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ジョナス・メカス『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』(2000年、288分)

Keep looking for things in place where there’s nothing

――ジョナスメカス『みつつ垣間見た美しい時の数々

大沢浄

 

 

かつてメカスは、ジャンルノワルを「永久に新しい波」と評したが、このことは80を過ぎてなお倒的に新しい作品を作りつづけるメカス自身にてはまるだろう。

みつつ垣間見た美しい時の数々』は、メカスが家族や友人とのおよそ30年の日をおさめて編集した十六ミリフィルムであり、おそらくはゴダルの『映史』と並んで、20世紀が生んだ最も美しいイメジの一つである。

 

メカスは人生=映を生きる

よく知られている話であるが、火の故を逃げ出し、偶然によってある異の都市に漂着した年メカスにとって、自分という存在を他人に認めさせる唯一の手段は映キャメラだった。以後、年は個人映運動を組織し、作品を作り、批評を書き、上映を催し、アカイヴを設立して名共に前衛映の先導者として認められていくことになる。
「本
はもうやりたくないんです(笑)。私は本に何も欲しいものはないのですが、あえて言えば、何もしなくていい況というのを私は望んでいます。川べりでころんで、一日中、雲を見ていられたらいいな、と」。
[1]しかし、かつては手段に過ぎないと思われていた撮影機械は、年の肩に居候するうちにその身体の一部になり――それは身体が機械の一部になったということでもあるのだが――今ではかなりの年を重ねてしまったその人にとって、世界(とりわけ身の回りにある存在)の美しさを知することと、それら光の層をキャメラによって刻印することとは同義語になってしまっている。「しかし、どうしても撮らざるをえない瞬間やイメジに出うと、それには逆らえないんです。(中略)私は目の前に撮らざるをえないものがあるから、撮るだけです」。

 

メカスは瞬きするかのように撮りける

ひとつの撮影機械であるメカス=キャメラに必要なのは、その二本の脚であって三本ではない。それはなにも、固定されたセットアップが事物の一瞬の閃きを捕捉しえないと信じているからではないし、手持ちキャメラの動きの「人間的な」偏差がイメジにもりと湿を回復させると思っているからでもない。そうではなく、プライベトなものとの日の交から「美」を見出そうとするメカスにとっては、それらを前にして絶え容を迫られるようなポジションに自らを置くことが絶的に必要であるからだ。メカスが撮るプライベトなものとは、まだ幼い娘が飼い猫の前足にそっとれてみるしぐさであり、一家が陽光ふりそそぐセントラルクに出かけてワインを回しみする子であり、行地での木や草花の息吹きであり、雪の降りしきる冬のニュー・クの街並みである。それではしかし、なぜメカスは絶えず容を迫られなければならないのか。それは、キャメラによって「美しい」瞬間をとらえることが絶望的に困難であることを知っているからであり、また年月の堆積が、イメジの地層の美しさ自体をも容させていくことを知っているからである。しかしだからといって、メカス=キャメラは手たり次第記保存しておいて編集で解決しようというようなホヴィ/ヴィデオ的なコンサヴァティズムにることはない。絶えず再編成される撮影機械であるメカス=キャメラは、あくまで存的選として「美」を瞬間的に(しかし執拗に)捕捉しようと試みるのだ。このようにしてメカスはシングルフレム撮影(一コマづつ撮影すること)を「見」したのであり、それは決して承されえない突然異的な「技術」なのである。

 

メカスは息せき切りながら深呼吸する

メカスは、あえて個人的な「美」のみを追求することによって人生を語ろうとする。では、くものでしかありえない人生(Life goes on)を語る形式とはいかなるものか。
「そこで今回たくさんのフィルムをまとめる段になって、まず考えたのは、年代順に並べることだった。でもそれはすぐに諦めて、棚からとりだした順に
いでゆくことにした。人生の片の数々がどこにあてはまるのか、わたしは本に知らないからだ」。
[2]の冒頭でメカス自身によって述べられている通り、30年の記/記憶は膨大な片群に分けられ、それらの冒頭には百の字幕が付けられ、時系列を無視して全12章に並び直され、音と言えばまぐれに編集中とおぼしきメカスの白や歌(!)が入れられたり存の曲が付けられたりする。しかし重要であるのは、それら「片」が、他の片群とのアナな並置によるスペクタクル化の素材として召還されているのではないことだ。思わせぶりなモンタジュや意外なイメジの組み合わせほどメカス映から遠いものはない。一つには、それら「片」は視点の混在したフラッシュバックのようなものとは程遠く、あくまでメカス=キャメラの身体­=視点という不在の中心を持った求心的な映像である。二つ、字幕はそれにく「片」の容をあるいは正確に示し(「日曜の朝、17丁目、1973年12月」「ソにて」等)、あるいはそれらにしてメカス自身がこめた思いを記述する(「これは政治的な映である」「至福の時に包まれ、それまでのすべてを忘れた」等)ことにより、見る者がイメジをむことにおいて路頭に迷うことのないように(だが豊かな選肢を示しながら)誘導している。だからここにあるのは、(見る者が作者の来歴について知っているかどうかに係なく)あくまでもメカスとその周をめぐる物語であり、人生を物語ることの不可能性の地点に留まりつつ語られる――あえて言うならば――この上なく見事な物語なのである。

 

メカスは吃り、叫ぶ

余所者であり詩人であり、つまりはことのほか話し言葉(ト)に敏感にならざるを得ないメカスにとって、かつて―そこに―あった映像に付け加えるべき定性的な言葉はない。メカス映は、本質的にサイレント映なのである。しかし、編集室において、いま―ここに―再生されている映像とそれを前にした自分自身、そして未客についてなら、何かを言うことができるだろう。アウグストヴァカリスによるピアノ演奏が映像に合わされ、メカス自身によって言葉が語られる。
「今こうして映像を見るとき、わたしはまったくちがう所からこれを見る。わたしは今、まったくちがう所にいる。これはわたし、それも、あれも、しかしもうわたしではない、今、これを、わたし自身を、わたしの人生を、友を、最後の四半世紀を、この千年紀を見ているのがわたしなのだから」。
[3]「あなた方の見ている映は、いわば、なんでもないものの傑作だとづかれたのではないだろうか。映でも人生でも、なんでもないもの、重要でもなんでもないものにわたしがとりつかれていることにづかれたにちがいない」。
[4]メカスはためらい、言いよどみ、繰り返し、訥と、しかし少しのアイロニもなしに語る。
「それでもわたしは
みつづける、ゆっくりと、前に進んでゆく、すると思いがけないときに、幸せと美を垣間見ることがある、思いがけないときに。だからわたしはみつづける、前に進む、友よ――」。
[5]そしてラストはとりわけ感動的である。そこには宙吊りの自分をそのまま炸裂させ、肯定し、見けてきた者にそして自らに絶的な祝福を贈るメカスがいる。人は、メカスと共にならば、いつだってロマンティストになることができる。

 

 

 

※『みつつ垣間見た美しい時の数々』は各地で上映予定(京都では10月5、6の日に上映が催された)。



[1] ジョナス・メカス『フローズン・フィルム・フレームズ――静止した映画』木下哲夫訳、河手書房新社、1997年、5354頁。

[2] 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』シナリオ(ジョナス・メカス著、木下哲夫訳、メカス日本日記の会/jmo制作)、2002年、4頁。

[3] 同上、29頁。

[4] 同上、17頁。

[5] 同上、24頁。