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サイレント・フィルムの雷鳴――第20回ポルデノーネ無声映画祭報告 サイレント映画に明け暮れて ――第21回ポルデノーネ無声映画祭報告

サイレント映画の見せる夢

サイレント映画の見せる夢――第21回ポルデノーネ無声映画祭報告

 

石田美紀

 

 10月半ば、北イタリアの小さな街サチーレはサイレント映画のための幸せなコミューンとなる。たとえそれが一週間だけしか存在しないかりそめの場であったとしても、そこを訪れた人たちはまた来年も同じ季節に戻り街の住人になるのだから、サチーレを中心にしたささやかかつ世界規模の共同体は街の一部として存在し、参加者はその歴史とともに歩むといえるだろう。

 2002年にサチーレにやってきた私も、同じに季節に戻ってきたひとりである。前回、3年前の1999年は、映画祭の上映会場がその名に冠されているポルデノーネからサチーレに移った年であった。3年前には、宿泊したポルデノーネのホテルの前には、旧会場チネマ・ヴェルディ館が取り壊しを目前にして最後の姿をとどめていた。が、今、チネマ・ヴェルディ館はあとかたもなく消滅し、なにもない空間がぽっこりと市街に出現している。同じ場所に同じ季節に戻ってきたのに、時間は淡々と流れ、街の相貌を変えていた。と、無くなってしまったものへの感傷に耽っていてもしかたがない。実際、サチーレではセンチメンタルな気分を味わっているひまもないプログラムが待っていた。毎回参加者にうれしい悲鳴をあげさせ、映画への愛と体力を試すこの映画祭、今年は3年前以上にタイトなスケジュールとなっていた。まず、プログラムを紹介したい。

 

1. 偉大なるニッケルオデオン・ショー

2. ファニー・レイディーズ−女優録

3. イタリア・アヴァンギャルドあるいは無自覚のアヴァンギャルド

4. 1896年から1931年スイス映画、ある発見

5. グリフィス・プロジェクト6 1912年

6. サイレント映画を守ること2

7. ミッチェル&ケニョン2002

8. トランシルヴァニカ ヤーノ・ヤノヴィツの映画

9. ルーチョ・ダンブラ

10. デスメット・コレクション

11. フレームの外

12. おやすみなさい、サイレント映画たち

13. ヴィデオ・ショウ

 

以上、13枠がもうけられ、上映作品すべてが、「一期一会」という言葉が自然に浮かんでくるような貴重な作品であった。さて、わたしが一週間のうちに一期一会で出会った多くのフィルムのなかで、とくに網膜と記憶に刻みついたプログラム、3と9と12について述べて、第21回ポルデノーネ無声映画祭の報告としたい。

 

 イタリア・アヴァンギャルドあるいは無自覚のアヴァンギャルド

 今世紀初頭のイタリアにおけるアヴァンギャルドといえば、なにはさておき、1909年に「未来派宣言」を発表した未来派が思い起こされることだろう。しかし、このプログラムに入れられた1910年代の作品で未来主義者が製作した映画は、アントン・ジュリオ・ブラガーリア監督エンリコ・プランポリーニ美術監督『タイス』(1917)だけである。むしろ、このプログラムが意味するアヴァンギャルドとは、副題に「無自覚の」とも冠されているように、マニフェストなしのアヴァンギャルド、期せずしてイタリアのサイレント映画時代にあらわれたアヴァンギャルドのことである。このプログラムは、未来派と映画・写真の複雑な関係を鋭くついている。意外なことに、わたしたちの予測を裏切って、機械礼讃のマニフェストを連発していた未来派は、映画・写真という複製技術に対して及び腰であった。1914年、未来派の指導者マリネッティは、同年にローマのアルド・モリナーリが監督した『あべこべの世界』(1914)を公式の未来派の活動の成果としては認めなかった。その理由は、マリネッティと、もう一人の未来派の取りまとめ役であった画家・彫刻家ウンベルト・ボッチョーニが、真の創造は生身の芸術家のインスピレーションからのみ生まれるという生気論に縛られていたからである。あらゆる過去との対決姿勢を打ち出していた未来派の指導者たちは、一方で古臭い芸術観から抜けだせていなかった。1916年に「未来派映画宣言」が出され、未来派公式映画『未来派の生活』が製作されるまで、映画は未来派の御墨付きをもらうことができなかったのである。

 このような「マニフェスト付アヴァンギャルド」が新しいメディアのひとつ映画に対して躊躇していたのとは対照的に、イタリア映画最初期から喜劇俳優たちは最新のテクノロジーを無邪気に甘受していた。人気を博していた喜劇俳優たち、レオポルド・フレゴリ、クレティネッティ、クリクリらのフィルムは、未来派がそのマニフェストで謳いあげた機械と運動の美学を、未来主義者以上によく実践している。フレゴリ監督『蛇踊り』(1897)で、フレゴリはみずから女装して魅惑的で優雅な運動を披露しているし、同監督『幕裏で』シリーズ(1898)では、モンタージュによって超現実的なスピードで早変わりをおこなう。また、身体の主であるはずのクレティネッティ本人すら統御の効かない彼の身体運動はロボット的アクロバットと化し、観客の度胆をぬく。そのクレティネッティ監督・主演『なんてハンサム、クレティネッティ!』(1909)では、彼の身体はバラバラに切断され、身体各部はてんでに地を這いずりまわる。そして、注目すべきは、喜劇俳優としての人気が陰ってきた1921年に、クレティネッティが監督した映画史上最初期の長編ロボット映画、その名も『機械人間』である。この映画のクライマックスは、女怪盗とヒーローが操る機械人間同士の文字どおり火花を散らす戦闘である。北のトリノのイタラ社お抱えのスター、クレティネッティの向こうをはった、ローマのチネス社の看板コメディアン、クリクリも負けてはいなかった。クリクリ監督・主演『首無しクリクリ』(1913)では、胴体から切られた首が、自動車や飛行機に乗って自由に放浪する。

 喜劇俳優たちが現実と虚構のはざまで成立する映画の特性を最大限利用し、スクリーンの上で次から次へと見せた身体の弄びと加工、そして機械人間の創造は、未来派の想像力のはるか先をゆくものであった。幾何学模様をモチーフにしたモダンなセットのなかに1910年代に流行したファム・ファタールの妖婦ぶりと破滅を描くデカダンものを律儀に再現しているだけの、「未来派映画」の御墨付きをもらった『タイス』(1917)とは正反対である。

 また、1910年代のイタリア映画の話法における前衛性を証言する作品として、フラッシュバックで物語をすすめてゆくチネス社製作『おばあちゃんのおとぎ話』(1908)、ルイジ・マッジ監督『金婚式』(1911)に加えて、マルセル・ファーブル監督『俗愛』(1914)が秀逸であった。ブレッソンの先駆けともいうべきこのフィルムは、男女の不倫というありふれたプロットを、足先だけで表現する。同時代のアメリカ映画ではフレームの外に追いやられがちな膝下が、手や顔同様物語る力をもっていることを証明してみせる逸品であった。

 

 ルーチョ・ダンブラあるいは奇想の作家

 イタリア・サイレント映画研究の最新かつ最大の収穫といわれているのが、ルーチョ・ダンブラ(1879-1939)のフィルムの発見と修復である。今回は、『妻たちとオレンジ』(1917)、『目覚めたままで見るふたつの夢』(1920)、『ベベ姫』(1921)が上映された。幸運なことに、2001年秋に東京のフィルム・センターで開催された「イタリア映画大回顧」で、『妻たちとオレンジ』そして『大女優チカラ・フォルミカ−デビュー編』(1920)を観ることができたが、そのなんとも牧歌的なリズムと上品かつぶっ飛んだ感性が気になっていたわたしには、このプログラムはうれしい限りであった。

 小説家でもあり、劇作家でもあったダンブラは1916年から1922年の七年間に、原案、脚本、プロデューサー、監督として54本の映画に参加した。カルミネ・ガッローネやアウグスト・ジェニーナのために脚本を書いた後、1917年にサーカスの馬を主人公に据えた『サーカスの馬、エミール』を初監督し、1919年には自分の名前を冠したダンブラ・フィルムを設立した。当時の映画批評は彼の作品をルビッチに比肩すると評価していたし、1937年からはファシスト政権下の映画文化の中心的雑誌『チネマ』でも7年間に渡る映画生活を回顧する連載を、イタリア・アカデミー会員という肩書きでダンブラ本人が執筆するなど、ダンブラはサイレント映画を代表する映画人として著名であった。

 このようにノン・フィルミック・マテリアルはイタリア映画史におけるダンブラの重要さを雄弁に物語っていたが、1990年代初頭まで肝心のフィルムそのものが発見されておらず、ダンブラの映画とはどのようなものか不明であった。とはいうものの、現在においてもわたしたちが観ることのできるダンブラの作品は4本だけであり−彼の監督作品は22本とも23本ともいわれている−、彼の映画のほんの一部だけではあるのだが、それでも発見された4本はイタリア・サイレント映画の新しい側面を知らしめるものである。良く知られたイタリア・サイレント映画のジャンルは、古代ローマ史劇、どたばた喜劇、上流階級もの、ナポリ・メロドラマである。しかしながら、ダンブラの作品はそのどれにもあてはまらない。というよりも、矩形のカメラ・フレームのなかに登場人物をどのように配置し演出するかについては、ダンブラは独自の道をいっていたようだ。『妻たちとオレンジ』、『ベベ姫』、『目覚めたままで見るふたつの夢』のいずれにおいても、主人公の周囲に同じ衣装を着た一群の登場人物が配されている。『妻たちとオレンジ』では、主人公マルチェロをとりまく少女たち、『目覚めたままで見るふたつの夢』では哀れな娘を白昼夢へと誘う紳士のお仲間たち、『ベベ姫』では架空の王国クルランディアのベベ姫の家臣たちが登場する。レビューのコレオグラフィーにも似た動きを見せる彼らの存在は、物語の本当らしさから少々逸脱しており、ビザールな次元を物語世界に導入する。ダンブラがレビュー文化に強く影響を受けていることは明らかだが、彼の作品はレビュー・ショーの缶詰といったプリミティヴなものなどではなく、映画とは現実の断片からなる夢であること、また現実をやすやすと乗り越えてしまう夢であることを語っている。

 『妻たちとオレンジ』は、自動車の運動と少女たちの動きのコンビネーションがすばらしい。主人公が自動車で温泉地に到着する場面では、森のなかの一本道を少女たちが横一列にパラソルをさして向うから歩いてくる。自動車が通るとき少女たちは道の両脇に身をよける。次のショットは「あれは誰かしら」と話し合う少女たちを背後からとらえ、画面を彼女たちのパラソルで充たす。またオープンカーに少女たちが鈴なりになって遠出するシーンがある。自動車がスピードをあげ土煙が舞い上げるとき、少女たちは一斉にパラソルを広げる。はためくスカートと、陽光に透けるパラソルを満載した自動車が走り抜けてゆく。この瞬間、物語世界はジャック=アンリ・ラルティーグの写真にも似た幸福感に満たされ、同じオレンジの片割れをもつふたりは結ばれる運命にあるというお伽ばなしを軽やかに演出している。また、ダンブラは、映画がみせる夢についても非常に自覚的である。タイトルからして『目覚めたままで見るふたつの夢』では、不幸な娘がただひとつの彼女の所有物であるカナリアが入った鳥かごを手に路上で気を失っている間に、タキシードを着た青年紳士達によって連れ去られる。娘が意識を取り戻したときに彼女は豪華な館におり、姫君のような丁重な扱いを受ける。が、その夢の世界は長く続かず、また昏睡させられ再び目覚めたときは元いた場所へと戻っている。いたいけな娘に夢想と絶望の双方を体験させる残酷なこの作品は、女優を夢見る女性主人公が自ら主演の自主製作映画を撮影するが、お披露目の上映ですべてが逆に撮影されていたことを知って大恥をかく『大女優チカラ・フォルミカ』同様、ダンブラが「目覚めたまま見る夢」である映画の魔力を知り尽くしていたことを示している。映画界に入って6年目、映画監督としての円熟期に達したダンブラが1921年に監督した『ベベ姫』の冒頭の挿入字幕は、「映画ではどんなことが起こっても不思議ではないと思いませんか」と、これから始まる作品が、「現実」−あくまでもカッコ付きの現実ではあるが−から乖離していることを高らかに宣言する。その言葉のとおり、ストライプを基調としたセット・デザインとそれが伝染したかのような衣装が、架空の世界の架空の物語に形を与える。ダンブラは映画を「想像力が妙なる奇想と戯れる王国」と語っているが、彼は映像の魔術師と呼ばれたフェリーニと同じ感覚をもった映画作家であるといえるかもしれない。その全貌を知るためにも、また今までわたしたちが知らなかった夢の世界と出会うためにも、さらなるダンブラ作品の発掘が待ちどおしい。

 

 「黒い夕べ」あるいは「おやすみなさい、サイレント映画たち」

 22時30分からの上映が終わると、みなさん今日も一日ごくろうさまとでも言いたげに、この枠が用意されていた。始まる時間は日によって違ったが、おおむね0時を回った頃である。そして上映されたのは、深夜にふさわしいプログラム、エロティックなサイレント映画たち。なかでもハードな作品は、野外で男が鴨と女と交わる一部始終を開陳するフランス映画『鴨』(1925)であった。映画への欲望が秘められたものを観たいという欲望と不可分なのは百も承知である。わたしも一期一会の機会を逃さないようにわざわざイタリアまできているのだから。しかし、上映中会場のあちこちで発作のように起こる男性のかん高い笑い声に、あれは照れ隠しなのだろうかなどと考え出しはじめ、突然ポルノが上映されている会場に自分がいる現実に不意打ちされてしまった。あとでプログラムを良く読めば、「未成年には禁止、動物愛護家にも観ないことをおすすめする」とちゃんと書かれてはいた。もちろんあの時間あの会場にうっかり紛れ込んでしまう子供たちはいないのだが。映画誕生当時から、男性専用の上映プログラム−イタリアでは「黒い夕べ」と呼ばれていた−はあったし、いまインターネットにはポルノ画像・動画があふれているように、あらゆるメディアの発達・普及にはポルノグラフィーをうまく取り込むことが必要ともいわれているし、また映画学だってポルノ映画を無視していいはずはない。ただ、スタッフも観客も朝から晩まで会場でがんばった人たちが「おやすみ!」と互いに一日の労をねぎらうような枠および時間帯で、無邪気に、より露骨な言い方をすれば内輪受けのようなかたちで、上映するのはいかがなものだろうか。もっとナイーヴに、もっと率直に述べることがゆるされるのであれば、『鴨』は本当に気味が悪い作品であった。この気味の悪さを十全に述べることは、今わたしにはできない。それでも言葉を費やすならば、なぜこのポルノ映画が選定され、それを今わたしたちが発見し観る意義はどこにあるのかについての一切の説明を欠いたまま上映した映画祭の企画の気味の悪さでもあり、また観客それぞれの反応は多様であり、そしてストレートであったにも関わらず、上映後はなぜか言葉少なになってしまう気味悪さであり、さらにはこの男女がなぜにこのようなことをカメラの前に披露するにいたったかなどに考えを巡らせる私自身の気味悪さでもあった。当時のポルノ映画の上映形態をなぞるということで、今回、多様なプログラムの中に目立たぬようにポルノ映画を紛れ込ませて上映したのだとすれば、次回はむしろ「ポルデノーネでポルノを」を合言葉に、グリフィス・プロジェクト同様の大規模なポルノ映画特集を組んで、初期映画におけるこのジャンルの生産と受容形態について再検討すべきときであろう。