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映画は思考する | |
第一回
都会の孤独、世界の情愛――蔡明亮『ふたつの時、ふたりの時間』
加藤幹郎
先日、台湾の国立フィルム・アーカイヴ(映画収蔵庫)に調べ物に行った。そ
のとき特集上映されていたのが、ここに紹介する台湾の気鋭の映画作家、蔡明亮 (ツァイ・ミンリャン)だ。
世の中には繊細な映画というものがある。しかも危なげのない繊細さだ。謎め
いていながら、すべてがどっしりと透明な映画。スクリーンに瞳をこらし、耳を 傾けてさえいれば、すべての謎がおのずと解消するような映画。それが蔡明亮の 新作『ふたつの時、ふたりの時間』だ。
およそあらゆる映画がそうであるように、『ふたつの時、ふたりの時間』もま
た出逢いの映画である。台北で腕時計の露天商をやっている若い男がいる。彼は これからパリに行くのだと言う若い女と出逢う。彼は彼女に腕時計を売るのだか ら、ふたりの間にたとえ時差七時間の見えない壁が立ちはだかろうとも、台北に
残った男とパリに行った女に、これから恋が生まれるにちがいない、誰しも最初 そう思う。
しかしながら蔡明亮が描きたいのは、そうした凡百のメロドラマではない。冒
頭で出逢ったふたりには、結局いかなる恋物語も生まれない。それだけではな い。他の映画にあって『ふたつの時、ふたりの時間』にないものは、たとえば状 況設定のロング・ショット、つまりそこがパリであることを示すエッフェル塔や
セーヌ河といった絵葉書的遠景が、この映画にはない。同じことは台北の場面に も言える。この「二都物語」映画には、絵に描いたような恋物語や絵になる光景 がないのだ。この映画にはまた目を惹くアクションもない。主人公はここでは他
のすべての映画と違って、歩いたり走ったりしてショット間をまたぐことさえな いし、キャメラもまたいっかな動こうとしない。運動と情動を連結してウェルメ イドな物語を紡ぐハリウッド映画文法はここにはない。ではこうしたアクション
とスペクタクルの排除によって、『ふたつの時、ふたりの時間』はいかなる経験 を生み出すのか。
それは、この映画に引用されるヌーヴェルヴァーグの古典『大人は判ってくれ
ない』の遊園地の回転盤の場面に要約されている。少年ジャン=ピエール・レオ ーを乗せてぐるぐると回転するその円筒形の遊具は、遠心力で少年を壁に押しつ
け、少年は息もつけないという有様だ。同じことが、この映画の観客を襲う。わ れわれは、映画全体に散りばめられた様々な円盤(時計や水車や観覧車)が台北 とパリ、こことよそ、ショットAとショットBを結びつけながら緩やかに回転して
ゆくさまを見つめながら眩暈を覚える。映画にしかできないめくるめく並行編集 によって(色彩と形態を組織づけ象徴的な意味を生み出す編集によって)、台北 とパリ、男と女、少年と老人、生者と死者が観客の頭の中でひとつになり、やが
てふたつの時とふたりの時間は静かに融合し、都会の孤独は世界の情愛へと昇華 されるだろう。一度出逢いながら、その後二度と出逢うことのなかった者たちは (いや一度も出逢わなかった者たちですら)、孤独の彷徨の末に、映画の形式だ
けが可能にする想像界のなかで再会をはたすだろう。けだし幸福な映画と言わね ばならない。
公開は五月中旬からシネ・リーブル梅田等で。(『産経新聞』2002年4月24日より転載)