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映画は思考する
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第二回

第二回
マルチ・スクリーンによる映画のライヴ演奏=上映――原將人『MI・TA・RI!』

加藤幹郎

 がその新作を待ち焦がれるのはゴダールでもオリヴェイラでもない。原將人である。彼の映画には人間の魂への深い省察があるからだ。最新作『MI・TA・ RI!』は京都-広島-大分-沖縄を妻子とともに巡るロード=ホーム・ムーヴィである。
 
ろん映画は、それが生まれた一九世紀末から、旅行映画(ロード・ムーヴィ)であったり、家族映画(ホーム・ムーヴィ)であったりしてきた。原将人が一九六八年に映画を産業から個人の手へ奪回したとき、映画はリュミエールの時代へと回帰したにすぎない。
 
画機材が一六ミリをへて八ミリ、ヴィデオへと軽便化するにつれ、世界中で何千万という素人キャメラマンが家族旅行映画を撮ってきた。しかし原將人のロード=ホーム・ムーヴィがふつうの素人家族旅行映画と異なるのは、彼が家族とともに家族以外の何者かを探し求めている点にある。
 
將人の映画では何かが違っている。彼の映画は家庭を離れ、家族以外の何者かとの出遭いを求めるロード・ムーヴィである。にもかかわらず、それはかけがえのない家族との魂の交流を記録するホーム・ムーヴィでもある。しかしそれでは言葉とジャンルの矛盾ではなかろうか。家族とともに楽しい旅をしながら、どうして家族以外の何者かを求める必要があるのか。
 
のキャメラは、自分自身や自分の家族をとらえ(自分の視点で世界を見つめ)ながら、徹底してナルシシズムを拒絶する。彼は自分(や自分の観念)や家族を鏡に映すためにキャメラを向けているのではない。そこが凡百のアマチュア映画作家と日本を代表する個人映画作家原將人との違いである。家族をもつ以前の『初国知所之天皇』(一九七三)から、高校生の息子と「奥の細道」をたどる『百代の過客』(一九九四)をへて、新しい家族とともに思い出の地を旅する最新作『MI・TA・RI!』(二〇〇二)まで、原はつねに人生という旅を生きながら、家族や友人とともに何者かを探し求めている。
 
れゆえ原の映画は観客と監督との出遭いを寿ぐ。演劇は上演のたびに異なる作品となるが、映画は同じ題名の作品なら世界中どこで上映しても同じものとなる。原が異議を唱えるのが、映画のそうした悪夢のような同一性である。なぜならそこでは誰も誰とも出遭わないからである。原は監督であり、出演者であり、探求者であり、そしてしばしば上映者である。原本人が複数の映写機を、さながら楽器を演奏するように操作するマルチ・プロジェクション方式は、彼の映画を、グローバル資本主義(地球上あまねく均質な商品を供給する体制)を否定する反時代的な体験とする。
際『MI・TA・RI!』は親子が他者と、他者が親子と出遭う映画である。ライヴ演奏=上映を前提につくられた『MI・TA・RI!』の三面スクリーンは、原將人とMAORI(共同製作者)とその坊やの親子三人のための(その三人による)空間であり、同時に映画作家と映画と観客の三者の出遭いを寿ぐ幸福な広場である。

公開は六月二一日に京都芸術センター、七月六日〜一四日にテアトル新宿、七月二〇日に滋賀県碧水ホールなど。問合せはラビットカンパニー(〇七五--四六二--八二一五)。(『産経新聞』2002年5月29日より転載