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サイレント・フィルムの雷鳴――第20回ポルデノーネ無声映画祭報告 キャセイ物語、或いは日港合作映画に関する覚書 ――第26回香港国際映画祭報告

第21回ポルデノーネ無声映画祭報告
第21回ポルデノーネ無声映画祭報告

石田美紀 森村麻紀



サイレント映画の見せる夢――第21回ポルデノーネ無声映画祭報告

 

石田美紀

 

 10月半ば、北イタリアの小さな街サチーレはサイレント映画のための幸せなコミューンとなる。たとえそれが一週間だけしか存在しないかりそめの場であったとしても、そこを訪れた人たちはまた来年も同じ季節に戻り街の住人になるのだから、サチーレを中心にしたささやかかつ世界規模の共同体は街の一部として存在し、参加者はその歴史とともに歩むといえるだろう。

 2002年にサチーレにやってきた私も、同じに季節に戻ってきたひとりである。前回、3年前の1999年は、映画祭の上映会場がその名に冠されているポルデノーネからサチーレに移った年であった。3年前には、宿泊したポルデノーネのホテルの前には、旧会場チネマ・ヴェルディ館が取り壊しを目前にして最後の姿をとどめていた。が、今、チネマ・ヴェルディ館はあとかたもなく消滅し、なにもない空間がぽっこりと市街に出現している。同じ場所に同じ季節に戻ってきたのに、時間は淡々と流れ、街の相貌を変えていた。と、無くなってしまったものへの感傷に耽っていてもしかたがない。実際、サチーレではセンチメンタルな気分を味わっているひまもないプログラムが待っていた。毎回参加者にうれしい悲鳴をあげさせ、映画への愛と体力を試すこの映画祭、今年は3年前以上にタイトなスケジュールとなっていた。まず、プログラムを紹介したい。

 

1. 偉大なるニッケルオデオン・ショー

2. ファニー・レイディーズ−女優録

3. イタリア・アヴァンギャルドあるいは無自覚のアヴァンギャルド

4. 1896年から1931年スイス映画、ある発見

5. グリフィス・プロジェクト6 1912年

6. サイレント映画を守ること2

7. ミッチェル&ケニョン2002

8. トランシルヴァニカ ヤーノ・ヤノヴィツの映画

9. ルーチョ・ダンブラ

10. デスメット・コレクション

11. フレームの外

12. おやすみなさい、サイレント映画たち

13. ヴィデオ・ショウ

 

以上、13枠がもうけられ、上映作品すべてが、「一期一会」という言葉が自然に浮かんでくるような貴重な作品であった。さて、わたしが一週間のうちに一期一会で出会った多くのフィルムのなかで、とくに網膜と記憶に刻みついたプログラム、3と9と12について述べて、第21回ポルデノーネ無声映画祭の報告としたい。

 

 イタリア・アヴァンギャルドあるいは無自覚のアヴァンギャルド

 今世紀初頭のイタリアにおけるアヴァンギャルドといえば、なにはさておき、1909年に「未来派宣言」を発表した未来派が思い起こされることだろう。しかし、このプログラムに入れられた1910年代の作品で未来主義者が製作した映画は、アントン・ジュリオ・ブラガーリア監督エンリコ・プランポリーニ美術監督『タイス』(1917)だけである。むしろ、このプログラムが意味するアヴァンギャルドとは、副題に「無自覚の」とも冠されているように、マニフェストなしのアヴァンギャルド、期せずしてイタリアのサイレント映画時代にあらわれたアヴァンギャルドのことである。このプログラムは、未来派と映画・写真の複雑な関係を鋭くついている。意外なことに、わたしたちの予測を裏切って、機械礼讃のマニフェストを連発していた未来派は、映画・写真という複製技術に対して及び腰であった。1914年、未来派の指導者マリネッティは、同年にローマのアルド・モリナーリが監督した『あべこべの世界』(1914)を公式の未来派の活動の成果としては認めなかった。その理由は、マリネッティと、もう一人の未来派の取りまとめ役であった画家・彫刻家ウンベルト・ボッチョーニが、真の創造は生身の芸術家のインスピレーションからのみ生まれるという生気論に縛られていたからである。あらゆる過去との対決姿勢を打ち出していた未来派の指導者たちは、一方で古臭い芸術観から抜けだせていなかった。1916年に「未来派映画宣言」が出され、未来派公式映画『未来派の生活』が製作されるまで、映画は未来派の御墨付きをもらうことができなかったのである。

 このような「マニフェスト付アヴァンギャルド」が新しいメディアのひとつ映画に対して躊躇していたのとは対照的に、イタリア映画最初期から喜劇俳優たちは最新のテクノロジーを無邪気に甘受していた。人気を博していた喜劇俳優たち、レオポルド・フレゴリ、クレティネッティ、クリクリらのフィルムは、未来派がそのマニフェストで謳いあげた機械と運動の美学を、未来主義者以上によく実践している。フレゴリ監督『蛇踊り』(1897)で、フレゴリはみずから女装して魅惑的で優雅な運動を披露しているし、同監督『幕裏で』シリーズ(1898)では、モンタージュによって超現実的なスピードで早変わりをおこなう。また、身体の主であるはずのクレティネッティ本人すら統御の効かない彼の身体運動はロボット的アクロバットと化し、観客の度胆をぬく。そのクレティネッティ監督・主演『なんてハンサム、クレティネッティ!』(1909)では、彼の身体はバラバラに切断され、身体各部はてんでに地を這いずりまわる。そして、注目すべきは、喜劇俳優としての人気が陰ってきた1921年に、クレティネッティが監督した映画史上最初期の長編ロボット映画、その名も『機械人間』である。この映画のクライマックスは、女怪盗とヒーローが操る機械人間同士の文字どおり火花を散らす戦闘である。北のトリノのイタラ社お抱えのスター、クレティネッティの向こうをはった、ローマのチネス社の看板コメディアン、クリクリも負けてはいなかった。クリクリ監督・主演『首無しクリクリ』(1913)では、胴体から切られた首が、自動車や飛行機に乗って自由に放浪する。

 喜劇俳優たちが現実と虚構のはざまで成立する映画の特性を最大限利用し、スクリーンの上で次から次へと見せた身体の弄びと加工、そして機械人間の創造は、未来派の想像力のはるか先をゆくものであった。幾何学模様をモチーフにしたモダンなセットのなかに1910年代に流行したファム・ファタールの妖婦ぶりと破滅を描くデカダンものを律儀に再現しているだけの、「未来派映画」の御墨付きをもらった『タイス』(1917)とは正反対である。

 また、1910年代のイタリア映画の話法における前衛性を証言する作品として、フラッシュバックで物語をすすめてゆくチネス社製作『おばあちゃんのおとぎ話』(1908)、ルイジ・マッジ監督『金婚式』(1911)に加えて、マルセル・ファーブル監督『俗愛』(1914)が秀逸であった。ブレッソンの先駆けともいうべきこのフィルムは、男女の不倫というありふれたプロットを、足先だけで表現する。同時代のアメリカ映画ではフレームの外に追いやられがちな膝下が、手や顔同様物語る力をもっていることを証明してみせる逸品であった。

 

 ルーチョ・ダンブラあるいは奇想の作家

 イタリア・サイレント映画研究の最新かつ最大の収穫といわれているのが、ルーチョ・ダンブラ(1879-1939)のフィルムの発見と修復である。今回は、『妻たちとオレンジ』(1917)、『目覚めたままで見るふたつの夢』(1920)、『ベベ姫』(1921)が上映された。幸運なことに、2001年秋に東京のフィルム・センターで開催された「イタリア映画大回顧」で、『妻たちとオレンジ』そして『大女優チカラ・フォルミカ−デビュー編』(1920)を観ることができたが、そのなんとも牧歌的なリズムと上品かつぶっ飛んだ感性が気になっていたわたしには、このプログラムはうれしい限りであった。

 小説家でもあり、劇作家でもあったダンブラは1916年から1922年の七年間に、原案、脚本、プロデューサー、監督として54本の映画に参加した。カルミネ・ガッローネやアウグスト・ジェニーナのために脚本を書いた後、1917年にサーカスの馬を主人公に据えた『サーカスの馬、エミール』を初監督し、1919年には自分の名前を冠したダンブラ・フィルムを設立した。当時の映画批評は彼の作品をルビッチに比肩すると評価していたし、1937年からはファシスト政権下の映画文化の中心的雑誌『チネマ』でも7年間に渡る映画生活を回顧する連載を、イタリア・アカデミー会員という肩書きでダンブラ本人が執筆するなど、ダンブラはサイレント映画を代表する映画人として著名であった。

 このようにノン・フィルミック・マテリアルはイタリア映画史におけるダンブラの重要さを雄弁に物語っていたが、1990年代初頭まで肝心のフィルムそのものが発見されておらず、ダンブラの映画とはどのようなものか不明であった。とはいうものの、現在においてもわたしたちが観ることのできるダンブラの作品は4本だけであり−彼の監督作品は22本とも23本ともいわれている−、彼の映画のほんの一部だけではあるのだが、それでも発見された4本はイタリア・サイレント映画の新しい側面を知らしめるものである。良く知られたイタリア・サイレント映画のジャンルは、古代ローマ史劇、どたばた喜劇、上流階級もの、ナポリ・メロドラマである。しかしながら、ダンブラの作品はそのどれにもあてはまらない。というよりも、矩形のカメラ・フレームのなかに登場人物をどのように配置し演出するかについては、ダンブラは独自の道をいっていたようだ。『妻たちとオレンジ』、『ベベ姫』、『目覚めたままで見るふたつの夢』のいずれにおいても、主人公の周囲に同じ衣装を着た一群の登場人物が配されている。『妻たちとオレンジ』では、主人公マルチェロをとりまく少女たち、『目覚めたままで見るふたつの夢』では哀れな娘を白昼夢へと誘う紳士のお仲間たち、『ベベ姫』では架空の王国クルランディアのベベ姫の家臣たちが登場する。レビューのコレオグラフィーにも似た動きを見せる彼らの存在は、物語の本当らしさから少々逸脱しており、ビザールな次元を物語世界に導入する。ダンブラがレビュー文化に強く影響を受けていることは明らかだが、彼の作品はレビュー・ショーの缶詰といったプリミティヴなものなどではなく、映画とは現実の断片からなる夢であること、また現実をやすやすと乗り越えてしまう夢であることを語っている。

 『妻たちとオレンジ』は、自動車の運動と少女たちの動きのコンビネーションがすばらしい。主人公が自動車で温泉地に到着する場面では、森のなかの一本道を少女たちが横一列にパラソルをさして向うから歩いてくる。自動車が通るとき少女たちは道の両脇に身をよける。次のショットは「あれは誰かしら」と話し合う少女たちを背後からとらえ、画面を彼女たちのパラソルで充たす。またオープンカーに少女たちが鈴なりになって遠出するシーンがある。自動車がスピードをあげ土煙が舞い上げるとき、少女たちは一斉にパラソルを広げる。はためくスカートと、陽光に透けるパラソルを満載した自動車が走り抜けてゆく。この瞬間、物語世界はジャック=アンリ・ラルティーグの写真にも似た幸福感に満たされ、同じオレンジの片割れをもつふたりは結ばれる運命にあるというお伽ばなしを軽やかに演出している。また、ダンブラは、映画がみせる夢についても非常に自覚的である。タイトルからして『目覚めたままで見るふたつの夢』では、不幸な娘がただひとつの彼女の所有物であるカナリアが入った鳥かごを手に路上で気を失っている間に、タキシードを着た青年紳士達によって連れ去られる。娘が意識を取り戻したときに彼女は豪華な館におり、姫君のような丁重な扱いを受ける。が、その夢の世界は長く続かず、また昏睡させられ再び目覚めたときは元いた場所へと戻っている。いたいけな娘に夢想と絶望の双方を体験させる残酷なこの作品は、女優を夢見る女性主人公が自ら主演の自主製作映画を撮影するが、お披露目の上映ですべてが逆に撮影されていたことを知って大恥をかく『大女優チカラ・フォルミカ』同様、ダンブラが「目覚めたまま見る夢」である映画の魔力を知り尽くしていたことを示している。映画界に入って6年目、映画監督としての円熟期に達したダンブラが1921年に監督した『ベベ姫』の冒頭の挿入字幕は、「映画ではどんなことが起こっても不思議ではないと思いませんか」と、これから始まる作品が、「現実」−あくまでもカッコ付きの現実ではあるが−から乖離していることを高らかに宣言する。その言葉のとおり、ストライプを基調としたセット・デザインとそれが伝染したかのような衣装が、架空の世界の架空の物語に形を与える。ダンブラは映画を「想像力が妙なる奇想と戯れる王国」と語っているが、彼は映像の魔術師と呼ばれたフェリーニと同じ感覚をもった映画作家であるといえるかもしれない。その全貌を知るためにも、また今までわたしたちが知らなかった夢の世界と出会うためにも、さらなるダンブラ作品の発掘が待ちどおしい。

 

 「黒い夕べ」あるいは「おやすみなさい、サイレント映画たち」

 22時30分からの上映が終わると、みなさん今日も一日ごくろうさまとでも言いたげに、この枠が用意されていた。始まる時間は日によって違ったが、おおむね0時を回った頃である。そして上映されたのは、深夜にふさわしいプログラム、エロティックなサイレント映画たち。なかでもハードな作品は、野外で男が鴨と女と交わる一部始終を開陳するフランス映画『鴨』(1925)であった。映画への欲望が秘められたものを観たいという欲望と不可分なのは百も承知である。わたしも一期一会の機会を逃さないようにわざわざイタリアまできているのだから。しかし、上映中会場のあちこちで発作のように起こる男性のかん高い笑い声に、あれは照れ隠しなのだろうかなどと考え出しはじめ、突然ポルノが上映されている会場に自分がいる現実に不意打ちされてしまった。あとでプログラムを良く読めば、「未成年には禁止、動物愛護家にも観ないことをおすすめする」とちゃんと書かれてはいた。もちろんあの時間あの会場にうっかり紛れ込んでしまう子供たちはいないのだが。映画誕生当時から、男性専用の上映プログラム−イタリアでは「黒い夕べ」と呼ばれていた−はあったし、いまインターネットにはポルノ画像・動画があふれているように、あらゆるメディアの発達・普及にはポルノグラフィーをうまく取り込むことが必要ともいわれているし、また映画学だってポルノ映画を無視していいはずはない。ただ、スタッフも観客も朝から晩まで会場でがんばった人たちが「おやすみ!」と互いに一日の労をねぎらうような枠および時間帯で、無邪気に、より露骨な言い方をすれば内輪受けのようなかたちで、上映するのはいかがなものだろうか。もっとナイーヴに、もっと率直に述べることがゆるされるのであれば、『鴨』は本当に気味が悪い作品であった。この気味の悪さを十全に述べることは、今わたしにはできない。それでも言葉を費やすならば、なぜこのポルノ映画が選定され、それを今わたしたちが発見し観る意義はどこにあるのかについての一切の説明を欠いたまま上映した映画祭の企画の気味の悪さでもあり、また観客それぞれの反応は多様であり、そしてストレートであったにも関わらず、上映後はなぜか言葉少なになってしまう気味悪さであり、さらにはこの男女がなぜにこのようなことをカメラの前に披露するにいたったかなどに考えを巡らせる私自身の気味悪さでもあった。当時のポルノ映画の上映形態をなぞるということで、今回、多様なプログラムの中に目立たぬようにポルノ映画を紛れ込ませて上映したのだとすれば、次回はむしろ「ポルデノーネでポルノを」を合言葉に、グリフィス・プロジェクト同様の大規模なポルノ映画特集を組んで、初期映画におけるこのジャンルの生産と受容形態について再検討すべきときであろう。(石田美紀)



サイレント映画に明け暮れて

21回ポルデノーネ無声映画祭報告――エディスン・22ミリ・フィルムとグリフィス・プロジェクトを中心に

                                   森村麻紀

 
初期映画の魅力
 今年(2002年)のポルデノーネ無声映画祭では、1896年に製作された映画から、「トーキー時代」以 降の1934年になっても製作された映画に至るまでの約250本のサイレント映画が上映された。本映画祭の魅力は、貴重な作品を大画面で見ることができること、ほとんどすべての上映に即興生伴奏がついていることにあるのは言うまでもなく、初期映画
(1895
年から1910年代半ばにつくられた映画)(初期映画以降「主流」となる)物語 映画の「話法」を確立していく過程をじかに感じとれることにもある。なぜそれが魅力なのかといえば、後に標準化される物語映画の「話法」に支配されない映画やその「話法」を持ちつつある過渡期の映画を現代の観客と共有するというレアな体験が、 私たちに既存の映画史を再考する機会を与えてくれるからだ。本報告では、今年の映画祭で上映された初期映画をいくつか紹介してその魅力に迫ることにしよう。

観客への呼びかけ
 映画の上映は朝9時半から深夜12時近くまで行われ、一日の終わりに上映されるのは
「グッドナイト、サイレント」特集の中から、というのがお決まりとなっていた。『女性の部屋着』Déshabillé féminin (1902、フランス、パテ製作)はそのひとつであり、深夜のお開きとしてふさわしい作品だった。それは、若い女性が就寝のために部屋着になったあと、ベッドに入って私たち観客に「おやすみ」とでもいうようにろうそくを吹き消すという一分にも満たない映画だが、そこには初期映画に特徴的な観客への直接的な呼びかけ[1]がみられる。映画の登場人物が、当時(1900年前後)のヴォードヴィルでもよくみられたように、観客(=カメラ)に直接挨拶をしたり、視線を投げかけたりする行為は、虚構世界内物語の成立する映画の「話法」ではタブーとされていること(なぜなら登場人物と観客の直接の出会いは虚構世界をたちまちのうちに崩してしまうから)だが、本映画祭で部屋着を着た女性が投げた視線は、まるで私たち観客に対して映画祭の長い一日の労をねぎらってくれるかのようでもあり、当時の観客が不都合を感じることなく楽しんだであろう瞬間を2002年の私たちも共有し、初期映画がヴォードヴィルや幻燈や漫画といった当時の娯楽と連繋していたことを改めて感じた。

タブロー映画
 また初期映画には、『アンクル・トムの小屋』Uncle Tom’s Cabin (1903、エドウィン・S・ポーター)やキリストの受難劇を題材にした映画に代表されるような長編物語を数十枚ほどのタブローで語ってしまうという映画、言い換えれば今日通用するような「物語映画」の「話法」には支配されない映画が多数存在する。本映画祭で上映された『クリスマス・キャロル』Christmas Carol (1910、エディスン社製作)もそのひとつであった。タブローで語る映画に特徴的なのは、その映画の物語がすでに観客にとって周知の物語であり、それぞれのタブロー(映像)に滑らかな連続性がなくても、観客は予備知識によって映画を楽しめることにある。もちろん各タブローの前に挿入される字幕も物語理解の助けにはなるが、それは映画研究者ノエル・バーチがいうようにあくまでも原作を読んでいることを前提として挿入された字幕[2]であり、『クリスマス・キャロル』にもその特徴を確認できた。たとえばスクリーンに亡霊があらわれることは事前の字幕によって説明されており、二重焼き付けされた亡霊の出現は、観客に驚きを与えるというよりは、観客の確認作業の欲望を満たしてくれる役割を担っている。ここまでの報告は、最近の初期映画研究が教えてくれることを本映画祭の体験にあてはめてみただけだが、『クリスマス・キャロル』にはタブロー語りのほかにも、以下の面白い発見があった。
 『クリスマス・キャロル』は、「アウト・オブ・フレイム」特集のひとつとして上映された。この特集はこれまで葬り去られていたフィルムを修復して上映するというもので、『クリスマス・キャロル』も100年近い歳月を経て今年、再びスクリーンに姿をあらわした。『クリスマス・キャロル』はもともとの22ミリ・フィルム(通常は35ミリ)の形態で保存されていたが、それを今年、オランダのハーゲフィルム社がデジタル修復して35ミリで披露してくれた。なぜ『クリスマス・キャロル』のフィルムが通常の35ミリではなくて22ミリだったのかの理由には特許王トマス・エディスンの戦略が隠されている。22ミリ・フィルムは、エディスンの従業員AF・ゴールによって開発されたもので、1912年に非劇場市場である家庭をターゲットに売り出された22ミリ・エディスン・ホーム・キネトスコープ(the 22mm Edison Home Kinetoscope)と呼ばれる映写機専用[3]のフィルムであった。映写機は作成されたが、22ミリ・フィルム専用の撮影キャメラは作成されず、主にエディスンが1910年から1914年の間に劇場配給を目的に製作した250本の35ミリ・フィルムすべてが、家庭上映のために22ミリ・フィルムへと変換、複製された。現存する家庭上映用の22ミリ・フィルムのひとつが、『クリスマス・キャロル』である。

エディソンの戦略を考察する前に、1912年のアメリカを振り返ってみよう。1912年には、一般に1906年から普及したニッケルオデオンと呼ばれる常設映画館の隆盛が終わりを迎えつつあり、翌年の1913年には、ピクチャー・パレス(映画宮殿)と呼ばれる映画館が登場する。ニッケルオデオン劇場はワン・コイン(ニッケル)5セントで映画を楽しめる場所であり主に移民や労働階級の観客を集めた。他方、ニッケルオデオンよりも高い入場料を要求していたピクチャー・パレスは、その名の通り豪華な外観で観客を迎え、冷えた飲料水を配ったり、席まで案内したりといったサービスを提供していた。

エディスン・ホーム・ムーヴィー
 1912年におけるアメリカの映画館の状況は、国内で映画を娯楽と考える中産階級の観客が増えはじめたことを示しており、エディスンがこの状況を察知して中産階級をターゲットに家庭用映写機を製作したと考えても間違いはないだろう。すでにエディスンは、1894年にキネトスコープと呼ばれる個人が覗きこんで映画を見る装置を公式に販売しており、個人で映画を楽しむという考えは常にエディスンの頭の中にあった。1912年の家庭用映写機の製作は、エディソンが彼のアイデアを形にした二度目の挑戦であった。いつでもどこででも個人で映画を見ることを可能にしたエディスンの家庭用映写機は、現在のビデオやDVDデッキにかわるものだ。また家庭用映写機で見るためのフィルムは、エディスンのフィルム貯蔵庫から直接、あるいは手紙で依頼して借りることができたが、このことは現在の私たちがビデオやDVDを借りて見るのと同様である。『クリスマス・キャロル』(現在、多様な『クリスマス・キャロル』が製作されている)が、現在でもクリスマスの時期になると(テレビ放映されることも含め)家庭で見られていることを考えると、当時エディソンが、劇場用に製作された『クリスマス・キャロル』(1910)を、家庭上映を目的に22ミリ・フィルムに変換、複製したことは偶然ではない気がする。
 このエディソンの試みは画期的ではあったが、映写機の扱いが困難だったことや、販売員の実演技術が未熟であったこと、そしてエディスン社が製作した映画しか見ることができなかったなどの理由で失敗に終わった。映画館に足を運ぶ観客がますます増える中で、別の鑑賞方法を考え出していたエディスンの功績は、失敗こそしたものの映画史にとどめてもよいだろう。というのも、エディスンの家庭用映写機が、2002年の現在、ビデオやDVDのみならずインターネット配信などによって好きな時に家で映画を見られる雛形をつくったともいえるからだ。本映画祭で再び命を吹き返した22ミリ・フィルム『クリスマス・キャロル』は、ソフト面(フィルム)のみならずハード面(映写機)について、そして当時や現在の映画を取り巻く環境(映画館と観客)について考える機会を与えてくれた。

グリフィス・プロジェクト
 最後に、本映画祭ではすでにおなじみの「グリフィス・プロジェクト」(デイヴィッド・ウォーク・グリフィスが製作した現存する映画作品を撮影日順に上映する企画)について簡単に報告しておこう。今年で6回目を迎えた「グリフィス・プロジェクト」では、1912年に製作された短篇映画55本が上映された。 1912年は、グリフィスのキャリアにおける最初の「ゴールデン・イヤー」と評されるだけあってどの作品にもグリフィスの実力が発揮されており、物語に劇的な効果をもたらすグリフィスの映画「話法」が随所にみられた。たとえば同じグリフィスによる『飲んだくれの改心』The Drunkard's Reformation (1908)を想起させる『野蛮』Brutality (1912)における客観ショットと主観(視点/POV)ショットを交互に繋げる編集もそのひとつだろう[4]。こうした編集の「話法」以外に、物語を劇的に演出するものとしてロケーション撮影されたショットがある。1910年にグリフィスの所属するバイオグラフ社が西海岸へ遠征した結果、グリフィスはニューヨークを拠点にするバイオグラフ社の製作班をロサンジェルス地域に率い、冬から4月中旬までは西海岸にて撮影を行うようになった。そして1913年には1年のうちの7ヵ月を西海岸で滞在するに至った。1912年の2 15日に海辺で撮影された『網の修繕者』The Mender of Netsや続けて222 日に砂漠で撮影された『燃える空の下で』Under Burning Skiesにおける西海岸の豊かな自然を背景にしたショットは、登場人物の心情をあらわす隠喩的表現の水準に達している。

ヒロインが海辺で魚網を繕うショットではじまる『網の修繕者』は、ヒロイン、ヒロインに求婚する男性(トム)、そして男性のかつての恋人(グレイス)との三画関係を描いたメロドラマである。導入部のショットで魚網を繕うヒロインのもとには、修繕が必要な沢山の魚網を持ってくる父親があらわれ、彼女は黙々と同じ作業を繰り返すのみである。導入部のショットはすべてミディアム・ロング・ショットで撮られ、ヒロインの表情や仕草が判別でき、彼女の物憂い表情から、彼女には、特にこれと言った楽しみもなくただ魚網を繕う日々を過ごしていることが見てとれる。また魚網を繕うヒロインの背景には、静かにそして単調に波打つだけの海が広がっており、その背景は彼女の表情やうつむき加減で魚網を繕う姿勢と呼応している。導入部のショットのあと、彼女の単調な生活を一変させるような男性(トム)が、彼女の前に求婚するために出現するが、それは幸福な兆しではなく、三角関係の始まりであった。導入部の海辺のショットは、嵐の前の静けさをもあらわしていたのだ。やがてヒロインは、求婚した男性(トム)が別の男性と銃を持って互いに争っているのを目撃し、仲裁に入る。その結果、男性(トム)が争っている相手はかつての恋人(グレイス)の兄であることに気づき、その争いは自らの恋のために生じたことを悟る。そのあとヒロインが、男性(トム)と彼のかつての恋人(グレイス)のために身を引くことによって三角関係は解消される。そしてスクリーンには再びヒロインが海辺を背景に魚網を繕うショットがうつしだされる。この最終場面のショットは、以前と同様の単調な日々が続くことを示している。加えて、海辺のショットが醸しだす湿気は彼女の悲しみの涙であり、涙の湿り気がスクリーン全体に漂いながらメロドラマは終了する。『網の修繕者』はカリフォルニアの海が、ヒロインの心情をあらわすグリフィス作品の一例である。

海辺と同様に砂漠もまたカリフォルニア地域に遍在する光景であるが、涙を想起させる湿気の漂う海とは相反する水の枯れた砂漠も、グリフィス作品では登場人物の悲しみを隠喩的に表現する背景である。たとえばヒーロー(ジョー)、彼のかつての恋人(エミリー)、そしてその女性の結婚相手の三角関係を描いた『燃える空の下で』では、砂漠と枯渇がかつての恋人(エミリー)と彼女の結婚相手のために身を引いたヒーローの心情と重ねられている。ヒーローは、かつての恋人(エミリー)の夫となった男性に復讐することを誓い、新たな生活の場を目指して砂漠を移動する新婚夫婦を追う。他方、まるでヒーローの復讐心が太陽の熱に化してしまったような灼熱の砂漠を移動中の新婚夫婦は、飲料水をラバの背から落とし、命の糧である水を失ってしまう。やがて妻(エミリー)は気絶し、夫は水を得るために素手で砂地を掘り起こそうとするが、そこには枯れた砂漠と太陽しかない。新婚夫婦の未来が途切れてしまうかのようにみえたそのとき、白馬に乗ったヒーローが登場し、復讐を誓ったはずの彼が、新婚夫婦に水を与え、かつ自ら乗ってきた馬を彼らに残し去る。これはヒーローの助けによって新婚夫婦の未来は途切れずに続くことを示す最終場面であり、また水も馬も手放したヒーローの未来が、先ほどまでの新婚夫婦の未来と入れかわってしまったことを示す最終場面でもある。かつてヒーローの心に潤いを与えていた恋人(エミリー)をも手放した彼の心情は、なるほど彼の背景に広がる枯渇した砂漠同様、渇いた虚しさと悲しみに満ちている。しかしヒーローの与えた水が砂漠で枯れた新婚夫婦の喉を湿らせたように、ヒーローの行動と彼の虚しく悲しい心情を代弁する砂漠の背景によって、観客の心は動かされ、潤いの涙で満たされるのである。

前述した両作品の『網の修繕者』と『燃える空の下で』の撮影がわずか一週間しか開いていないことや、1912年に55本(かそれ以上)の映画が製作されたことを鑑みて、撮影日順ごとにグリフィスの映画を見ると、グリフィスが週単位で撮影を敢行し、連続して撮影される作品の題材が似ていることは誰の眼にも明らかだろう。そしてグリフィスが「アメリカ映画の父」と呼ばれる理由は、似た題材を扱いながらも物語を展開させる登場人物の心情をその豊かな「話法」で表現したことにあることも実感できるだろう。しかしグリフィスが劇的な物語展開のためにうみだした「話法」のすべてが、その後の物語映画とぴったり合うわけではない。たとえば胸の近くで手を小刻みに激しく震わせ、ときに大きく頭をうなだれて恐怖や悲しみを表現する女性の大きな身振りは、物語ることに従事してはいるが、後の物語映画よりも初期映画に特徴的な身振りである。「グリフィス・プロジェクト」の魅力は初期映画に特徴的な「話法」と後の物語映画で使用されるようになる「話法」の混在を同じ一本の映画の中に見いだせることにもあるだろう。そしてそれは、そのままポルデノーネ無声映画祭全体の魅力にも通じる。なぜなら、映画祭で上映されるそれぞれの初期映画を含むサイレント映画を水平的(同時代的)かつ垂直的(時系列順)に体験することによって、映画「話法」の生成とその受容の過程を感じ取れるからだ。(森村麻紀)







[1]  初期映画における登場人物の直接的な呼びかけについては、初期映画研究者トム ・ガニングが随所で分析しており、たとえばTom Gunning, “The Cinema of Attractions: Early Film, its Spectator and the Avant-Garde,” Early Cinema: Space-Frame-Narrative, ed. Thomas Elsaesser (London: British Film Institute, 1990), pp. 56-62. Gunning, “‘Now You See It, Now You Don’t’: The Temporality of the Cinema of Attractions,” Silent Film, ed. Richard Abel (New Brunswick: Rutgers University Press, 1996), pp. 71-84などがある。

[2]  ノエル・バーチ「ポーター、あるいは曖昧さ」宮本高春訳『「新」映画理論集成 @歴史/人種/ジェンダー』岩本憲児他編(フィルムアート社、1998年)9092

[3]  22ミリ・フィルムや22ミリ・エディスン・ホーム・キネトスコープの詳細は、本映画祭のサイト (http://www.cinetecadelfriuli.org/gcm/edizione2002/FuoriQuadro.html)を参照されたい。

[4]  ガニングは『飲んだくれの改心』における客観ショットと主観ショットの編集が物語に与える効果を分析している(Gunning, D. W. Griffith and the Origins of American Narrative Film: the Early Years at Biograph [Chicago: University of Illinois Press, 1994], pp.164-172) 。同様の手法を採用する『野蛮』にも以下のような効果が見られる。『オリヴァ・ツイスト』の演劇を見るアルコール中毒の男(客観ショット) と演劇の舞台(主観ショット)が交互にうつしだされ、男の表情(客観ショット)は、劇(主観ショット)が進行するにつれて、凶暴なものから哀しみの表情に変化し、最後は男が酒を飲むのをやめることを誓い、妻や赤ん坊と幸せに暮らすというハッピー・エンディングで映画は幕を閉じる。客観ショットと主観ショットを交互に繋ぐ編集は、劇中劇(映画中劇)の『オリヴァ・ツイスト』が男の心理に影響を及ぼし、家族を和解へと導く過程を効果的に演出している。