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映画は思考する
ドライヴ・イン・シアターと地域共同体
西部劇映画学会国際大会 

第七回

第七回
映画的空間の厚み

加藤幹郎

 画史の研究調査のためサンフランシスコで家具付きアパートを借りた。アパートの窓からはサンフランシスコ湾が一望でき、遠く対岸には別荘地サウサリートも見える。金門橋、サウサリート、エンジェル島などに囲まれたサンフランシスコ湾は週末ともなると白いヨットの帆で一面埋めつくされる。
 
台から港や島を見下ろすという、尾道や長崎や神戸でも体験できるこうした海辺の風景を、しかし、わたしはそれまで厚みのあるものとしては見ていなかったことに気づいた。気づかせたのは、ブルー・エンジェルズである。
 
・11テロ一周年からほどなくして開催されたこの国威発揚航空ショーは、サン・ディエゴから派遣された艦隊をともなって賑々しくとりおこなわれた。自分の住む高層アパートにぶつからんばかりの低空で青いジェット機が飛ぶということがどのような体験であるのか、耳を聾する轟音とともに思い知った。つまり墜落しても大事にいたらぬであろうフラットなサンフランシスコ湾上空を、ジェット機は厚みのあるキャンヴァスとして利用し、そこにルネサンス以来の遠近法が大前提とする視点の繋留をいっさい許さない瞬間的に切り取られる風景を描いてゆくのだ。
 
ンフランシスコはこれまで多くのハリウッド映画の舞台となってきた街である。ヒッチコックの『めまい』では金門橋のたもとで女が海に飛び込んでしまうし、ピーター・イェイツの『ブリット』では急峻な坂道が映画的感興をかきたてていたし、ヴェンダースの『ハメット』に代表されるあまたのフィルム・ノワールでは霧のたちこめる迷宮都市が人間の欲望の隠喩となっていた。窓から見えるアルカトラズ島もまた多くの映画の舞台となってきた元監獄島である。ドン・シーゲルの『アルカトラズからの脱出』、フランケンハイマーの『終身犯』、マイケル・ベイの『ザ・ロック』などがそこで撮られている。
 
ころで映画は「切り返し」と呼ばれる編集法によって、独自の空間の厚みを達成した視覚媒体である。「切り返し」によって映画は一九二〇年代には演劇の舞台の影響から訣別した。「切り返し」というのは、人物が何かに視線を投げかけるショットと彼が見たもののショットとをつなぎ合わせる手法で、物理的にフラットな映画のスクリーンに立体感をあたえるものである。しかしながら演劇的な額縁から解放されたあとも映画の主流は長い間ルネサンス以来の絵画的遠近法の呪縛下にあった。事実わたしたちは風景を知覚するさい、厚みを実感することはほとんどない。風景はむしろ奥行きとして認識され、遠方のかすれた小景と近くの鮮明な大景との間で空間の厚みを擬似体験しているにすぎない。映画もまたしかりである。「切り返し」によって達成される映画空間のこちら側と向こう側との立体感は、視点の交換によって成立する遠近法の焼き直しにすぎない。 
 
かしながら一九八〇年代以降の映画、とりわけ宮崎駿の一連のアニメーション(『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』)やスピルバーグの作品(『未知との遭遇』『プライベート・ライアン』)では事情がちがってきている。それらの映画では、それ以前には、その媒質の厚みをかならずしも表現することのできなかった空や海といったものが、そこを主人公の身体が通過し、その媒質(気流や雲海や海水)に接触するものとして正確に表現されるようになったのである。それは主流映画史が真に演劇からも絵画からも解放された瞬間である。わたしたちの知覚様式はそのとき根底から変貌したのである。

(『産経新聞』2002年10月30日号より転載)