く。

 

笑っちゃいけませんよ、恥しい話ですが「いらっしゃい」と景気のいゝ声に送られてモギリに切符を渡すと、次に下足札、煩わしい下足札を持って上ると「お布団いかが」と別嬪さん発声する!嫌だナアと思っても渋々持って来させるものなら料金五銭に火鉢五銭合計十銭也をとられる。そして中へ入ると古色蒼然たる花道を横たへて、小さく四角に区切った観覧席そして林長二郎主演映画と云ふタイトルに万雷の拍手、やがて林長がスクリーンで躍ってる中を「エゝラムネは如何」「蜜柑やお菓子はいかゞ」です。映写中は煙草はお構ひなし、お茶はのむ、やがてハネる頃にはラムネの空瓶と落花生の皮と、蜜柑の皮で周囲を包囲され、帰る時はサア一大事、下足札の有難さは燦然として輝く。或る者はマントを、或るものは袂を裂き、或る者はこの動乱を避難する為に尊い一時間の空費を余儀なくされるのです[28][28]

 

日本の都市部で座布団が椅子席(まだほとんどが長椅子)になり、下足預かりが廃止されはじめたのはようやく1930年直前になってからである。これは映画館が他の芸能を上演する「ハコ」と完全に決別したという意味のほかに、人々の映画観覧への態度に大きな変化を与えた。いや、むしろ逆に近代化する都市の生活者が映画館の形態を変えたというべきかもしれない。下足預かりを廃止することで出入り口の混雑は緩和され、座布団を椅子席にすることで映画館の集客力はさらに向上する。映画館に滑らかに入退場できるようになった観客は、映画観覧をこれまでよりも気楽なものとして経験するのである。

 

3.2.        3.2.      冷暖房の設置

また、1932年夏には東京の帝国劇場と武蔵野館が日本の映画館で初めて冷暖房を設置する。人口の増大や交通機関の整備など近代化のプロセスにあって、日本の、とりわけ都市住民は生活に迅速さや快適さを求めたはずで、映画館もまた彼らの欲求を満たすべく様変わりしはじめたのである。ここでは映画館における冷暖房設置の一事例として京都の新京極映画興行街の状況を取り上げよう。

京都では、帝国館、キネマ倶楽部(ともに1934年改築)、京都宝塚劇場(1935年開場)、京極映画劇場(1936年新築)、松竹座(1937年新築)など比較的施設の整った「一流」常設館の多くが1930年代半ばに新改築を開始する。これはなぜであろうか。各館の新改築のなかでも最初期に工事を完了させた帝国館は、1934年12月31日、次のような姿を現した。

 

正味僅かに四ヶ月余の超スピード工事で、帝都一流館と比べても少も遜色なき近代的映画劇場に改築なった新京極帝国館は、わが国映画館建築の尖端型を誇る表正面総ガラス張りの機関を京極映画街の一角に聳えさせ〔中略〕夜景外観は、事の歓楽境にふさはしからぬ斬新な建築美を放って京都人の眼を驚かして居る。場内に暖房、冷房、換気装置の完備されて居る事も京都では最初の館であり〔中略〕気の利いた場内アナウンスの設備、指定席前売、直営売店の設置等、映画常設館としての新しき試み(亀甲内は引用者による、以下同)[29][29]

 

以上のように、帝国館はこの改築で「帝都一流館と比べても少も遜色なき」、「尖端型を誇る」、「斬新な」、「最初の」、「新しき」設備を満載したのである。なかでも重要なのは、この時点で帝国館が京都ではじめて冷暖房を完備したことである。帝国館が7万5千円を費やしたこの装置は「スチームにより暖められた空気を電動ファンにより場内各所のパイプに送」る暖房と、「地価二百五十尺を掘り下げた管内の空気を圧搾アムモニアと共に送じてパイプによって場内に送」る冷房である[30][30]。帝国館には翌年(開館翌日)の元旦から連日観客が殺到し、新京極映画街の「栄冠」を獲得する[31][31]。しかし映画街の「栄冠」を獲得するために、なぜ冷暖房の完備が必要とされたのか。映画学者加藤幹郎は、1950年代に冷暖房設備を競って喧伝した京都市の映画館の事例から、映画館に対する観客の欲望を以下のように述べる。

 

ひとは映画館に、銀幕の夢におぼれるためだけではなく、冬には避寒のために、そして夏は避暑のためにゆくようになる。映画館は荒唐無稽な物語とスペクタクルによって、想像力の水準で観客に現実逃避をもたらすと同時に、映画館の外の厳しい自然環境からの逃避をももたらしてくれる。要するに京都市民は、映画館という廉価な公的空間が盆地京都の冬夏の厳しさを和らげることを発見するのである[32][32]

 

つまり映画館に対する観客の欲望は、映画作品による現実逃避だけではなく、冷暖房設備による快適な映画観覧にもあったというのである。しかしこうした観客の欲望は1950年代にはじめて生まれたものではない。1937年のある映画雑誌では、冷房設備を有する京都の文化映画劇場を評して「この暑さの中、冷房でひやりするだけでも十銭の値うちはある」と述べる一方で、冷房設備のない老舗映画館、夷谷座については次のように酷評する。

 

七八の両月、新興封切館夷谷座入り悪るく八幡支配人クサル。併し、こればかりは支配人がどうアセッたところで、仕方がない。館に冷房装置が無いからだ。今日、百度からの暑苦しい小屋へ銭を出して入る気は誰だってしないだらう(僕ならゼニを貰っても嫌だ)[33][33]

 

これによると1930年代後半には、冷暖房(少なくとも冷房)の完備されていない映画館に観客が寄り付かないことは「仕方がない」事実になっていたようである。そうした状況、つまり1930年代半ば以降に京都の一流館が冷暖房の設置を競い始める発端になったのは、やはり帝国館の改築であろう。この改築による京都初の冷暖房完備が京都の興行街に与えた影響は、次のとおりである。

 

暖房装置自慢の帝国館は我が天下来れりとばかり、京都人に其有難味を宣伝するので、他館も〔1935年1月〕第三週は豪華番組で背水の陣を引いたが、漸く底冷えきびしい自然の猛威には、如何ともなす術もなく、暖房設置無き松竹座始め同系三館中の改築案が早くも京極街の話題とされている[34][34]

 

ここでは、帝国館が他館に先駆けて完備した冷暖房を喧伝し、実際、人々が殺到したために、京都を牙城とする松竹系映画館が焦りの色を見せていることが分かる。とはいえ、それらの映画館もすぐさま冷暖房設置工事に取り掛かることはできなかった。東京で実績を積んだ東宝系の大劇場、京都宝塚劇場の開場(1935年11月11日)が冷暖房設備を伴ったことは別として、松竹系の映画館が冷暖房を設置するのは、帝国館の改築から2年以上も後のことである。しかもそれは歌舞伎座を引き継いだ京極映画劇場(1936年12月31日)、京都一流館の松竹座(1937年7月1日)とも火災による新築工事に伴ったもので、火災が偶発しなければ、冷暖房の設置はさらに遅れたことであろう。事実、この時期に新改築した映画館の全てに冷暖房が完備されたわけではない。上記の一覧に掲載していない「場末」の映画館はもちろん、帝国館と同時期に改築を施したキネマ倶楽部でも、いまだ「観客席の改善、拡張、防音装置の完成」が関の山であった[35][35]。それはなによりも経費の問題であり、その設置はもとより、当然稼動にも莫大な費用がかかった。当時の京都では最高額の入場料金(50銭、1円、1円50銭)であった松竹座が設置した冷房設備の稼動費用は、一日に250円を下ることはなかったという[36][36]

 とはいえ1930年代半ば以降には、一流の新改築館を中心に、冷暖房完備がようやく定着しはじめる。東京や大阪など大都市ほどではないにしろ、当時「六大都市」に含まれていた京都市が近代化し、人々の生活が以前よりも快適さを求めたことは容易に想像できる。そのなかで、映画館に快適さを求め、「避暑」にやってくる観客が現れることに不思議はない。ここでは1930年代における京都の事例を取り上げたが、他都市においても類似する状況を推測できよう。また、1930年代半ばから全国主要都市に建設されはじめ、それ自体、新しいコンセプトであるニュース映画館[37][37]は建物が新築であることは言うまでもなく、上映に際しては「最新の」ニュースを最新式の映写機や発声機器を用い、そして当然のように最新の設備たる冷暖房を完備することで、それ自体で「ニュース」たらんとしたのである。

しかし1938年、冷暖房設備は「物価委員会」[38][38]の「第二特別委員会」で「皇軍将兵が大陸の酷暑の中に勇戦してゐる際、銃後国民が涼しい思ひをしてゐるのはけしからん」と槍玉に挙げられた。そして翌年、商工省が全面的に乗り出した「消費節約運動」の一環として、全国の「不要不急」の冷房設備は廃止を言い渡され、なかでも映画館は「全廃組」のトップに名指しされた[39][39]。それゆえ京都の大多数の映画館で冷暖房設備が一般的になり、映画館が観客の「避暑地」になるのは、やはり「一九五〇年代初頭までまたなければならない」[40][40]のである。

 いずれにせよ1930年代における冷暖房設備は、都市の近代化を象徴し、生活に快適さを見出しはじめた人々が求めたものであった。そのなかで映画館における冷暖房設置は莫大な費用を要し、経営上の大きな賭けになったことであろうが、映画観覧という娯楽にも快適さを求めはじめた都市の観客には最高級のサービスであり、この時期、全国主要都市の興行街ではその設置が相次いだのである。

 

3.3.        3.3.      大映画劇場と地方格差

 こうした映画館の内部構造改築や冷暖房の設置は、観客の気楽で快適な映画観覧を可能にしたであろう。しかし一方で「黄金時代」を迎えた映画界においては映画人口の増大という問題を抱えてもいた。1920年代後半のアメリカでは、ロキシー劇場(1927年開場)やラジオ・シティ・ミュージック・ホール(1932年開場)といった、大規模収容、装飾華美の映画宮殿(ピクチュア・パレス)がニューヨークに登場した。映画観客の増大と映画産業の安定化にともない、大会社の威信をかけておこなわれたこの設備投資は、同時期に世界恐慌に見舞われ、当初は莫大な経費に見合うだけの収入をもたらすことができなかった。さまざまな問題(「威信や投資家の信頼の問題、債務、ブロック・ブッキン・システム」)から簡単に手放すことが困難であった映画宮殿の存在は、アメリカの映画産業自体を危機に陥れ、多くの人々は「腹立ちまぎれに映画はもうだめだと断言」した[41][41]。その危機的状況を救ったのは、トーキー映画の導入である。アメリカの映画学者ロバート・スクラーは、「平均的な封切り興行のサイレント映画にそっぽを向きはじめていた映画ファンは、たとえ料金がはねあがっても、トーキーならば何でも見ようとしてつめかけた」と、トーキー導入によって人々が再度映画館に殺到した様子を述べている[42][42]

だが、日本ではそれほど単純な解決は望むべくもなかった。一般大衆における説明者の人気や発声機器の不具合、そして日活宣伝部の佐久間梅雄が「外国映画の中、発声映画は何んとしても言葉がわからないから興味著しく減殺されて了ふ〔中略〕発声映画は発声の為に大衆性を失ひ、洗練された客のみが残る計り」[43][43]と分析したように、外国映画における言葉の問題などから、トーキー映画が無条件に歓迎されたわけではなかったし、そもそも日本ではトーキー導入が大映画劇場の建築に先立っていた。その頃の日本における映画館建築「ラッシュ」では中小規模の常設館が多く、増大する映画人口を収容する大劇場建築計画は、1930年代前半の不景気に加え、映画産業が「世間一般に企業としての確実性を疑」われており、立案されては立ち消えになるものがほとんどであった[44][44]。アメリカと比較して日本では、映画作品というソフトには経済的価値を置くが、映画館というハードから産業全体までをも見渡す広い視野はいまだもっていなかったと言わざるをえない。

唯一、日本劇場が日本における最初の映画宮殿として、1929年夏に起工されたが、資金難から工事はいったん中止され、「鉄骨を赤錆だらけにして骸骨劇場とまで異名を取り、いつ竣成するのか全く見込みがたたなかった」[45][45]。その後、日本劇場がようやく開館をむかえるのは1933年大晦日のことで、その収容人員は5,000人(公称)にのぼり、映画上映場のほかに、ダンスホール、ふたつの大食堂、そして地下にはのちに日本初のニュース映画館となる第一地下劇場が開館する。さらに客席だけではなく廊下や便所にいたるまで通じていた冷暖房装置や舞台と客席を鉄扉で仕切る防火設備をも備えており、名実ともに日本最初の映画宮殿であった[46][46]

 あるいは規模としては日本劇場に劣るが、1,500人を収容する日比谷映画劇場も当時「大劇場」として1934年2月に開館した。1930年代の映画史、なかでも映画興行史を語る上で欠かすことのできない東宝社長の小林一三が手がけたこの劇場は、それまでの長椅子式ではない一人一脚の座席や防音装置をかねたカーペットを敷きつめた優雅なつくりで、電気設備も完全なものであった。その一方、経営方針としては50銭均一、短時間プログラム[47][47]を掲げ、観客に手軽な映画観覧をもたらした[48][48]

 このように莫大な費用を要し、「モダーン・ルネッサンス式」「豪壮なる建築美」[49][49]と形容される大映画劇場建築の傾向は、映画が経済効果をもたらす産業として認識されはじめたという映画館建築「ラッシュ」の第三の理由に相当するものであろう。ただ、これは一時期の、しかも大都市に限られた流行であった。不景気が底をついた1933年あたりから景気上昇ムードも助けて奢侈な大劇場建築は煽られるが、それ以前には、装飾よりも質実を重視すべきだとの主張も見られるし[50][50]、時代を下って、1937年12月には「非常時建築制限令」により定員750名以上の映画館などの新築は中止され、太平洋戦争も末期となると、1944年2月25日に閣議決定された「決戦非常措置要項」を受けて、同年3月5日以降、高級興行場は一時閉鎖されることになる[51][51]。その中には日本劇場も含まれていた。

また情報の高速化により全国各地が「東京化」している現在とは異なり、当時の東京をはじめとするごく一部の大都市の文化的状況はきわめて特殊なものであった。東京の最近郊都市の横浜の映画街でさえ1930年代初頭には、「又楽館の前には十七八人位の遊牧の民やルンペン共が立ってラヂオを聞いて」おり、「浅草の様に各館が競ふてネオン・サインやイルミネーションに金を掛けてゐる館は一軒もない」状況なのである[52][52]

また一方、この時期の地方巡回上映という興行形態は、映画の教育的機能を歴史的に証明する重要な研究課題であるが、本稿の射程を越えてしまうため、ここでは日本の都市部と地方の文化的格差を浮き彫りにする、1940年代前半のエピソードをひとつだけ紹介することにする。

 

遠い山坂道を歩いてたった一晩の映写会をみてきた老婆が映写会が済んでから隊員に両手を合はせて、まるで仏様でも拝むような恰好で「またきてくれ」とくどくどと頼んでゐる姿も何回か目撃した[53][53]

 

「娯楽機関の殆んどない」地方民は娯楽映画を特に歓迎し、「従来の散文的な」文化映画よりも「農業技術指導映画」に大きな関心を寄せていたという。

世界恐慌の影響を蒙りながらも、西欧文化の移植からようやくそれを日本文化として開花させはじめた人々が文化的生活を謳歌していた1930年代初頭[54][54]、映画館は椅子席の導入や冷暖房の設置など内部構造と映画上映形態を一変させ、観客に気楽で快適な映画観覧を提供するようになる。また中期には、都市人口に比例して激増する「黄金時代」の映画人口を収容すべく、大映画劇場建築が流行する。それらはいずれも、人口の増大や交通機関の整備などによる生活環境の迅速化といった都市の近代化プロセスが密接に影響関係をもっている。そしてまた急速に近代化を進める都市部と、それが進まない地方とでは、日常生活のみならず、文化的な格差までもが広がる一方であったことも忘れてはならない。

 

4.             4.            宣伝合戦

1930年代初頭、経済学的観点から映画研究を展開していた石巻良夫は「国の貧富が映画事業に及ぼす影響は大きい」という真っ当な指摘をしている。この時期、日本の人口一人あたりの年間所得は218円であった。これは一人あたり1,272円を稼ぎ出すアメリカはもちろん、他の先進諸国のそれにも遠く及ばない状況であった。さらに日本全国の失業者数は1929年から30年にかけて47.2%もの驚くべき増加率を示している。これはのちに「世界大恐慌」と呼ばれる1930年代前半、日本もまた未曾有の不況状態に陥っていたという事実を示している。こうしてみれば、「如何せん日本人には映画を頻繁に見るだけの余裕がない」はずである[55][55]。しかしこの後、映画人口は緩やかながらも増大していくのである。

3 

 

3に見られるように、1920年代末から30年代初頭にかけて、常設館平均入場料金は緩やかな低下傾向を示している[56][56]。それに加えて全国各地で「早期興行」などの割引興行や熾烈な宣伝やタイアップ合戦が繰り広げられ、不況下にある人々を映画という娯楽(生活に不可欠ならざるもの)に惹きつけるために各映画館が奔走したさまが伝わってくる。1930年代初頭の主要な宣伝方法は、辻ビラ、立看板、ポスターによるものであった。もう少しアクティヴなものとしてはチンドン屋やじんたが練り歩き、宣伝広告を掲示した自動車やバスが走行し、さらに空には宣伝文句を掲げた飛行船や気球が飛び交ったように、各地での激しい宣伝、割引合戦の様子が新聞、雑誌に記されている[57][57]。またこの時期、大都市の豪華な映画館では冷暖房設備を主なサービスとして喧伝しはじめるが、その設備を有しない地方の映画館でも可能なかぎりのサービスを提供していた。一例を挙げると、「夏枯れ時」の氷水無料提供や封切り日の日めくりカレンダー持参による割引措置など、各館の苦心、工夫のあとが見られる[58][58]。なかでも「お迎え自動車」は長岡市の電気館によるサービスの事例で、「大人五人が有料観覧する場合に、同館へ電話をかけると、直ちに各自の宅まで自動車が迎えに来て、館まで無料で送り届けてくれる」というものであった[59][59]。都市の近代化によって生活に快適さを求めはじめた人々にとって、自宅から映画館まで身体を運んでくれる「お迎え自動車」は当時の映画観客のニーズに応えたはずである。

そしてこの時期盛んになった、数ある宣伝タイアップの例としては『嘆きの天使』The Blue Engel(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督、1930)上映とレコード会社ビクターのタイアップ商法が挙げられる。そこでは主演女優のマレーネ・ディートリッヒ[60][60]が吹き込んだレコードの発売に際して、レコード番号、映画封切館名、上映日時記載のリーフレットやポスターの大量配布、大立看板の設置はもちろん、レコード店の「ショウウインドウ装飾の競争」や映画観覧者を対象にした懸賞問題で賞品の銀製品を争わせていた[61][61]

こうした常設館間での宣伝競争は熾烈さを増し、各館が共倒れする地方もあったが[62][62]、「映画ファン」にとっては非常に恵まれた環境であり、西欧文化が日本でさまざまに花開くこの時期を最も謳歌したのは他でもない彼ら「映画ファン」であったかもしれない。また他業種商品やレコードなど他のミディアムと結びつけられることによって、映画の商品価値が誰の目にも明確になったのである。

 

5.             5.            映画館と交通

前節で述べたように、1930年代には映画興行に「お迎え自動車」なるサービスが登場したが、ここでは本稿の最後として観客を映画館へと運ぶ交通について考察する。映画興行と交通機関の関係については、明治期の都市論やメディア論など幅広い研究領域を持つ国文学者前田愛が、浅草の興行街に関して以下のように指摘している。

 

明治三七年に入ってから、これまでの馬車鉄道にかわって登場した市街電車が大量輸送を可能にしたことは、〔浅草〕六区興行街の転身をうながす引金のひとつになった。東京電車鉄道が敷設した浅草橋―雷門、上野広小路―雷門間の路線は、赤毛布の盛り場から市民の娯楽センターへと、浅草の性格を変貌させる。旧市街に居住する市民が夜になってからも、気軽に浅草を訪ねることができる条件がつくりだされたのである。これは映画の常設館にとって願ってもない幸便だった。〔中略〕啄木にとっての活動写真は、まさに遊民のまなざしにふさわしいいっときの見世物だったし、それ以上でもそれ以下でもなかった。啄木は、開場間もない新装の富士館につめかけたおびただしい観客の一人一人が、彼と同じように群衆のなかの孤独を求めにきた人たちであることを知っていた。啄木がそうであったように、家族と離れて都市で生活することを余儀なくされた単身者も多かったにちがいない[63][63]

 

前田によると、それまで「十二階、パノラマ、珍世界、水族館、玉乗り」[64][64]など「旧態依然たる見世物が幅を利かしてい」た浅草六区興行街の中心が、鉄道路線の拡がりによって映画館へと変わっていったようである。これまで述べてきたように、都市の近代化によって都市住民はより快適な生活を手に入れたであろうが、その一方で、都市生活が豊かになるにつれて「家族と離れて都市で生活する」地方出身の単身者が増加するという現象も起こってきたであろう。鉄道路線網の充実によって、彼らが都市で「群衆のなかの孤独を求め」て映画館に「ふらりと」出向くことが可能になり、浅草は映画興行街に転身したのである。

自館のファンを対象に観客の動態調査を実行するなど、映画館が多数存在する「盛り場」と交通機関との連関性の探求に熱心であった1935年当時の浅草松竹館支配人は、東京の三大興行街(浅草、新宿、丸の内)と周辺交通事情について次のような分析をしている。

 

浅草は盛り場が存在して、交通機関がそれへの観客集中の現実にミートする可く次第に出来て行ったのである。新宿の場合は、交通機関集中過程と興行街形成過程が併行的に行はれたのである。〔中略〕丸の内は交通機関集中の事実から、観客集中の十分なる可能性を見透して意識的に形成された興行街であると言へる[65][65]

 

これはなんの実証的数値もなしに、ただ支配人の個人的印象を述べたものにすぎないが、興行のプロによる、興行街の形成と周辺交通機関の路線網発展は、さまざまな形で常に対をなすという指摘は見逃せない。

 また当時の丸の内松竹劇場支配人、守安正の映画観客と交通機関に関する実証的な研究は非常に興味深い。ここでは、「毎日興行してゐて、而も毎日それ相当な客が劇場へ来るが、一体何処から来るのだらう」という疑問を出発点に、自館へ向かう観客の居住地区を割り出し、それに丸の内松竹劇場を取り巻く各種交通機関(省線、市電、青バス、市バス、地下鉄)の路線図を照合させる。

 

4 

 

4は守安の研究成果の一部をまとめたものである。これはそれぞれ、各種交通機関における丸の内松竹劇場の最寄駅から5銭区間内に含まれる地区の、また乗り換えなしで通過できる地区の、そして丸の内松竹劇場の観客居住地区の高率順位である[66][66]。これによると、「5銭区間」と「観客居住地区」の間にはほとんど合致がみられない一方で、「乗り換えなし」と「観客居住地区」の順位が完全に合致していることが分かる。つまり5銭ほどの最低料金区域の居住者がそのまま映画観客の大多数を占めたわけではなく、むしろ一般的に交通機関の乗り換えなく丸の内松竹劇場に到達できる経路上に位置する地区の居住者がより多く集っていたのである。自宅の最寄駅から乗り換えなく映画館に到着し、また帰宅できることで、観客はより快適に映画という娯楽を堪能できたのである。

この結果が表すことは、この時期、都市の映画観客は映画観覧に「経済的条件」(より安価に)よりも「肉体的条件」(より快適に)を重視し始めたということである。これは第3節で述べたように、映画館入退場の快適さや映画観覧の気楽さを求める観客に合わせて、映画館の内部構造やその興行形態が一変した時期とほぼ重なる。都市の近代化は生活の迅速化をもたらし、そのなかで都市に暮らす映画観客が快適な映画観覧を求めたことは当然のように連関する傾向なのである。

支配人自らによるこの調査は、日本全興行街を通覧した場合、あくまでも首都東京における、ひとつの特殊なケースであったかもしれない。しかし映画館と交通、さらにその観客(=乗客)の連関性は今日にまで続く重要な課題であり、例外であったとしても、看過できる事例はないはずである[67][67]。それはなにより、現在、映画受容にさらなる気楽さを追求した結果、自宅でのヴィデオ、DVD鑑賞や衛星放送に耽る我々の問題でもありうるのだから。

 

 まとめ

1930年代、日本の都市は近代化する。とりわけ東京市は1923年の関東大震災で甚大な被害を受けたものの、25年11月には山手線が環状運転を開始する。また「燕」号が東京−神戸間を運行し、都市間を「超特急」で結んだのは1930年である。1931年には羽田空港が完成し、翌32年には隣接群町村と合併した「大東京市」が人口約497万人の世界第二の大都市となる。大阪市では関一(せきはじめ)市長による「総合大阪都市計画」で、運河、下水道、公園などのインフラ整備のほか、1937年には地下鉄工事をともなった御堂筋が完成した。1930年代とは、まさにこうした時期であった。そして繰り返すように、1930年代、日本映画は「黄金時代」を迎えていた。本稿では日本映画「黄金時代」の映画興行が、常に映画観客の動態に翻弄され、かつ支えられてきたことを前提に、その構造に迫った。それは映画産業構造を取り巻く周辺事項の列挙、また同時代の映画に関する言説や個別的興行研究の整理にすぎないかもしれないが、ただひとつそこにある論理的整合性を見出せるとすれば、日本における映画興行の行く先には、さまざまなレヴェルで映画の技術革新や都市の近代化が背景になっているということである。もちろん、そうした時代の大きなうねりに乗じた映画興行を展開できたのは大都市の一流映画館のみで、その他大多数の映画館は、トーキーへの移行や激増する映画人口の趣向の変化による映画館構造の変革など、つぎつぎに生み出される新機軸に対応できずにいたことも忘れてはならない。映画興行史研究はようやく着手されたばかりであるが、同時に映画というミディアムが存続しつづける限り途絶えることはない。本稿の試みが、その足掛かりとなれば幸いである。

 

本稿は2001年度、京都大学大学院人間・環境学研究科に筆者が提出した修士論文「1930年代における日本の映画館と年少観客に関する映画学的研究」の一部を改訂、増補したものである。

 



 



[1][1] 田中純一郎『日本映画発達史T』(中央公論社、1968年)、100頁。常設ではない仮設興行場における入場観覧者の統計結果もまた興味深い。そもそも仮設興行場とは、「一ヶ月間に十日間乃至十五日間以上の興行の出来ない館を云ふ」という定義がなされるものであるが、1930年代後半にもなると、東京ではわずか3館、京都や大阪でも78館しか存在せず、全国主要都市でも大差はない。しかし広大な原野を擁する北海道では常設61館に対して、78もの仮設興行場が存在し、「常設館以外の興行場における入場観覧者数」が2位以下を大きく引き離す統計結果がみられる(『映画年鑑』昭和16年版、5255頁)。こうした特異的な統計結果を看過することはできないが、北海道の映画興行事例ならびに仮設興行の検討に関しては別の機会に譲りたい。

[2][2] 以後各種の図表は、各時期の業界誌記載の統計を基軸に、新聞や映画雑誌から相対的に信憑性のある数値を補い、筆者が独自に作成したものである。そのため決して正確無比な統計ではありえないことを断っておく。図1に関しては、稀に3種常設館数の合計が総数と食い違うが、これは当時の統計のまま採用した。

[3][3] 『日本映画事業総覧』昭和5年版、4849頁。

[4][4] 同上、5455頁。

[5][5] 世界初の本格的トーキー映画である『ジャズ・シンガー』The Jazz Singer(アラン・クロスランド監督、1927)に使用されたワーナー・ブラザーズ社の「ヴァイタフォン」は、サウンドをレコードに同調させるディスク式トーキーであった。一方、それに対抗して20世紀フォックス社が開発した「ムーヴィートーン」は、フィルム端のトラックにサウンドを記号変換させるものである(Ephraim Katz, The Film Encyclopedia, 3rd ed., rev. Fred Klein and Roland Dean Nolen [New York: Harper Perennial, 1998], p.985)。なお、192710月以来フォックス社が提供しつづける「ムーヴィートーン・ニュース」は、文字通り詳細な音声情報を有するニュース映画という「新ジャンル」がトーキー技術の賜物であることを示している。

[6][6] 『日本映画事業総覧』昭和5年版、5354頁。とはいえ、東京(7館)と大阪(6館)という大都市の映画館がその半数以上を占めていた。

[7][7] 田中純一郎『日本映画発達史U』(中央公論社、1968年)、6972頁。

[8][8] 雑誌『キネマ・レコード』の同人であった帰山教正がその中心人物で、主にアメリカ映画で使用されている映画独自の手法(カットバック、クロースアップ、ロングショットなど)を取り入れることやシナリオの導入、女形の廃止などによって、それまで旧劇や新派劇の伝統を引きずっていた日本映画の改良を主張した運動。

[9][9] ただし他方では、「活辯」はそもそも軽蔑的な呼称であり、したがって「弁士」自らが「映画説明者」を名乗ったという全く正反対の説(御園京平『御園京平楽書帳』[私家版、1999]11頁)もあり、その真偽のほどはいまだにはっきりしない。

[10][10] アーロン・ジェロー「弁士の新しい顔――大正期の日本映画を定義する」(若尾佳世乃訳、『映画学』第9号)、5573頁。

[11][11] 同上、65頁。

[12][12] 四方田犬彦『映画史への招待』(岩波書店、1998年)、137138頁。

[13][13] 同上、145146頁。

[14][14] ただしこの統計に関しては、「減少したのは高等小学卒業程度以下のもので、中学校卒業以上のものは却って増加し、それだけ説明者の学力は向上した」という備考がある(『国際映画年鑑』昭和9年版、110頁)。

[15][15] 『日本映画事業総覧』昭和5年版、55頁。

[16][16] ジェロー、6870頁。

[17][17] 四方田、140頁。

[18][18] 『映画年鑑』昭和16年版、1617頁。

[19][19] 『日本映画事業総覧』昭和5年版、55頁。

[20][20] 楽師争議が全国的な労働争議へと発展していった経緯に関しては、田中純一郎『日本映画発達史U』、204205頁を参照のこと。

[21][21] 『日本映画事業総覧』昭和5年版、56頁。

[22][22] 同上、53頁。

[23][23] 東武郎「レヴィユの昨今」(『キネマ旬報』1931511日号)、35頁。

[24][24] 『日本映画事業総覧』昭和5年版、5257頁。

[25][25] 1930年代後半から、ほぼ毎日のように綴られた古川ロッパの日記は、この時代の文化研究には欠かせない資料である。本研究に即してほんの一例を示すと、1937710日、つまり「支那事変」勃発期に公演先の京都に滞在していたロッパは「近くの京都ニュース映画劇場へ入る。パラマウントのスポーツライトの一篇、水中学校がとても面白かった」古川ロッパ『古川ロッパ昭和日記・戦前篇』[昌文社、1987年]、326頁)と綴るが、毎日の日記のなかでは、この「事変」に関しての悲観的言及はほとんど見られない。のちに「何うも然し心に沈着なものを今日は失ってゐるな」(同、戦中篇、160頁)と、ロッパが太平洋戦争勃発に心落ち着かず、自宅の1階と2階をうろうろと行き来する様子と比較すれば、「支那事変」をさほど重大に捉えていないロッパや周囲の反応が垣間見られて興味深い。

[26][26] これまで観客が映画作品に対面できる唯一の場として映画館の存在意義を体系的に深く問うた先行研究は皆無であったが、建築物としての映画館研究はおそくとも1930年代にはある程度存在したようである。木村栄三郎は『劇場及映画館』(常磐書房、1934年)で中流以上の観客を想定した劇場および映画館設備を解説し、早稲田大学の建築講義では、映画館の社会背景に応じた建築や立地形態、観客とスクリーンの理想的な位置関係などを議題に挙げている(武基雄『劇場及映画館』(早稲田大学出版部蔵版、1942年)。

[27][27] 『日本映画事業総覧』昭和5年版、104頁。

[28][28] 「日本全国一周映画誌上行脚」(『キネマ旬報』1931321日号)、115頁。

[29][29] 山本利雄「新館印象――京都帝国館」(『キネマ旬報』1935121日号)、11頁。

[30][30] 『京都日出新聞』1934年12月28日付。

[31][31] 「映画館景況調査」(『キネマ旬報』193521日号)、24頁。

[32][32] 加藤幹郎「映画館と観客の歴史――映画都市京都の戦後」(『映像学』第55号)、4546頁。

[33][33] 「京極よいとこ」(『映画ファン』193710月号)、140頁。

[34][34] 「映画館景況調査」(『キネマ旬報』193521日号)、24頁。

[35][35] 「映画館景況調査」(『キネマ旬報』1935111日)、13頁。

[36][36] 『京都日出新聞』1936810日付。

[37][37] ニュース映画館に関しては、拙論「ニュース映画館<誕生期>の興行とその機能」(『映像学』第68号)、2846頁を参照されたい。

[38][38] 「物価委員会」は中央物価委員会と地方物価委員会に分けられるが、この場合は中央物価委員会を指す。中央物価委員会の会長は商工大臣である。

[39][39] 『京都日出新聞』193979日付。

[40][40] 加藤、46頁。

[41][41] アメリカの映画宮殿に関しては、ジェイムズ・モナコ『映画の教科書』(岩本憲児他訳、フィルムアート社、1996年)、206頁とロバート・スクラー『アメリカ映画の文化史(上)』(鈴木主税訳、講談社、1995年)、292−299頁を参照した。

[42][42] スクラー、301頁。

[43][43] 佐久間梅雄「客は遊んでゐる」(『キネマ旬報』1930911日号)、14頁。

[44][44] 『国際映画年鑑』昭和9年版、56頁。

[45][45] 同上、6頁。

[46][46] 日本における大映画劇場は、19339月開場の大阪千日前東洋劇場をもって嚆矢とするが、同劇場は翌5月には早くも破産し、松竹が債務肩代わりによって大阪劇場として同年8月に開場させた(田中純一郎『日本映画発達史U』、210211頁)。

[47][47] 従来、映画館の一回の興行時間は短長編交えての45時間が一般的であった。ここで小林が掲げた2時間そこそこの興行時間は、東京という大都市生活者のニーズに応えるものであったはずである。さらに後には、「一本立て興行」という発想が登場する。

[48][48] 『国際映画年鑑』昭和9年版、89頁。日比谷映画劇場をめぐる小林の最も目立った活動としては、開館前に「貴下が若し本劇場の支配人として迎へられたりとせば如何なる抱負経綸を持たるゝや?」と一等200円の懸賞金をもって、興行アイディアを映画雑誌の広告上で大々的に募集していることが挙げられる(『キネマ旬報』193391日号、4445頁)。

[49][49] 『国際映画年鑑』昭和9年版、7頁。

[50][50] 『日本映画事業総覧』昭和5年版、108頁。

[51][51] 具体的な全国の閉鎖館は田中純一郎『日本映画発達史U』、387頁に記載されている。

[52][52] 東武郎「横浜映画街展望」(『キネマ旬報』19313月1日号)、41頁。

[53][53] 『稿本、昭和十八年/昭和十九年/昭和二十年映画年鑑原稿』(フィルムセンター所蔵、頁数不明)。

[54][54] 1939年、「映画法」施行期の雑誌『日本映画』には、「あの頃私は映画館に行き、そしてカフェを訪ふことは楽しかった。頽廃を感じさせぬ創意と活気とがあったから。人々は生命の美と力と新機軸とを工夫しようと競ってゐるやうに見えた〔中略〕少くともあの頃の、映画鑑賞の清純さと鋭さと観客への指導性とにおいて、今日は劣り且つ全体に雑乱の調子のあることは争はれない」と1930年前後の自由で力強く、華やいだ雰囲気を懐古する投稿が掲載されている(倉田百三「葵館時代の思ひ出」[『日本映画』193910月号]162163頁)。

[55][55] 石巻良夫「映画の購買力」(『キネマ旬報』1931421日号)、5354頁。

[56][56] この時期、入場料金は全国的に値下げ傾向にあったにもかかわらず、それに課せられる入場税率は変わらず、納税に苦しむ興行者たちは全国各地で入場税の軽減運動を起こした(『国際映画年鑑』昭和9年版、51頁)。

[57][57] 映画の宣伝広告に関しては、この時期、多くの記述が見られるが、そのひとつとして『キネマ旬報』に掲載されたものを挙げておこう。ここでは、バスの最後部、気球、浴場の暖簾、マッチ箱を利用した「眼の宣伝」が、1931年の時点で「行き詰り」と述べられる一方で、映画主題歌のレコード作成やラジオの利用など「耳の宣伝」が「新戦術」として奨励されている(東武郎「映画館における宣伝の新戦術」[『キネマ旬報』1931111日号]17頁)。

[58][58] 「地方映画界ハガキ通信」(『キネマ旬報』1931921日号)、85頁。

[59][59] 「地方映画界ハガキ通信」(『キネマ旬報』19311111日号)、95頁。

[60][60] Dietrich, Marlene190192)。ベルリン生まれの女優。1920年代、ドイツで演劇や数本の映画出演を経て、ジョセフ・フォン・スタンバーグに見出される。渡米後はパラマウント社と契約し、MGM社のグレタ・ガルボ(190590)としのぎを削る(Katz, p.369)。第二次世界大戦期、ナチスからドイツ映画界への招致要請を受けるがそれを拒否。

[61][61] 南田政利「タイ・アップ宣傳」(『キネマ旬報』193161日号)、21頁。

[62][62]『キネマ旬報』上の座談会では、この共倒れを防ぐために「競争館同志が相談して、いい小屋をもり立てゝやるといふ気風」や興行組合設立が見られ始めたと報告されている(「全国映画界行脚座談会」[『キネマ旬報』193511日号]5966頁)。

[63][63] 前田愛「盛り場に映画館ができた」(『講座日本映画1 日本映画の誕生』[岩波書店、1985年])、354頁。

[64][64] 「十二階」とは、関東大震災で倒壊した浅草凌雲閣の呼称で、眼下に吉原を望み、日本初のエレベーターや戦争絵を擁し、見世物小屋、広告塔としても機能した。「十二階」など明治期の高層建築に関しては、橋爪紳也『明治の迷宮都市 東京・大阪の遊楽空間』(平凡社、1994年)、6196頁に詳しい。

[65][65] 武田俊一「盛り場と交通機関」(『キネマ旬報』1935321日号)、3435頁。

[66][66] 守安正「興行学第一課」(『キネマ旬報』1935511日号、1011頁、1935521日号、2425頁)。映画館経営に関するこの連載では、交通問題のほかに映画館の立地や宣伝法をはじめ、観客吸引法として題名やその語彙のもたらすリズムにまで、それぞれ数多くの事例から因果関係を導き出す、「科学派」守安の詳細な研究は興味深い。

[67][67] 卑近な例を示せば、現在でも京都市南区にある映画館、京都みなみ会館のロビーには最寄りの近鉄東寺駅の時刻表が掲示されている。