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Keep looking for things in place
where there’s nothing
――ジョナス・メカス『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
大沢浄
かつてメカスは、ジャン・ルノワールを「永久に新しい波」と評したが、このことは80歳を過ぎてなお圧倒的に新しい作品を作りつづけるメカス自身に当てはまるだろう。
『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』は、メカスが家族や友人とのおよそ30年の日々をおさめて編集した十六ミリフィルムであり、おそらくはゴダールの『映画史』と並んで、20世紀が生んだ最も美しいイメージの一つである。
メカスは人生=映画を生きる
よく知られている話であるが、戦火の故郷を逃げ出し、偶然によってある異国の都市に漂着した青年メカスにとって、自分という存在を他人に認めさせる唯一の手段は映画キャメラだった。以後、青年は個人映画運動を組織し、作品を作り、批評を書き、上映会を催し、アーカイヴを設立して名実共に前衛映画の先導者として認められていくことになる。
「本当はもうやりたくないんです(笑)。私は本当に何も欲しいものはないのですが、あえて言えば、何もしなくていい状況というのを私は望んでいます。川べりで寝ころんで、一日中、雲を見ていられたらいいな、と」。
[1]しかし、かつては手段に過ぎないと思われていた撮影機械は、青年の肩に居候するうちにその身体の一部になり――それは身体が機械の一部になったということでもあるのだが――今ではかなりの年を重ねてしまったその人にとって、世界(とりわけ身の回りにある存在)の美しさを知覚することと、それら光の層をキャメラによって刻印することとは同義語になってしまっている。「しかし、どうしても撮らざるをえない瞬間やイメージに出会うと、それには逆らえないんです。(中略)私は目の前に撮らざるをえないものがあるから、撮るだけです」。
メカスは瞬きするかのように撮り続ける
ひとつの撮影機械であるメカス=キャメラに必要なのは、その二本の脚であって三本ではない。それはなにも、固定されたセットアップが事物の一瞬の閃きを捕捉しえないと信じているからではないし、手持ちキャメラの動きの「人間的な」偏差がイメージに温もりと湿り気を回復させると思っているからでもない。そうではなく、プライベートなものとの日々の交渉から「美」を見出そうとするメカスにとっては、それらを前にして絶えず変容を迫られるようなポジションに自らを置くことが絶対的に必要であるからだ。メカスが撮るプライベートなものとは、まだ幼い娘が飼い猫の前足にそっと触れてみるしぐさであり、一家が陽光ふりそそぐセントラル・パークに出かけてワインを回し飲みする様子であり、行楽地での木々や草花の息吹きであり、雪の降りしきる冬のニュー・ヨークの街並みである。それではしかし、なぜメカスは絶えず変容を迫られなければならないのか。それは、キャメラによって「美しい」瞬間をとらえることが絶望的に困難であることを知っているからであり、また年月の堆積が、イメージの地層の美しさ自体をも変容させていくことを知っているからである。しかしだからといって、メカス=キャメラは手当たり次第記録保存しておいて編集で解決しようというようなホーム・ムーヴィ/ヴィデオ的なコンサヴァティズムに陥ることはない。絶えず再編成される撮影機械であるメカス=キャメラは、あくまで実存的選択として「美」を瞬間的に(しかし執拗に)捕捉しようと試みるのだ。このようにしてメカスはシングル・フレーム撮影(一コマづつ撮影すること)を「発見」したのであり、それは決して伝承されえない突然変異的な「技術」なのである。
メカスは息せき切りながら深呼吸する
メカスは、あえて個人的な「美」のみを追求することによって人生を語ろうとする。では、続くものでしかありえない人生(Life goes on)を語る形式とはいかなるものか。
「そこで今回たくさんのフィルムをまとめる段になって、まず考えたのは、年代順に並べることだった。でもそれはすぐに諦めて、棚からとりだした順に繋いでゆくことにした。人生の断片の数々がどこにあてはまるのか、わたしは本当に知らないからだ」。
[2]映画の冒頭でメカス自身によって述べられている通り、30年の記録/記憶は膨大な断片群に分けられ、それらの冒頭には数百の字幕が付けられ、時系列を無視して全12章に並び直され、音と言えば気まぐれに編集中とおぼしきメカスの独白や歌(!)が入れられたり既存の楽曲が付けられたりする。しかし重要であるのは、それら「断片」が、他の断片群とのアナーキーな並置によるスペクタクル化の素材として召還されているのではないことだ。思わせぶりなモンタージュや意外なイメージの組み合わせほどメカス映画から遠いものはない。一つには、それら「断片」は視点の混在したフラッシュ・バックのようなものとは程遠く、あくまでメカス=キャメラの身体=視点という不在の中心を持った求心的な映像である。二つ、字幕はそれに続く「断片」の内容をあるいは正確に示し(「日曜の朝、17丁目、1973年12月」「ソーホーにて」等)、あるいはそれらに対してメカス自身がこめた思いを記述する(「これは政治的な映画である」「至福の時に包まれ、それまでのすべてを忘れた」等)ことにより、見る者がイメージを読むことにおいて路頭に迷うことのないように(だが豊かな選択肢を示しながら)誘導している。だからここにあるのは、(見る者が作者の来歴について知っているかどうかに関係なく)あくまでもメカスとその周辺をめぐる物語であり、人生を物語ることの不可能性の地点に留まりつつ語られる――あえて言うならば――この上なく見事な物語なのである。
メカスは吃り、叫ぶ
余所者であり詩人であり、つまりはことのほか話し言葉(トーキー)に敏感にならざるを得ないメカスにとって、かつて―そこに―あった映像に付け加えるべき定性的な言葉はない。メカス映画は、本質的にサイレント映画なのである。しかし、編集室において、いま―ここに―再生されている映像とそれを前にした自分自身、そして未来の観客についてなら、何かを言うことができるだろう。アウグスト・ヴァーカリスによるピアノ演奏が映像に合わされ、メカス自身によって言葉が語られる。
「今こうして映像を見るとき、わたしはまったくちがう所からこれを見る。わたしは今、まったくちがう所にいる。これはわたし、それも、あれも、しかしもうわたしではない、今、これを、わたし自身を、わたしの人生を、友を、最後の四半世紀を、この千年紀を見ているのがわたしなのだから」。
[3]「あなた方の見ている映画は、いわば、なんでもないものの傑作だと気づかれたのではないだろうか。映画でも人生でも、なんでもないもの、重要でもなんでもないものにわたしがとりつかれていることに気づかれたにちがいない」。
[4]メカスはためらい、言いよどみ、繰り返し、訥々と、しかし少しのアイロニーもなしに語る。
「それでもわたしは歩みつづける、ゆっくりと、前に進んでゆく、すると思いがけないときに、幸せと美を垣間見ることがある、思いがけないときに。だからわたしは歩みつづける、前に進む、友よ――」。
[5]そしてラストはとりわけ感動的である。そこには宙吊りの自分をそのまま炸裂させ、肯定し、見続けてきた者にそして自らに絶対的な祝福を贈るメカスがいる。人は、メカスと共にならば、いつだってロマンティストになることができる。
※『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』は各地で上映予定(京都では10月5、6の両日に上映会が催された)。