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第八回

第八回
西部劇映画学会国際大会

加藤幹郎

 日、アメリカ中西部カンザス・シティで開催された西部劇映画学会国際大会に出席した。紅葉の最中のカンザス・シティはアメリカ合衆国のちょうど真ん中に位置する田舎街である(もっともアメリカはニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコの三市をのぞけば、どんな大都市でも田舎街のような風情をのこす国であるが)。大会にはアメリカをはじめトルコ、ブラジル、スウェーデン、スペイン、スコットランドなど世界各地から数多くの映画学者、メディア学者、社会学者らが出席し、なかにはシンガポ−ルの大学で教えているカナダ人学者、オクラホマ大で教鞭をとる旧ユーゴスラヴィア人亡命者もいた。大学院生をふくめ総勢二百名ほどの参加者が三日三晩マリオット・ホテルに泊まり込み、アメリカの神話体系ともいうべき西部劇を論じつくす催しである(四日目には西部劇映画ゆかりの地を訪ねる遠足がある)。
 
〇ほどのパネル(分科会)は西部劇の正統ともいうべきジョン・フォード監督を論ずるものから、ミュージカルやフィルム・ノワール(暗黒映画)など異種ジャンルとの混淆形態を論ずるもの、ネイティヴ・アメリカン(インディアン)の表象との関係から合衆国史を見直すもの、アクションと暴力の観点から論ずるもの、西部の風景を論ずるものなど、おなじみの話題が多かったけれども(わたし自身は西部劇にかならずと言っていいほど登場するフロント・ポーチ[住宅の玄関近くに附随する屋根付き板張りの屋外休憩所の一種]における揺り椅子の象徴的意味合いについて発表してきたが)、今回、興味深かったパネルはむしろアメリカ以外の国々で製作上映された「西部劇」について討議するものであった。
 
りわけドイツ人学者が発表した東ドイツ製の一連の西部劇映画シリーズは、きわめて異質なものであった。唯物史観によるアメリカ合衆国建国史ともいうべきこの西部劇映画シリーズは一九六六年から八三年にかけて少なくとも一二本が撮られ、ベルリンの壁の崩壊とともに西側にその全貌が知られるようになったものである。
 
九九〇年度のアカデミー作品、監督両賞に輝いた『ダンス・ウィズ・ウルブズ』に代表されるように、アメリカ製西部劇がどんなにインディアン搾取の歴史を反省してみても、しょせん白人の視点による自己讃美に終わるしかないのに対して、この東ドイツ製西部劇は徹底してアメリカの先住民族搾取の歴史に批判的なスタンスから演出され、事実、インディアン(俳優は旧ユーゴスラヴィア人)が主人公で、白人ガンマンは敵役という、従来の西部劇から一八〇度逆転した構図がとられている。
 
かもたんなる際物的なキッチュ映画かというと、そんなことはなく、もともとドイツにはヒトラーも愛読していたと言われるカール・マイの「インディアン小説」の伝統もあり、あくまでも西ドイツのテレビから流される西側の人気西部劇に対抗すべく(いつも社会主義リアリズム映画ばかり見させられて、うんざりしていた東ドイツ国民と共産主義諸国民のために)、資本主義に汚染される以前の「高貴なる野蛮人」インディアンがいかに白人による土地収奪と戦ったかを物語るウェルメイドな痛快娯楽西部劇となっている。
 
ころで今回の学会が、これだけ多種多様の発表をふくむ巨大大会にしては一流映画学者の参画をほとんど得られなかったのは、主催者の知名度が低いためばかりでもなかろう。これは西部劇という日本で言えば時代劇のような巨大映画ジャンルが、本国アメリカにおいてもいまなお軽視されつづけている紛れもない徴しである。

(『産経新聞』2002年11月27日号より転載)