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第四回

第四回
痛切な青春群像――豊田利晃『青い春』

加藤幹郎

 扉と金網でしきられた男子高校は鼠の飼育箱のように見える。屋上の見晴らしの良さにもかかわらず、学校はやはり徹頭徹尾閉ざされている。不良少年たちは気がむいたとき、いつでもどこでも自由に出入りすることができる。にもかかわらず男子高校がどうしようもなく閉ざされているところに、この映画の最大の魅力がある。
 
校という名の息のつまる閉域で、想像力は気の抜けたダンスと化し、暴力の激発は日常の仮面をかぶっている。男子高校の屋上では眺望と蒙昧が肘をつきあわせ、少年たちは飼育箱の外にすら開かれた空間を描けずにいる。しかし屋上に相反するものが共存する以上、閉域の鬱屈はスタイリッシュな映像とのびやかなキャメラワークでとらえられる。 
 
年たちが学校の階段を昇り降りするリズム。校庭を駆け抜けるシンコペーション。トイレでの休止符。音楽のような演出と編集によって画面は軽快な律動を刻む。しかしその一方で『青い春』の少年たちは、フェリーニの『青春群像』(一九五三)のように陰鬱で、井筒和幸の『ガキ帝国』(一九八一)のように蒙昧で、相米慎二の『台風クラブ』(一九八五)のように不安気である。
 
ロースアップを極力排した青春群像でありながら、ひとりひとりの少年の表情が生き生きとしている。それは少年たちがとらわれているはずのもうひとつの閉域たる家庭と両親の生態がきれいに払拭されているせいである。『青い春』のキャメラ(笠松則通)は学校という閉域から一歩も外に出ることなく静かな狂気を見つめる。それはまた古厩智之の『まぶだち』(二〇〇〇)の欠点を克服するということでもある。
 
『まぶだち』の男子中学生の不安定な精神生活は少年と教師/両親の一面的交流に帰されていた。そこでは、おとなたちは滑稽なほど(たしかに、おとなというものは制度保守者としてしばしば滑稽な存在に堕すものだが)一面的で、およそ反省というものを知らないグロテスクな道化として描かれる。そうしたおとなたちとの一面的コミュニケーションにおいて、こどもたちは外部を想像するというもっとも重要な能力を奪われる。そこでは自殺という偽りの外部が導入されるしかない。
 
『青い春』においても高校生たちは自殺に等しい生を生きている。しかし彼らは不良であるぶんだけオルタナティヴな選択肢に、より敏感である。不良の多くが不良仲間の顔色をうかがい、不良仲間の約束事に拘泥するなか、『青い春』の主人公(松田龍平)は学校からも不良仲間からも、より自由な存在たろうとしている。外部への想像力はひとり主人公のなかで醸成されている。しかし不良であれ良であれ、人間というものが内部(環境や共同体)への適応の手応えにおいてしか安心立命を得られない存在である以上、仲間を失いつつあることに気づいた不良少年の喪失感は人一倍大きい。
 
するに『青い春』は良質の青春群像であるのみならず、孤独と交流についての痛切な人間寓話なのである。監督の豊田利晃は今後、既存の映像スタイルからどれだけ距離をおくようになるかが楽しみな映画作家である。

上映は七月二七日より梅田ガーデンシネマ、京都朝日シネマ、シネ・リーブル神戸で。
(『産経新聞』2002年7月24日号より転載)