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黒沢清『アカルイミライ』(2003年、115分)

覚醒と転調

――黒沢清『アカルイミライ』(2002年、115分)藤井謙二郎『曖昧な未来、黒沢清』(2002年、75分)

 

大沢浄

 

 

画冒頭において自分が見る未来の夢についてオフの声で語り、まるで『ニンゲン合格』(1999)の西島秀俊のように手を宙に泳がせながら椅子に体を預けているオダギリジョーを目の前にして、見る者は彼もまたこれから「覚醒」へと至るであろうことを予感し、またそれがどのような行程を経て実現していくかに思いをはせることになる。もちろん黒沢清のことであるから、「覚醒」とは言っても、それが成熟や成長といった象徴秩序への参入を目的とした変化の運動ではないことは言うまでもない。『ニンゲン合格』において、西島秀俊がかたくなな意志で実家の解体を拒み、手作りのポニー牧場を運営したあげくに「そろそろ、目、覚まさないと」とつぶやきながら牧場を自ら廃棄するというまわり道を経ていくこと、またそうすることによって自分の中を流れてきた時間をまるごと肯定するに至ること、それが黒沢清的な「覚醒」に他ならない。

 

かし、10年の眠りという誰にとっても理解不能な仮死状態の後に到来した『ニンゲン合格』における西島秀俊の二度目の生とは異なり、『アカルイミライ』のオダギリジョーは、とりたてて人生を変えるような大きな出来事に遭遇してきたようには見えない。弁当屋で唐揚げが小さいと文句を言って理不尽な騒動を起こしてみせる彼は、いまだ分化をはたせずに自己を持て余している生物体のようだ。おしぼり工場にバイトとして働いている時はもちろん、年上の同僚かつ唯一の友人であるらしい浅野忠信の部屋で漫画雑誌に目を通したり、ボーリング場やゲームセンターで遊んでいる時でさえ、少しも楽しんでいるようには見えない。上司の家に机運びの手伝いとして呼ばれ、夕食をご馳走になったりもするが、そこで会話を弾ませるわけでもない。このように「覚醒」のための大いなる迂回路にすらたどり着けないでいる若者をいかに「覚醒」させていくか、これが新作『アカルイミライ』において黒沢清が踏み入った新たな領域である。

 

ダギリには三つの手がかりが与えられる。「待て」と「行け」を示すシンプルな記号、アカクラゲ、そして「父」である(これらすべてをもたらす浅野の黙示的な先導ぶりは素晴らしい)。最初の記号は、そのまま「覚醒」することのからくりを示している。それは、「覚醒」とは困難な試練を乗り越えた後に獲得が期待される宝物のようなものではなく、単に「待て」から「行け」へと状態が移行することに過ぎないことを見る者に示唆している。つまりオダギリは――そして「われわれ」も?――いつでも「覚醒」することができるし、また、すでにつねに「覚醒」している。しかし、問題は、オダギリがどうやってその「覚醒」の現勢化の認知に至るかである。そのために用意されるのが、アカクラゲと「父」という、残り二つの手がかりである。

 

動とも受動ともつかない様態でオダギリの目の前に出没するアカクラゲは、明らかにこれまでの黒沢映画における「怪物」――人知を越えた厄介な環境としての――の系譜に連なる存在であり、毒を持ち重力を欠いて浮遊するさまは、近年の『大いなる幻影』(1999)の花粉や『回路』(2001)のコンピュータ画像を思わせる。素晴らしいのは、この海水性の生物が水槽から居場所を替えることをきっかけとして妖しげに赤く発光し、床下、廃屋のタンク、東京を流れる川へと思ってもいない地点で姿を現す点である。触れれば命を脅かしかねないという危険さと、異なった生育環境(海水から真水)に平然と馴化していく不可思議さがオダギリを魅了し、共振させ、彼の「覚醒」への水路を開けていくことになる。

 

たがって、このクラゲがオダギリに譲渡される瞬間は重要である。浅野が、一人屋上で携帯電話をかけてクラゲを譲る意志を伝える場面のことだ。キャメラは、クレーンで移動して灰色の外景と外気を視界におさめながら、浅野をロング・ショットでとらえる。この突然の外と高さの導入が物語進行上の転調を告げ、見る者は何かが動き始めるのを察知する。ここでわれわれは、黒沢映画における屋上がまさにそうした転調の機能を果たしてきたことを思い出してみてもよい。『学校の怪談f 廃校綺譚』(1994/97)における幽霊の目撃、『神田川淫乱戦争』(1983)や『CURE』(1997)における人間の落下、『地獄の警備員』(1992)における出会い、『危ない話 夢幻物語』(1988)における危機からの生還等々。そしてここでは、『しがらみ学園』(1980)におけるカセットテープの再生にも似た、目に見えない指令の電波が空を媒介として発信されているのである。

 

かし、より興味深いのは、第三の手がかりである「父」、すなわち浅野の(5年間会っていない)父である藤竜也の導入である。このために、黒沢清はさらなる転調を実現してみせる。つまり、浅野に殺人を犯させることにより、浅野を地下に設定された拘置所の面会所(ここにオダギリと藤が別々に訪ねてくる)に居座らせるのである。それを示す一連のシークエンスは、ほとんど科白なしに、華麗な悪夢のように進んでいく。突然工場を辞めた浅野の身を案じてオダギリが浅野のアパートを訪れるが部屋は無人で、臨時ボーナスを手にしたオダギリが向かったボーリング場もいつのまにか閉鎖しており、上司に貸したCDを取り戻しに向かう途中でたまたま金属棒を見つけてオダギリが突如殺意を醸成したその先では、すでにその上司と妻が殺されてしまっている(後でこれは浅野の仕業だとわかる)。オダギリが脅えて自室に逃げ帰り、毛布に身をくるんで震えながら浅野に応答のない電話をかけてみるところを、キャメラはまるで溝口健二の『雨月物語』(1953)を思わせるような幻想的なパン・ショットで追っていく。いったい何が起こっているのか皆目見当もつかないでいるオダギリの目の前から、これまでの空間(浅野のアパート、おしぼり工場、ボーリング場、上司の家)が一気に廃棄されていく展開が、見る者に物語世界の次なる変化を予期させる。

 

野が拘置されることにより、藤が画面に登場する。やがて浅野が二人の前から確信犯的に姿を消すことをきっかけとして、オダギリと藤(電気機器の修理業を営んでいる)は出会い、擬似的な家族生活を営んでいく。黒沢清が『アカルイミライ』において新たな領域に入りこんでしまったのを決定づけるのは、この(肉親としてではなく象徴的役割としての)「父」の導入である。われわれは、このような黒沢映画――「父」と「子」という異なる世代の二人が全篇の半分以上にもわたって画面の中心を占め続ける――を予想することができただろうか。確かに『ニンゲン合格』においても、一人夜の牧場を眺める父の菅田俊を見て西島秀俊が役所広司にすがりつくシーンがあったが、それはあくまで「父」と「子」の関係がすでに永遠に失われてしまったことの追認でしかなく、そこから象徴関係を紡いでいくようなものではなかった。しかし『アカルイミライ』においてオダギリと藤は、降ってわいたような「父」と「子」という役割分担に当惑しながらも、同時にこれしか活路はないと確信しているかのように真っ直ぐ象徴関係の構築へと突き進んでいく。その絶頂は、オダギリが藤の元を飛び出した後、やがて帰還を果たすという「放蕩息子の帰還」の場面であり、そこでは「子」が赦しを求め、「父」が赦しを与えるのである。

 

うして、二つの手がかりとの交渉を重ねながら、オダギリは「覚醒」の自覚に近づいていくのだが、プロット構成上素晴らしいのは、オダギリと藤との間に展開される「放蕩息子の帰還」の過程において、クラゲ(的なもの)が分岐し増殖していくことにより、オダギリの「覚醒」という物語の進行と背中合わせに、クラゲと藤の「手がかり」としての役割からの解放という物語が胚胎していく点である。クラゲをめぐって「父」と「子」の軋轢が引き起こされ、オダギリと藤がいったん離反した後、藤は、いつしか増殖に成功して発光する複数の一群となって東京の水路を移動していくクラゲを目撃し、歓喜して近づいていってしまう。一方オダギリは、頭にピカピカ光る無線装置をつけ、お揃いのTシャツに制服を着崩した高校生の一団と出会い、ビルへの侵入と窃盗を先導する。彼ら高校生の外見と、無軌道な行動原理は、明らかにクラゲの一群と通底している。オダギリと藤に同時平行的に訪れるクラゲ(的なもの)との遭遇は、二人の「和解」の前段階を形成するが、一方でその過剰な増殖ぶりは、藤を複数であることの魅力へと誘う(オダギリとは異なり、藤が決して一匹の時のクラゲには興味を示さなかったことを思い起こそう)。しかし、再会したオダギリに、「わたしは、君たちすべてを、赦す」と思わず複数形で言ってしまう藤は、その人称の複数化が何に由来し、これからいかなる事態を引き起こすことになるのかまだ気づいてはいない。

 

に赦され、受け入れてもらった後、オダギリは「覚醒」に至る。東京でクラゲが異常繁殖していることを報じるニュース番組を見た後に、前半の浅野の呼びかけに応えるかのようにおもむろに屋根に上り、テレヴィのアンテナを破棄してみせるその手つきは、まるでこれ以上クラゲのことに関心はないし、指令の電波を受信することも不必要だと告げているかのような静かな確信に溢れている。そして、「ここからじゃ何も見えませんね、そのことがわかりました」と藤に晴れ晴れと告げるその表情は、自分がすでにつねに「覚醒」していたこと、また「覚醒」することが決してここにはない何物かを手に入れようと欲することではないことの了解に至っている。『アカルイミライ』は、この「屋上」の場面で最後の素晴らしい転調をはたしてみせる。オダギリは、虚構の父子関係に形を与えるべく役所から養子縁組の申請書を持ち帰った藤のそばに、破棄したアンテナを落として何事かを警告してみせるのである。落下の垂直運動と衝撃音が、水平に向き合っていた「父と子」の象徴関係がいつでも解消可能なことを見る者に告げる。

 

の定、藤は、海へと向かうクラゲの一群を再び目にして河に分け入って進み、「危ない、触っちゃだめだ」と言うオダギリの忠告を無視して思わずクラゲを直接手にとってしまう。この感動的としか言いようのない遭遇――あれほど触れてはならないと言われていたクラゲを、ついに、しかもこの上なく堂々と、つかみとってしまった――において、もはや藤は「父」であることをやめ、クラゲも「覚醒」のための手がかりであることをやめている。毒にあたって倒れた藤を抱きかかえながら川岸に座り込むオダギリの表情は、間違っても藤の行為を責めてはいない。その佇まいは、クラゲと「父」が自分の元から去っていくのを――「覚醒」した者には手がかりとしてのそれらが不必要になってしまったことを理解しながらも――最後の試練として無言で受け止めているかのようだ。

 

「これから」に充満しているかに見えるオダギリを描いた後に、黒沢清は折り目正しく藤とクラゲ(的なもの)の「これから」を示して映画を閉じてみせる。「覚醒」したオダギリに看取られ(?)、見る者には生きているとも死んでいるとも判別のつかない藤は、浅野の元に送り返され、ようやく実の子との関係を新たに開始しているように見える。また、警察に捕まっていたはずの高校生たちはいつのまにか解放され、オダギリの存在を懐かしみながらどこかに向かって歩き続けている。それが「どこ」であるかは、そっくりわれわれに委ねられているかのようだ。このようにして映画『アカルイミライ』はオダギリジョーを「覚醒」させ、返す刀でわれわれにまだ手つかずの未来を贈与してくれている。


 

 

※ 『アカルイミライ』は2月15日より大阪シネ・リーブル梅田、京都みなみ会館、神戸シネ・リーブル神戸にて公開中。

※ なお、この『アカルイミライ』の撮影現場に密着して、黒沢清以下の主要スタッフ・キャストのインタヴューを盛り込んだ貴重なドキュメンタリーである『曖昧な未来、黒沢清』は2月15日より大阪・シネリーブル梅田にて、2月22日より京都みなみ会館にて、3月より神戸シネ・リーブル神戸にて公開中(予定)。