CineMagaziNet! Essays
ケン・ローチ『ブレッド&ローズ』
  黒沢清『アカルイミライ』

中田秀夫『ラストシーン』

ラディカルな視線による愛の獲得

――中田秀夫『ラストシーン』(2002年、100分)

 

大沢浄

 

 

もが知っているように、中田秀夫の映画においては視線のやりとりが決定的な役割を果たしている。劇的なものの行方は、誰と誰――もちろん「人」とは限らない――が、どのような状況で視線を交わす――あるいは交わさない――かにかかっている。たとえば、縦の構図において後景に位置する者が前景の者を一方的に見つめるといういかにも中田秀夫らしい視線の演出は、「純愛」映画『女教師日記 禁じられた性』(1995)においては男子高校生の女性教師への、また親友の女子高校生の男子高校生への片思いを簡潔に語るであろうし、傑作探偵映画『暗殺の街』(1997)においては猜疑と裏切りが交錯する男たちの世界を構築することになる。これに少し手を加え、後景の者の視線の在り処を不明にすることによって、前景の者が正体不明の存在に怯える『女優霊』(1996)、『リング』連作(1998−99)、『仄暗い水の底から』(2002)といった「恐怖」映画作品群の輝かしい瞬間が生まれるだろう。

 

り中田秀夫らしさを刻印するであろうもう一つの視線の演出は、ほとんど愚直と言ってよいであろうクロースアップの切り返しの意識的な使用であり、これは中田秀夫作品群の同時代における相対的な貴重さを証明するものだ。たとえば、「正しく」時代を「錯誤」していると言うべきであろう「純愛ファンタジー」映画『ガラスの脳』(2000)が感動的なのは、林を貫く一本道を自宅や学校と少女のいる丘の上の病院とをつなぐ空間として設置してみせた周到な演出もさることながら、少年と少女が真に心を通い合わせる(少女が眠りつづけていた自分を接吻によって起こそうとしていた「王子様」が少年だったと気づく)シーンにおいて、何のためらいもなく少女と過去の少年とを切り返しでつないでしまったからである。見る者は、はたして時空を越えて視線が一致するものなのかと動揺するとともに、そもそも映画における視線の一致というもの自体が、二者のありえない――だがそれゆえに情動を揺さぶる――融合ではなかったのかと、自らの歴史的観客としてのポジションを問わざるを得ないだろう。ここには、映画の最もデリケートな原理に対する、アイロニーなき自覚的な信任がある。

 

新作『ラストシーン』が素晴らしいのも、まるでグリフィスが『残菊物語』(溝口健二、1939)を撮ってしまったかのようなそのラディカルさにある。ほんの一瞬でスクリーンから姿を消したかつての大スターが何かに突き動かされたように再び俳優として撮影現場に臨むこの物語を、佐藤忠男はパンフレットで「カツドオ屋の心意気を心ゆくまで謳いあげたエンタテイメントの秀作」と評しているが、2002年の現在に、それだけの内輪話をわざわざ確かめに行くほど人は暇ではないだろう。そうではなく、『ラストシーン』のラディカルさは、絶えず見つめられ続ける者=スターが己の視線の対象を再び見出すという物語と、切り返しの一貫した使用という文体との徹底した共鳴ぶりにある。主人公(西島秀俊=ジョニー吉長)は、共演女優に見つめられ、スタッフに見つめられ、そして妻(若村麻由美)に見つめられる。その愚直なまでの切り返しの反複は、ほとんど正視に絶えないものであるが、現場で理性を失ってしまったかに見える西島秀俊がその場にいないはずの若村麻由美を見てしまうとき、また時代は下って、ジョニー吉長が在りし日のセピア色に包まれた自分と妻を見てしまうとき、見る者はこの徹底して原理的な試みを肯定するしかないことに気づかされる。はたして、ラストにおいてあらゆるスタッフがジョニー吉長を見つめるとき、彼の目の前から遠く離れてしまったと思っていた亡き妻が何のためらいもなく現前し、二人の視線は再び融合するだろう。

 

うしてみると、新人スタッフの麻生久美子がジョニー吉長と公園で特権的に瞳を交し合うことに成功するのも、彼女がたまたま昔の主人公の写真を見てしまったからであり、現在の彼と過去の妻とをつなぐ媒介者の資格を得てしまったからなのである。パンフレットで蓮實重彦が言うように「わけもわからぬまま口にした自分の一言が奇蹟のように招きよせる映画の輝きに脅えつつ、戸惑い気味にそれを肯定しようとする麻生久美子の無言の表情が不気味なまでに美しい」のが確かだとしても、その背後にはあくまでも見る/見られるという主題と切り返しの構造が横たわっているのを忘れてはならないだろう。ところで、スター=星の鈍い輝き(それは過去に放たれた光である)に黙しながら目を凝らし続ける存在に、われわれは心当たりがある。麻生久美子とはわれわれのことであり、この映画を「ノスタルジーから未来に向けて解き放つことに成功する」のは、まさに彼女の存在そのものである。

 

 

※『ラストシーン』は2003年1月中旬より、大阪・シネリーブル梅田にて公開予定。