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第十一回

第十一回
擬似人格/映像/「美少女」

加藤幹郎

 間はコミカルな存在ではなく、コミックそのものである。文豪シェイクスピアが今生きていたら、かかる警句のひとつも発したにちがいない。新聞各紙がクローン人間の誕生を報道するなか、早晩、クローン人権問題はハリウッド映画『ブレードランナー』同様の悲劇を産むにちがいない。
 
日、人間は一連の遺伝子記号レベルでその出生を管理され、オリジナルとコピーの区分は曖昧になり、多様な電子メディア(インターネット/携帯電話等)の遠隔媒介能力の向上によって、人間同士の生身の触れ合いは減少する一方である。今日、人間の意思や感情はもっぱら電子的/遺伝子的記号に媒介されることでしか他者に伝わらない。だとすれば、人間はそのもっとも大切なもの(かつて魂と呼ばれていた揺るぎない自己同一性の透明な拠り所)を失い、もはや肉体を欠いた漫画の二次元的キャラクター同然ではないのか。
 
かる感慨を抱かせる辛辣なグループ展がいまSFMoMA(サンフランシスコ近代美術館)で開催中である。展覧会の名称は「ノー・ゴースト・ジャスト・ア・シェル」。意訳すれば「魂なき抜け殻」、要するに「腑抜け」である。世界的にヒットしたジャパニメーション『攻殻機動隊』の英語題名「ゴースト・イン・ザ・シェル(殻の中の魂)」に言及したこの展覧会は、たしかに士郎正宗の原作漫画の世界観に影響を受けている。
 
カルト的心身二元論が保証していた確固たる自己同一性が失われて久しいが、この展覧会は、フランスの「芸術家」が日本のアニメ企業から「美少女」キャラクターの版権を四万円ほどで購入し(安い買物だろう)、アニメ世界で被搾取的な商業的人生をまっとうするしかなかったヒロインにアンリーという新しい名前と第二の「芸術的」人生をあたえようというコンセプトにもとづいている。
 
かしながらカタログ上の無機的な分類記号で売買された彼女が、たとえアニメ映画(ロウ・カルチュア)ではなく画廊や美術館のような文化的に認知された一段高い舞台(ハイ・カルチュア)で第二の人生を歩みはじめられるとしても、彼女が人間たちに(漫画家や芸術家の区別なく)徹底搾取される映像存在であることに変わりはない。そもそも今日、漫画家と芸術家、商業と芸術を区別するいかなる客観的基準もない。一方に荒木飛呂彦(『ジョジョの奇妙な冒険』)のようにノーベル文学賞クラスの傑出した漫画家もいれば、他方にアート・スクールで受けた教育通りの作品しか産み出せない有象無象の「芸術家」たちもまた存在するのである。
 
回のプロジェクトにおいてアンリーは花火やネオン管といった現代芸術でおなじみの儚げな光の媒体に還元され、あるいはアメリカ人の大好きなエンドウ豆頭の三角釣り目型宇宙人のCGアニメ姿へと変容され、およそ彼女にふさわしかるべき独創的な「第二の芸術的人生」を踏み出すにはいたっていない。とはいえ、フランスの「芸術家」たちを中心としたこのグループ展が指し示すものは、変容してやまないアンリーの奴隷的映像存在などではなく、実は「画像送信機能付き携帯電話」や「プリクラ(合成写真シール)」やインターネット上の「仮装人格」といった擬似映像人格媒体を通してしかコミュニケーションをはかろうとしない現代人のコミカルな姿そのものではあるまいか。

(『産経新聞』2003年2月26日号より転載)