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映画は思考する
豊田利晃『青い春』
ドライヴ・イン・シアターと地域共同体 

第五回

第五回
静謐な映画、人生に必要な「フィクション」
――ピーター・フォンダ『さすらいのカウボーイ』 

加藤幹郎

 『さすらいのカウボーイ』は静謐な映画である。これは虫の音、小川のせせらぎ、そしてポーチの上でロッキング・チェアを揺らす音が聞こえる西部劇である。銃声が響かないわけではないが、かつて西部劇がホース・オペラと呼ばれていた時分に支配的だったヒロイズムはすっかり鳴りをひそめている。つまり西部開拓の治安維持のために銃撃戦が起こるわけでもなければ、先住民(インディアン)を駆逐したことを正当化するために血が流されるわけでもないのだ。
 
『さすらいのカウボーイ』を演出し、主演もしているピーター・フォンダは日本の市川崑の映画を参考にしたと言っている。事実その通りだろう。市川崑の時代劇の視覚的文体と世界観が、たしかにこの西部劇にも影響をあたえている。実際これは時代劇として撮られてもよかっただろうし、逆にまた現代劇として撮られてもよかったかもしれない。そこにあるのは友情か愛情か、放浪か定住か、自己か他者かという、いつの時代でも問題になりうる倫理的選択だからである。
 
『さすらいのカウボーイ』が静謐であるのは、そのみごとなキャメラワークと編集のためでもある。ハンガリー動乱時に米国へ亡命し、その後ハリウッド映画史を支えることになる名キャメラマン、ヴィルモス・ジグモンドのこれは事実上最初の代表作である。アメリカ映画史と同じくらい長い歴史をもつ西部劇がかくも美しい画面を獲得した例は、本作をのぞけば他に二、三本あるばかりである。けだし光の彫刻とも言うべき、みごとな撮影と編集である。
 
はわたしはこの映画を見るのは二度目である。一度目は三〇年前、この映画の初公開時。そして今回、修復作業を終えて三〇年ぶりの世界再公開時。その間この映画はテレビ放映もほとんどされず、ビデオでも入手困難であったがゆえに、この三〇年という歳月はこの映画を二度目に経験することになる少なからぬ人間にとって感慨深いものとなる。三〇年前、この映画を見た中三だか高一だかのわたしは、この映画を非常に良い映画だと思った。そしてそれは三〇年後の今日も変わらない。この三〇年の間に、わたしは世界の歴史を知り、世界の細部を知った。しかしあの頃解決できなかったもっとも重要な問題を、わたしは今もって解決できないままではなかろうか。
 
『さすらいのカウボーイ』は九〇分という古典的ハリウッド映画の枠組みのなかに人生を圧縮する。冒険を捜しての放浪と安寧を求めての帰郷、人間の生(性)と死、誰もが経験する普遍的事象がそこに描かれる。しかしその圧縮ゆえに、これもまたフィクションたることをまぬがれない。大切な者のために一命をなげうつことも厭わない、そうしたヒロイズムが実はこのアンチ・ウェスタンにもある。しかしひとは上映時間が三〇年かかかる映画を見ることはできないのだから、人生にはたしかにそうした美しき「フィクション」も必要なのだろう。
 
『さすらいのカウボーイ』のような古典的名作が今後少なくともDVDの形でいつでもアクセス可能になるであろうことは喜ばしいかぎりである。映画史上もっとも美しい映画のひとつが三〇年間アクセス困難であったという文化的蛮行を人類はついに克服するときがきたのだから。

(『産経新聞』2002年8月28日号より転載)