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 ジョナス・メカス『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』

身体技法の回復――フルーツ・チャン『ドリアンドリアン』

大沢浄

 若い女性が、大雪原の広がる北の地から短期で蓄財を果たそうとはるばる南の大都会まで出稼ぎに来ている。他の多くの同じ境遇の者たちと同様、彼女が売ることができるのは自らの体を用いたサービス以外になく、男たちの仕切りと搾取のもとに馬車馬のように働き始める。とは言っても、そこからこの商売にありがちな不等価交換(なぜなら「正当な」報酬額など算定できないから)にもとづく自己疎外やそれに伴う精神的葛藤が問題となっていくのではないし、それらの背景に潜在する「国内格差」や「階級」といった事柄に鋭利な分析の眼が注がれるわけでもない。この映画で徹頭徹尾問題になっているのは、自分らしい身体のあり方を見出すことであり、またそれがいかなる条件のもとで可能になるかということである。
 
際、マネージャーからの出勤要請の電話に素早く応える彼女の働きぶりには少しも逡巡するところがないし、ビザの都合で就労期間が限定されている身にとって、自己の行為を落ち着きはらって省察してみる猶予などありはしない。不等価交換から生ずるのは、心理的な過不足ではなく身体の不均衡である。映画前半での彼女は、ひたすら「洗うこと」を繰り返している。一日に何度も男の体を「洗うこと」こそが彼女の主な業務である。しかしその高温多湿の環境と水と石鹸による洗浄の繰り返しが彼女自身の手足を傷つけずにはいられない。ことによったら「水虫」の一言で片付けられるかもしれないこの皮膚疾患は、彼女の身体のリズムが狂い始めていることの証である。したがってよく食べ、よく飲み、よく排泄するという彼女の特徴的な行為(ボディガードの少年が女性のトイレを借りた際に排泄紙がうず高く積まれていたのを思い出そう)は、そうした身体リズムの狂いに対する消化系の切実な反応にほかならない。だが過剰に「洗うこと」に由来する表面の損傷を、過剰に摂取消化排泄することで修復するのには(内臓と皮膚とが密接な影響関係にあるという現代医学の常識をもってしても)いささか無理がある。彼女はますます「洗うこと」に邁進する一方、自室ではひたすら寝そべり、通勤の街路ではひたすら早足で移動し、身体はこわばりきっている(ショットは意図的に安定を欠き、室内では広角レンズによって切り取られた身体の部分が、街路では望遠レンズによって周囲との調和を失い隔絶された表情や足が提示される)。いったいどのようにして彼女は自らの身体を取り戻していくのか。
 
要なのは、彼女は自らの意志では身体を立ち止まらせ、解きほぐすことができないということである。彼女に光明を与えるのは、一人の少女の導きである。主人公女性の近所に住み最終的には違法滞在で家族ともども検挙されてしまうこの少女は、彼女の親友であると同時に彼女自身の鏡像でもある。映画冒頭(香港島と主人公の故郷の風景がオーヴァー・ラップするシーン)と中盤(送られてきたドリアンに添えられた手紙の朗読のシーン)で二人のヴォイス・オーヴァーが重なることや、少女の主な業務もまた(皿や野菜を)「洗うこと」であるのは、そのことを端的に示している。少女が体現するのは、主人公女性とは逆のベクトルであり、それはちょうど鏡像が身体の左右を逆に表象するのに似ている。成人に対する少女、合法(といっても限りなくクロに近いのだが)に対する違法、見られることに対する見ること、そして「洗うこと」に関する下降と上昇の違い。少女は妹とともにシャボン玉を制作する。それは同じ「洗うこと」ではあっても、主人公女性とは異なる水と石鹸の使用法であり、異なる方向への運動であり、つまりは「洗うこと」が可能にする別の世界の光景を示しているのである。このように少女は主人公女性にとってなくてはならない片割れであり、二人は本質的に同じもののちがう側面同士なのである。
 
た彼女に自己の身体を見つめなおすきっかけを与えるのは、身近な男性の身体の変調、もっと言えば「転倒」である。彼女の「勤務中」片時も離れることなく影のように付いて回るボディガードの少年は、ある日とんでもない物体の襲来によって突然地に突っ伏せ、赤い液体を流すことになるだろう。見なれた少年の身体に起こった見なれぬ異変が、彼女自身の身体の記憶の扉を開く。「ドリアン」なるこの巨大で醜悪な果物(なにしろそれは「地雷」と呼ばれる)の唖然とするほかない登場のしかたは、とても文章で説明できるものではない(実地に確かめていただきたい)が、この重量堅固な物体の闖入の直後に提示されるのは、彼女が自らの失われた「身体技法」を再び発見する瞬間である(それがどのように提示されるかもここではあえて述べない)。このようにして「南」で発見された「身体技法」はしかし、彼女が滞在期間の許す限りまで働き、それによって得た資金を手に東北の故郷に戻ることで、再び試練にさらされる。そもそも「南」に出稼ぎに行ったのは経済的に自立するためであったのだが、文字通り「自ら立つ」ことを、彼女は身体のあり方の水準で実践できているわけではない。親戚近隣者たちに土産物を贈ったり、宴会で大盤振舞いをしたり、服飾の売買の見学に行ったりと、試行錯誤が続く。おまけに「南」での「洗うこと」の記憶が身体に刻印されており、それが彼女を苛む。幼馴染みたちと昔日の京劇学校を訪れ、練習場で補助付きで宙返りをしてはみても、仲間たちに混じって出し物をする自信はどうにもわいてこない(この宙返りの所作も、われわれは鏡を通して遠くからおぼろげにしか確認できない)。「北」において彼女の身体の再発見のきっかけとなるものは、やはり近しい男性の「転倒」であり、そこには再びドリアンが絡んでいる(『ドリアンドリアン』!)。先の少女からはるばる小包で送られてきたこの強烈な異臭を放つ「果物の王様」を手土産に、彼女は、幼馴染みたちが京劇の出し物をしているナイト・クラブの席につく。「インターナショナル」をパロディにした演目を終えると彼らは仰向けに倒れこみ、観客の拍手を要求する(そのうちの一人は彼女の元夫である)。目の前で演じられたこの二度目の「転倒」が、彼女に再度「身体技法」の回復を促す契機となる。ドリアンはというと、友人の一人が皆の前でさんざん難儀したあげくに割ることに成功し果肉が提供されることになるが、外見と同様その中味もはなはだ扱いに困る厄介物でありつづける(皆で恐る恐る箸をつける)。時が過ぎ友人や近親者たちが「南」へ旅立って行くなか、彼女は一人京劇の衣装に身を包み、簡易舞台の上で天女の歌を歌う。このとき、歌い踊るなかで彼女の手からはらっと投げ出された花びらのその上昇の運動こそは、少女のシャボン玉の運動から受けつがれたものである。彼女はようやく「洗うこと」に由来する身体のこわばりを別の次元に昇華させることに成功し、「身体技法」を回復したのである。
 
のように、『ドリアンドリアン』が示すのは、一人で立つことがいかにして可能になるかというその過程である。フルーツ・チャンの前作『リトル・チュン』が、少年チュンがいかに自転車を乗りこなすようになるかという前進の物語であるとすれば、『ドリアンドリアン』は、人生の目標を見失った者が、自らの身体の記憶を拠り所としておずおずと一歩を踏み出す再出発の物語である。また第二作『メイド・イン・ホンコン』や第三作『花火降る夏』が性と死の突発、精液と血液の噴出によって「返還前」のリビドーを体現していたとすれば、『ドリアンドリアン』が描くのはリビドーを見出すこと自体が困難であるような世界である。われわれは一作ごとに変化しつづけるフルーツ・チャンの次回作(すでに撮り終えたらしい)に十分期待してよいだろう。
 
れにしても、ドリアンとは一体何か。それは「重さ」そのものとして登場し(何しろ鈍器なのである)、「南」での彼女自身の複雑な経験を想起させるもの(くさいが味わいがある)であり、彼女に身体技法の回復の契機を与えるものでもある。ある哲学者による次の一節はこの奇妙な存在をうまく説明しているかに思われる。

創造は、重力の下降運動、恩寵の上昇運動、それに二乗された恩寵の下降運動とからできあがっている。 1

 分にとって逃れようのないもの(重力)が、自分を低みに引きずりおろす。と、そこに自分の意志を超えたもの(恩寵)が現われ自分を満たし、高みへと誘う。そしてそのことによって初めて、再び低みへと向かうことができるようになる。これは神秘思想でもなければ科学法則でもなく、単に超越論的主観の契機を述べているにすぎない。これにならって言えば、ドリアンとは重力であり、かつ恩寵である。


1 シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳、筑摩書房、1995年、13頁。