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キャセイ物語、或いは日港合作映画に関する覚書 ――第26回香港国際映画祭報告 ポスト初期映画に溺れる――オランダ映画博物館(フィルム・アーカイヴ)収蔵作品調査

ヴィクトリア・ハーバーの風に吹かれて――第26回香港国際映画祭報告

ヴィクトリア・ハーバーの風に吹かれて――第26回香港国際映画祭報告

                                                             

今井隆介

森村麻紀


プロローグ
 例年より早く桜が咲き始めた2002年3月27日、わたしたちは関西国際空港から香港経由でムンバイ(ボンベイ)に向かうエア・インディア機に乗り込んだ。約4時間のフライトののち未だ真新しい香港国際空港に着き、チャーターしておいたバスを待つこと1時間。ようやくホテルにたどり着いた頃には九龍の市街はすっかり夕闇に包まれていた。街の喧噪とともにわたしたちを出迎えてくれたのは、香港でも梅雨入り前のこの時期にしか発生しないという靄(もや)であった。ヴィクトリアハーバーに沿って林立する高層ビルやネオンサインがガスに煙って鈍く輝く様は絵葉書では見られない光景であり、印象派的あるいは表現主義的な色彩と水墨画のモノクロ感覚が見事に同居していた。
 翌朝、分不相応ながら申請しておいたプレスパスを受け取りに、香港国際映画祭事務局に向かった。事務局は会場の一つで映画祭のチケット販売を扱う窓口もある香港文化中心の外郭にあった。途中、結婚式を挙げたばかりと思われる家族が何組も記念撮影する現場に出くわし何事かと思ったが、 事務局の入っている一角は本来婚姻届の受理を専門とする役所だったのである。かつて船着き場であり、中国本土の広州と香港を結ぶ九広鉄路の終着駅でもあったその名残であろうか(敷地内には香港島を望む絶好の場所に今もレンガ造りの旧九龍駅時計塔が立っている)。映画祭は香港のイースター期間に開催されているため、文化中心に向かうたびに休暇を利用して式を挙げた家族を見かけることとなった。

第26回香港国際映画祭
 1977年から開催されている香港国際映画祭は世界各国の新作映画上映は無論のこと、実にセンスの良い、ヴァラエティに富んだプログラムが毎年企画されている。26回目を迎える2002年も世界44カ国から招待された230本以上の映画が上映された。今回組まれた特集の主要なものを以下に挙げておこう。香港の新作映画特集をはじめ、アジアにおけるインディペンデント映画およびヴィデオ作品特集、グローバルヴィジョンと題した世界各国(北米や西欧諸国からはもちろん、ハンガリー、アルバニア、ロシア、キルギスタン、トルコ、チュニジア、中国、台湾、日本そしてオーストラリアなど)の作品特集、2001年の同時多発テロをふまえて世界各地の係争問題を扱った戦争特集、オペラ、ドキュメンタリー、アニメーションの各特集、映画製作とその製作者に焦点をあてた特集、そして日本の若手監督の特集などの他、香港の女性監督アン・ホイとチェコの映画作家ヤン・シュヴァンクマイエルの回顧特集が香港各地で連日上映された。
 今回の目玉企画は「バック・トゥ・ドリームランド」と名づけられたキャセイ映画特集である(キャセイといえば一般に航空会社を思い浮かべるが、それとは別の企業グループである)。キャセイは1930年代にシンガポールを拠点として劇場ビジネスを始め、40年代には映画の製作と配給に事業を拡大。50年代になると系列会社を香港に設立し1957年にそれをMP&GI社(Motion Picture & General Investment Company)として再編、スタジオの量産体制を整えた。MP&GI社は1957年から1960年代に250本以上の映画を製作、香港のみならず台湾や東南アジア、ハワイ、サンフランシスコなど各地の華僑向けに配給した。作品の多くは上流社会を舞台とするクラッシック・コメディやメロドラマ、ミュージカルなどであり、スターを起用した洒脱な娯楽作品は大きな反響を呼んでその後の香港における映画製作を大いに刺激したのであった。
 今回の特集ではキャセイ映画を代表する傑作ばかり29本の上映が行われ、映画祭終了後の4月8〜11日にはMP&GI社に関する国際シンポジウムも開催された。これらの特集に加え、揺籃期のアジア映画を対象にしたコンペティションも第23回映画祭以来から行われており、このような量質ともに充実した特集を組む映画祭が毎年(!)行われていることは全く驚くべき事実である。映画産業の振興に惜しみなく予算を使うことのできる香港行政府、そしてそんな映画祭に毎年参加できる香港の人々が羨ましくてならない。
 上映は香港の市街地を中心に全9カ所で行われていたが、ひとつでも多くの映画を効率よく見るために移動に時間がかかる会場を避けた。わたしたちが足繁く通った会場は香港文化中心とそのすぐ東側に隣接するプラネタリュウム館の香港太空館(上映会場は建物内のレクチャーホール)、香港科学館、そして香港島側にある香港大会堂である。文化中心と太空館は香港芸術館とともにヴィクトリアハーバーに面した一繋がりの文化地区を形成し、香港島側から見てもそれとわかる規模を誇っている。科学館はこの地区から見て東北にあり(徒歩約15分)、98年に九龍公園内から移転された香港歴史博物館と併設されている。大会堂は九龍と香港島を結ぶフェリー乗り場からごく近く、時間的には科学館より近いぐらいであろう(地下鉄は駅を降りてからの行程が長いため近距離では不便)。
 主な映画祭会場は他にも香港島の香港会議展覧中心の南にある香港芸術中心などがあるが、なかでも香港島東部、九龍湾の東端(鯉魚門)近くにある香港電影資料館は特別であった。なぜなら今回の目玉企画であるキャセイ映画の回顧上映は連日ここで行われていたからである(香港の中心部から遠いことを理由に数回しか訪れなかったことが悔やまれてならない)。電影資料館のように特定の会場で特定のプログラムを上映するのは特殊なケースであり、他の大部分はここで紹介した五つの会場に偏りなく割り振られていた。

 
クンフー映画の未来
 プレスパスを手に入れたわたしたちは文化中心の敷地内にある飲茶レストランで腹ごしらえし(この店オリジナルのハリネズミ型揚げ饅頭は一度ご賞味いただきたい)、日本でも話題になっていた『少林サッカー』(チャウ・シンチー監督、2001年)から映画祭生活を開始した。映画は評判に違わぬ抱腹絶倒のコメディ作品で、冷房で冷え切った体を十分暖めることができた。しかし一方で京劇を豊穣な培地として成長し花開いた一大活劇ジャンル、クンフー武侠映画の未来について一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。
 中国語圏のクンフー映画はインドの歌謡ダンス映画や日本の時代劇とともに、身体運動と情動の突出点がすなわち映画のクライマックスであるという点でハリウッドのミュージカル映画、そしていわゆる「スポーツ映画」とも近親関係にあるといってよい。アクションもできるコメディ俳優のチャウ・シンチー(ジャッキー・チェンはあくまでコメディのできるアクション俳優である)が「何かブレイクスルーなものを」と考えて、クンフーとサッカーを組み合わせたことはまことに正鵠を射ていたといえるだろう(2002年のワールドカップに中国が初出場を果たしたことも一因にあげられるかもしれない)。
 しかしそれは、監督自らが告白しているように、 クンフー武侠映画のみではアイデアが尽き果ててもはや記念碑的ヒット作を生み出しえない事実を明らかにしてしまったように思われる。(ブルース・リーの後継者たらんとする者が『食神』に続いてジャンルを混淆させた作品を製作しなければならないという現状は、ジャンルの更新を意味するのか。それとも終焉を意味するのか。)クンフー映画に新風を吹き込んだワイヤーアクションは今や世界を席巻しつつあるが、そもそもは停滞の中からより荒唐無稽でより過剰な身体運動が要求された結果であろうし、卓越した身体能力の持ち主でなくとも派手なアクションができる分だけ裾野が広がったとはいうものの、現在では「素人でも見栄えのするお手軽な方法」として粗製濫造されている観は否めない。
 ジャッキー・チェンの偉大さは自らの生命身体を賭けて吹き替えや編集なしに危険なアクションを演じきってみせたところにあるだろう。もちろんチェンが例外なのであって、彼を基準とする方が誤りなのかもしれない。だが確実に言えることは、チェンをはじめとする世代が演じたような、個人的な身体能力のその限りを尽くして大汗かきながら悪を退治するヒーローと入れ替わるようにして、ワイヤーを操る殺陣師の助けを借りて超人的な能力をより華麗によりスマートに発揮するヒーローが現れたという事実である。
 クンフー武侠映画における、いい意味での泥臭さをもった等身大のヒーローから重力を超越したスーパーマンへの交代劇は何を意味しているのだろうか。京劇の伝統を背景に持つスターたちが年齢を重ね、活動の舞台を世界に移す一方で、その流れを受け継ぐ者が現れないからなのか。スターの空洞化にともない、殺陣師たちにスポットライトを当てざるをえないからなのか。筆者にはなにやら恐怖映画における名優の退場そして特殊メイクアップアーティストの台頭という現象と、軌を一にしているように思われてならない。
 クンフー映画もまた西部劇や時代劇と同じ運命を辿るのか、それとも昨今のハリウッド映画や『少林サッカー』のように過剰で荒唐無稽な身体運動の技法、スタイルとして取り込まれ命脈を保つことになるのか、それはまだわからない。キャリアの前半でブルース・リーの衣鉢を継ぎ、後半で積極的なワイヤーアーティストとなった過渡期的なスター、ジェット・リーがハリウッド進出を果たした今、誰の力も借りず(象徴的にも実際的にも)己の拳だけで運命を切り開いていく、そんなクンフー映画の古き系譜に連なる新たなヒーロー=スターの出現を願って止まないのはオールドファンの筆者だけだろうか。

香港の現在と過去〈アン・ホイ特集〉
 アン・ホイ(許鞍華)は現在香港で最も重要な映画監督のひとりであり、ということは世界で最も精力的に活動する女性映画作家のひとりであるといえよう。ホイは1947年に中国本土の遼寧省鞍山で日本人の母を持って生まれ、幼くしてマカオ、ついで香港に移住。香港大学で英文学と比較文学を学んだあとロンドンのフィルムスクールに学び、帰国後は香港のテレビ界においてドラマやドキュメンタリー制作にたずさわった。1979年に『瘋劫』で監督デヴューを飾るやいなや一躍ホイは香港ニューウェイヴの創始者と呼ばれ、以来ジャンルに固執することなく多種多様な作品(怪奇ミステリー、コメディ、メロドラマ、武侠活劇、社会派ドラマ、ドキュメンタリーなど)をほぼ年1本のペースでつくり続けてきた。1999年の『千言萬語』以降は大学で教鞭をとり、後身の育成にあたっていたが2001年に2本の映画を監督。待望の新作2本が一挙に公開される2002年にホイとその作品の軌跡をたどる回顧展が企画され、デビュー作から新作まで代表作を含む13作品によるアン・ホイ特集が組まれたのも当然の成り行きといえるだろう。
 新作『男人四十』(2001年)の上映当日はアン・ホイと出演者たちが舞台挨拶を行うこともあってか、わたしたちが上映会場である香港大会堂に到着した時には詰めかけた人々がすでに長蛇の列をつくっていた。開場後、客席は瞬く間に観客で埋まり、上映中も会場内は日本では体験できない盛りあがりを見せた。たとえば香港の観客は主演のジャッキー・チョン(張學友)のちょっとした仕草の可笑しさに敏感に反応して笑い声をあげるのである。それはあたかも、隣の観客ですら定かではない暗闇の中にあって、笑うことによって互いに同じ空間に集って同じ時間を共有できる楽しさをアピールしているかのようであった(香港の観客が醸し出すこの雰囲気は、どの会場のどの映画を見ていても多かれ少なかれ感じた)。上映終了後、時計の針はすでに23時をまわっていたにもかかわらず、観客はホイや出演者たちを前に臆することなく次々と感想や質問を投げかけ、彼らもそうした積極的な質問に気取ることなく楽しそうに答えていた。香港の映画観客と映画をつくる人、そして出演する人との距離がとても近く感じられた瞬間であった。
 具体的な考察を始める前に、『男人四十』の物語を紹介しておこう。高校で中国文学を教えている主人公は妻と二人の息子とともに平穏な日々を送っていたが、四十歳をむかえた彼に人生の転機が訪れる。ひとつは教え子の女子高生が教師である彼に特別な感情を抱いて積極的に近づいてきたこと。いまひとつは恩師(彼もまた中国文学の教師であった)が台湾から香港に戻ってきたことであり、というのも彼はかつて妻の恋人だったからである。さかのぼること二十年の昔、彼女は不倫関係の果てに恩師の子を妊娠するが、彼はその事実を聞かされないまま自分の妻と共に台湾へ去る。主人公はすべてを承知の上で彼女と結婚し、恩師の子を長男として引き受け実子である次男と分け隔てなく養育する。そうして何事もなく二十年が過ぎ、過去が思い出に変わろうとしていた矢先に恩師が末期癌を患って一人香港に戻ってきたのであった。妻はかつての恋人が余命いくばくもないとを知ってその死を看取りたいと訴え、ただでさえ恩師と同じ過ちを繰り返しつつあることを否定できない主人公の苦悩はさらに深まってゆく。
 『男人四十』という題名からすぐに想起されるのはアン・ホイの代表作『女人、四十』(1995年)であるが、こちらは会社でそこそこの地位にある四十代の主婦がアルツハイマー病の舅をかかえて悪戦苦闘する映画であり、四十男の心象を掘り下げた『男人四十』とは好対照をなすという以外に特筆すべき関わりはない。もっとも、『女人、四十』や『今夜星光燦爛』(1988年)で明らかなように、ホイは女性の抱える問題を女性の視点から(といってもホイの魅力は女性監督にありがちな力みを感じさせないところにある)とらえた演出に冴えをみせてきたから、復帰を飾る新作ではあえて男性の抱える問題と心の葛藤を描きあげることに挑戦したということなのかもしれない(上映後に挨拶したホイのコメントによると、中年男性の造形はもっぱら主演したジャッキー・チャンとのディスカッションを通してつくりあげられたものであるという)。
 『男人四十』について指摘しておかねばならないことは、『女人、四十』との対照性よりむしろ本特集でも上映された『今夜星光燦爛』との関連性であろう。というのも両者は多くの差異にもかかわらず、教師と生徒の不倫というテーマや家族と世代間の確執など物語の大枠で一致しているからである。すなわち『今夜星光燦爛』は教授と不倫関係に陥った女子大生がのちに年下の男と付き合い、彼が教授の息子と知って驚き悩む話であり、一方『男人四十』は教師の子供を身ごもった女性と結婚した男が、自らも教師となってやはり生徒と関係を持ってしまうという内容なのである。さらに重要な共通項は、困難に直面した際に登場人物たちがとる対処の仕方の、男女それぞれの描き分けであろう。
 『今夜星光燦爛』のヒロインや『男人四十』における主人公の妻、それに女子高生はそれぞれに運命の皮肉に戸惑いながらも、自分が選択した道をまっすぐに進んでいく潔さを持ち合わせている。『男人四十』における女たちの一本気な態度は、妻の要望に反論することも、教え子の積極さに閉口しつつしかし突っぱねることもできないでいる主人公の不甲斐なさと鮮やかな対照をなす。『今夜星光燦爛』においても、教え子と本妻の間で右往左往するばかりか息子との避けられぬ対決に挑めないでいるのは、夫であり父であり教師であるはずの大学教授その人なのである。このように優柔不断な男の情けなさ、弱さを容赦なくあぶり出してしまうホイのメロドラマ作品は、ハリウッド製「女性映画」の代表的ヒロインとしてよりも、「女性映画」を「男性映画」に換骨奪胎してみせた映画作家として重要なアイダ・ルピノの代表作『重婚者』を連想させずにはおかない。
 内面の葛藤を視覚化させずにはおかないのがメロドラマ映画であるとすれば、『男人四十』において男の弱さはどのように表象されているのだろうか。メロドラマの特権的イコンたる階段(エスカレーター)を舞台とする場面を紹介しよう。ひとつは主人公の妻がかつての恋人に追いかけられて逃げるシーン。振り返りもせず一目散に階段を駆け上がる彼女の後ろ姿をカメラはローアングルでとらえ、過去を振り返るつもりのない彼女と死を目前にして過去にすがりつこうとする男との対比が強調される(後に彼女が男の死に立ち会おうとするのは、文字通り過去に別れを告げるためである)。いまひとつは上りのエスカレーターに乗って女子高生のすぐ後ろをついてゆく主人公を、やはりローアングルでとらえたシークエンスである。彼は駆け上がって彼女に追いつこうともしないし、逆走して逃げ出そうともしない。上昇するエスカレーターに呆然と立ちつくす姿は、雄大な長江の映像(劇中で漢詩が話題にのぼる度に挿入される)に出てくる小舟にそっくりである。
 夫であり父であり教師であることに固執する限り、主人公は教え子との未来を選ぶことも妻の過去と対峙することもできない。四十にして惑い、漂う小舟のように前進も後退もままならなくなった彼はついにある決断を下す。かつて恩師がそうしたように、主人公もまた社会的要請に従うことをやめて武装解除に応じ、一人の男に立ち戻って教え子の未来にも妻の過去にも一応の決着をつけるのである。映画の最後で主人公は長男を連れて病院を訪れ、昏睡中の恩師に向かって漢詩を朗読する。そこで挿入される長江の映像にもやはり小舟が登場するのだが、主人公が一定の決意の元に動き出したことを暗示するかのように、それは既に漂泊することをやめて大河に漕ぎ出し始めているのであった。
 アン・ホイの作品群を通して見てみると、ジャンルを問わずフラッシュバックを多用して、それぞれに拭い去れない「過去」を抱えたまま生きる人々の「現在」を浮き彫りにするのが彼女の得意技であることがわかる。ホイの作品において「過去」はときに陰鬱な影を未来に投げかけ、さながら亡霊のように立ち現れて「現在」に生きる人々を苦しめる。ホイが家庭や学校で繰り広げられる世代間の確執を描いたメロドラマはもちろんのこと、亡霊に悩まされつつそれと対決し、謎の解決をもって亡霊を克服する怪奇ミステリーもまた好んで取り上げるのも、それがフラッシュバックを効果的に用いることができる映画ジャンルであり、過去対現在の図式が亡霊対生者の図式に対応しているからであろう。
 新作『幽霊人間』(2001年)はタイトルが示すとおり、ホイにとってデビュー作の『瘋劫』や『撞到正』(1980年)以来久々の怪奇ミステリー作品であるが、ホイにおいて(彼女に限ったことではないが)亡霊がすなわち陰惨な過去の象徴だとすれば、過去に悩み、やがて過去に立ち向かう主人公を描いた『今夜星光燦爛』や『男人四十』とさほど変わらず、いずれも大筋において一致しているといえるだろう(ホイのメロドラマ作品において、「過去」を象徴するものが『女人、四十』の舅、『今夜星光燦爛』の大学教授、『男人四十』の高校教師というように、いずれも男性であることは注目に値する)。『憧到正』は上映がキャンセルされたため見ることができなかったが、『瘋劫』The Secretと『幽霊人間』The Visible Secretはその英題が示すように、過去の謎(secret)が幽霊出現の根源であり、その意味で両作品は人々が文字通り「過去」に取り憑かれる映画なのである。
 謎解きを避けるため、『幽霊人間』の物語を具体的に紹介することはしないが、かわりにこの作品が幽霊の実在を説得力をもって描くことに成功している点を指摘しておこう。21世紀の怪奇ミステリーにおいて、主人公が幽霊と遭遇するのは墓地や廃墟ではなくてひっそりと静まり返った深夜の地下鉄の中であり、その日常的な空間があの世とこの世をつないでいるという設定は都会の孤独とともに見る者を戦慄させずにはおかない(事実、香港の地下鉄では『幽霊人間』のポスターの掲載が禁止になったという)。『幽霊人間』はこうした日常に忍び寄る恐怖を描くとともに、ユーモラスな要素や主人公とヒロインの恋、主人公と父親の確執、そしてヒロインとその母親との相克をも織りこんでおり、ひとつのジャンルに固執することなく、それでいて「現在」が「過去」と対決して「未来」を切り開く映画を作り続けてきたアン・ホイならではの作品であるといえよう。
 以上、アン・ホイの新作を彼女の先行作品に適時参照しながら紹介してきた。彼女が二十二年の間に製作した作品群は多岐にわたっているが、これらをジャンル別に分類しようとすると混乱をきたすばかりであり、ホイ自身についてはただ「多才な女性監督」という評価しかできなくなってしまうだろう。ホイ作品は多種多様なようで、まとめて見てみるとそれぞれにどこかで共鳴し合い、主題や手法のレベルにおいても一貫性を保っていた。それとはまた別に、ホイ作品は20世紀末のうつろいゆく香港の姿をみることができる。彼女は21世紀の香港をどのようにとらえていくのだろうか。ひとつ確実なのは、そこにもやはり中国本土と、他ならぬ香港の歴史が影を落としているであろうことである。

カメラとピストルの新たな出会い
 『You Shoot, I Shoot』(エドモンド・パン監督、2001年)はただ『少林サッカー』と同じ会場で続きに上映されるからという消極的な理由で見たのであるが(あとになってこの新人監督がアンディ・ラウ、反町隆史主演の映画『フルタイムキラー』の原作者であることを知った)、筆者にとってその後の映画祭体験を方向付けてしまうほどのインパクトを持った傑作であった。大笑いしつつソツのない語り口に感心し、ときには深く考えさせられたりもしたこの映画について考察する前に、その物語を紹介しておこう。
 腕の立つ殺し屋がいて、彼はアラン・ドロンの『サムライ』に心酔しているが理想にはほど遠く、フィアンセやその両親、依頼者たちに翻弄されてばかりいる。あるとき彼はクライアントの注文に従って殺しの一部始終をヴィデオカメラで撮影するが、激しく手ぶれし「決定的瞬間」を捉え損なったその映像はクライアントの不評を買ってしまう(実録映像よりも適度に演出された「映画」の方が迫力もあり真実らしく見えるという逆説)。
 殺し屋は当初、ピストルとヴィデオカメラを合体させることで射撃=撮影(shoot)を実現しようと試みたのだが、一人二役は不可能と悟り、ポルノスタジオで不遇をかこつ青年をスカウト(脅迫)して撮影を担当させることにした。青年は「第二のマーティン・スコセッシ」を目指してニューヨーク大学に留学したという無類の映画狂で、良心の呵責にさいなまれるのも最初だけ。殺し屋に(さらには標的にも)演技指導し、カメラワークや編集に凝り、自前のタイトルロゴまで用意して映画を完成させる喜びに陶酔していく(青年が監督その人の投影であることはいうまでもない)。
 殺し屋と青年の共同作業は次第にエスカレートし、標的を轢き殺す様子を車載カメラで撮影したり、標的の顔の前にカメラを固定してわざと逃がし、必死の形相から事切れた後までの相貌の変化の撮影に成功したりする。急いで言い添えねばならないが、『You Shoot, I Shoot』は「サムライ」たりえない殺し屋と映画狂青年との掛け合いに爆笑するスクリューボールコメディであり、『血を吸うカメラ』のような陰湿さは微塵もない。なぜなら誰もが殺人そのものを楽しんではいないからである。殺し屋にとって殺しはアラン・ドロンに近づく手段でしかなく、青年の快楽も自らをもって映画監督に任じるというその一点にのみある。依頼者たちにしても、青年が情熱を傾けて監督した「スコセッシ風」短編映画の出来映えに興奮しているに過ぎないのである。
 映像化されているとはいえ死を無感動に享受する変人(スクリューボール)たち。二人を「殺人映画」の製作に駆り立て手を叩いて喜ぶ人々が、死をある種のポルノグラフィとして消費する現代の観客(つまりこの映画を見ているわたしたち)を代表する存在であるとすれば、確かにこの映画は現代と映像業界に対する毒の効いたアイロニー足りえる。青年がポルノ映画の助監督で、ヒロインがポルノへの出演を成功の足がかりとみなしている設定もこの点を強調するのであろうが、ここではこれ以上この問題には触れずにおく。というのも、『You Shoot, I Shoot』がヴィデオカメラの活用法を模索する映画であるからには、それが映像機器との関わりの積み重ねである映画史にどんな一項を加えることができたのか(あるいはできなかったのか)を考察することの方が先決であろうからである。
 ここで撮影カメラと撮影技法の歴史を詳述する余裕はないが、ヴィデオも含めた手持ちカメラの映画史を簡単に振り返っておくことはできる。手持ちカメラによる映画製作は、一般にスタジオの欺瞞を嫌ったヌーヴェルヴァーグの面々によって1960年前後に開始されたとされる。手持ちカメラの可能性自体を主題とした先験的作品『血を吸うカメラ』が公開されたのもやはり1960年である。『仁義なき戦い』の手持ちカメラによる映像が衝撃をもって迎えられたのが1973年。スタディカムを多用した『シャイニング』が1980年の公開なら、隔壁を次々くぐり抜けていく映像が印象的な『Uボート』は1981年の作品である。ヴィデオカメラによるポルノ映像の氾濫のあおりを受けて、にっかつがロマンポルノを含めた自社製作を中止したのが1988年。何からの影響なのかを正確に同定するのは容易でないが、90年代までに手ぶれした粗い映像がかえって「生(なま)の迫真性」を帯びていると見なされるようになったことは確かである。ある少女の生き様を手持ちカメラで文字通り追跡した『ロゼッタ』やデジタルヴィデオで撮影された学生映画『ブレアヴィッチプロジェクト』の成功もこの潮流に乗ったればこそであろう。
 ヴィデオカメラについての映画である以上、『You Shoot, I Shoot』もこの文脈の中にあってなおかつ短くもない手持ちカメラの歴史を俯瞰しうる視点を備えているし、「撮影現場」の混乱ぶりはスラップスティックな笑いに満ち、ジョン・ウーからの引用は映画ファンを爆笑させずにはおかない。しかしアイロニカルな自己言及に終始するという点で、1967年のデヴュー以来手持ちカメラと戯れてきた映画作家、原将人による『20世紀ノスタルジア』には及ばない作品と言わざるをえないだろう(原が重要な作家であるいまひとつの理由は、カメラと同様映写機との関わり方をも模索している点にある)。しかし、にもかかわらずこの作品が21世紀の映画たりえているとすれば、それは軽量小型化によってますます自由度を獲得していくであろうヴィデオカメラと、軽量小型化された銃器=ピストルとがきわめて今日的な遊戯的関係を取り結んでいるからに他ならない。
 殺人は『マラーの死』や『ギーズ公の暗殺』(ともに1897年)から早くも映画の主要な題材であり、ピストルは『大列車強盗』(1903年)より以前の段階で既に映画になくてはならない小道具であった可能性が高い。映画がその当初からピストルとともに重要な主題を描き続けてきたとすると、カメラがピストルなみの携帯性と運動性を獲得した現在、両者の提携による死の表象は新たな段階に入ったはずである。だとすれば『You Shoot, I Shoot』はヴィデオカメラの効用について何かを付加することはできなかったものの、カメラの「ピストル化」にともなう共謀関係の今日像を提示してみせた点において、映画史をわずかながらも更新した作品ということになるに違いない。
 映画カメラは昔も今もピストルによる射撃(shoot)を撮影(shoot)し続けてきたし、今後もそうであろう。映画が死を表象し続ける限り、デジタル化による再編の後もピストルはこれまで通り「映画的小道具」(黒沢清)として映画を支え続けるに違いない。しかし現代はモニター越しに目標を捉える射撃(狙撃、砲撃そして爆撃)が実用化され、ミサイルや爆弾にヴィデオカメラが搭載される時代である(ユーゴ空爆の折り、列車もろとも鉄橋を破壊したミサイルがもたらした映像の衝撃は忘れがたい)。撮影と射撃が「shoot」という言葉を媒介に等号で結びつけられる今日、映画にできることは自家撞着的ながら結局のところ、撮影と射撃を一致させることなくつかず離れずの関係を保持し続けることに他ならないのではないか。『You Shoot, I Shoot』における殺し屋と映画狂青年の友好的にして創造的な関係はそのようなことを暗示しているように思われてならない。

ドキュメンタリーあれこれ
 映画祭初日から予期せぬ収穫を得て気をよくした筆者は、デジタルヴィデオカメラが今まで以上に威力を発揮するであろうドキュメンタリー部門を重点的に見ることにした。以下は筆者が見た作品の紹介と感想をそれぞれにまとめたものである。
 『The Diplomat』(トム・ツブリッキ監督、2000年)は東チモール問題の国際化に尽力し1996年にノーベル平和賞を受賞したJ・R・ホルタ氏を取材した作品である。映画はホルタ氏の亡命生活を客観的に撮影したというよりはむしろ、世界中を飛び回ってテレビ出演し、携帯電話でインタヴューに答える活動家として、積極的に同氏をカリスマ性溢れる(実際同氏はスマートなハンサムである)ヒーローとするかのように見える。監督によると、ホルタ氏はカメラの前でいかに振る舞えばよいかを重々承知しており、自分たちはただカメラを回しただけであったという。いわばホルタ氏のメディア戦略に荷担させられたのであり、それだけ同氏は老練で優秀な外交官(diplomat)であると言えよう。
 ローカルな紛争を国際問題化し、世論を味方につけることがメディア戦争の勝利条件とすると、より見栄えのする人物をより多くメディアに露出させ、より明快な言葉(数カ国語が話せることよりも爽やかな英語を話すことが求められる)で支持を訴えた陣営が勝利を収めることになろう(ボスニア紛争の際、「民族浄化」なるキーワードを流行させた側が国連の支持を取り付けた事例は記憶に新しい)。その点で『The Diplomat』はホルタ氏のメディア戦略の一翼を担っていたといえるだろう(そこから綻びや逸脱を発見するのが役目なのだが、残念ながら筆者はそれを果たすことができなかった。反省している)。
 『Massoud, an Afghan』(クリストフ・デ・ポンフィリ監督、1998年)は、アメリカにおける同時多発テロの2日前に暗殺されたアフガンゲリラのカリスマ、マスード将軍の生前を記録した作品であり、上映会場の盛況ぶりはその関心の高さを物語っていた。
 アフガニスタンの指導者は大勢いるが、中でもマスード将軍が最も有名なのはその勢力や戦歴もさることながら、将軍がストイックで落ち着いた物腰のハンサムであり、ソ連やタリバン政権を非難したい西側メディアにとって得難いペルソナであったからであろう。その点では将軍もまたジャーナリストを積極的に近づけ、メディアを通して世論を引きつけるすべを心得ていたというべきである。ゆえに将軍がテレビ取材班に扮したテロリストの自爆によって暗殺されたことは、まことに皮肉というべきであるに違いない。
 あるいは、いかなる障壁も報道の名目でくぐり抜け、今や天下御免の免罪符と化した観のあるテレビカメラが、ミサイルや爆撃機では絶対に不可能な超精密ピンポイント爆撃を成功させたといえるかもしれない。規模の大小を問わず、対立する同士が宣伝合戦を展開するメディア空間こそが今日の主戦場だとすれば、説得力ある映像を撮影(shoot)し報道することが間接的ながら敵を撃つ(shoot)ことにつながっているのであり、マスード将軍暗殺事件は逆にカメラが直接手を下した珍しい一例となるのではないだろうか。
 『ABC Africa』(アッバス・キアロスタミ監督、2001年)はイランの巨匠キアロスタミが国連機関の要請を受けてウガンダを訪れ、全編デジタルヴィデオで撮影した作品である。貧困とHIVウィルスが蔓延するウガンダにあって、活発さと好奇心を失わない子供たちの瞳が美しいと同時に、目に付くもの全てにカメラを向ける作り手のはしゃぎようが画面から伝わってくる。しかしいくつか気になった箇所について紹介しておきたい。
 ひとつは一行が群がる子供たちを撮影していると、ひとりの青年が何を勘違いしたのか地面に寝そべって、ピンナップガールのようなポーズをとった場面。いまひとつは慈善家と称する白人夫婦がよちよち歩きの赤ちゃんを引き取ると主張する場面である。彼らの善意を疑うわけではないが、探検者が未開の土地を訪れて珍しい可愛らしい、あるいは有用な「動物」を捕獲して持ち帰ろうとする図式を思い描かずにはいられなかった。
 かつて(あるいは現在も)冒険者が野生動物を狩猟(shoot)捕獲してトロフィーにしたり博物館に収めたりした延長線上に、リュミエール社が世界中にカメラと撮影(shoot)技師を派遣した事実があるとすると、キアロスタミもまた冒険撮影家の末裔の一人ということになろう。カメラをはさんで向き合う撮影者と被写体との間に圧倒的な不均衡が横たわっている限り(例えば『ABC Africa』に登場する子供たちがこの映画を見る機会はまずないだろう)、誰しも狩猟=撮影(shoot )の図式から免れえないのではないか。先の青年が自ら進んで被写体となるためにあえて女性を演じてみせたのだとすれば、この問題はジェンダーの問題も含意してさらに展開していくことが予想される。今後の課題としよう。
 キアロスタミは撮影旅行後にデジタルヴィデオカメラについて感想を述べている。要約すると、その利点とは仰々しい撮影機材と違ってクルーや複雑な機器を「魔法のように」軽減し、役者を緊張させないで済むことであるという(35mmに戻すつもりはないとまで言い切っている)。ウガンダの子供たちの生き生きとした表情は手のひら(ピストル)サイズのカメラなればこそ引き出せたものであって、肩に担ぐ(バズーカ砲)タイプのものでは撮影できなかったということであろうか。ともかくもカメラとカメラを持つ身体との連関性を考える者にとってこのエピソードは大変興味深い。
 『A2』(森達也監督、2001年)と『Domestic Violence』(フレデリック・ワイズマン監督、2001年)を同時に紹介することはおそらく非常に効率的だろう。なぜなら両者はカメラをある組織や団体の内部に持ち込む取材形式を共有していながら(ドキュメンタリーとはそうしたものだが)、撮影する身体の扱いにおいて全く対照的だからである。
 ワイズマンが被写体がカメラの存在を意識した瞬間をカットして、カメラマンの存在を画面から滅却させてしまうのに対して、森(とそのユニット)は獲得した信頼の証として自らの身体を前面に押し立て、立場の異なる組織や団体の間にある有形無形の障壁を軽々と乗り越えていく。前者がカメラマンの身体を「透明化」しようとするのに対して、後者は「通行証」として活用していると言い換えてもよいだろう。ワイズマンがデヴュー作以来一貫してきたスタイルで、ある特定のコミュニティ内部にのみ通用する「常識」と世間的な常識とのギャップをわたしたちに提示する一方、森はヴィデオカメラを持ってコミュニティ間を自由に交通しながら、当事者のあずかり知らぬところで構築(ねつ造)される対立と、当事者の間でごく素朴に交わされる付き合いとのズレを提示するのである。
 森はそれぞれの主義主張に耳を傾けつつ、それでいて誰の代弁者になることもコミュニティ間の橋渡しをすることもない。森にそんな離れ業を可能ならしめている要因は何であろうか。森自身のパーソナリティもあろうし、マスコミと違って何のバックもない一個人(映画作家)であるからかもしれない。筆者は密かに、市販されている小さなデジタルヴィデオカメラの威圧感のなさにあるのではないかと考えているが、どうであろうか。

スリランカの母なる大地
 20世紀がときに映像の世紀と呼ばれたりあるいは戦争の世紀と呼ばれたりする以上、国際映画祭のような映像の祭典を挙行するに当たって戦争特集を組まないことは主催者側の良識を、そしてそれを見ないことは参加者としての姿勢を問われる事態となろう。香港映画祭は「In the Shadow of War」と題して20世紀の様々な戦争をテーマとする9作品を世界各国から集め、ヴァリエーション豊かな特集を組んでいた。筆者はそのうち3作品を見ることができたのだが、ドキュメンタリー作品の『The Diplomat』と『Massoud, an Afghan』については前節で既に紹介したので、ここでは残りのひとつであるスリランカのフィクション作品を紹介することにしよう。
 『This is My Moon』(アソカ・ハンダガマ監督、2000年)はスリランカで今も続けられている民族紛争を下敷きにしつつ、静かな農村の穏やかな日常を綴った作品である。具体的な内容について述べる前に、日本人にはなかなか馴染みのないスリランカの情勢を簡単に説明しておこう。英領であったスリランカは国民の70%強が原住民のシンハリ人で、20%弱が植民地時代にインドから移住してきたタミル人で構成されており、独立以来シンハリ人が中核を占める政府に対してタミル人は分離独立を唱え、両者の武力衝突は1983年以来20年になんなんとしているのである。
 映画は銃弾の飛び交う塹壕から始まる。シンハリ人の主人公が一人孤塁を守っているところへパニック状態のタミル人女性が逃げ込んで来て、彼はとっさに彼女を押し倒してしまう。戦火が収まって主人公は脱走兵となって故郷に帰るが、彼女は彼との情交を一生涯のものと考えてか(彼女は後半まで一言も発しない)その後をついて離れようとしない。シンハリ人の村で身の置き場のない彼女。しかし彼女の一途な思いが主人公の妹や母親に共感を与え、ついに彼女は村で主人公の子を産み育てることを許されるのである。
 以上のようにまとめると戦火の中で育まれる愛、民族間の確執、家族の葛藤といった道具立てを備えたいかにもありがちなメロドラマのように感じられるが、この映画はそのような凡百の作品とは全く異質な清々しい魅力を放っている。まずその語り口からして既に反メロドラマ(ということは反ハリウッド)的である。映画には対立らしい対立がない(主人公が再び出征する際に母親がタミル人女性を「あんたたちのせいよ!」と罵る場面があるが、彼女は黙して何も語らない)。原初的な句読法もなければカメラ移動はおろかパーンもズームもない。主観ショットも切り返し編集もなくスタティックな映像がゆったりしたテンポでつなぎ合わされているに過ぎないのである。
 一見稚拙な学生映画であるかのような『This is My Moon』の魅力はひとえに、大地に根を下ろしたかのごとき堅固さを持つフレームで切り取られた、大地の大らかな伸びやかさと女たちの深い愛にある。殺し合ったり愛し合ったり、脱走したり逮捕したり、喧嘩したり死を迎えたりする人の営みを大地はゆったりと許容する。女たち(主人公の母、妹、タミル人女性)がつくる民族と世代を越えた女の共同体もまた、野放図なまでに男たちのなすことを受け入れ見守り、大地とともに次の命を育むための準備に勤しむ。『This is My Moon』は大地と女たちが体現する「母性」なるものがいかに懐深いものであるかを言葉を少なに、小手先の技法に頼らず、圧倒的な映像の力で教えてくれる作品なのである(余談ながら、スリランカが世界で初めて女性を首相に選出した国家であり、その娘がのちに大統領となって母親を首相に再任したという事実を是非とも申し添えておきたい)。

エピローグ

香港滞在中は今回の映画祭のキャッチフレーズ「目を開いて!そして映画に身をさらそ う!」の通り、朝から晩まで映画三昧の日々であった。朝は(何度も寝坊したが)10 時半から映画を見に出かけ、しばしば昼食をとる暇もなく会場を移動し、宿に帰った後 もその日見た映画の感動を分かち合うわたしたちの談議は夜更けまで続いた。かくも夢 のように幸福な日々を過ごせたのも、ひとえにプレスパスの申請に必要な推薦書を書い てくださった加藤幹郎先生、分不相応な申し出に快く応じてくださった香港国際映画祭 事務局の方々の温かいご理解とご支援の賜物である。この場を借りてお礼申しあげたい。 また10日間に及ぶ滞在中に親しくしていただいた香港の皆さん、クリスティーナさん 一家、周さん夫妻、ライアン君にはわたしたちの香港見物につきあってくださったばか りか、ガイドブックにも載っていない隠れた名店で香港の味を何度も堪能させていただ き、本当にお世話になった。記して感謝申しあげたい。香港から戻って3ヶ月が過ぎよ うとしている今、香港国際映画祭で見た作品のうちいくつかが日本でも公開されつつあ り、ちらしや広告を目にするたびに楽しかった香港の記憶とともに先行上映に参加でき た喜びが蘇る。香港国際映画祭参加リピーター希望者として、参加者一同これからも量 質ともに充実した映画祭が開催されることを願ってやまないものである。