CineMagaziNet! Articles
合衆国議会図書館および公文書館所蔵の接収日本映画の調査・同定研究 占領下米国教育映画についての覚書 ―『映画教室』誌にみるナトコ(映写機)とCIE映画の受容について

サイレント時代の字幕

――フランス語圏映画言説における無声芸術からトーキーへの変遷

北田 理惠

 

 

はじめに

 

サイレント時代、映画は言葉を持たないことから、フランス語圏では « art muet »(無声芸術)と称されていた。しかしながら、実際のサイレント映画は、今日フランス語で « intertitres »[アンテルティットル]と呼ばれる書かれたテキストを携え、映像と映像の間に挿入されるこの字幕が、台詞や状況を説明する役割を果たしていた。ところが当時のフランス語圏において、この字幕は « sous-titres »[スー・ティットル]と呼ばれ、問題は、これが現在のフランス語圏で字幕スーパーを意味する用語とまったく同一なのである[1]。そしてこの呼称の多義性が後に議論を引き起こすことになる。当時の批評家たちはこれら書かれたテキストを繰り返し繰り返し批判したが、それはとくに字幕の使用が過剰すぎる、あるいは極言すれば、まったく不要であるとさえ考えていたからである。こうして、1920年代にはさまざまな国で、多くの映画監督たちによって「無字幕」映画の製作が試みられた。

トーキー初期、この「サイレント時代の字幕」の存在は、その作品が「サイレント」であるか、あるいは「トーキー」であるかを区別するための重要な指標のひとつとなる。しかしながら、フランス語の語義的に不正確だったと思われるかつての « sous-titres » という用語が、当時の批評の中にも混乱を残している。ゆえにしばしば曖昧に使用されたこの多義語が、今ここで字幕をめぐる諸問題を再検討し、今日の視点で映画史を見直すようにと駆り立ててくれるのである。

本稿では、まずサイレント時代の字幕の歴史のいくつかの側面を、批評家たちが当時の映画言説においてどのように理解していたかを分析しながら、辿ることにしてみよう。次に、トーキーという概念が、いかに字幕の問題とかかわりを持っていたか、そしてそれがトーキーの到来とともにいかに変遷していったかを検討することにしよう。この再検討の作業によって、トーキー移行期の映画史には、ひとつの改訂版が与えられることとなるであろう。とりわけ最終章では、文脈によってさまざまに解釈される « sous-titres »(字幕)という多義語をいくつも含む当時の論文を再分析することによって、この問題の複雑さを確認することとなるであろう。

 

 

第1章 :無声芸術と « sous-titres »(字幕)

 

(1)    無声芸術と既存の諸芸術

 

1919年、リチョット・カニュードは映画を「第七芸術」と名づける[2]。この第七芸術という表現は、現在まで映画の代名詞としてフランス語圏に深く定着している。1921217日、カニュードはパリの学生たちの前で「第七芸術:映画」という講演を行い、これ以降、映画を「第七芸術」として認定させようといくつもの論文を書いていく。たとえば、同年のFilm誌において、「第七芸術」に先立つ映画の呼称に言及し、これまでの呼び名が映画にあまりふさわしくなかったと判断している。

 

おそらく、スクリーン芸術にあてられたこの「第七」という序数詞についてまだ説明しなければならないであろう。第七芸術は、ジェスチャーやパントマイムばかりを示しすぎる、「無声芸術」に代わって、幸運にもすでに日常語の仲間入りをしたように思われる[3]。[下線は引用者による。以下の引用文についても同様]

 

 「トーキー」が到来する前、「無声」という表現はとくに「有声(トーキー)」と比較して用いられていたわけではない。もともと「無声芸術」という成句は、映画生誕のずっと以前から存在し、たとえば、絵画を形容するために用いられていた。カニュードが1921418日に設立した「第七芸術友の会」の会員でもあったアンリ・フェスクールは、以下のように言及している。

 

   活動(動く)写真の根本原理は、類まれな明敏さをもつ25歳の青年によって表明された。この青年は流派の重さにも、先験的推論にもこだわらず、映画をみながら教養をもって考察する。もし、無声芸術が−ニコラ・プーサンが蘇らせた成句によってこう呼ばれるのだが−、もし無声芸術が、その本質に浸透したのなら、それはルイ・デリュックという、この本物の若者のおかげである[4]

 

「無声芸術」という用語に関してフェスクールは、十七世紀のフランス人画家ニコラ・プーサン[1594-1665]を引用しているが、すでに古代ギリシャの抒情詩人ケーオスのシモニデス[前556-467]は、絵画を「無声(サイレント)」の詩、そして詩を「有声(トーキー)」の絵画と考えていた。

 サイレント時代の映画言説における「無声芸術」という成句は、特に既存の諸芸術との比較において、しばしば映画の類義語として用いられている。たとえば、上記に引用した論文の中で、カニュードは映画と演劇にはいかなる類似性もないと断言している。同様に、何人もの批評家が、この二つの芸術を区別するため、それぞれの特徴を明らかにしようとしている。1922年に出版された著書の中で、エリー・フォールは映画と演劇を以下のように比較している。

 

   映画は演劇との共通点を−以下のような最も外面的で、もっとも凡庸な外観をのぞけば−まったく持っていない。というのは、映画は、演劇のように−しかし同様に舞踏や競技場での競技、祭りの行列のように−役者を介した集団スペクタクルである。(中略)結局、そして特に、映画では話さないのである。演劇ではこれが基本的特徴とみなされているであろう。(中略)

   ドラマ全体は完全な沈黙のなかで展開し、それによって、言葉だけではなく、足音、風や人々のざわめき、あらゆるささやき声、自然の音のすべてが不在しているのだ[5]

 

このエッセイで筆者は、「無声(サイレント)」という表現を用いていないが、映画が話さない(トーキーでない)ことを明確にし、その完全な沈黙(サイレンス)を強調している。このように、トーキーの到来前、映画が一般的に「無声芸術」とみなされていたのは、既存の諸芸術との比較において、まったく言葉を持たない芸術として評価されていたからである。

 ここで、「映画=無声芸術」と題された1927930日付のCinémagazine誌の記事を引用してみよう[6]。記事は以下のように始められている。「映画が無声芸術であるというのは、映画を完全に定義するのではないにせよ、映画のもっとも重要な特徴のひとつに留意することである」。筆者は、無声芸術としての映画の特徴について、音楽[1]、演劇[2]、文学[2]、[3]と比較しながら、三つの側面を要約している。

 

  [1] 無声芸術の特徴から引き出すべき第一の結論は、伴奏音楽という(論理的)誤りである(中略)

  [2] この無声芸術の特徴から取り除くべきもうひとつの映画の側面は、アクションのなかで登場人物が発音すると思われる言葉を再現しようとする唇の動きを、完全に排除することである。(中略)映画は実際、演劇や文学に対して、あまり気づかれることはないが、この言葉に頼る必要がないという優位性を持っているのである

  [3] まだ、問題の第三の面を検討しなければならない。それは「無声芸術」という映画の形式と直接に関係をもたないのだが、映画はこれに頼っているため、じゅうぶんに映画と結び付けられる問題である。つまり、字幕sous-titresのことである(中略)。しかしながら、この思いつきは一時しのぎのものであり、映画はあらゆる文学(とくに台詞)を不要としなければならないし、少しずつ字幕の保護から解放されることによってしか発達しないであろう、ということを認識しなければならない。

 

 「言葉に頼る必要がないという優位性」を強調するこの筆者と同じように、「映画というメディアの特異性」に矛盾するとみなされていた「字幕」−特に台詞の字幕−は、サイレント時代、再三にわたって批評家たちから批難を浴びていた。その結果、トーキー黎明期には字幕に対する警戒心が高まり、トーキー映画は撮影された演劇でしかなくなってしまうのではないかと懸念されたのである。

 

 

2« sous-titres »(字幕)という用語の歴史

 

 まず初めに着目しなければならないのは、今日フランス語圏で使用される、サイレント映画の映像と映像の間の「挿入字幕」を意味する « intertitres » という用語が、当時の言説には存在していないことである。映画に関して、この « intertitres » という用語がいつから使用されるようになったかは正確には分からない。たとえば、『ロベール仏語大辞典』を参照すれば、この用語はジャーナリズムの中で1955年頃に生まれたことになる[7]。このことから、1955年以降に、« intertitres » というジャーナリズムの用語が、映画に関しても用いられるようになったと推測できるかも知れない。

 一方、1971年に出版されたLe Cinémaという著作の中で、バルテレミー・アマンガルは、サイレント時代の « sous-titres »(字幕)の使用について、1920年代の記事を引用して以下のように注をつけている。

 

1. Cf. 「音楽とSous-titres(字幕)」、Paris-Journal1923413日、ガリマール社、Cinéma1966)に採録。注目に値するのは、われわれがinter-titresと呼んでいる字幕を「昔の人々」はsous-titresと呼んでいたことであろう。このsous-titresは、今日では実際に映像の下におかれるテキスト(字幕)であり、映像と映像の間の特別な「ボール紙」に書かれたテキスト(字幕)ではない[8]

 

 いずれにせよ、当時の言説の中に « intertitres » という用語は決して見つからない。その一方で、サイレント時代の映画に挿入されたテキストを指し示すために、いくつもの異なる用語が使用されている。たとえば、« textes »(テキスト)、« titres »(タイトル)、« titrage »(タイトル付け)という用語が挙げられるが、やはりその語義が曖昧にもかかわらず、« sous-titres » の頻度がいちばん高いであろう。その上、バリー・ソールトによると、サイレント時代には、英語でもintertitles(インタータイトル)はsubtitles(サブタイトル)あるいはtitles(タイトル)と呼ばれていた[9]。また、The Classical Hollywood Cinemaによると、1910年代には、英語のインタータイトルを意味する語として、leaderも使われていたそうである[10]

 ところで、« sous-titres » という用語の初出に関して『ロベール仏語大辞典』は1912年と表示しているが[11]、同じように191245日付のLe Cinémaというパリの週刊誌の記事[12]を引用しながら、この年を記しているものがこれまでいくつかある[13]。しかしながら、たとえば以下に引用する1911923日付のLe Courrier Cinématographique誌の記事を参照するとすれば、この1912年という年は否定しなければならない。

 

  それでもなお、映画は教育や、科学を普及させるもっとも素晴らしい道具であるが、いまのところ、言葉という能力を欠いている。

   この不完全さを可能な限り改善するために、titres sous-titres (字幕)の力を借りるのである。しかし多用しすぎてはいけない。字幕の濫用はすぐさま映画を上映された小説の一節か、あるいは新聞の三面記事に変えてしまうであろう[14]

 

 もちろん、たとえ現在までこの仮説を覆す別の資料が見つからないとしても、1911年がこの用語の初出年だと断言することはできない。それよりもむしろここでわれわれの関心をひくのは、今日の語義にしたがい、用語の持つ正確な意味で使用されるずっと以前に、この « sous-titres » という用語が存在していたことである。

  その上、クレール・デュプレ・ラ・トゥールによれば、この « sous-titres » という用語を遅くまで使用し続けた人も多く[15]、じっさい1960年代でもなお見られるのである。デュプレ・ラ・トゥールは、たとえば1964年刊の『映画と文学』[16]をその例にあげているが、他方で、« intertitres » という用語の誕生に関しては、フランスにおいて誰が最初に映画用語として使用したかは確認できなかったとしている。しかしながら、先に引用したアマンガルの著作によれば、少なくとも1960年代には、« intertitres » という用語の使用がすでに普及していたと言えるであろう。

 

 

3sous-titres(字幕)批評と無字幕映画

 

 サイレント時代の字幕sous-titresに対する批評は、映画作品そのものについても、全般的な論評の一部となっている。たとえそれが映像に後から付け加えられた要素であるにせよ、映画館で上映される際には、作品の質を判断するために、字幕の良し悪しが考慮の対象となることも多かった。

 何よりもまず、字幕の濫用に反対する記事はサイレント時代を通じてとだえることがなかった。たとえば、1927215日付のCinéa-Ciné pour tous誌の記事も字幕の多数使用を以下のように批判している。

 

   したがって、今日の映画において、字幕が誰からも望まれないものとされているのは、字幕という不倶戴天の敵のいくつかの非妥協的な性質のせいである。10年前、これらの字幕はまったく自然なものと受け入れられていた[17]

 

しかし実際にはこの16年前、つまり1911年における字幕という用語の出現のときにも、すでに批評の対象はその濫用へと向けられていた。上述の引用文の筆者は、映画の不完全さ、つまり言葉の欠如を改善するためには、字幕の力を借りなければならないが、濫用してはならないと述べている。

 このように、たいていの批評家は字幕の濫用について厳しく反対する傾向があり、じっさい1920年代には、何人かの映画監督が、無声芸術の理想型として「無字幕映画」を製作している。

 ここで、1921年にドイツのルプ・ピックが監督した『破片』[Scherbenを紹介する記事を引用しよう。

 

  Le Rail[レール、『破片』の仏語タイトル]。−奇跡!驚異!これが無字幕映画だ[18]!ただのうわさではない(中略)。これが無声芸術、完璧に無声だ、しかしだれにでも分かるのだ。(中略)

   簡潔、簡素、強烈、激しくて素晴らしい。とても素晴らしい[19]

 

この作品の脚本家カール・マイヤーは、「無字幕映画」として有名な作品を次々に製作する。たとえば、『除夜の悲劇 』[Sylvester、独、1923年]やムルナウの『最後の人』[Der letzte Mann、独、1924年]などが挙げられる。『ラルース映画事典』によれば、これらの作品は、同時にKammerspiel(室内劇映画)の傑作でもあるとされている[20]。さらに、カール・マイヤーはドイツ表現主義の代表例とされる『カリガリ博士』[Das Kabinett des Dr. Caligari1919年]の脚本家でもある。上記事典によれば、もともとマックス・ラインハルトが創り出したこのKammerspiel(室内劇)という表現が拡張して、1920年代初頭に現れたドイツ映画のこの流れにも適用されたそうである。さらに『破片』をこの流れの「最初の、そしてもっとも優れた成果のひとつである」と定義し、Kammerspiel(室内劇映画)の基本的特徴のひとつとして、「字幕の制限」に言及している[21]

 この「無字幕無声芸術」へと向かう傾向は、映画がもっぱら映像によって表現する媒体であるべきだとする、当時の映画言説の主張を証明しているともいえるであろう。こうして無字幕映画の試みは、ドイツのみならず、日本でもフランスでも世界中のあちこちで行われた。たとえばフランスでは、アンリ・ディアマン=ベルジェが1922217日付のCinémagazine誌の中で、次回作Le mauvais gaçronについて「どうして私が無字幕映画を作るのか」と題する記事を書いている。

 

  無字幕映画は不可能なものであり、観客を退屈させるだろうと主張する人々もいる。私はどうしてか分からないが、反対であるとも断言しない。試してみるだけである。後からのほうが判断しやすいだろう。もし上映して何も分からなければ、そして、全体の印象がほんとうに悪ければ、よろしい、失敗したと結論して、字幕を追加することにしよう[22]

 

しかし『フランス映画カタログ(1919-1929)』の注によれば、この映画は無字幕で着想されたものの、実際は興行側の要望によって「100ほど」の字幕を挿入しなければならなかったそうである[23]。同カタログによれば、ディミトリ・キルサノフ監督のL’ironie du Destin [仏、1923年]は、1924125日にフランスで公開され、字幕をまったく含んでいなかったそうである[24]

 最後に、マルセル・シルヴェール監督のL’horloge[仏、1924年]も無字幕映画として下記の記事の中で紹介されている。

 

   読者諸君にとっては初めて聞く名前ではないが、新進映画監督のマルセル・シルヴェールが、無字幕映画の処女作L’HorlogeColisée館で上映したばかりである。非常に確かな映画の趣味とセンスをもって作り上げられたこの作品は、たいていは不要な言葉を使わずとも、非常に素晴らしいものができることをわれわれに証明してくれた。L’Horlogeの物語は非常にシンプルだが、どれほど感動にみちてどれほど象徴的であることか![25]

 

 ところが実は1926年にも、この同一作品は「わずかな字幕つき」で二度目の上映がなされたそうである[26]。アンリ・ディアマン=ベルジェの記事が示すように、この種の試みの成功は、たとえいくつかドイツ映画の例があるとしても、製作や上映のレベルにおいては非常に困難であり、むしろまれであったように思われる。実際、『フランス映画カタログ(1919-1929)』には、これまで挙げたLe mauvais gaçronL’ironie du DestinL’horlogeの三作にしか、「無字幕 」に関する注はつけられていない。

 しかし、たとえ無字幕映画が極端な試みにすぎなかったにせよ、サイレント時代の批評家たちは特にその濫用に対し、繰りかえし字幕批判を行っていた。たとえば、ラウル・プロカンが192711日付のCinéa-Ciné pour tous誌において、「字幕の問題」と題する記事を書いている[27]

 冒頭でプロカンは、映画的でない字幕がいつか完全消滅してほしいと強く主張しながらも、現状ではそれが不可能なため、字幕製作の目指すべき方法についてまとめている。まず初めに、@字幕は映画と一体をなし、映像と言葉の間にショックや均衡の中断があってはならない。ついでA簡潔さの追求とB字幕の統一性の尊重。さらには、C字幕付けにリズムをつけ、映画そのもののリズムに、完璧な正確さで調和させなければならない。最後に、D字幕は、正確な綴りで文法的に完璧に書かなければならない、としている。これら五つの要素から、字幕の質はいかに映画に組み入れられるかによる、つまり字幕は、簡潔、明確、自然で、誤字も、映画的リズムの中断もなく、完全に「さりげない」存在でなければならないと言えるであろう。

 結局、うまれつき言葉という能力を持たないサイレント映画は、字幕によって「話す」のである。たとえそれが映画にとって二義的な要素であるにせよ、字幕は作品の質を判断する基準項のひとつでもあり、批評家たちは無視することもできなかった。当時の批評家たちは、字幕が映画にとってさりげない存在であって欲しいと強く望んでいたが、それでもやはり字幕は避けられない要素であり、「必要悪」であるとさえ考えられていた[28]。こうして字幕の存在が、トーキー移行期には、サイレントかトーキーを区別するための重要な指標となるのである。

 

 

2章:« sous-titres »(字幕)という用語をめぐる「トーキー」概念の変遷

 

(1)   無声芸術から « sonore »(サウンド)映画あるいは « parlant »(トーキー)映画へ

 

まずは、「トーキー」映画が今日われわれの知っているようなものとしてすぐに定着したわけではないということに注目したい。技術的や理論的にもいくつかの段階を経てから今日ある姿になったのである。ここでは、サイレントからまず「サウンド」映画、そして「トーキー」映画へと変遷していった過程をたどり、同時にその概念がどのように「字幕」をめぐって変化していったのかを検討したい。

前章で述べたように、サイレント時代の映画は「無声芸術」と称され、トーキー映画とではなく、むしろ既存の諸芸術と比較されていた。しかしながら実際には、生誕以来、トーキー映画を製作しようという試みも常になされていた。たとえばフランスのゴーモン社は、1912年に « phonoscènes »« filmparlants » と名付けた自社のトーキー映画を上映していた[29]。しかし、これら特にトーキー映画について書かれた記事を除けば、何よりもまず無声であることが映画の特質だと評価されていた。

一般的に、この「無声芸術」であるという定義はサイレント映画のもつ二つの特質に関連がある。まず初めに、演劇や文学と比較されるとき、無声芸術は「言葉」を持たないことが強調される。次に、音楽と比較すれば、サイレント映画には「音」が不在している。しかし実際には、サイレント時代の映画は言葉の欠如を補うため「字幕」を付け加えられ、映画館での上映にはオーケストラなどが伴奏音楽をつけていたのである。サイレント当時も、前章で述べた「字幕」批評と同じくらい、音楽に関してや音と映像の「同調」について多くの議論が交わされていた。

したがって、トーキー到来時の「サウンド」映画あるいは「トーキー」映画に関わる議論は、この二つの観点に依拠している。ここで言う「サウンド」映画とは、自然音などの音響や音楽、つまり「音」を含むものであり、「トーキー」映画はその上さらに登場人物が実際に話す声と台詞、つまり「言葉」が含まれるものである[30]

たいていの場合、当時の批評家は「サウンド」映画には好意を示すものの、「トーキー」映画は問題視することが多かった。これは、無声芸術における「字幕」濫用への批判の延長線上にあるとも言えるであろう。たとえば、映画監督ルネ・クレールは1929613日付のPour Vous誌において、トーキー映画の台詞使用に対する懸念を表明している。

 

   しかしながら、サイレント映画がこれまでに獲得したものを諦めないで、映像に言葉を与えることは不可能ではないであろう。こんな映画を想像してみよう。ここで、話されたテキストは、字幕という書かれたテキストの代わりをつとめ、映像の奉仕者にとどまり、そしてただ簡潔でさりげないテキストといった、「非常用」の表現手段としてしか介入せず、ゆえにこの話されたテキストのために、いかなる視覚表現の探求が犠牲にされることもないであろう。(中略)

   「サウンド」映画の前では−たとえそのデビューに避けがたい間違いがあるとしても−希望が約束されている。「トーキー」映画の前では−その初期作品の成功にもかかわらず−不安が残るであろう[31]

 

ルネ・クレールはこのすぐあと、初期フランストーキーの傑作『巴里の屋根の下』[Sous les toits de Paris1930年]を製作し、世界的な成功をおさめる。当時の表現によるとサウンド(音響つき)・ミュージカル(歌つき)・トーキー(台詞つき)と評されるこの作品において、クレールはわずかな台詞と歌を含んだトーキー部分と、伴奏音楽はついてもまったく台詞のないサイレント映画のリズムを保持したサウンド部分との、二種類のシークエンスをうまく組み合わせている。

 こうして、登場人物によって直接話される台詞は、当時の批評家によって問題視されることとなる。そのためトーキー移行期には、クレールの引用記事のように、話される台詞の使用を制限したいとする明らかな傾向がみられた。これは、「サイレント時代の字幕」つまり書かれた台詞に対しての批評と同じだともいえるだろう。この台詞の少ないトーキー映画は、初期のルネ・クレール作品が示すように、初期トーキー映画の特徴的なスタイルのひとつでもある。

 

 

2)トーキー映画の分類: « sonore » = サウンド(音響つき)映画−

« chantant » =ミュージカル(歌う)映画− « parlant » =トーキー(話す)映画

 

移行期における「トーキー」をめぐる概念は、非常に具体的に認識され、トーキー映画をいくつものカテゴリーに分類する記事が多く見られる。その分類方法は批評家によって異なり、多彩なトーキー議論が交わされている。前述した「サウンド」版と「トーキー」版の二種類のみならず、たとえば「サウンド」版、「ミュージカル」版、「トーキー」版の三種類、あるいは「音楽」版、「サウンド」版、「ミュージカル」版、「トーキー」版の四種類などがある[32]

ここで、192910月号のLa Revue Hebdomadaire誌のルネ・ジャンヌの記事を引用してみよう[33]

 

   この新しい発明によって、映画芸術や商業、そして映画産業が被るであろう混乱を誤って検討してしまわないためには、サイレントでない映画を四種類に区別する必要がある。

1.                   音楽映画

2.                   サウンド映画

3.                   ミュージカル映画

4.                   トーキー映画

1.音楽映画には伴奏音楽がついているが、作品が上映される各映画館の設備に応じて設えられるかわりに、作品に合わせた伴奏音楽がいつでもどこでも同じ条件で上映できるように、一度だけ機械で録音され、フィルムと一緒に渡されるのである。(中略)

2.サウンド映画は伴奏されるものが音楽だけではなく、自然音や効果音などの音響も用いるものである。(中略)

3.ミュージカルあるいは叙情的映画はひとりないし複数の歌手の姿を同時に見せて歌も聴かせる映画である。(中略)

叙情的映画で、オペラやオペラ・コミックのファンはもう何も心配することはないであろう。(中略)

   4.トーキー映画は、音楽版、サウンド版、ミュージカル版であるうえに、俳優が演技をする間ずっと、その動作と言葉がひとつに結びついた映画である[34]

 

この時期の映画言説において、「サウンド」映画から「トーキー」映画へと変遷する過程で、新しいジャンルとも言える「ミュージカル」(歌う)映画が頻出してくるように、トーキーの到来とともに、1930年代にはオペレッタ映画やミュージカル映画が成功をおさめる。当初は俳優が台詞を話す場面の映像と音との完全な同調が困難なために、技術的にはずっと成功しやすい歌の場面が、ある意味で、完全なトーキーへとたどり着く前の手段として利用やすかったということも理由にあげられるかも知れない。

 次に、「厳密にしよう」と題された、193061-15日付のSchweizer Cinéma Suisse誌の記事を引用しよう。

 

   ポスターに「サウンド」映画とだけ記して、人々にむだ足を踏ませるのはまったく不十分である。とりわけ忘れてはならないのは、一度嘘の広告にだまされた観客はもう映画館にとっても、映画そのものにとっても失われた観客となってしまうということだ。(中略)

   よって、厳密にしよう。観客はきっと喜んでくれるはずである。(中略)

Scheer氏は、四つのカテゴリーのラベルをはっきりと映画に貼りつけることを映画製作者に推奨している。つまり、「100%トーキー」、「部分的に歌と台詞つきのサウンド版」、「音楽と音響、部分的に歌入りのサウンド版」、「音楽と音響つきのサウンド版」。(中略)

   厳密さはまた、上映の夕べに多かれ少なかれわれわれの耳を魅了する言語についても大いに役立つであろう。たとえばそれが、100%ニュー・ヨーカーやスペイン語ではなく、100%ドイツ語、100%フランス語であるならば[35]

 

実際、トーキー初期の映画雑誌で宣伝される映画の広告欄には、このように非常に具体的な表示がしばしば見られる。たとえば、19291221日付のLa Cinématographie Française誌にある作品リストをみてみよう[36]。このリストにはトーキー映画の多彩なカテゴリーが含まれ、「100%トーキー」、「100%サウンド・トーキー」、「サウンド・パートトーキー」、「サウンド・ミュージカル」、「サウンド」、「サウンド・トーキー」、「トーキー」などと分類されている。

 このような具体的な表示は、トーキー移行期における作品の録音技術についての考察の幅の広さを示していると言えるかも知れない。しかし、当時「100%トーキー」や「オールトーキー」といった華やかな表現が頻繁にみられる一方で、実際の初期トーキー作品は、しばしば伴奏音楽や音響と歌しか含まれず、台詞が非常に少ないことも多かったのである。みんな何よりも俳優の声を聴きたがっていた一方で、批評家たちは台詞の濫用を懸念していた。こうして、たとえばルネ・クレールの『巴里の屋根の下』は、公開当時、「100%フランス語ミュージカル・トーキー」[37]と大々的に宣伝されたが、今日の耳で聴くと台詞はむしろ非常に少ないとの印象を受けるであろう。

 最後に、1930529日付のGazette de Lausanne紙における、フランス映画Le mystère de la villa rose1929年]を紹介する記事を引用してみよう。ここでは完全な「トーキー」作品であることを強調するために、以下のようなトーキー分類をしている。

 

   サウンド映画:伴奏音楽と字幕つき映画

   サウンド・ミュージカル映画:伴奏音楽と歌と字幕つき映画

   トーキー映画:完全にしゃべって歌って−字幕なし映画[38]

 

この場合、「サイレント時代の字幕がない」という指標が「トーキー」映画に認定する条件となっている。当時の人々は、聴くのではなく読まされる要素であるこのサイレント時代の字幕が、「トーキー」映画においては消滅してしまうはずだと信じていたのである。たとえば、パラマウント社のアドルフ・ズーカーは、「字幕の代わりとなる台詞が、映画をより型にはまらず、さらに魅力あるものにするだろう」[39]と述べている。さらに、Pour Vous誌のアレクサンドル・アルヌーは「音楽と言葉が映画を豊かにし、そしてある意味、映画を簡潔にする。なぜならそれらが字幕の削除を可能にし、場面転換を経済的にするからである。しかし映画の本質を変えることはないのである」[40]と書いている。

 ただし、初期のトーキー映画は、製作段階でまだ台詞や説明の「字幕」を含んでいることもあり、それがたとえば後述する『ジャズ・シンガー』[The Jazz Singer、米、1927年]である。

 問題は、しかしながら実際には製作段階での「字幕」だけではなく、上映の際に追加された字幕も多く存在したことである。この「アダプタシオン」[41]と呼ばれる一時しのぎ的な処方は、もっぱら外国語映画上映のためにほどこされたが、当時はヨーロッパや日本でもあちこちで盛んにおこなわれた。作中の理解不能な外国語を懸念して、俳優が話す台詞を削除するかわりに、翻訳した台詞や状況説明をサイレント時代の字幕に書き込み、後から追加挿入を行なって上映したのである。こうして、たとえば初期ドイツトーキーの傑作、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『嘆きの天使』[Der blaue Engel1930年]は、パリの同じ映画館で、19301220日から二つのヴァージョンが、さらに19315月には三つのヴァージョンが公開されている。もともと、この作品はドイツ語と英語の二つのヴァージョンで撮影されたが、フランスの日刊紙Le Tempsの映画案内はこのうちの二つのヴァージョンについて「フランス語版」と「ドイツ語完全版」[42]と紹介している。撮影時には存在しなかったはずのこのフランス語版について、19301218日付のPour Vous誌は以下のように説明している。

 

   オリジナル版ともうひとつの版が同じスクリーンで交互に上映される。第二のヴァージョンでは、台詞はたびたび字幕に代用され、挿入歌は英語で歌われる(英国版から借用したもの)が、明らかに、オリジナル版より劣っている(以下省略)[43]

 

 トーキー移行期の数年間にわたり、この「アダプタシオン」という処方箋は用いられ、たとえトーキー初期の傑作といわれる作品でさえも、外国語映画であれば、「サイレント時代の字幕」を追加することによって、逆に登場人物の台詞や声を削除してしまうことがしばしば行われた。その結果、これら後から追加挿入された「字幕」が、とりわけ「完全トーキーでは」しるしとして批難の対象となったのである。上述したGazette de Lausanne紙の分類は、「トーキー」映画であると定義するために「字幕つき」か「字幕なし」かを強調しているが、多くの場合、それらの字幕は製作段階からもともと存在していたのではなく、上映の際に、興行側が後から「追加した字幕」でもあったのである。

 

 

3)『ジャズ・シンガー』の「字幕つき」初公開

 

 フランスとスイスにおけるトーキー移行期は、「世界初のトーキー」といわれる『ジャズ・シンガー』の公開で幕を開ける。

 パリでは、19281019日にL’eau du Nil[仏、1928年]、同年11月に『南海の白影』[White Shadows in the South Seas、米、1928年]など、いくつかの「サウンド」映画が上映されたあと、Aubert-Palace館で公開された『ジャズ・シンガー』は、1929126日の初日以来、年末の1227日まで長期にわたって大成功をおさめる。

 一方、スイスではフランスから遅れること約半年、192982日にジュネーヴのAlhambra館で初公開される[44]。こうして、スイスではトーキー映画の初上映が遅れたおかげで、当時の言説に興味深い指摘がいくつか見られる。

 たとえばローザンヌでは、19291227日、Bourg館での『ジャズ・シンガー』初上映に続いて、映画館のトーキー化が開始される。しかし一方でこの映画は、実は192931日に、映画館のオーケストラによる伴奏音楽つきで、「サイレント版」が先行上映されていたのである。192934日付のFeuille d’Avis de Lausanne紙の映画欄は以下のように説明している。

 

  この『ジャズ・シンガー』はアメリカでは「トーキー」映画らしいが、われわれにはサイレントでやってきた。完全版と、われわれ用にこしらえた版とのこの違いのせいで、いくらか冗長であったり、少々退屈なテキストや字幕がとりわけたくさんあったりするのであろうか。おそらくそうだろう。そう認めよう。ともあれ、たとえ「サイレント」版でも作品はよいし面白い[45]

 

 もちろんこの批評家が想像していたのとは異なり、多数あった字幕の問題は、1927106日にアメリカで公開された版[46]とローザンヌ版との違いによるものではない。ここで字幕というのは「サイレント時代の字幕」であるが、実際われわれがこの映画を初めてみると、これが本当に世界初のトーキー映画なのかと疑いたくなるであろう。映画は、長い説明「字幕」で始まり、このサイレント形式がそのまま最後まで続けられる。オリジナル・シナリオには162のタイトル、つまり「サイレント時代の字幕」がある[47]。もともとこの作品は「トーキー」映画として着想されたのではなく、むしろ「サウンド・ミュージカル」版であった。作品の中には八つのミュージカル・シークエンスがあり、そのうちの二つだけがいくつかの台詞を含んでいる。この作品は、当時の表現を借りてより厳密に言えば、「サウンド・ミュージカル、パートトーキー」版とでもするべきであろう。

 また、スイスでのトーキー版公開を待つ間に、映画批評家ウィリアム・ベルナールはパリにでかけ、先にジュネーヴでも公開されたサイレント版と、パリのトーキー版を比較している。そして、やはり字幕の存在に対して疑問を抱いている。ここで1929713日付のLa Tribune de Genève紙の記事を引用してみよう。

 

   われわれは、昨年すでにEtoile館でサイレント版『ジャズ・シンガー』を観た。正直言って、Aubert-Palace館で上映している映画には、このサイレント版の大部分が残されている。つまり、いくつかの断片とアル・ジョルスンの歌、いくつかの台詞しか「音響化」していないのである。そしてそれが、リアリティーの錯覚から遠ざけてしまう、奇妙な効果を生み出さないではない。つまり、突然、声が聞こえなくなる一方で、登場人物はスクリーン上で話し続けているのである。正直言って、なぜ映画全体に音響をつけるより、むしろ声の再現と字幕が交互に現れるといった混合手法を守るべきだと信じたのか理解できない[48]

 

このように、サイレント版との単純な比較だけではなく、大ヒットトーキー映画としての名声から想像するにしても、上映された作品の「トーキー」としてのあり方は、当時の批評家たちの期待からはほど遠いものであった。さらに一ヶ月後のジュネーヴでの初公開でもまた、映画批評家たちは、この作品に数多く挿入されたサイレントの象徴でもある「字幕」について、同じような問いかけをしている。

 

  とりわけ、なぜ字幕を、当然ながらサウンド映画では消滅すべきであった、例の字幕を残したのか、ほとんど説明されていない。しかし、文句は言わないようにしよう。そして、映画がまさに「トーキー」であるまれな瞬間が−なぜなら、残りはたえずシンフォニーのナレーションが添えられている−その同調によって素晴らしい、そして奇妙で気がかりなトーキーのリアリティーによってたえず印象的だ、と言うことにしよう[49]

 

 このように「トーキー=無字幕」という概念は、トーキー映画の初公開前にすでに確立されていたのである。そのため「サイレント時代の字幕」の存在は、映画が「トーキーである」か「トーキーでない」かを定義するための重要な判断基準のひとつと考えられた。一方、映画の中で歌やサウンド部分と交互に挿入される奇妙な「字幕」の存在は、トーキー移行期固有の特徴のひとつでもある。よってこの半サイレント・半トーキーの『ジャズ・シンガー』について、トーキーへの第一歩として好意的に受け入れる批評家たちももちろん存在していた。

 

 

3章:サイレントから今日までのさまざまな « sous-titres »(字幕)に対する批判

 

 最後に、当時の映画言説において、« intertitres » という用語が生まれる以前、さまざまな字幕が、フランス語圏で « sous-titres » と呼ばれていたことを振り返ってみよう。この曖昧な多義語のせいで、かつての言説をひも解く際には、問題となっているのがどんな種類の字幕かをきちんと識別同定しなければ、 « sous-titres »(字幕)批判をすべて同じレベルでとらえてしまう恐れがある。上述したとおり、第一には、« intertitres » 1955年以降にしか登場しないからであり、第二には、当時の « sous-titres » が非常に曖昧な多義語であったからである。トーキー初期には、サイレント時代の挿入字幕もあれば、さらに一種の「アダプタシオン」として外国語映画の上映に際して追加挿入された字幕もあり、その一方で、画面の下に二重焼付けされた、今日と同じ意味で用いられる « sous-titres » が産声をあげるのである。

 『ラルース映画事典』の « sous-titres »(今日の字幕)という項目を見ると、外国語映画の上映手段の歴史を以下のように要約している。

 

  音が到来したとき、映画は intertitresによって「ぶつぎり」にされなくて済むようになったが、反対に、言語の問題がより解決困難になった。当初は、sous-titres (今日の字幕)を用いた。しかし、文化的発達にもかかわらず、今日でもなおそうであるように、sous-titresは一部の観客にしか受け入れられなかった。すぐさま、「複数ヴァージョン」を試みたあと、ついに吹き替えに到達し、それが外国映画上映の有利な手段として残っている[50]

 

 しかしながら sous-titres(今日の字幕)の問題もそれほど単純ではなかった。まず、当時は同事典のように、« intertitres » « sous-titres » との間に区別意識はなく、われわれが« sous-titres » という多義語に対する当時の批判や批難を検討しようとするときは、その語義をきちんと把握しなければならない。

 トーキー移行期の映画史に関する著作において、ロジェ・イカールは、言語の障壁について、サイレント時代の字幕には手短にこう触れている。「サイレント映画は、国際的理解という恩恵をうけ、すぐさま世界に広がった。誰にでも理解できるようにアクションを説明するintertitres をそれぞれの言語に翻訳さえすればよかったのである」[51]。ついで、トーキーによって立ちはだかった言語の問題を前に、イカールは当時実践された四つの解決策−字幕つきオリジナル版、アダプタシオン、複数ヴァージョン、吹き替え−について分析している[52]

第一の解決策、つまり今日の字幕について、イカールは400ページにも及ぶ著作のなかでわずか半ページしか割いていないが、そこで19291129日付のCinémagazine誌の「トーキー映画の国際性について」と題するマルセル・カルネの記事を引用している。最後にこのイカールが引用した部分を再検討してみよう。

 

   トーキーのはじめ、困難を回避するために、映像の上に、sous-titres explicatifs1](説明字幕)を二重焼付けしようと思いついた。当初は好奇心が勝った。『ジャズ・シンガー』とLa chanson de ParisInnocents of Paris、米、1929年]の成功例を挙げればじゅうぶんであろう。しかしながら、観客が初期の作品については寛容だったことを、その後はそう簡単には認めなくなった。【こうして『ウィリー・リバー』[Weary River、米、1927年]−先の二作に十分相当するので、一作しか引用しないが−は、確かに名誉ある成功をおさめたが、前の二作と比較するほどにはいたらない。大スターの不在(なぜならバーセルメスは、才能はあるが、シュヴァリエほどの人気はない)に加えて、『ウィリー・リバー』にあるnombreux sous-titres français intercalés2](多数のフランス語挿入字幕)がこの状況に関係していた。】そのうえ、現在、このシステムがあまり長い間代役をつとめられないような、一時しのぎでしかないということを理解しないものは一人もいない。これは非常に不快なものである上に、実際、観客が俳優の話す演技を追うのと同時にsous-titres inscrits dans le bas de l’image3](映像の下に書かれた字幕)を読むことは不可能である。それから、トーキー映画が、われわれに期待する権利があったように、sous-titres4](字幕)を削除する代わりに、反対に、限りなく増殖させるのは矛盾していないだろうか。大通りの映画館で、現在はnombreux sous-titres français5](多数のフランス語字幕)つき100%アメリカトーキーを予告していないだろうか。このような広告は、ほんの1年前なら観客を追い払ってしまったのに[53]

 

この引用の中で、カルネは « sous-titres » という用語を5回使用しているが、それぞれの語義は明らかに異なる。第一[1]と第三[3]は映像の下に位置する今日の字幕を意味するが、第二[2]と第四[4]はサイレント時代の字幕、つまり « intertitres » を指している。最後に、第五[5]は両方の意味の字幕を含んでいる。そのうえイカールは、当時の « sous-titres » の多義性には全く言及しないで、映像の下ではなく「挿入」字幕に触れている【 】内の節を削除している。こうして、第二の « sous-titres intercalés »(挿入字幕)を削除した結果、われわれは第四の字幕を映像の下にある今日の « sous-titres » と間違って理解してしまい、イカールの主張するとおり、今日の « sous-titres » のみがすぐさま囂々たる非難を受けたと断定することに成功している。また、カルネが引用している『ウィリー・リバー』も、実はいわゆるパートトーキー作品であり、カルネが指摘するように、製作段階からすでにサイレント時代の字幕が多く挿入されていたのである[54]

 実際、カルネはこの記事の中で、イカールの半ページが強調するように、まさに二重焼付けした画面下字幕の使用を「嫌悪すべき」システムと批判している。しかしながら、あらゆる字幕批判が「映像の下の字幕」にだけ向けられていたと、単純に結論することはできないのである。そもそも、カルネ自身がある意味、« sous-titres » という用語の意味のずれをうまく利用している。つまり同じ記事の中で複数の異なる種類の書かれたテキストを同等に扱うことによって、生まれたばかりの新しい「映像の下に二重焼付けされた字幕」をより強く批判しているのである。「サイレント時代の字幕」の濫用に向けられた『ジャズ・シンガー』に対する批評のように、カルネは、挿入にせよ、二重焼付けにせよ、すべての書かれたテキストを意味するnombreux sous-titres français(多数のフランス語字幕)に対して、同一用語 « sous-titres » を多義的に用いることで、これを「トーキー映画の矛盾」であると批難している。このように今日の字幕 « sous-titres » は、当時の語義の曖昧さゆえに、その誕生の日からすぐさま、« sous-titres »(字幕)批判の長い長い歴史のなかに放り込まれてしまうのである。

 今日 « intertitres » と呼ばれる「サイレント時代の字幕」の存在は、映画史の中で常に議論の対象となっていた。しかし、同時にそれは逆説的な議論でもあり、サイレント時代には、台詞機能としての「字幕」をもった映画が「無声(芸術)ではない」と批判され、一方、トーキー移行期には、その書き言葉の性質ゆえに、字幕つき映画は「トーキーではない」と批難されたのである。同様に、「今日の字幕」にも、トーキーの発達にともなって変遷しながら、また別の歴史が用意されるだろう[55]。ここで、本稿を終えるにあたって、« sous-titres » つまり字幕は、サイレント時代から今日までの映画史において重要な主題をなし、作品理解に直接介入する批評家たちに、豊かな論評を生み出させたことにも触れておきたい。

 

 

付記

 

本稿の調査にかかわる資料の閲覧については、スイス・シネマテーク、ローザンヌ大学図書館、ならびにローザンヌ大学映画史・映画美学科助手ピエール=エマニュエル・ジャック氏に多大なご厚意をいただいた。記して感謝の意を表したい。

なお本稿は、仏語で書かれた以下の拙論に加筆訂正をおこなったものである。“Sous-titres du muet: de l’art muet au parlant à travers la presse francophone, ICONICS, Volume 6, 2002, pp. 69-88.

 



[1] フランス語の « sous - » は「下」を意味する。現用の « sous-titres » は、主に@サブタイトル、A字幕スーパーの意味で使用される。なお、サイレント時代の « sous-titres » という用語の使用については、たとえば以下を参照されたい。Jean Giraud, Le lexique français du cinéma des origines à 1930, Centre national de la recherche scientifique, 1958, p. 184.

[2] Ricciotto Canudo, “ La tribune des écrivains combattants ”, L’information, n°286, 23 octobre 1919, p. 2,   L’usine aux images, Séguier, 1995, pp. 41-43.

[3] Ricciotto Canudo, Le Film, n°181, mai-juin 1921, L’usine aux images, Séguier, 1995, p. 63.

[4] Henri Fescourt, La foi et les montagnes ou le septième art au passé, Éditions d’Aujourd’hui, 1979, p. 152.

[5] Élie Faure, Fonction du cinéma, De la cinéplastique à son destin social, Éditions Gonthier, 1964, pp. 23-24.

[6] Paul Francoz, “ Cinéma=Art muet ”, Cinémagazine, n°39, 30 septembre 1927, pp. 584-585.

[7] Le Grand Robert de la langue française, Tome V, p. 694.

[8] Barthélémy Amengual, Le Cinéma, Éditions Seghers, 1971, p. 166.

[9] Barry Salt, Film Style and Technology: History and Analysis, Second Edition, Starword, 1983(First Edition),

  1992, p. 325.

[10] David Bordwell, Janet Staiger and Kristin Thompson, The Classical Hollywood Cinema, Film Style & Mode of Production to 1960, Routledge, 1985, p. 184.

[11] Le Grand Robert de la langue française, Tome VIII, p. 902.

[12] “ Les sous-titres et les explications intercalés dans les films offrent quelquefois des surprises et des fautes d’orthographe et de sens. ”, “ PECHEUR DE PERLES ”, “ NOS ÉCHOS ”, Le Cinéma, n°6, 5 avril 1912, p. 1.

[13] 例えば以下を参照されたい。

Jean Giraud, Le lexique français du cinéma des origines à 1930, Centre national de la recherche scientifique, 1958, p. 184.

Lucien Marleau, “ Les Sous-titres...un mal nécessaire ”, META, XXVII, 3, 1982, pp. 272-273.

[14] Charles Le Fraper, “ Les Conférenciers ”, Le Courrier Cinématographique, n°11, 23 septembre 1911, pp. 3-4.

[15] Claire Dupré la Tour, “ Les intertitres réduits au silence, aperçus et remises en perspective ”, Scrittura e immagine, La didascalia nel cinema muto, Forum, 1998, pp. 39-51, p. 45.

[16] Étienne Fuzellier, Cinéma et littérature, Les Éditions du Cerf, 1964.

[17] Pierre Porte, “ Textes et images ”, Cinéa-Ciné pour tous, n°79, 15 février 1927, p. 14.

[18] 厳密に言えば、この「無字幕映画」は5つの説明字幕と、1つの台詞字幕を含んでいる。

[19] Lucien Doublon, Cinémagazine, n°24, 16 juin 1922, p. 404.

[20] Marcel Martin, “ Kammerspiel ”, Jean-Loup Passek, Dictionnaire du cinéma, Larousse, 1991, p. 362.

[21] Ibid.

[22] Henri Diamant-Berger, “ Pourquoi je fais un Film sans titres ”, Cinémagazine, n°7, 17 février 1922,

p. 207.

[23] Raymond Chirat-Roger Icart, Catalogue des films français de long métrage, Films de fiction 1919-1929, Cinémathèque de Toulouse, 1984, 580.

[24] Ibid., 486.

[25] Albert Bonneau, “ Les Présentations ”, Cinémagazine, n°17, 25 avril 1924, p. 176.

[26] Albert Bonneau, “ Les Présentations ”, Cinémagazine, n°25, 18 juin 1926, pp. 617-621.

[27] Raoul Ploquin, “ La question des textes ”, Cinéa-Ciné pour tous, n°76, 1er janvier 1927, pp. 14-15.

[28] 例えば以下を参照されたい。Valentin Mandelstamm, “ L’Avènement des Films parlants et synchronisés ”, Cinémagazine, n°6, 8 février 1929, pp. 229-236.

[29] Le Cinéma, n°1, 1er mars 1912, p. 5.

[30] ここでは単純にフランス語の « sonore » をサウンド(音響つき)映画、« parlant » をトーキー(台詞つき)映画としたが、じっさい当時の言説においては後述するように多様な区別がなされ、批評家によって使用する用語もその語義も異なる。ゆえに、例えば « sonore » がトーキーを意味する場合も多く、当時の言説を正確に解釈するには、文脈から注意深く判読するしかない。

[31] René Clair, “ Une enquête à Londres: l’avenir du film parlant ”, Pour Vous, n°30, 13 juin 1929, p. 7.

[32] ここでは当時の文脈からフランス語の « musical » を「音楽」版、« chantant »(歌う)を「ミュージカル」版と訳したが、実際、今日フランス語で « comédie musicale » あるいは « film musical » (ミュージカル映画)と呼ばれる1930年代に多く作られた作品群に対して、すぐに « musical » という形容詞が使われたわけではなかったと言えるかもしれない。この問題について、フランス語圏に関して筆者自身は未調査であるが、英語圏に関しては、トーキー初期「ミュージカル」という表現がすぐ用いられたのではなかったとされる。これについては Rick Altman, Film/Genre, British Film Institute, 1999, pp. 31-34. を参照されたい。

[33] René Jeanne, “ Le film “ parlant ” va-t-il révolutionner l’art et l’industrie cinématographiques? ”, La Revue Hebdomadaire, Tome X, octobre 1929, pp. 476-486.

[34] Ibid., pp. 479-482.

[35] “ Soyons précis... ”, Schweizer Cinéma Suisse, n°11-12, 1-15 juin 1930, p. 4.

[36] “ Les Films sonores sur le marché français ”, La Cinématographie Française, n°581, 21 décembre 1929,

p. 38.

[37] Gazette de Lausanne, 17 octobre 1930.

[38] “ Communiqués ”, Gazette de Lausanne, 29 mai 1930, p. 4.

[39] Valentin Mandelstamm, “ L’Avènement des Films parlants et synchronisés ”, Cinémagazine, n°6, 8 février 1929, pp. 229-230.

[40] Alexandre Arnoux, “ Il ne suffit pas de parler pour faire du parlant ”, Pour Vous, n°71, 27 mars 1930,

p. 3.

[41] アダプタシオン」版については以下の拙論も参照されたい。北田理惠、「サイレントからトーキー移行期における映画の字幕と吹き替えの諸問題」、『映像学』第59号、1997年、44-47頁。北田理惠、「多言語都市ローザンヌにおけるトーキー映画の興行と受容」、『映像学』第64号、2000年、41-46頁。

[42] Le Temps, 28 mars 1931, p. 6.

[43] Lucien Wahl, “ Les nouveaux films de la semaine ”, Pour Vous, n°109, 18 décembre 1930, p. 5.

[44] しかしながら、このアメリカトーキー映画の広告記事はスイスでも早くから映画雑誌で紹介されている。例えば、192861日付のSchweizer Cinéma Suisse, n°11, p. 15.

[45] “ Au Lumen ”, “ Dans nos cinémas ”, Feuille d’Avis de Lausanne, 4 mars 1929, p. 4.

[46] Robert L. Carringer, The Jazz Singer, The University of Wisconsin Press, 1979, p. 140.

[47] Ibid., pp. 49-133.

[48] William Bernard, “ La question des films parlants ”, “ Chronique Cinématographique ”, La Tribune de Genève, 13 juillet 1929.

[49] “ Le film sonore à l’Alhambra ”, Journal de Genève, 4 août 1929.

[50] Jean-Loup Passek, Dictionnaire du cinéma, Larousse, 1991, p. 625.

[51] Roger Icart, La révolution du parlant, vue par la presse française, Institut Jean Vigo, 1988, p. 109.

[52] Ibid., pp. 109-129.

[53] Marcel Carné, “ De l’internationalité du film parlant ”, Cinémagazine, n°48, 29 novembre 1929, p. 335.

[54] 筆者はこの作品を実際には観ていないが、たとえばAlan G. Fetrow, Sound Films 1927-1939 : a United States filmography, McFarland & Company, 1992, p. 733. に「パートトーキー」だと紹介されている。具体的には、192974日に日本で公開されたときの『キネマ旬報』における紹介記事を引用してみよう。「発声映画の元祖とも言うべきワーナー・ブラザースのヴァイタフォンによるこの映画は、我々に始めてのヴァイタフォン映画の良さを知らしめた。その発音−殊に会話の明瞭さは可成に驚くべき物があった。私は之で初めて発声映画の会話−本映画は五〇パーセント・トーキイである為会話はごく部分的にしか無いが−を解する事が出来た。(中略)興行価値−発声版は多大であろう。本邦最初のヴァイタフォン映画ではあり、トーキイとは言うものゝ伴奏、擬音、及び極く部分的の会話で、字幕が主であるから説明も充分に附けられる。」[なお引用文中の旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めた]村上久雄『キネマ旬報』、No. 3371929721日号、45頁。

[55] これについては以下の拙論も参照されたい。北田理惠、「多言語都市ローザンヌにおけるトーキー映画の興行と受容」、『映像学』第64号、2000年、37-51頁。Rié Kitada, “ L’exploitation et la réception des films à Lausanne (Suisse) au moment du passage du muet au parlant : Une histoire de la naissance des sous-titres (v.o.) et du doublage (v.f.) ”, CineMagaziNet!, No.4, 8 septembre 2000.