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映画は思考する
擬似人格/映像/「美少女」
蔡明亮『ふたつの時、ふたりの時間』 

第十二回

第十二回
都市の表象

加藤幹郎

 ンフランシスコに滞在して五か月近くになるが、今もってケーブルカーに乗るのがおもしろい。海を見おろす丘陵の上のアパートを出ると、すぐ眼の前がケーブルカー乗り場である。起伏の激しいハイド通りを行き来するこの歴史的交通機関は、雨ともなるとスリップして立往生する。市内を碁盤目状に走る道路は、自然の造型を無視してどんなに勾配のきついところでもまっすぐに引かれているからだ。大学へ行くとき、美術館へ行くとき、ケーブルカーを利用する。この控え目なジェットコースターに乗っていると、イーストレーク様式の典雅な個人住宅もトランスアメリカ・ピラミッドに代表される超近代的な高層ビルも、すべてシュルレアリスムの造型へと変貌する。
 
九六〇年代にケーキやアイスクリームなどの日常的題材を色彩と形態の妙において追求配合していたポップ・アーティスト、ウェイン・ティーボーは、七〇年代になると、サンフランシスコの実在の風景(交差点周辺の都市の光景)をもとに奇妙な油彩画を製作しはじめる。そこでは屹立する高層ビルも急勾配の自動車道もともに同じ長方形の面として画布をしめている。つまり本来は垂直的なビルと水平的な道路とが、同じような表情でキャンバスに描かれるのだ。そこでは、もしどこまでも続く道路が水平的産物だとするなら高層ビルもまた水平であろうし、もし雲をつく摩天楼が垂直的産物だというのなら道路もまた垂直であろうという不可思議な街の光景が現出する。抽象表現主義を経由したかのようなティーボーの具象画は、あくまでもサンフランシスコの実在の街角を題材にしている。そこに古典的透視画法に対する軽やかな訣別の挨拶がこめられていようとも、ことほどさように、この街の坂道の勾配はきついのである。
 
合映画館とアイマックス・シアターとゲームセンターを兼ねるソニー出資の総合娯楽施設メトレオンは、ケーブルカー始発駅に程近いサンフランシスコ中心部の再開発地区にある。そのゲームセンターでわたしはある興味深いコンピュータ・ゲームを体験した。その一角はボーリング場を思わせるレイアウトになっており、ボーリング場のボールと同じサイズのボール状コントローラーを両手で撫で回すようにして球の方角と速度を決めつつ、眼前のレーン幅の縦長投影スクリーンに眼をこらすと、自分の操作する巨大ボールがサンフランシスコの街中をころがり回るという趣向である。想像してみても頂きたい。長雨の日はケーブルカーがスリップして動かなくなる、摩天楼と見まがわんばかりのサンフランシスコの急峻な坂道を、対向車やケーブルカーをよけながら、この巨大ボールは登らなければならないのである。一ゲーム終えたとき、汗だくになりながら、対向車をボ−リングのピンのようになぎ倒す暴力的な快楽とはまた別の、ケーブルカーのステップ乗車(車外のステップに立ったまま掴まり乗車すること)に似た快楽を感じていた。
 
市は絵画、小説、映画、コンピュータ・ゲームと次々と媒体を乗り換えながら表象されつづけている。サンフランシスコに住むということは、この街が多様なメディアによって表象されているということを否応なく意識させられるということである。

(『産経新聞』2003年3月26日号より転載)