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ポスト初期映画に溺れる ――オランダ映画博物館(フィルム・アーカイヴ)収蔵作品調査 サイレント映画の見せる夢 ――第21回ポルデノーネ無声映画祭報告

サイレント・フィルムの雷鳴――第20回ポルデノーネ無声映画祭報告

サイレント・フィルムの雷鳴――第20回ポルデノーネ無声映画祭報告

加藤幹郎、大沢浄、藤井仁子、板倉史明、今井隆介


 
年、木の葉が色づきはじめ、茸のおいしい季節になると、わたしは気もそぞろになる。今年もポルデノーネに行く季節がやってきた。ポルデノーネ(現在は隣接街サッチーレ)はヴェネツィア経由で行くしかない、アルプスの雪解け水をたたえた北東イタリアの小さな街だ。街のひとびとはみな明るく親切で、世界中から集まってくるシネフィルのために一週間、美しい街並みを惜しげもなく開放してくれる。そこに行けば、顔なじみの映画学者と再会でき、この一年の近況を報告し合う。小津安二郎論で有名な世界的映画学者デイヴィッド・ボードウェル、シカゴの初期映画学者トム・ガニング、バークリーのグリフィス学者ラッセル・メリット、ロチェスターの日本映画学者ジョアン・バーナディ、ローザンヌのピエール=エマニュエル・ジャック、フライブルクの伴奏者ギュンター・A・ブーフバルト。かれらはみな毎年欠かさず、この酔狂な映画祭にサイレント映画の饗宴に溺れるためにだけ集まってくる。忘れ去られたサイレント映画を見るために、世界中からこれだけのひとびとがこの小さな田舎街に馳せ参じることなど、いったい誰が想像できようか。しかし映画美学の円熟期、一九二〇年代の無声映画があなたに再発見されるのを待っているのだ。一九〇〇年代、映画の文法と語彙がどのように立ち上がったのか、その謎があなたの眼前で開陳されるのだ。映画史の暗部に光をあてるサイレント・フィルムの雷鳴、ポルデノーネ映画祭はそうした光と音楽の饗宴である。 (加藤幹郎)

 
年(二〇〇一年)のポルデノーネ映画祭、最大の目玉は「日本映画特集」で、これは一八九八年から一九三五年の間に製作された四十本以上の日本映画を劇/記録映画あるいは有名/無名の区別なく上映する野心的企画で、世界中の映画研究者/愛好家に新たな映画史的視座を提供した。なかでも『御誂次郎吉格子』(一九三一)で漆黒の闇に無数に蠢く提灯のイメージを現出せしめた伊藤大輔、それを暗黒を切断するオートバイのヘッドライトの光線へと変奏してみせた『警察官』(三三)の内田吐夢、また『子宝騒動』(三五)で一頭の豚の遁走によって隣接空間が次々と脱臼してゆく「どたばた喜劇」の神髄を示す斎藤寅次郎、そして『栄冠涙あり』(三一)でソヴィエト映画の労働者のような逞しいセミ・ヌードを銀幕に刻印するスター=映画作家の鈴木傳明。彼らはポルデノーネ映画祭の観客に少なからぬ衝撃をもたらした。しかしかならずしも明快ではない物語や文化的背景をもち、多くは不完全な保存状態のままのフィルムを(澤登翠氏の活弁が喝采を浴びた『雄呂血』[二五]を除き)、そのまま上映したことは、少なからぬ観客に不満を残し、上映戦略の点で今後に課題を残した。 (大沢浄)

 
のところ本映画祭の呼び物のひとつとなっている企画に「グリフィス・プロジェクト」がある。これは「アメリカ映画の父」D・W・グリフィスの上映可能な全作品を製作日順に上映していくという壮大な企画で、今年はバイオグラフ社時代のグリフィスが一九一一年に監督した一巻物全五二本が上映された。傑作『女の叫び』を含むこの年、クロスカッティングに代表されるグリフィスの映画話法は洗練を極め、『守銭奴の情』に見られるように、風が吹けば桶屋が儲かる式の複雑にして軽快なアクションの機械状連鎖さえ実現している。『最初の呼び声』の中盤では、物語の本筋とはおよそ何の関係もないまま、つまみ食いにふけっていた牧師が、はたせるかなラストに再登場して主人公たちの結婚式を司るに及んでは、これぞアメリカ映画だと喝采せずにはいられない。グリフィスは生前「今日、映画に欠けているもの――それは梢を渡る風の美である」と語ったと伝えられるが、その言葉通り、彼の撮る画面には絶えず風が吹き抜け、あらゆる被写体が一時も静止していない。同時代の傑作と並べてもなお屹立するグリフィスの偉大さを改めて痛感した。 (藤井仁子)

 
アトロ・ルッフォを主会場に行われたアメリカの「レース・ムーヴィー特集」も画期的な企画だった。黒人映画作家のパイオニア、オスカー・ミショーの「黒人劇場専用映画」に加え、おなじみのキング・ヴィダー監督によるオール・ブラック・キャスト・ハリウッド映画『ハレルヤ』(二九)などが上映された。これら三十本ほどの「黒人映画」が前述のグリフィス作品と「並行上映される」ことによって、主流の「アメリカ映画史」を相対化させる挑発的な企画となったのだ。また映画祭には映画の上映以外にもやるべきことがある。そう実感させたのが、未来の映画研究者育成を目的としたコレギウムだ。映画学専攻の学生を中心とするメンバーが映画祭期間中、毎日、議論を重ね、最終的に小冊子としてその成果を発表する。我が国の映画祭においても若手研究者の活発な交流プロジェクトがあってしかるべきであろう。 (板倉史明)

 
うした企画や特集のほかにもネオレアリズモを先取りしたジャン・エプスタンの『大地の果て』(二九)をはじめ多彩な作品が上映された。今年、生誕百年を迎えた映画作家を記念して、水や風の描写が圧倒的な高みに達したジャン・グレミヨンの『マルドーヌ』(二八)、実験アニメーション作家レン・ライの処女作『テュサラバ』(二九)、そしてウォルト・ディズニー関連の記録映画が上映された。またアラン・ドワン監督の『タイタニック』(二七)、マック・セネット社の女性活劇『モリー・オー』(F・R・ジョーンズ監督、二一)、ロン・チェイニー主演の『ペナルティー』(W・ワースリー監督、二〇)といった作品の修復版上映では、修復者が場内の観客に紹介され拍手喝采を浴びた。映画祭最終日にはスロヴェニア国境に近い古都ウディネまで特別に蒸気機関車が仕立てられ、地元のオペラ座で映画祭二〇周年を記念してアベル・ガンスの『ナポレオン』(二七)の最新修復版がオーケストラ生伴奏付で上映された。はたせるかな上映開始から約五時間、伝説の三面同時映写がはじまるや、場内はカメラ撮影の閃光と拍手に満たされ、新たな映画史の幕が切って落とされた。 (今井隆介)

(『キネマ旬報』2002年1月上旬号より転載)