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日本映画興行史研究 ―1930年代における技術革新および近代化とフィルム・プレゼンテーション 合衆国議会図書館および公文書館所蔵の接収日本映画の調査・同定研究

みんなで映画を見に行こう!―アメリカにおける映画館の文化史
             

加藤幹郎


第1節 パノラムあるいは映画ジュークボックス

 映画は映画館だけで見るものではない。これはテレヴィ/ヴィデオ文化が浸透した今日では常識だが、この常識がはじめて常識となったのはいつのころからだろうか。おそらく映画史上最初に投影型映画が映画上映施設(それをニッケルオディオンと呼ぼうが、ムーヴィ・パレスと呼ぼうが)を飛びだしたのは一九四〇年にサウンディーズが誕生してからのことであろう。サウンディーズとはジュークボックス映画のことである。これは映画館ではなく、レストランやナイトクラブやホテルのロビーで映画を見ようという発想である。もっとも、その名称から明らかなように、比重は映画を見ることよりも映画を聴くことにあったが。
 サウンディーズは、一九三八年にロサンジェルス在住のある歯科医(ゴードン・キース・ウッドアード)が発明した映画ジュークボックスに端を発し、改良を加えたのち、一九四〇年二月に、ときのアメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトの息子ジェイムズらとの共同出資で新会社が設立され、製品化された音楽映画専門上映装置パノラムにかけられるフィルムの総称である。顧客はパノラムに一〇セントを投入すると、一曲三分間のサウンディー(音楽映画)を見て聴けるが、難点は好きな曲を選ぶ自由がなかったことである。パノラムは八〇〇フィートの一六ミリ・フィルム・リールをエンドレスで上映するが、これは一曲三分のサウンディー八本分にあたる。しかし顧客は八番目の曲だけを聴きたくても、リールがたまたま一曲目で止まっていれば、そこから順番に聴きつづけなければ、お目当ての八曲目を聴くことができなかった。映像はパノラムに内蔵された映写機から二枚の鏡を使って装置前面の磨硝子スクリーンに後方投影され(スクリーン・サイズは縦約四五セ ンチ、横約五五センチ)、一見したところ旧式テレヴィのように見える。パノラムは当初一台一〇〇〇ドルで販売されたが、これは通常のレコード・ジュークボックスの価格の二倍に相当した。サウンディーズのフィルム・リールは通常一週間に一、二度交換され、つねに顧客に新曲を提供できるよう工夫された。パノラムの投入口に一〇セント硬貨を入れると、サウンディーはたいていの場合カーテンが開くシーンからはじまり、それからおもむろにルイ・アームストロングやデューク・エリントン、カウント・ベイシーらが登場して一曲演奏してくれた。
 映画史上特筆すべきことは、音楽映画サウンディーズの監督としてダドリー・マーフィの名が見えることである。ダドリー・マーフィは滞仏時代、シュルレアリスト画家フェルナン・レジェとアヴァンギャルド映画として名高い『バレエ・メカニック』(1924)を共作したかと思えば、アメリカ帰国後は突如オール・ブラック・キャストによる怪物的傑作『皇帝ジョーンズ』(1933)を演出し、その音楽的才能をいかんなく発揮した特異な映画作家である。彼は一九二九年のトーキー導入期にすでに先駆的音楽短篇映画『セントルイス・ブルース』を撮っており、サウンディーズにも会社がカリフォルニアからシカゴへ移転する一九四二年春までは参加していた。
 忘れられた映画作家ダドリー・マーフィの詳細は別の機会にゆずるとして、新規参入機としてのパノラムは、のちのテレヴィ/ヴィデオ文化(とりわけ一九八〇年代のミュージック・ヴィデオ産業)を先どりするその卓抜なアイディアにもかかわらず、あるいはまさにその時期尚早の独創性ゆえに、既成の映画業界とレコード・ジュークボックス業界の双方から継子あつかいを受け、結局、会社としては一九四〇年から四六年までの短命に終わった。しかしながらサウンディーズは別会社(オフィシャル映画社)によってホーム・ムーヴィ用に転売されたために多くの蒐集家の手に渡り、今日なお往時の音楽家たちの演奏ぶりを楽しむことができる。

第2節 キネトスコープ・パーラーあるいは成年男子が腰をかがめること


 一九四〇年代にアメリカでそれなりの流行を見たパノラム(映画ジュークボックス)は映画館から解放された映画である。それはレストランやナイトクラブやホテルのロビーで映画が見られる装置であった。しかしそもそも映画史最初期においては映画は映画館で見るものではなかった。映画を見ることが映画館へ行くことと同義になるのは、早くとも一九〇五年まで待たなければならない。それまでは映画はもっぱらヴォードビル劇場や一般の劇場で、いわば実演のあいだの幕間に上映されるものであった。通常ニッケル(五セント硬貨)一枚で映画が見られるニッケルオディオンと呼ばれる常設映画館がアメリカで流行しはじめる一九〇五年まで、映画は今日いうところの映画館とはほぼ無縁の存在であった。
 そうした時期(一八九四年から一九〇〇年ころにかけて)、特許王トマス・エディスンの「発明」になる(じっさいの開発者はウィリアム・K・L・ディクスン)キネトスコープなる箱形の装置がデパートやドラッグストアやホテルやパーラーなどに設置されていた。この箱形装置が映画館の暗闇を必要としなかったのは、それが観客がひとりで木箱の中を(成年男子ならかかえこむようにして)覗き込む非投影式の映画装置だったからである(三五ミリ幅のフィルム・リールが箱の中を電動で回転し、背面から光をあてられたフィルムが拡大鏡を通して掌サイズほどに若干ながら拡大されて覗き窓から見えた)。その点が箱の中に内蔵された映写機が頭部スクリーンに映像を拡大投影するパノラムとは異なる点である。映画とは一枚のスクリーンに投影された巨大動画像を不特定多数の人間が視覚的に共有するものであるとすれば、映画史最初期に鳴り物入りで登場したキネトスコープは本質的に映画の要件を欠落したものであった。
 一八九四年にニューヨークはブロードウェイで元靴屋を改造した最初のキネトスコープ・パーラーが開店したとき、顧客は正面の切符売り場で二五セントを支払うと、五台ずつ二列に並んだキネトスコープのうち一列分五台を順次覗き見て、それぞれ上映時間三〇秒たらずの短篇映画を五本見ることができた。しかしその後、改良型キネトスコープが登場すると、毎秒三〇コマの速度で上映される比較的鮮明な画像で一分以上の上映が可能となり、それにともなって新しい上映システムが採用されるようになった。すなわち一台につき一分ほどの映画しか見れない改良型キネトスコープといえども、六台つづけて見て廻れるようにすれば、合計六分ほどの(それでも当初の三〇秒ほどの短篇映画にくらべれば格段に長くなった)サスペンスと物語をもった映画を一本分(中断をはさみながらではあるが)見ることができるということであり、たとえば一ラウンド一分のボクシングの試合を計六ラウンド、一台のキネトスコープから次のキネトスコープへの移動と中断(サスペンスとは宙吊りの意である) をはさみながら、それなりにボクシングの試合の流れを再現したかたちで享受することができた(この場合、観客はキネトスコープ一台分の映画鑑賞=一ラウンド分の試合観戦に各一〇セントを支払った)。エディスンの手狭なスタジオ(ブラック・マライア)のなかのキネトグラフ(キネトスコープ用カメラ)のまえでおこなわれたボクシングの試合とはいえ、まがりなりにもプロのボクサーが本気で殴り合うこの映画(『キネトグラフのまえのコルベットとコートニー』1894)の迫真性は評判を呼び、大いに人気を博した。当時のカメラがパンや移動撮影に不向きであったことを考えれば、小さなリングに固定カメラを向けさえすれば、シングル・ロング・ショットとはいえ、事の全容を正確に把握することができ、そのうえフィルム・リールの持続時間と試合の続行時間とが完全に一致するラウンド制ボクシングをキネトスコープのソフトとして被写体に選んだことは、当時のボクシング人気とあいまって、ハードの特性に応じた実に的確なプログラム選択であったといえよう。じっさいボクシ ング映画はキネトスコープがすたれ、他の映画方式が優勢になったあとでも初期映画史上重要なジャンルでありつづける。キネトスコープのこうした鑑賞=上映システムは、やがてキネトスコープじたいの目新しさが失われ、より長尺の投影式映画のワン・リーラー(一〇分ほどの短篇映画)が流行する時代になっても、キネトスコープ・パーラーが時代の流れに対応する粘り強さを発揮する原動力となった。要するに、この映画史最初期の最初の映画上映装置は、映画の上映時間の長時間化という時代の趨勢にそれなりに対応できる柔軟性をもっていたことになる。
 さて次節にすすむまえにひとつ確認しておかねばならないことがある。リュミエールのシネマトグラフの初公開(一八九五年)以来、長いあいだ映画を見ることは、一枚のスクリーンに拡大投影された映像を不特定多数の観客がひとつの空間で共有することを意味してきた(リュミエールは一九〇〇年のパリ万博では今日のアイマックス・シアターに匹敵する縦一六メートル、横二一メートルの巨大スクリーンを導入し、全盛期のムーヴィー・パレス[第6節参照]をもうならせる三〇〇〇名から五〇〇〇名の観客を収容した)が、一九八〇年代に家庭用ヴィデオデッキが普及して以来、映画を見ることがふたたびエディスンのキネトスコープの時代(一八九四年)に回帰したという議論がある。つまり成人男子が腰を折って覗き込むようにして見るキネトスコープは、一度にひとりしか動画を楽しめない装置だが、ヴィデオデッキはこれと同様の孤独な装置だという議論である。たしかにこれはもう少したちいるに値する議論であろう。ヴィデオはシネマトグラフの世界的普及以来、映画が失っていたキ ネトスコープの原初的快楽、すなわち動画を動かしはじめるのは観客たる自分であるという自尊心を回復させた(ヴィデオデッキの再生ボタンを押すことはキネトスコープの投入口に一〇セント硬貨をいれることと同じである)。動画を見ているのはほかならぬわたしであり、そしてその動画の動画たる根拠、すなわちいつ誰がそれに動きを吹き込むかを決定するのもまたわたしであるというこのいささか唯我論的世界観を可能にする心的装置がキネトスコープとヴィデオデッキにはある(シネマトグラフの登場以来、映画の映画たる所以、すなわち映画の動きを決定するのは長らく上映技師であった)。

第3節 ニッケルオディオン以前あるいは映画館の盲腸


 前節で、映画史初期においてはヴォードビル劇場で映画が上映されていたといったが、ヴォードビル劇場とはいかなるものであったのか。ヴォードビルは19-20世紀の転換期にアメリカや英国やカナダでヴァラエティ・ショーとミュージック・ホールとから生まれた、もっとも大衆的な娯楽であった。プログラムは歌、ダンス、コント、珍奇な見世物などから構成され、その珍奇な見世物のひとつとして一八九六年、ニューヨークのヴォードビル劇場でヴァイタスコープが初めて上映され人気を博した。ヴァイタスコープとは、それらがともにエディスンの手によって商品化されたという意味で「投影型キネトスコープ」とも呼ばれたもので、キネトスコープのように覗き見式のものではない、今日のかたちの投射式映画のことである。
 ヴォードビル劇場はおよそ一八八〇年から一九二〇年ころまで重厚な様式のもとに建設されつづけたが、それ以降は常設映画館に人気を奪われて立ちゆかなくなり、残った大半のヴォードビル劇場も映画館へと衣替えした。それは実演ものから再現ものへ、人間から機械へ、一回性から反復性へと娯楽の媒質が大きく移行したことを意味した。しかしながらこの移行はかならずしもドラスティックにおこなわれたわけではなかった。一九〇〇年代なかばに常設映画館が誕生してからも、少なくとも一九二〇年代までの無声期全般を通して、実演と映画の結びつきは長いあいだ消えることはなかった。そもそも無声映画の上映にはピアノなりオルガンなりオーケストラなりの生演奏が付きものであり、それ以外にも「アトラクション」と称する舞台上の実演ショーが映画に添えられる伝統は長いあいだ多くの映画館でつづけられた。じっさい一九〇五年に映画史上初の常設映画館が誕生しても、それを境にいっさいのライヴ・パフォーマンスが駆逐されたわけではなかった。それどころか安普請の常設映 画館には当初映写機が一台しかなかっため、フィルムのかけかえのあいだ専属歌手が美声を披露したり、ピアノの生伴奏とともに歌詞付きスライドが上映され、観客がそれにあわせて合唱するということが頻繁におこなわれた。ヴォードビル劇場ではライヴ・パフォーマンスが主であったのが、常設映画館では逆にライヴ・パフォーマンスが従になっただけである(代理性を旨とする映画と現前性を旨とするヴォードビルとのこの連続性はニッケルオディオンがみずからをときに「エレクトリック・ヴォードビル・パレス(電気寄席宮殿)」と称したことからも窺える)。じっさい映画館から本当の意味でライヴ・パフォーマンス性が駆逐されるには一九九〇年代のシネマ・コンプレックスの隆盛を待たなければならない。シネマ・コンプレックス内の中小劇場からは、それまで長いあいだ映画館のスクリーンの足下に盲腸かなにかのように認められた張り出し舞台がついに完全に姿を消している。映画前史から受け継がれてきた劇場の張り出し舞台は本来なら映画館には必要のないもののはずであった。 一九世紀末から継承されてきたこの盲腸は二〇世紀末になってようやくその姿を消すが、それにともなってシネマ・コンプレックスではもはやプレミア上映時の主演俳優の「舞台挨拶」すらかなわなくなったのである。
 さてヴォードビル劇場の興行時間はのちにニッケルオディオンの誕生にヒントをあたえることになるが、それ以外にもヴォードビル劇場はのちの常設映画館の制度に大きな影響をあたえている。映画は二〇世紀において成年男子ばかりでなく女子供にとっても、また労働者階級にとってだけではなく中産階級にとっても良き娯楽となるが、社会的性別と年齢と階級の障壁を乗り越える映画館のこのオールランドな特徴は、すでに一九世紀末のヴォードビル劇場において準備されていた。一九世紀前半の公共圏はいまだ男性中心主義の空間であった。しかし新興娯楽としてのヴォードビル劇場は、週日のマティネー(昼間興行)をお上品な演目に変えることで、それまでの男性志向のヴァラエティ・ショーを女性観客向きにヴァージョン・アップし、一八八〇年代から遅くとも九〇年代までにはすべての演目から性的な内容を極力排除し、労働者階級観客の不品行(野次、飲酒、喫煙、おしゃべり等)を禁止することで、夜間興行においてもまた女性向き、中産階級向きの劇場となっていた。要するにヴォ ードビル劇場は新しい顧客層の開拓に余念がなく、とりわけ女性観客の取り込みによって経済的に安定した基盤を手にいれたのである。これはのちに(一九一〇年に)常設映画館(ニッケルオディオン)の労働者階級観客のじつに四〇パーセントが女性によってしめられるという事実をたしかに準備していたことになる。主婦たちは買い物帰りに、女学生たちは放課後(彼女たちは昼間割引料金を享受できた)、そして女性労働者たちも仕事帰りに終日興行の常設映画館に立ち寄ることになる。事実、後述するニッケルオディオンではフィルムをかけかえるあいだ(経費節約のため映写機が一台しかなかったので)、イラストと文字を配した各種スライドを上映し、映画館の健全なる運営のために次のような種々のメッセージを顧客に向けて発した。いわく「当劇場で[他のお客様から]迷惑をこうむった場合、係りの者にお知らせください」、「喫煙ご遠慮ください」、「大声でのお話や口笛指笛はおやめください」。
 ところで誤解のないように急いで付け加えておかねばならないが、常設映画館が建築される以前に、映画を専門に上映する施設がなかったわけではない。前世紀の転換期にヴォードビル劇場のない小都市に巡回映写技師が映写機とフィルムをもって訪れたとき、当然、仮設の映画小屋が必要とされた。そのとき借り主のいない貸店舗の空きスペイスに折り畳み椅子を並べ、窓を暗幕で覆い、燻んだモスリンのシーツをスクリーン代わりに壁に吊し、玄関口に切符売りの仮設ボックスをオフィスとして設けた急造の簡易映画館が誕生した。これがストアフロント(店先)劇場と呼ばれたもので、ほどなくこれは映画の仮設上映施設から常設施設へと変貌した。しかしこの安手の施設もまた一九一二年ころまでには姿を消すことになり、ストアフロント劇場で今日まで残っているものは切符をあつかう「ボックス・オフィス」という呼称だけである。
 ストアフロント劇場が常設施設として流行していた一九〇〇年代前半には、夏期の館内暑気対策として屋根も床もない、四囲を高い塀で覆っただけの「エアドーム」と呼ばれるものも建設された。きわめて経済的な出資ですみながら、一見したところ通常の建物と変わらないこの屋根も床もない劇場は、屋外上映施設という点でのちのドライヴ・イン・シアターの先駆けともいうべきものである(なお本格的な冷房装置が映画館に組み込まれるのは早くとも一九一七年を待たなければならない)。

第4節 ニッケルオディオンあるいは映画館で合唱すること

 さてそれまで簡便なストアフロント劇場で夜間のみの映画興行をおこなっていたピッツバーグのある興行主(ハリー・デイヴィスとジョン・P・ハリス)は、一九〇五年、自分たちが経営していたヴォードビル劇場の伝統的興行形態を導入して、映画を午前八時から深夜まで間断なく上映することを思いたった(観客は好きなときに入場し、一〇分から三〇分、あるいは五〇分ほどで一廻りする旅行記映画、実景映画、喜劇映画、メロドラマ映画などからなる短篇プログラムを入れ替えなしで好きなだけ見ることができた)。この新しい興行形態を採る劇場は安価な入場料(基本的に五セント=ニッケル硬貨一枚)にちなんでニッケルオディオン(原音により忠実に表記すればニコロウディオン)と呼ばれた。この新形式の劇場はオディオン(楽堂)の名にふさわしく新たに化粧漆喰と麻布で装飾し直され、安普請とはいえ、前身のストアフロント劇場よりは見栄えのするものになった。そしてこの新しい興行形態と新呼称はまたたくまに全米に広がり、旧来のストアフロント劇場が改装され( 貸店舗用の玄関やガラス窓がとり除かれ、その空きスペイスにロビーやボックス・オフィスが設けられ)たり、一から新造されたりして、三年後の一九〇八年までには全米におよそ八〇〇〇館もの常設映画館(ニッケルオディオン)が誕生し、アメリカで未曾有の映画ブームがはじまった。ニッケルオディオンはもともと貸店舗用スペイスから出発しているうえに、劇場許認可制にともなう出費を抑えるためにあえて小規模経営を選んだので(この新興娯楽産業に参入しようという者の多くはいまだ小資本家にすぎなかった)、劇場の収容観客数はたいていの場合二〇〇名未満、多くても三〇〇名から五〇〇名程度の小規模なものにとどまった。平均的な劇場サイズは幅七・五メートル、奥行き三〇メートル程度で、スクリーンもせいぜい縦三・五メートル、横四・五メートルほどしかなく、このスクリーン・サイズは映画史上特筆すべき小ささである。通常ニッケルオディオン館内は平戸間で入口からスクリーンにいたる中央通路しかなく、座席もお世辞にも立派なものとはいえず、映写機も座席後方部に剥きだしのまま設置され、主たる設備として伴奏用ピアノがあれば良いほうだった。
 しかしともあれ、そこに行きさえすれば、つねに映画が見られる常設映画館という新しい概念と空間がここに誕生したのである。しかしひとつ注意しなければならないことがある。それはこの常設映画館で映画のみが観客に供されたわけではないということである。当時、映写機は各劇場に一台しかなく、それゆえフィルムをかけかえるとき(あるいはフィルムの破損や映写機の故障のさい)に空き時間ができ、それを埋めるために幻灯機によるスライド上映が頻繁におこなわれた。幻灯機はしばしば映画が登場するまえの前映画的装置として言及されるが、幻灯は映画という新ミディアムの登場後すぐさまそれにとってかわられて姿を消したのかというと、そんなことはなく、幻灯機と映画の共存は長いあいだつづいたのである。そして映画館におけるこの幻灯機によるスライド上映はもっぱら二種類の機能をはたした。ひとつはニッケルオディオンにおける観客のありうべき態度を観客に指示すること。いまひとつは歌手や観客が歌う歌のイラストレーションとなることであった。前者は前 述のように「当劇場で迷惑をこうむった場合、係りの者にお知らせください」、「喫煙ご遠慮ください」、「大声でのお話や口笛指笛はおやめください」、「帽子はお脱ぎください」、「一分の休憩----ただいまフィルムかけかえ中」といったメッセージが記されたスライドで、映画鑑賞を妨げるものを映画館から排除し、円滑なプログラム運営をはかろうとするものであった。後者は歌手や観客の歌う歌の内容にあわせた図柄がえがかれたスライドで、今日のカラオケの映像を思わせなくもない。しかし特筆すべきは、この新形式の常設映画館では、その誕生にヒントをあたえたヴォードビル劇場の要素が再導入されているということである。ニッケルオディオンの誕生以前、ヴォードビル劇場では、歌やコントや奇術とならんで映画やスライドの上映がおこなわれていたが、ニッケルオディオンでも比重こそ逆転すれ、ヴォードビル劇場のライヴ・パフォーマンス性は継承されたのである。
 試みに当時の大手ニッケルオディオンの興行演目をワン・サイクル分再現してみよう。(1)まず映画上映のまえにスライドで、ありうべき館内鑑賞態度の案内がおこなわれる(前述の「喫煙ご遠慮ください」等)。(2)それからおもむろに一本目の映画上映がピアノかオルガンの伴奏付きではじまる。このときの上映時間はおよそ一〇分(ニッケルオディオン隆盛期までに映画は、それ以前の見世物的な短篇[一分弱から数分]からプロットをもつ、より長尺のもの[リールのかけかえなしに一台の映写機で中断なく上映できるワン・リール分の一〇分から一五分前後]へと変容拡大している)。(3)一本目の映画が終わると、二本目の映画を映写機にかけかえるリール交換のあいだ、幻灯機によるスライド上映とピアノかオルガンの生伴奏付きで館内合唱が歌手と観客のあいだでおこなわれる。(4)リールのかけかえが終わると、館内合唱も終わり、二本目の映画の伴奏付き上映がはじまる。(5)二本目の映画が終わると、(3)と同じ手順で館内合唱。(6)三本目の映画の伴奏付き上映 。(7)三本目の映画が終わると、インターミッションとなり、館内の照明が灯され、売り子がキャンディを売り歩き、観客の多くが入れ替わる。以上(1)から(7)までのワン・サイクルに要する時間はおよそ五〇分で、このサイクルが日に一四時間一週間休みなくくりかえされた(それじたいでは「一本(ワン・リール)分」を構成しない数分単位の短い実景映画などは、同様の主題の作品数本を繋ぎ合わせて「一本分(上映時間約一〇分)」とした)。こうした興行形態を見ると、一九〇〇年代後半のサイレント映画の上映空間がけっして「サイレント(沈黙)」ではなく、それどころか館内はたえまなく流れる音楽と頻繁に沸きあがる歌声に満たされた祝祭的空間であったことがわかる。それじたいに音声と音響をともなわないサイレント映画は伴奏と合唱という観客参加型のライヴ・パフォーマンスによって補完されていたのである。

第5節 ユダヤ移民の大量流入あるいはハリウッド映画誕生の遠因

 さてこの時期にニッケルオディオンがアメリカで爆発的に流行を見た理由のひとつに、映画配給会社の近代化があった。それまで興行主は上映用プリントを直接製作会社から買いつけねばならず、それゆえ採算上、同じ映画をぼろぼろになるまで何度もくりかえし上映しつづけては観客に飽きられていたのだが、ニッケルオディオンの誕生と隆盛に歩調をあわせて配給網が整備され、上映用プリントはすべてレンタル商品となり、興行主は大量の安価な商品(映画)を比較的自由にあつかうことができるようになった。遅くとも一九〇七年までにはニッケルオディオンでは上映プログラムは毎日変えられるようになり、場合によっては昼間と夜間の二度かけかえられた。それは観客の立場からすれば、大量に流通する商品のなかから次々と新商品を選びとる新たな悦びが付け加わったことになる。それはデパートにおける商品の大量多品種展示販売に似ていなくもない。いずれにせよ映画の製作=配給=興行という三大分業システムの確立が進んだことが映画の観客動員の飛躍的増大につながったのである(一九一〇年までにニッケルオディオンの動員数は全米で毎週二六〇〇万人にものぼった)。
 この時期にニッケルオディオンが爆発的に流行を見たもうひとつの理由に移民の大量流入があった。移民の大量流入は映画の生産(製作拡大)と消費(市場拡大)という切り離せない二項の双方にとって重要なモメントとなった。映画産業黎明期の一八九〇年代、毎年約三〇万人の移民がアメリカ合衆国に押し寄せ、それが一九〇七年にはピークに達し(ニッケルオディオンの絶頂期とほぼ正確に重なる)、その年の一年間だけで約一〇〇万人の移民がアメリカにたどり着いた。移民の大半は英語を解さぬ貧しい労働者であり、それが安価な娯楽である無声映画の大量動員に結びついた(じっさいそれはヴォードヴィルよりもコニーアイランドの遊園地よりも廉価だった)。ニッケルオディオンは女子供(一九一一年のニューヨークの統計では観客のじつに三分の一が未成年者であった)のみならず、世界中からやってくる多種多様な民族集団を均一料金制のもと無差別に(一等席、二等席の区別も大人子供の区別も男女の区別もなく)包含していったのである。
 あるいはまた世界に冠たるハリウッド映画がユダヤ人娯楽産業として出発したこともここで想起しておくべきかもしれない。ハリウッド映画誕生の遠因にはポグロムがある。一八八一年以降、ロシア西部で猖獗をきわめたこの組織的ユダヤ人迫害によって、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて(一八八一年のロシア皇帝アレクサンドル二世の暗殺事件から一九一四年の第一次大戦勃発までに)二〇〇万人以上ものユダヤ人がアメリカへの移住を余儀なくされた。そしてその二〇〇万のユダヤ移民のなかに、のちにハリウッド・タイクーンと称される立志伝中の大物ユダヤ人が含まれていた。とりわけ有名なのが次の九人である。ウィリアム・フォックス(二十世紀フォックス社)、アドルフ・ズーカー(パラマウント社)、ルイス・B・メイヤー(MGM社)、ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー四兄弟(ワーナー・ブラザーズ社)、カール・レムリ(ユニヴァーサル社)、ハリー・コーン(コロムビア社)。彼らはみな幼少時代に変転する運命に追い立てられてロシアや東欧から一文なしで米国に渡 ってきて、そこで望郷の念にさいなまれながら両親か片親を失い、あるいは父親の度重なる失敗を見ながら成長し、悲嘆と羞恥にまみれ、さまざまな陥穽をくぐり抜けながら商業的センスを発揮し、ニッケルオディオンの隆盛に関与し、不撓不屈の奮闘の結果、やがてハリウッド映画産業の立役者になった世代であり、その意味でまぎれもないアメリカン・ドリームの体現者であった。
 じっさいニッケルオディオンの経営者の多くは新移民であり、しかもその大半はユダヤ人であった。移民のための移民による安価な娯楽がやがてアメリカ大衆文化の代弁者となり、さらに世界市場を席巻した歴史を考えあわせると、ハリウッド映画は故郷や民族や宗教あるいは父親といった自己同一性の拠りどころを失った男たちによる、そうした人間たちのための無意識的ノスタルジーの娯楽ということになる。
 映画産業の成立が移民との函数で語ることができるとすれば、それは両方向においてそうである。つまり映画はいっぽうで新移民のアメリカ化を促進する方向で機能し、たほうで新移民のノスタルジーを慰撫する非アメリカ化の方向で機能したと思われる。映画は新大陸での新しい自己同一性の創出に貢献すると同時に、旧大陸に脱ぎ捨ててきたはずの旧い自己同一性の伸張、失われた故郷への断ち切れぬ想いの更新にも貢献したはずである。前者は大量消費社会における人気商品としてのハリウッド映画の画一化、世界戦略商品としてのメイジャー映画の標準化、規格化の波へとつながるし、後者は新移民たちがニューヨークにつくるそれぞれの小民族集団のためにもっぱら製作されるマイナー映画と対応する。しかし「アメリカ映画」がこの両方向性をもっているということじたい、多様な主題と時空間をモンタージュする映画館の本源的異質性、還元不可能な絶対的異質性の証であり、そこでこそひとは真の欲望の拡大充足を夢見ることができるのである。
 具体例として、ニッケルオディオン期に製作された、ニューヨークはマンハッタン、ロワー・イースト地区のユダヤ人街を舞台にしたメロドラマ群をとりあげてみよう。たとえば『質屋の老アイザックス』(バイオグラフ社1908)では金はもはや貪欲の対象としてではなく必要の対象としてえがかれ、従来のユダヤ人の紋切型から距離がおかれ、ユダヤ新移民のアメリカへの同化のプロセスがプロットの要となっている。この種の映画ではユダヤの伝統とアメリカの習慣とのあいだでの葛藤が劣悪な環境下での貧困と重労働とあいまって家族の不和と和解というメロドラマ的道具立ての内に進行する。『ユダヤ女の恋物語』(バイオグラフ社1908)、『ゲットー・シームストレス』(ヤンキー社1910)、『ユダヤ女の心』(ユニヴァーサル社1913)、『過ぎ越しの奇跡』(カーレム社1914)といった一連のメロドラマ映画では恋愛問題がプロットの要となり、やがてユダヤ教徒と非ユダヤ教徒との結婚問題や移民第一世代と第二世代のあいだの葛藤、すなわち若いユダヤ人のアメリカ同化への希求の物語へと力点 が移ってゆく。いずれも世代交代を物語の要とするファミリー・メロドラマの語彙で民族集団の同化問題が語られる点に特徴がある。一九世紀末に故郷を追われて新大陸に新しい共同体を築かざるをえなかったユダヤ人たちは新しい環境にたいして基本的に同化の姿勢を見せていたことが、こうしたニッケルオディオン期の映画からも窺える。

第6節 映画宮殿あるいはニッケルオディオン以後

 ニッケルオディオンが全米で流行したのは一九〇五年からせいぜい一四年くらいまでで、それ以降はより装飾に気を配った中規模サイズの新劇場かさらに贅を尽くした豪華絢爛たる巨大映画館ムーヴィ・パレス(映画宮殿)にとってかわられた。それは要するに映画が産業として成長期をむかえたことを意味した。映画は小規模経営のニッケルオディオンではまかないきれないくらいの大量の、そして多様な層の人間を観客として動員することができるようになったのであり、それにともない常設映画館への投資がいささかもリスクをともなわない健全な投資であることが社会的なコンセンサスとなったのである。
 ムーヴィ・パレスはその名の通り宮殿を思わせる壮麗な巨大映画館で、映画産業が社会的に認知された一九一〇年代後半から二〇年代にかけて建設ラッシュとなった。ニッケルオディオンが収容人員一〇〇名から三〇〇名ほどの小規模映画館であったのと対照的に、ムーヴィ・パレスはその一〇倍の一〇〇〇名から三〇〇〇名、最大六〇〇〇名もの収容定員を誇った。じっさいムーヴィ・パレスはニッケルオディオン期には考えられなかった贅をつくした装飾と設備に彩られ、映画の黄金時代の幕開けを象徴するものとなった。遡及的に見れば、映画史上この時期ほど映画館建築に巨額の資金が投入された時期もないし、それゆえ今日わずかに残った往時のムーヴィ・パレスは世界各地で貴重な文化財として保存の対象となっている。
 ではじっさいムーヴィ・パレス(映画宮殿)の内装と設備はどのようなものだったのだろうか。一九三〇年代にロサンジェルスにあったあるムーヴィ・パレス(ロサンジェルス・シアター)の玄関ロビーはヴェルサイユ宮殿の鏡の間をモデルにしていた。何本もの巨大なコリント式円柱(付け柱)で支えられた二〇メートルほどの高さの弓なりの天井(ヴォールト)は壮麗な曲線をえがくドレイプと空間を圧する巨大シャンデリアで飾られ、その天井と壁は一面、草花文様のプラスター製彫刻や半丸彫りのキューピッド群で埋めつくされ、床には厚い絨毯が敷きつめられていた(映画史最初期の簡易劇場「エアドーム」には天井もなければ床もなかったことを想起しよう)。かろうじてまとまりをつけられたこの燃え立つような玄関ロビーの階下には、これも巨大なラウンジが用意され(地下のラウンジだけで四五〇名を収容できた)、壁面には重厚なウォルナット材が張られ、革張りのソファや猫足のテーブルなどフランス骨董家具がいくつも並べられていた。そのほかロビー階下には大理石張りのト イレやレストランはいうにおよばず、お仕着せに身につつんだ人員を子守役に配した、ブランコや小型メリーゴーラウンドを備えた育児室があり、女性顧客のためには周囲を電球で埋めつくした鏡と椅子とテーブルを備えた巨大化粧室(女性観客が銀幕の女優と同じように明るい光に包まれて入念な化粧をほどこせる空間)が、男性顧客には靴磨きスタンドが用意され、ハリウッド映画の夢の世界を現実に転写する息のつまるようなスノッビシュな(自分が属する階級よりも上の階級の習慣を模倣する)世界を顧客に提供した。ムーヴィ・パレスの観客はわずか二五セントの入場料と引き換えにクリスタル・シャンデリアに照らしだされ、ヴェルヴェットの椅子に身を預ける王侯気分を味わえたのである。しかしひるがえって考えれば、それこそが本来、皇族貴族が隠然たる勢力を有し、労働者階級の社会的移動(社会的地位の上昇)を事実上不可能にした旧大陸から、王侯貴族が存在しないがゆえに社会的移動が容易な新大陸、だれもがアメリカン・ドリームを夢見ることのできる機会均等の国アメリカ にひとびとがやってきた理由にほかならないだろう。地理的移動が階級的移動を産みだしうるという自由の国アメリカのこの夢のイデオロギーが、映画という新興産業と結びついたのはごく当然のことであっただろう。
 ムーヴィ・パレスの豪華さはむろんスクリーンと観客席周辺においても例外ではなく、そこは欧州の一流のオペラ座もかくやと思わせる壮麗な装飾に満たされていた。また無声時代のムーヴィ・パレスにはスクリーン下部にオーケストラ・ピットがあり、舞台上にはオルガンが設置され、舞台の左右(あるいはときにはスクリーン左右に設けられた開口部)から劇場専属の歌手が登場して無声映画に彩りをそえた。
 ムーヴィ・パレスはまたたんに宮殿と映画館を合体させただけのものではなかった。それは同時に神殿でもあった。ギリシャ・ローマ時代の神々と英雄像のレリーフに飾られた館内は、都市の労働に揖斐した労働者=観客によそでは期待できないエキゾチシズムと高貴な感覚をあたえてくれた。
 映画館のこうした神話的側面は映画館の積極的な神殿化をうながす。ムーヴィ・パレスのロビーの高窓にはときおり壮麗なステインド・グラスが嵌め込まれ、「神は光なり」という聖書の字句を具現化したゴシック教会のように、ひとびとに心の安寧をもたらした。そもそもゴシック教会じたいが太陽光によって上映される映画館であった。天上の栄華をえがいたステインド・グラスの華麗な文様が光の虚空に浮かびあがると、ムーヴィ・パレスの観客も大聖堂の信者たちも感嘆の声をあげ、これから自分たちが見ることになる栄光の物語の始源を想起したにちがいない。そもそも映画史もまたリュミエール(光)兄弟からはじまったとすれば、「光よあれ」というキリスト教の神の言葉はキリスト教文化圏に端を発したこの新しいテクノロジー文化にもっともふさわしいモットーとなるだろう。また映画は死者が生前と変わらぬ元気な姿で現れる媒体であり、その意味で映画は霊媒であり、また映画館は先祖崇拝の祭壇である。
 一九三〇年代にはいっぽうに贅を尽くしたムーヴィ・パレスがあり、たほうに吹き荒れる世界恐慌にも耐える経済的な中規模映画館があった。映画会社は作品の製作=配給=興行を垂直的に支配する独占形態を完成させ、大手映画会社の直営系列劇場とそうでない独立系劇場とのあいだで経営上の大きな相違が発現しながらも、映画産業はその盤石の礎を確立したのである。

参考文献

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 本稿は2002年冬に亀井俊介編によって松柏社より刊行予定の書籍に収録されるものである。