CineMagaziNet! Reports
サイレント映画に明け暮れて ――第21回ポルデノーネ無声映画祭報告 ヴィクトリア・ハーバーの風に吹かれて――第26回香港国際映画祭報告

キャセイ物語、或いは日港合作映画に関する覚書

――第26回香港国際映画祭報告

韓燕麗

 

キャセイ/Cathay、古い英語で中国を意味するこの単語が[1]、シンガポールにある巨大な貿易組織の名前にされたことから、東南アジアに散在する数多くの華僑の、母国に対する執着心を忖度することができる。そして、シンガポール国泰機構/Cathay Organization Singaporeという巨大組織が、かつて1950年代後半の香港で電影懋業公司(以下「電懋」と略す)という映画製作会社を設立し、中国映画史上初の製作・配給・興行の垂直的統合を達成させたということは、すでに多くの人々に忘れられている。今年の四月に香港で行われた第26回香港国際映画祭では、映画祭の重要な一特集としてキャセイ映画の回顧展が開かれ、今日では見ることは決して容易でないキャセイ名作の数々が上映された。更に映画祭の直後、香港の嶺南大学と香港電影資料館の共同主催で、四日間にも及ぶ盛大な国際シンポジウムが開催された。そこでは、各国からの香港映画の研究者たちが一堂に集まり、キャセイ特に電懋の映画について真剣に討議していた。筆者は幸いにもこのシンポジウムに参加することができた。以下はシンポジウムで学んだこと、そして映画祭で見た14本のキャセイ映画の一部についての報告である。

 

1 キャセイと電懋

香港映画の1950〜60年代を語る時に欠かせない電懋が、キャセイとどのような関係だったのか、その歴史を簡単に振り返ってみよう[2]

電懋社長の陸運涛(Loke Wan Tho,1915−1964)はシンガポール華僑、陸祐(Loke Yew,1846-1917)とその四番目の妻との間に生まれた子供である。今日でもシンガポールシティにある陸祐の名前がつけられた通りは、南中国出身の華僑の「南洋夢」を物語る[3]渡航当初はまったくの無一文であった陸祐は、困苦の末しだいに財を蓄え、農園、鉱山や商店の経営に成功して財閥となる。巨富の父親を持った陸運涛は、13歳からスイスへ留学し、その後ケンブリッジで文学と歴史の修士学位を取り、1940年にシンガポールに戻った後、25歳の若さで銀行、ゴム園、錫鉱、不動産、飲食業、ホテルなどほとんどあらゆる営利産業を含んだ巨大な家業を継ぐことになる[4]。国泰機構が最初に映画産業に関わり始めたのは、陸運涛の母、林淑佳が1936年に光藝戯院(Pavilion Theatre)という劇場を設立し、また1939年に国泰大厦(Cathay Building)の中に劇場を設立した時からであった。しかし、当時二軒の劇場の観客数は月十一万八千人で、収入は陸氏王国にとっては取るに足りないものに過ぎなかった。

鳥の観察と写真撮影が生涯最大の趣味で、1958年に『A Company of Birds』という本も出版した陸運涛本人が、映画産業に対して興味を示し始めたのは第二次世界大戦後のことであった。彼が何を目的に映画産業に関わるようになったかについては色々な仮説があるが、台湾での飛行機事故を原因に1964年に49歳の若さで亡くなった若い実業家の夢は、今日ではもはや確認不可能である。唯一確かなのは、巨大な富を後ろ盾に、この新参映画会社の足取りが堅実そのものだったということである。まず1946年に、イギリスのランク社(J. Arthur Rank Organization)と契約を結び、ランク社の映画を東南アジアで配給しはじめる。1947年から次々と劇場を買い取り、1948年に国際戯院有限公司(International Theatre Ltd.)を設立し、さらに1949年から、新型の映写機や音響設備、エアコンやワイド・スクリーンを備える劇場を数軒設立する。数年の間に、劇場を四十軒も所有し、毎月その観客数が百万を超える一大興行主となる。

陸氏所有の映画館では、英語圏の映画以外に1953年に成立する国泰克里斯製片場(Cathay Keris)で作るマレー語映画も上映していたが[5]、観客から最も求められたのはやはり国語映画であった。国語映画の提供量を安定させるため、国泰機構は1951年にシンガポールで国際電影発行公司(International Film Distribution Agency)を設立し、配給にも手を出した。更に二年後の1953年に香港で支社の国際影片発行公司(International Films Distributing Agency、以下国際と略す)を設立し、初めて香港に上陸する。当初は専ら南洋の劇場で上映する国語映画を香港で購入することだけが目的であったが、直営館を持たない小規模の映画製作会社に資金を提供し、そこで撮影された映画を配給するといった形で、映画製作にも次第に関わるようになってくる。

ここまでかなりの駆け足でキャセイの興行から配給への進出を追ってきたが、実際その発展ぶりは、当初映画産業の古参である月[6]にもその存在を気付かせなかったほど急ピッチなものであった。しかし、1957年に、キャセイが長年資金を提供していた永華スタジオが火災のために倒産し、返済金としてスタジオを丸ごとキャセイに賠償した機会に、国際と永華スタジオを一体化させ、電影懋業公司/Motion Picture and General Investment Ltd.を設立させた時、月≠ヘもはやこの後進勢力を無視することができなくなった。中国映画史上、初めて製作から興行までを一手に垂直統合し、スタジオ・システムを完成させた電懋は、1964年に陸運涛が亡くなるまでの黄金期の七年間に、数多くの高品質の映画を量産し、明確なスタジオ・スタイル、電懋調を確立したのである。

しかし、陸運涛を含める電懋の重役五十七人が同時に不帰の客となった1964年の台湾での飛行機墜落事件は、電懋の運営に重大な打撃を与えた。1965年に陸運涛の妹婿、朱国良によって電懋を国泰機構(香港)有限公司/Cathay(Hong Kong)と改名し、再び立て直そうとしたが、指導者を失ったため、頽勢を挽回することはできず、映画の制作数が大幅に減少し、月≠ニの競争も敗退していく一方であった。ついに1971年、キャセイは月≠ゥら独立した鄒文懐によって成立したばかりの嘉禾(Golden Harvest)[7]にスタジオを売却し、配給と興行部門だけを残し、長年維持してきたスタジオ・システムの終わりを告げることになった。

 

2 電懋調:仮初の土地での楽園

 では、一世を風靡した電懋調或いはMP&GIスタイルとは一体どんなものだったのか。電懋の重役、宋淇の提唱する「middle brow」という言葉がその特徴を簡潔に纏めていると言えよう。「middle brow」とは恐らく造語であるが、「lowbrow」(教養の低い)と「highbrow」(インテリ向き)の間に位置するものだと考えられる[8]。つまり、歴史絵巻のような大作でないが、ありふれた凡俗なものでもない。時代設定はすべて現代であり、都会喜劇・ミュージカル・メロドラマの三つのジャンルをメインとして、軽妙なモダニズムと人情劇が混ざった娯楽作品である。

お気軽かつ陽気で、中産階級の生活を反映する電懋の映画は、しばしば現実離れと批判される。1960年までの香港はまだ連合国からの食糧援助が必要だったが、住民の窮屈な生活状況と無関係に、殆どの電懋映画の家庭には必ずグランドピアノと使用人が備えられている。『情場如戦場』(The Battle of Love,57)では、林黛の演じる悪戯好きのお嬢様が、プールとテニスコート付きの別荘で、三人の男と軽妙な恋愛劇を展開する。広東語吹き替えのチャイナタウン・ヴァージョン[9]を見る時に感じる違和感は、逆に英語に吹き替えるほうが幾分軽減するかもしれない。電懋映画の舞台設定は、香港というより、ある現代都市あるいはどこでもない地上の楽園と言ったほうが適切であろう。実際、『六月新娘』(June Bride,60)や『小児女』(Father Takes a Bride,63)に出てくる、当時にしてはまだ珍しい香港のロケ・シーンは、まるで絵葉書のように香港の観光スポットを観客に提示している。そこにあるのは、まだここを我が家にして良いかどうかと迷うよそ者の視線である。

電懋調の形成は、陸運涛本人及び脚本編集委員会のメンバーがともに西洋的な教育を受

けてきたという中産階級的な背景から由来するものだと一般的に考えられているが[10]、それ以外に、1950年代後半、中国が三分される大勢がすでに決されていたことと無関係ではないだろう。当時の大陸と台湾では、共産党と国民党が映画を国家のイデオロギー装置に変えようとし、それぞれに政治色の強い映画を作っていた。どちらの政治的立場にも立たない香港で唯一できることは、楽しげな歌声と笑い声で地上の重力から逃げることだけだったかもしれない。重役が殆ど大陸出身である電懋の作品からは、それ以前の香港映画と違い、香港を一時的な仮初の土地[11]とする過客の心境と、母国を忘れ、ここを楽園にしようとする二種の両義的な心境を窺うことができる。

電懋成立初期のヒット作『曼波女郎』(Mambo Girl、57)は、このような「さようなら上海、ハロー香港」のメッセージを読み取ることができる一本の映画である。主演女優葛蘭/Grace Changの歌舞両道に優れるスターとしての地位を確立するこの作品は、養女として18歳まで育てられたヒロインが、自分の生母を探すという一見ごく普通の母子ものの物語である。しかし不思議なのは、このお涙頂戴の物語の設定とは裏腹に、ヒロインの養父が経営する「幸福玩具公司」という会社名も仄めかしているように、これが文字通り幸福な映画だということである。終始楽しく歌いながらマンボの軽やかなステップを披露するシーンが延々と続き、ヒロインが生母を探すために家出してナイトクラブを訪ねるシークエンスでも、当時の歌姫方逸華の歌や、プロのダンサーによるスペインダンス等のスペクタクルで観客を徹底的に楽しませる。ようやくナイトクラブの化粧室で働く母親と対面できた時、娘の幸せを願う母親は自分が本当の母親であることを否認すると、奇妙なことに、ヒロインは何も疑わずそのまま養父母の家に戻る。映画の最後で、ヒロインは一時捨てようとした家でダンスパーティを開き、友達の作った輪の中で楽しくマンボを踊る。その時、こっそりと姿を隠した母親が、窓越しに彼女を見つめる。この「母子もの」ならぬメロドラマもここであっさりと終わってしまう。

ヒロインの母親を演じたのは、日本でも上映された『清宮秘史』(朱石麟、48)の西太后役、上海時代からの名女優唐若青であった。彼女の、まるで上海から香港へ投射しているような視線に通じて、観客は複雑な気分を味わうことになるだろう。つまりここまで感情移入してきたヒロインが実情を知らないのに、このシーンで観客は本当の母親がそこにいることが分かってしまう。この知っているようで知らない気持ち、あるいは知りたくない気持ちは、母国がここでないと知っていながら、その事実を一時棚上げして、取りあえずこの仮初の土地で、仮初の時間を楽しく過ごそうという漂泊に疲れた当時の人々の心境を表しているではないだろうか。いつも明るく楽しげに見える電懋映画の裏にも、母親の隠している「陰」を感じずにいられないのではないだろうか。

 

3 釣り合う結合:東宝の香港三部作

 1965年に電懋が改名された後の時期を含め、キャセイと日本の大手映画会社東宝との合作は、合わせて八回にも及ぶ。それは、東宝の社長小林一三が、どのみち費用をかけて大作映画を作るなら、国内市場よりも市場性の大きい国外を対象にした方がよいと考え、海外との合作を常に念頭に持っていたことと[12]、日中戦争下の上海時代から築いてきた東宝取締役川喜多長政との繋がりが主な理由と考えられる。また、四方田犬彦によれば、1960年代を通じての、日本の各映画会社の作風は次の通りである。

 

東宝は都会の私立大学生かサラリーマンによる、明るいプチブルジョアの世界。大映は地方出身者による、いささか泥臭い世界。松竹は人情溢れる東京の下町。東映は伝統的な地方都市。そして日活はコスモポリタンな港町か、馬を乗り回すことのできる田舎といったぐあいである。[13]

 

電懋のスタイルと最も接近するのが、言うまでもなく中産階級の幻想を抱きつつあった階層に支持される「社長」シリーズや「若大将」シリーズを量産する東宝であろう。庶民的人情を肯定的に描くという伝統をもつ松竹や、激しい立ち回りと悲愴な感傷の任侠映画をドル箱とする東映、或いは格闘と愛の悩みなどを混ぜ合わせた青春ものを撮る日活と違い、東宝の好む主題は、佐藤忠男によると、「希望のある愉しい青春、家族のように親しい人々の集まりとしての会社や“駅前”の地域社会の和気あいあいたる暮らし、そして穏健なヒューマニズム」[14]である。「明るく健全な映画を作る」ことを方針とする1960年代の東宝の基調をなしたのは、「楽天性であり、陽気さであり、にぎやかさである」[15]。東宝と電懋の合作はまさに釣り合った結合だと言えよう。

八本の合作映画の中、特に千葉泰樹監督[16]による香港三部作、『香港の夜』(A Night in Hong Kong,61)、『香港の星』(Star of Hong Kong,63)、『東京・香港・ホノルル』(Tokyo, Hong Kong, Honolulu,63)はかなりのヒットであった。1950年代に新華出品の越境映画[17]の『櫻都艶跡』(55)や『蝶々夫人』(56)と同じく、三作とも国籍の異なる男女の恋愛を描くメロドラマである。ただ、戦後十年しか経っていない頃の櫻都艶跡』と『蝶々夫人』の二作は、国境を越える恋愛というテーマを扱うのに相当慎重であった[18]恋愛においての男女の位置関係は、中国人の男性は絶対的な主導権を握り、日本人の女性が征服される側というような設定であったのに対し、電懋の三部作では宝田明の演じる日本人男性と尤敏の演じる香港人女性とに逆転される。1960年代半ばの香港では、すでにこうした関係の逆転を受容できるようになったのであろう。また、監督と脚本をともに日本人が担当したことも(三部作の脚本は、それぞれ順に井手俊郎、笠原良三、松山善三である)、映画全体の日本人観客としての視点とは無関係ではないと考えられる[19]。実際、合作と言いながらも、映画投資の比率は決して均等ではなかった。例えば『香港の星』の場合、東宝と電懋はそれぞれ5000万円と1500万円を出資し、電懋は東南アジアの上映権を所有するが、東宝はそれ以外全ての地区の上映権を所有し、また映画の著作権も独占するようになっていた[20]

男女の位置関係以外に、もう一つ1950年代の越境映画との大きな違いが見られる。『蝶々夫人』の一番の山場は、香港の両親に病気という口実で香港に残された夫が、日本人の妻に連絡を取れなくなったところであった。二年間も夫から音信なく、一人で娘を育てる妻が涙を流すシーンでは、観客も恐らく同情の涙をこぼしただろう。終始セットの室内シーンばかりだったこの映画では、国境線はまるで越えることが不可能であるかのように想定され、言い換えれば、国境線が存在しているからこそ、メロドラマが成立しえたのである。それと正反対に、電懋と東宝の合作映画では、登場人物は国境を軽々と越えて、日本から香港、シンガポールからマレーシア、ハワイからバンコク、各地の美景を見せながら恋物語を展開させる。『香港の星』では、尤敏と宝田明が、香港で出会い、北海道で再会し、東京で恋の仲を深める。シンガポールで宝田が尤敏にプロポーズし、その答えの出ないまま二人は再び香港に戻る。映画は、アメリカ出張へ向かう宝田明の飛行機の見送りに間に合わなかった尤敏を前景に、香港の大空を横切る飛行機のシーンで終わるが、それは決して二人の恋物語の終結を意味するわけではない。なぜなら観客はすでに国境を越えて自分の幸福を達成させる力を登場人物が持っていることを分かったからである。

 アジアの航空事業は1950年代より大いに発展し、香港と日本の一般市民にとってまだ海外渡航が簡単にできるわけではないとは言え、それは近い未来に実現できそうな夢になっている。それゆえ、当時の観客は海外を背景とした映画に大きな魅力を感じたのであろう。しかし、同じく異国慕情を描く二つのメロドラマの相違を、決して海外渡航の難易だけで単純に扱うことはできない。『蝶々夫人』の中で越えられなかった国境線が、かつての戦争から由来する心のわだかまりの具現であることは言うまでもない。歴史の怨念を家庭の悲喜離合に通じて晴らそうとすることで精一杯だった1950年代の越境映画と違い、三部作では、北海道やビクトリア湾の景色を楽しむ余裕がすでに観客にできていたのである。と同時に、まだ国と国の境界線は画然と分かれてもいた[21]。ところが、次の1960年代後半以降に月≠ナ作られた日港越境映画では、そのような境界線或いは二つの文化の相違はもはや全く問題とならず、まるで存在しないかのようにみえてくる。それについて論ずることは、またの機会に譲ろう。

 縦の軸ではなく横の時代軸で、同時期のもう一本の電懋映画『小児女』を『香港の星』と比べてみると、同じく1963年に作られ、同じく尤敏と王引が父娘を演じ、同じく母親のいない家庭についてのファミリー・メロドラマだが、二本の映画の「家」に対する異なった処理が興味深い。

『小児女』の英語題名Father Takes a Brideからも分かるように、これは父親の再婚という典型的なメロドラマの題材を扱う映画である。継母が幼い弟を苛めることを恐れる尤敏は、恋人に黙って仕事を捜し、弟たちを連れて家出しようとしていたが、最後に継母が実は優しい人だと分かり、めでたく幕を閉じるという、張愛玲の脚本にしては幾分凡庸な内容である。ところが、家の保全をテーマにする『小児女』と異なり、『香港の星』の親子の対立はもはや解決不可能であり(親は娘に香港で医者の仕事を継ぐことを望むが、娘は日本人のサラリーマンと恋に落ちる)、父親の突然の死による家の崩壊という形でなければヒロインの幸福が約束されることはない。古い世代の消滅という形で主人公に人生の幸福を暗示することが、ファミリー・メロドラマのジャンルとしての約束事であり、それはしばしば新しい家庭の成立、つまり新しい世代構成を約束した上でなされる[22]。ところが、『香港の星』の最後で、尤敏がその次の帰属が分からないまま、父親そして家の束縛から解放されたように、上の世代の存在が段々とその後数十年間の香港映画から消えていく傾向が見られる。風来坊のように現れる若い登場人物が、何の世代間の重荷もなく振舞うようになったのは、『香港の星』の後わずか五、六年のことであった。ファミリー・メロドラマという当時支配的だったジャンルも、今日香港映画というと、すぐに思い浮かべられる青春ものやアクション映画に取って代わられるようになる。そういった意味で、この日港合作映画はファミリー・メロドラマというジャンル内に収まりながら、国境を越える行為によって、登場人物(それゆえ観客)の視線を家庭内部から別の次元へと誘うことに成功している(『香港の星』の最後、尤敏の遠方へ向かう視線を思い出していただきたい)。このような予備レッスンの作品があったからこそ、その後のジャンルの転換もよりスムーズにできたのであろう。

 

4 再見香港

 以上は今年の香港国際映画祭に通じて、筆者がキャセイ社及び何本かのキャセイ映画について考察したことである。今後の課題として、キャセイと東宝の合作映画を日港越境映画という巨大な映画群の中にどう位置づけるべきか、日港越境映画を切り口に香港映画の独自性が形成されるまでの過程を炙り出すことが可能であろうか、などの問題について、さらに深く掘り下げる作業が必要になってくるであろう。日本映画と香港映画の関わりを歴史的に考察することによって、現在の日本と香港映画との有り様を逆照射することが、今後の展開として期待できる。

 最後に、映画祭の間にスケジュールの都合上、見逃した『曼波女郎』等の特別上映を快く応じてくださったLaw kar)、傅慧儀の両氏をはじめとする香港電影資料館の方々に心よりの感謝を申し上げたい。文字資料に当たっては、国際演藝評論家協会(IATC)の廖志強と香港電影資料館の郭静寧の両氏に多大なご厚意をたまわった。また、香港嶺南大学の梁Leung Ping-kwan教授、The state University of New Jerseyの沈双教授、そして明治学院大学の四方田犬彦、門間貴志両先生にも感謝の気持ちを記しておきたい。一緒に弁当を食べながら夜遅くまで香港電影資料館の三階の会議室で映画を見たことは実に愉快な体験であった。その時行われた議論から大きな示唆を受けたことに対し、お礼の言葉を申し上げたい。

 

 



[1] OEDによると、キャセイ/cathayの語源は、中世からルネサンス期にかけてのラテン語のcat(h)aya、 トルコ語のkhitāy、そしてロシア語のkitayである。いずれの語も中国/chinaを意味する。 The Oxford English Dictionary (1989) s.v. "Cathay."

[2] キャセイ及び電懋の歴史をまとめるにあたって、主に下記の論文を参考した。Law kar「略談電懋的黄金歳月」『香港電影資料館ニュースレター』No.19、2002年2月号。鐘寶賢、「星馬実業家和他的電影夢:陸運涛及国際電影懋業公司」、『国泰故事』、香港電影資料館、2002年。余慕雲、「国泰機構與香港電影」、『国泰故事』、香港電影資料館、2002年。

[3] 南洋はアジアの南東部を指す。それが「東南アジア」と呼ばれるようになったのは太平洋戦争後のことである。中国南部、主に広東、福建両省出身の貧困な農民の、東南アジアへの人口移動は、12世紀にまで遡ることができる。1786年イギリスがマレー半島のペナンを領有すると、勤勉な中国人は農園や鉱山の労働者として歓迎され、やがてシンガポールの開発が進むとその需要はますます増加し、1850―70年がもっとも顕著な時期であった。

[4]  陸運涛はMalayan Airwaysの取締役であるが、1946年にアメリカ人ロイ・ファレルとオーストラリア人シドニー・カンツォにより香港で創立したキャセイパシフィック航空は、国泰機構と無関係である。キャセイのホームページhttp://www.cathayholidays.co.jp/company/index.htmlを参照されたい。

[5]  マレー半島南端の島およびその属島から成るシンガポール共和国は、1824年に英国の植民地となったが、1963年にマレーシアの1州に編入され、1965 年に独立した。なお、国泰克里斯製片場/Cathay Kerisで作られたマレー語映画の多くは、マレー人の俳優と、インド人の監督、そして中国人の出資者の協力による越境映画であった。Cathay Kerisについては、下記の論文に詳しい。Timothy P.Barnard: Vampires, Heroes and Jesters: A History of Cathay Keris, The Cathay Story, Hong Kong Film Archive, 2002,pp. 124-141

[6]  半世紀以上も中国映画産業を制覇する月♂、国が映画産業に関わり始めたのは、二十年代の上海で天一社を設立した時にまで遡る。月≠ヘ、当時すでに南洋で百軒以上の専属映画館を持つ巨大な配給網を築きあげていた。また、電懋と競争するため、決夫は1957年に元々香港にある月&ヮq公司(Shaw and Sons Company Ltd.)を月′Z弟(香港)有限公司(Shaw Brothers(HK) Ltd.)に改組し、月≠ニ電懋(the big two)の競争は香港映画を隆盛に導くことになる。Poshek Fu, “the 1960s: Modernity, Youth Culture, and Hong Kong Cantonese Cinema”, The Cinema of Hong Kong: History, Arts, Identity, Cambridge University Press, 2000, pp. 78-79

[7]  嘉禾はこの年にブルース・リーと契約し、クンフー映画の第一作『唐山大兄』/The Big Bossを作り、その後の十数年間に渡って、氏と新たな「the big two」となる。

[8]  ただ、当時言うところの「highbrow」は、特にそれまでの中国語映画によく見られるような、文化人の国家民族に対する憂患意識と理解される。Law kar: A Glimpse of MP&GI’s Creative/ Production Situation: Some Speculations, Some Doubts, The Cathay Story, Hong Kong Film Archive, 2002,p79

[9] 北米の中国系移民のほとんどは広東省出身で国語(北京語)を解さないため、アメリカのチャイナタウンの劇場では、国語で作られた当時の香港映画が、広東語に吹き替えられていた。

[10] 脚本編集委員会の宋淇、姚克、張愛玲、孫晉三の四人は、ともに戦前に中国大陸ですでに有名作家としての名声を得た人物である。そのため、電懋では監督より脚本家が重視され、有名な大監督は殆どいなかった。

[11]  四方田犬彦、「The Last Time I Saw Hong Kong」、『ユリイカ』19975月号、107-108頁。

[12]  田中純一郎、『日本映画発達史W史上最高の映画時代』、中央公論社、1980年、54頁。

[13]  四方田犬彦、『日本映画史100年』、集英社、2000年、161頁。

[14]  佐藤忠男、『日本映画史3』、岩波書店、1995年、35頁。

[15]  同上、30頁。

[16]  千葉泰樹は、かつて日本に植民地にされた台湾において、台湾で生まれ育った安藤太郎の設立した日本合同通信社映画部台湾映画製作所で、『義人呉鳳』(32)、『怪紳士』(33)などの映画を監督していた。詳細は田村志津枝、『はじめに映画があった 植民地台湾と日本