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合衆国議会図書館および公文書館所蔵

合衆国議会図書館および公文書館所蔵
の接収日本映画の調査・同定研究

             

宮本陽一郎


調査の目的
 本調査では、アメリカ合衆国議会図書館(The Library of Congress)ならびにアメリカ合衆国公文書館(National Archives)所蔵の日本映画について、同定調査を行った。両館に保存されているのは、主に第2次世界大戦後にアメリカ軍が接収したフィルムである。
 議会図書館所蔵の接収フィルムの大部分は1967年12月に永久貸与のかたちで国立近代美術館に返還されているが、別表にあるとおり国立近代美術館フィルムセンターの所蔵作品と対応しない作品が含まれており、これらは現在日本国内に存在しない可能性が残される。公文書館所蔵の接収フィルムについては、返還されたという記録はなく、かなりの数の現在国内に存在しない作品が含まれていると考えられる。
 今回の調査の目的は、国内に存在しないフィルムの発掘同定作業であると同時に、アメリカ合衆国の占領軍による日本映画の接収の経緯とその目的を、両館所蔵の文書資料も合わせて調査することにより解明することにある。

議会図書館所蔵作品の保管・閲覧体制
 議会図書館モーション・ピクチャー部門が現在保管している接収映画は、劇映画及びニュース映画である。ともにカード・カタログが作成されているが、劇映画に関しても情報は必ずしも正確ではなく、タイトルや製作年の表記について、映画研究家デイヴィッド・ボードウェル氏への照会に基づき、手書きの修正が頻繁に施されている。ニュース映画に関しては、情報はきわめて少なく、未調査未整理に近い状況である。
 フィルムが図書館から離れた倉庫に保管されているため、閲覧には2週間程度の予約が必要であるが、閲覧制限はまったくない。

公文書館所蔵作品の保管・閲覧体制
 公文書館所蔵の接収映画は、メリーランド州カレッジ・パークのアーカイヴ2のMotion Picture, Sound, and Video Branch (NWDNM)に保管されている。議会図書館が劇映画を中心に保管しているのに対し、公文書館はプロパガンダ映画・ドキュメンタリー映画を保管している。ニュース映画は両館ともに多数保管しており、これがどのような基準に基づいて両館に振り分けられたかは明らかではない。
 公文書館の所蔵作品の一部(138本)は公文書館のデータベース(NAIL)によって検索可能である。しかしこれはごく一部に過ぎず、NWDNMには所蔵接収映画のタイトル・リストがプリントアウトのかたちで用意されている。調査はこれに基づいて行った。
 ごく一部に関するものであるとはいえ、NAILの記載は奇妙なかたちで充実している。記載に一貫性はなく、例えば『あの旗を撃て』のような長編ついてはリールごとのプロットが要約されている。それに対して短編映画に関しては、"Shot List" が付されている。いずれの場合も、映画の製作スタッフについての記述はまったくない。"Subject List" の項には、映画の内容についての詳細なキーワードが入れられている。明らかに分類調査を行ったのは映画研究家ではなく政府の情報調査機関とみられる。
 閲覧に制限はなく、請求後約一時間でプリントが閲覧ブースに届けられる。

映像資料の調査の範囲と方法
 議会図書館においては、カード・カタログは劇映画とニュース映画に二分されており、このうち劇映画に関してすべてのタイトルを記録し、邦題、製作年、製作会社、演出者、国内所在の有無を帰国後に調査した。公文書館の所蔵作品については、カタログに "News Reel" と巻号しか記されていないものを除き、それ以外の作品について、タイトルをすべて記録し、帰国後に邦題、製作会社を同定した。同定作業は、すべて筑波大学大学院生の鷲谷花氏によるものである。記して感謝したい。この作業の結果を、別表1・2として添付する。

文献資料の調査について
 以上のようなフィルムの発掘同定作業と並行して、占領軍の日本映画接収をめぐる経緯について、文献資料の調査を行った。
 議会図書館では、戦時中の日本映画および日本映画研究の実態にかかわる原資料と、接収に関する先行研究を収集することができた。
 公文書館アーカイヴ2には、戦時中に日本映画・日本文化に関する研究調査の中枢であったと考えられるOSS(戦略事務局)の資料が残されている。これは未整理未調査に近い状態にある。資料の部分的なカタログがさまざまな形で作成されているが、このカタログだけで、床から天井までの大型の書架二基におよぶ。従ってOSS全体に関して直接検索を行うことは不可能であり、こうした雑多なカタログを手がかりとして、資料を探し出さなければならない。OSS関係資料は、後述のように接収作品および占領政策を研究するうえでは、欠かすことのできないものではあるが、しかしその全体像が解明されるには、今後かなりの年月を要するものと考えられる。
 合衆国におけるOSSについての研究は意外なほどに進んでいない。CIAの前身であるこの機関についての研究は、ある種のタブーになっている考えざるをえない状況がある。合衆国における日本研究について関心をもつわが国の研究者は、OSSについての研究で、今後先端的な役割を果たしていく可能性は強い。

日本映画接収をめぐる諸問題
 占領軍による日本映画の接収の経緯についての、最も信頼性の高い研究は、平野共余子氏の『天皇と接吻 ---- アメリカ占領下の日本映画検閲』の第一章に見られる。同書によれば、1945年10月に占領軍のCIE(民間情報教育局)と日本の映画公社の手で227本の禁止映画リストが作成され、そして以下のようなかたちで接収が行われている。

禁止リストにあがった映画のネガとプリントが内務省に集められたあと、描く映画のネガ一本とプリント四本がまず総司令部に送られ、その後ワシントンの議会図書館に移された。くわえて、ネガとプリント各一本がCCDに六ヶ月保存され分析の対象になった。それ以外のネガとプリントはすべて米第八軍の手により、一九四六年四月二十三日、五月二日、五月四日に東京多摩川べりの旧読売飛行場で消却された。(平野 66頁)

今回の調査で確認された議会図書館所蔵の劇映画は227本であり、うえの記述と完全に符合する。またそこに挙げられている作品には、一定の選択基準を読み取ることは難しく、平野氏の「コンデは、おそらく大急ぎでリストを作成した日本側が総司令部にあとで文句を言われないように疑わしい作品はすべてリストに入れてしまった<自己検閲>の結果である」(66頁)という記述も一応頷けるものである。
 しかし、すでに述べたように、劇映画227本は、議会図書館と公文書館の所蔵する接収フィルムの一部でしかない。ニュース映画、ドキュメンタリー映画、プロパガンダ映画に関しては、CIEと映画公社による「禁止リスト」とは別の経緯で接収されたと考えるべきである。また議会図書館所蔵の接収作品に Die Leuchte Asiansのようなドイツ映画が含まれるのは不可解であり、リストが映画公社の過剰な「自主検閲」のみによって決定されたかどうかは、疑問の余地があり、合衆国側の他の部局から接収作品についての指示があった可能性も否定することができない。
 占領軍による日本映画接収の全体像を理解するためには、占領軍の映画検閲体制の予備段階、あるいは思想統制の一環として接収作業を位置づけるだけでは不十分であり、それ以外のいくつかの目的を持った多元的な作業として分析していく必要がある。

日本映画接収の多元性
 公文書館所蔵の接収日本映画(Captured Japanese Films)について、データベースNAILで検索すると、"creating org." という項目があり、これは公文書館に移管される前にフィルムを所轄した組織名を示すものと考えられる。ここには連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)、国防省(Department of Defense)、通信隊(Signal Corps)、OSS、枢軸国戦犯告発会議(U.S. Counsel for Prosecution of Axis Criminality)、陸軍情報局(U.S. Army, Military Intelligence Division)、合衆国情報局(U.S. Information Agency)、合衆国空軍(U.S. Air Force)、合衆国海軍(U.S. Navy)の名が挙がっている。このうち陸海空軍の表記されているものは、戦時中の諜報活動の一環として収集されたフィルムと考えられ、狭義の「接収」とは切り離して考えるのが妥当である。しかしその他の組織については、大戦後の接収活動をそれぞれに担った組織として捉えられるべきである。枢軸国戦犯告発会議の名が見られることは、日本映画の接収が戦犯の告発のための資料という意味合いも持っていたことを示唆する。
 同時にこうした接収母体の多元性は、接収活動が戦後の占領政策の出発点であるだけでなく、戦時の諜報活動の帰結でもあるということを物語る。後者の視点を欠いた場合、接収作品リストは単なる手当たり次第のリストでしかなくなる。またそれ以上に重要な作業は、接収作品という結節点を通じて、戦時の諜報活動と戦後の占領政策のあいだの連続性を解明することである。これは冷戦時代における、いわば植民地主義以降の合衆国による文化支配のかたちを論じるうえで、避けて通ることのできない課題といえるだろう。

大戦期における日本映画研究
 大戦期に日本映画研究を行ってきたことが知られる組織は、CIAの前身であるOSSの調査分析部(Office of Strategic Service, Research and Analysis Branch)とOWIの海外諜報局(Office of War Information, Bureau of Overseas Intelligence)である。とりわけ後者の下部組織であるFMAD(Foreign Morale Analysis Division)は、ルース・ベネディクトを含む30人の第一線の社会科学者によって、1944年に組織されたことで知られる。
 しかしFMADの日本映画研究にはるかに先行して、OSSの日本映画研究は真珠湾直後から着手されている。ピーター・T・スズキの詳細な研究によれば、ベネディクトらの研究はその分析用語など多くの点で、OSSの研究に負っている。とりわけ人類学ジョフリー・ゴアラー(Geoffrey Gorer)が提出した二つのレポート "Japanese Character Structure and Propaganda"(1942)および "Propaganda in Japanese Movies, and Counter-propaganda Suggestions"(1943) は、戦後のベネディクトらの日本研究の基盤をなすものとして、スズキは位置づけている(Suzuki 373)。またこうした報告書は、戦時中の合衆国におけるプロパガンダ研究が、狭義のプロパガンダの分析からすでに大きく離れて、実質的には包括的な文化研究に近い範囲まで拡大されていたこと、そして人類学者がその中枢を担っていたことを伺わせる。
 OSSの報告書1307号 Japanese Films: A Phase of Psychological Warfare (1944) は、OSSの日本映画研究の集大成といえるものである。 "An Analysis of the themes, psychological content, technical quality, and propaganda value of twenty recent Japanese films" と表紙に記されたこのシングル・スペースで22頁の機密文書は、1938年から1941年に製作された20本の日本映画を分析している。分析対象となった20本は「新聞記事により、現在も日本およびその占領地域で上映されている」作品で、「戦争、対外関係、大東亜共栄圏、 国家および家族体制」といった主題を等しい割合でカバーするように入念に選択された同報告書は述べている("Japanese films" 1)。この記述から伺い知ることができるのは、OSSは日本および占領地域において上映された映画について、総体的な分析を行っていたこと、そして真珠湾以降の映画も何らかのかたちで収集していたということである。収集方法そのものについての記述は見られないが、米軍の占領地域での接収が当然考えられる。また同報告書の「梗概」と題された頁に南米の日系人についての言及があることから、南米の日系社会もこうした映画の収集源であったと考えられる。
 いずれにせよ日本映画の収集作業は、OSSを中心として第2次世界大戦のごく早い時期からきわめて広範囲に展開されており、しかもそれが戦後の日本研究を先取りする高度な頭脳集団の包括的な文化研究と結びついていたことは注目に値する。
 ゴアラーが日本映画の分析に着手した1942 年から43年にかけて、OWIの海外諜報局では劇作家ロバート・シャーウッドと詩人アーキボルド・マクリーシュを含むスタッフが、日本の教育システムの詳細な分析を行い、占領後の教育改革について提言を行っており、いっぽうOSSでは日独の占領のためのハンドブックの、教育に関する章が執筆されている(Mayo 26-27)。OSSとOWIの諜報活動は、すでに占領政策をこの段階で射程に入れていたのである。

戦争記録画の接収
 日本映画接収の実態を解明するためには、その他ジャンルにおいて展開された接収作業を視野に入れてみることも、有益であろう。河田明久氏の詳細な研究によれば、戦時中の日本の戦争記録画の接収は、1945年11月8日に始まる(河田 4)。1946年1月にメトロポリタン美術館で開催の予定されていた展覧会のための収集が1946年5月17日(つまり日本映画の消却が行われたの同時期)には、戦時中に軍の報道部美術版に所属していた画家山田新一と工兵司令部のアンダーソン大尉がソウルに赴き、山田と朝鮮半島の愛好家たちの手で秘匿されていた主要な戦争記録画が回収されている(河田 9)。こうした戦争記録画の接収の急テンポの展開は、戦時中に進行していた調査研究を想定しない限り説明することが難しい。また戦争記録画の接収に関しては、占領軍による思想文化統制という動機がほとんどなく、むしろ戦利品の展示という動機が勝っていたことが理解できる。さらに言うなら、戦利品の展示としてより妥当な候補である日本の伝統美術品の収集・保存活動が始まるのは、これにはるかに遅れ、シャーマン・E・リーが来日し調査を開始するのは1946年9月のことである(Lee 91)。このことからも戦時中の合衆国のプロパガンダ研究がいかに進んでおり、それが接収活動にいち早く連動していったかが伺いしれる。
 戦争記録画の接収と、日本映画の接収、そして戦時中のOSSによる日本映画研究を視野に入れるとき、いくつかの可能性を検討することが可能になるだろう。第一には日本映画の接収活動が必ずしも占領軍による思想統制という枠組みだけのなかで行われなかった可能性、第二に日本映画の接収がOSSの日本映画研究と何らかの関わりを持っていた可能性、そして第三にゴアラーらのOSSにおける日本映画研究と並行するような内容の日本絵画研究がいずれかの部局で展開されていた可能性である。これらの可能性を検証するためには、OSS資料の分析は急務である。
 1942年、つまりマンハッタン計画と同じ年に、ウィリアム・ドノヴァン将軍によって設立されたOSSにおいて、常識的な想像を越えた範囲で展開された諜報活動と文化研究の内実と、日本文化の接収を含む占領軍の文化政策のあいだのつながりが解明されれば、大戦以降の合衆国のグローバリズムについて、新たな理解がもたらされることになるだろう。

接収映画の研究価値
 いっぽう公文書館所蔵の接収日本映画の研究は、戦時中の日本映画あるいは日本文化に新たな見直しを迫るものである。とりわけ満州・フィリピンで製作されたプロパガンダ映画は、体系的な研究が強く要請される。
 こうした作品群のなかで『あの旗を撃て(Dawn of Freedom)』は、すでに日本で再公開され大きな関心を呼んでいる。日本の阿部豊とフィリピンのハロルド・デ・レオンの共同監督により、日本人とフィリピン人とアメリカ人が出演するこの作品は、そもそも日本映画という範疇では語りきれない作品である。そのプロパガンダとしての単純さにも関わらず、『あの旗を撃て』の映像表現は、初めて見るものにとっては目を疑うばかりのトランスナショナルなスタイルを生み出している。こうした映像表現は、同じく公文書館に保存されている、日本とフィリピンの共同スタッフで製作された Philippine News の分析を通じて正しく位置づけることが可能になるだろう。例えば Batalia sa Filipinas (1942) では、構成派やドイツ・アヴァンガルドの影響が違和感を伴いつつ表れている。いっぽう満映の製作になる The Paradise of New Manchuria では、1930年代アメリカの農村ドキュメンタリーに近い構成の作品が、ジャン・ルノワールを強く連想させる穏やかな構図とコントラストによって仕立て上げられている。こうしたトランスナショナルな性格と、ハイブリッドなスタイルは、現在の東アジア映画の先駆として捉え直されるに値するものである。
 日本国内において、占領下の満州・フィリピンの映画についてのアーカイヴが存在しない以上、公文書館のコレクションは見逃すことのできない価値を持つ。

引用資料
河田明久「「それらをどうすればよいのか」 --- 米国公文書にみる「戦争記録画」接収の経緯 ---」 『近代画説』第8巻(1999年)、1-16頁。
平野共余子『天皇と接吻 --- アメリカ占領下の日本映画検閲』 東京、草思社、1998年。
Japanese Films: A Phase of Psychological Warfare, An Analysis of the themes, psychological content, technical quality, and propaganda value of twenty recent Japanese films. Office of Strategic Services, Research and Analysis Division Report no. 1307, March 30, 1944.
Lee, Sherman E. "My Work in Japan: Arts and Monuments, 194-1948." The Confusion Era: Art and Culture of Japan During the Allied Occupation, 1945-1952. Ed. Mark Sandler. Seatle: U of Washington P, 1997. 91-102.
Mayo, Marlene J. "Planning for Education and Re-education of Defeated Japan, 1943-45." The Occupation of Japan: Educational and Social Reform. Ed. Thomas W. Burkman. The Proceedings of a Symposium Sponsored by The MacArthur Memorial, Old Dominion University, The MacArthur Memorial Foundation. Norfolk, VA: Gatling, 1982. 21-128.
Suzuki, Peter T. "Analyses of Japanese Films in Wartime Washington." Asian Profile 23 (1995): 371-380.