CMN! no.1(Autumn.1996)

田中登監督ロング・インタビュー
「優美なる死骸遊び」に魅せられた作家、プログラム・ピクチャーの遺産

2.田中陽三、『人妻集団暴行致死事件』、『女教師』、『牝猫たちの夜』、ロ マンポルノの普遍性、弟子たち




−−今日上映した『秘(まるひ)女郎責め地獄』の脚本は田中陽造さんですね。

田中 陽造さんとは初めて組んで。

−−田中陽造さんのキャリアを見ていると、やはりこの『秘(まるひ)女郎責め地獄 』の仕事が、後の彼の仕事にかなり影響を与えたんじゃないかなと。ちょっと深読み みたいな気もしますが。

田中 あまり陽造さんはそういうこと口にしませんけどね。自分の息子を後架の中へ お母ちゃんが生み落とした、その苦しみがあるからね。水のような子しか生まないで しょう、陽造さんの種は。そんな感じしない?田中陽造さんと会うとそういう感性に なると思う。水のような子しか生まないんだから、あの人と仕事をするのは楽しいけ ど真剣勝負ですね。

−−監督の映画とか見てますと、密閉空間、例えば『秘(まるひ)色情めす市場』で いうあいりん地区、西成地区。あるいは『神戸国際ギャング』でいうあの焼け跡。あ るいはもっと顕著な例で言えば『実録阿部定』の旅館の部屋ですね。あるいは『人妻 集団暴行致死事件』の都市近郊のある町という閉ざされた空間が映画の中で濃密な意 味作用や雰囲気を主張する舞台になってることが多い。これは脚本家が違うにも、あ るいは企画が違うにもかかわらず、監督の映画にこういったものが共通するというこ とは企画段階で田中監督が介入されているのでしょうか。

田中 そうですね、『人妻集団暴行致死事件』の場合には、中川っていう川に潮が満 ちてくるんですけど、潮が退く時と潮が満ちる時と中川の川っぺりの葦に潮の満干の 落差が記されるんですよね、それを見てた時に、この映画は潮が退いた時の跡と潮が 満ちた時の跡、この残った空間の間だけの話にならないかな、その軽やかさというか 、軽さがまず映画にならないかなって思ったんですよね。それと、あれ、長部日出男 さんの短いレポートなんですけど、それをチラッと読ましていただいて、自分の心臓 の悪い奥さんが若者に、村の若者にレイプされてね、そして警察に届けるのにその中 年の男は24時間待ってるんですよね。で、24時間待って警察へ届けた。この人は どうして24時間待ったんだろうということがもう一つ気になって・・・。それとや っぱり都市化現象が非常に顕著になりかかる時代だったから、東京なら東京という都 市の周りのドーナツ化現象っていうか、そこが暗闇の中に閉ざされているような距離 感を持ちながら、そこで息している若者たちが闇の中から出てくる感覚があるんです よね。そして、しかも実際あった出来事で、『人妻集団暴行致死事件』の舞台に使っ た家は実際殺人が行われた家なんですよね、外回りのシーンはですね。だからあの集 落では、もう勤めを果たして出てきてる三人の若者もいるわけでね。で、佐治乾さん とその部落にシナリオハンティングで入った時には、その辺のことも含めて足で調べ ることから始まったんですね。あれはプロデューサー三浦朗さんになってますけども 、言い出しっぺは僕だったんですよね。
−−例えばそういったショッキングな話ですが、『人妻集団暴行致死事件』の舞台と して実際に殺人が行われた舞台を使っておられる。あるいはさきほどの西成の話に見 るロケによる徹底したリアリティ、そうかと思えば正反対に、今日の『秘(まるひ) 女郎責め地獄』は完全に人工空間になってます。監督は目に映る映画のオブジェ、視 覚性というものを表現する際、セットの人工性あるいはロケーションのリアリズムと かそういったものを作品によって使い分けられる。

田中 大体、僕、映画ってのは、何かで書いた記憶もあるんですが、「優美なる死骸 遊び」でいいんじゃないかと思うんですよ。「優美なる死骸遊び」のゲームっていう のはフランスのシュールレアリストたちがね、例えばこのエヴィアンの水をだれかが 思い浮かべると、これを隠しててだれか次の言葉言いますよね、例えばある前の人、 Aっていう人がミシンて心の中で思いますよね、そしたら次の人がこの人が思ったこ とを横の人に伝達しないで横にいるBの人が気持ちの中で何か考える、例えばコウモ リとか、そしてそれが何人か回ってて、最後にネタ明しをすると、ミシンがコウモリ になってストリッパーになって何とかっていうのがアトランダムにバーッとつながる その遊びをシュールレアリストたちがやったんですよね。映画っていうのはそういう ところがあるんじゃないかなと思ってるんですよ。「優美なる死骸遊び」じゃないか 、彼らが名付けた。つまり個々の事象なり事実なりはそれなりにリアリティをもって 勝手に作ればいい、作ればいいというよりも存在すると。そうすると個々に存在して いる事象なり、そういう出来事っていうものにどのぐらいエネルギーを注ぎ込んでリ アリティを持たせて、それが変なストーリーテリングによって通底されないで、これ がアトランダムに並んでく、そこから予期しなかった一つの劇的空間が生まれてくる っていうのが映画じゃないかなと思ってるんですよね。だからどうもね、ストーリー が巧みであるとかね、ましてや説教垂れる映画とかね、ストーリー性が切れ目なく巧 妙に組まれてる映画とかっていうのは、ある意味ではまやかしにしか思えないってい うような部分があるんですよ。まやかしっていうかね、これは危険だなあと思うとこ あるわけです。僕はだから映画を作ってる時にはいつもそんなことを考えてましたね 。

−−ワンショット、ワンショットへの執着は凄まじいと思うんですよね。

田中 そうですね。だから一つ一つの事象に対してこのディテール、ディテールに本 当にリアリティーを与えていかないと、このワンショットの、映画の持ってる空間が 次のワンショットに対してモンタージュされてかないんですよね。映画ってのはワン カットワンカットの事象の中に、映画的なエキスっていうか、そのセンスが満ち溢れ た連続でないとね、映画にならないわけですよ。
例えば、良心的な学校の先生が何か喋る、そういうようなのを延々聞かされるような 話っていうのはこの辺が痒くなってくるんですよ。(それだったら)『実録阿部定』 の中でね、いどあきおのシナリオに僕が付け加えたセリフあるんだけども、「外の光 が邪魔なのよ」っていうセリフがあるんだよ。あれは僕が付け加えたセリフなんです よ。で、いどさんにこのセリフは入らないかって言って僕が足したセリフなんだけど ね。つまり空間をそれだけこう凝縮して、その凝縮した空間を限りなく拡大する、乃 至は限りなく凝縮していくっていうと、何かほんとにブラックホールに近いようなね 、光も曲がってしまうようなスーパー重力の空間が出てくるんですよね。そうすると 、そのスーパー重力のその空間の中であらゆる格闘をしてゆく。それでいいかげんな 説明カット、説明セリフ、気持ちのいいストーリーテリングの展開なんてのはね、映 画の本質からちょっと困っちゃうんだよね、どっかはずれてる部分があるんですよ。
だから僕なんか時々自分のシャシン見ていくと、じゃあストーリーテリングもちゃん とある意味では転がっててちゃんとはまってる話も節目節目でちょっと見せようかっ ていうところもあるんだけども。そうじゃなくてやっぱり映画っていうのは、何か個 々の部分にどのくらいのリアリティーを持たしていくかっていう、その連続でいいよ うな気がするんですよ。しかもそれは理屈ではなくて画で語っていくっていうか、画 と音で語っていくっていうかね、それこそ映画ではないかなっていう部分があるもん ですから。

−−それを考えた時に例えば、これは私の推測なんですけども、永島さんの『女教師 』、ロマンポルノですけどもあのシナリオはいわゆる社会派ドラマになってます、。 しんどくなかったですか。田中監督の映画にしては物語というものがかなり社会的な 要素を・・・。

田中 ホンはね、中島丈博さんが書いてるんだけどね。だから丈博氏は要するにスト ーリーテリングで来るわけですよ、当然。そうすると僕の方で考えるのは、それをい かにぶち壊してね、映画らしくするかっていう作業なんですよ。
するとあれ、泉谷しげるの「春夏秋冬」なんかも音楽で使ってるんだけどね、あの時 に古尾谷雅人を初めてオーディションで採って、デビューさせたシャシンなんですけ ど、俳優さんのオーディションやってて古尾谷を選んだのは、人の肩よりも頭が3つ ぐらい上にいるんだよね。それでヒュッと見たらね、首が傾いで見えてね、なんかキ リンが立ってる、キリンがいるんじゃないかなと思ったんだよね。それでカッと顔を 見ると、この辺にこうちょっと凶暴さもあるしね、するとクッていうとね、うなじか ら目のところに悲しみが宿るんだ。そうするとね、足が外人並みに長いしね、「キリ ン少年の悲しみ」だって言ったんだけどね。この子しかいない、こいつしかいないん じゃないかなと思って採ったんですよね。
それに、例えば吉見百穴の穴の中に追い込むなんてのはシナリオには無いわけですよ 。

−−そうなんですか。あの最後、古墳がキューブリックの『シャイニング』の迷路の ようになってますけど。

田中 もちろんシナリオに書いてない。だからそういう風に、つまりどんどん映画と しての表現の場に追い込んでいくわけですよね。そしてまあストーリーテリングぐら いの腕力だったらね、それはもう日活の助監督時代から全部やってるわけだから、そ の程度のことはみんなできるわけですよ。自信があるわけですよね。だけどそれはや っぱり潔くないんだよね。だから山田吾一が学校の説教垂れるところなんかちょっと ね、能書き言うとこなんかある意味ではさ、分かっててやってるわけだけどね、分か ってやってるけども、そういう部分もやっぱり混ぜなきゃいかんなあっていうところ もあのシャシンにはあるわけでね。すると、こういうシャシンは当たるんだね。大ヒ ットするんだよね。

−−そうですね。これは公開当時大変ヒットしたロマンポルノの1本です。

田中 あれが「女教師」シリーズのはしりになっちゃったんだね。だから快い、心強 いストーリーテリングっていうのはヤバイなあって思ってるんですよ。『夜汽車の女 』なんていうのはね、僕が作った感覚は「オネエサマ、オネエサマ、オネエサマ、オ ネエサマ」って呼び掛けるだけでね、「オネエサマ」って、「オネエサマ、オネエサ マ、ダメェー、オネエサマ」ってこう言うでしょ、こういう感覚だけで映画が1本で きないかなって作ったシャシンなんですよ。映画ってそれでいいような気がするんで すよね。
 石井隆くんとやった『天使のはらわた・名美』なんかでもね、映画が劇画家の劇画 を映画化するのを見てると、大体絵の1コマにみんな負けてるんだよね。何か全部説 明的なんだよ。劇画をなぞったような映画しかないんだよね。それは僕、映画をやる 上では絶対禁物でね。石井隆くんとやった時には、名美の振り向いた目の1コマと映 画が格闘できるかっていう作業ですよ。「映画を僕は撮ってるんだろう、映画を撮る んだろう、これから。劇画家が1コマ作るこの1コマに映画が、君の映画が負けてど うするんだ」っていうことですよ。そうするとコマとの、この1コマとの格闘になる わけね。そうすると、気持ちよいストーリーテリングなんかできないわけですよ。ヤ バイわけですよ。だから、最初っから、もうオクターブをダーッと上げて入っていく ような作業・・・音のアクションから何から全部オクターブ上げて撮っちゃうという ようなことで、1本映画を破天荒に破れてもいいから通底してみる。それでやってみ て何か見つかったらいいんじゃないかっていうことですよね。そうやっていかないと 映画にならない。そういう時ほど評判悪いけどね(笑)。
 シャシンの評判悪いんだけども、そのエキスで見てもらったら、今度はこんなにお もしろい映画無いはずなんだよね。そういうように作ってあるから。だからそのアン グルで見てもらうと全部、「ああ、ああ、いいじゃない、いいじゃない」ってことに なってるはずなんだよね。映画ってそれでいいような気がするんですよ。僕にとって いい映画っていうのは、映画監督っていうのは必ず1本の中でね、これを狙って撮り たいっていうところあるんですよ。誰にも言わないかもしれないし、言わないんだ、 大体。言わないけど狙い目でね、このカットだけは決めたいっていうのはあるんです よ。そのカットが決まってる映画は僕にとっていい映画なんですよ、僕の映画鑑賞っ てのはね。その監督と会った時に黙ってて、「あそこんとこ良かったじゃない」って 言うと大体ニヤッとするね(笑)。大体ニヤッとするよ。

−−今の話を聞いててまた思ったんですけども、監督の映画には『秘(まるひ)女郎 責め地獄』、それと一番顕著な例で『発禁本「美人乱舞」より・責める!』ですね、 そういったSM、ゲームプレイとしてのSMではなくて、本当のサド・マゾ、内面的 な部分までも入り込んでいくものが見られますが、監督御自身、映画作家の特性とし てマゾ的なところがあるんじゃないかと。例えばアングルに固執されると言いながら 『実録阿部定』という密室劇に自分を追い込む。こういう『秘(まるひ)女郎責め地 獄』にしても、敢えて困難な題材に自分から飛び込んでいって、企画段階の困難を一 身に担うところで苦しんで快感に達するというか・・・。

田中 いや、それだけではないでしょうね。しつこいかもしれないけどね。でも自分 の中でヘビーだけじゃ困るんだね。ヘビー感覚だけではね。
 僕の2本目のシャシンで、『牝猫たちの夜』って作品ありますよ。これはすごいラ イト感覚で、軽い感覚で作ったシャシンなんですよ。同棲ものが流行って、山根(成 之)氏がやった『同棲時代』なんか始まる前のシャシンですけどね。トルコのおねえ ちゃんがホモの青年と惚れ合ってその青年を刺し殺すだけの話なんですけどね。どっ ちかっていうと、砂糖菓子がカシャカシャって壊れて行く具合、砂糖菓子をグシャー ッと踏みつぶすみたいなね、そういう感性で作りたい映画だった。丹古母鬼馬二くん ているでしょ。あの人をキャスティングしたのは、舞台で生肉食う男がいるっていう んだよね。「おい、それいいじゃないか。じゃあ、金魚、金魚飲ましてやろう」って 言ってさ、それで『牝猫たちの夜』の時にはね、今、新宿の二丁目無くなりましたけ ど、引き込み線があったんですよ。で、そこに水道の壊れたのが出ててね、そこへビ ニールの傘を反対にかけて透き通ったビニールの傘に水をいっぱい溜めて金魚を泳が しておいたんだよね。鬼馬二が髭もじゃもじゃで当時のヒッピースタイルで、そこへ 通りかかってビニール傘の中の金魚をすくって口の中へこう入れて、ゴロゴロ、プッ とこう金魚もう一回ビニール傘の外へ吐き出すんですよ。それだけのカットをね、こ っちでトルコのねえちゃんがポケッと見てるカットなんだけどね。そういえば、側に 猫がいるんだね。その猫はね、鴨田くんて僕のチーフやった男がね、新宿二丁目詳し くてね、「監督、あの猫には名前が付いてるんですよ。あの猫出さないと。あれ出し た方がいいんじゃないですか」なんて言われてさ(笑)。鴨田に言われて「じゃあ、 あの猫連れてこいや」ってなって、そういう感性で作ったのが『牝猫たちの夜』です よ。
 50本ぐらいロマンポルノができてね、「映画芸術」でそれベスト1になっちゃっ たよ、それなあ。そういうシャシンがあるんです。50本ぐらい溜まった時にね、「 映画芸術」でベストテンやったらベスト1なっちゃったんだよね。だからベスト1と かそういうことはどうでもいいんだけども、ほんとにベスト1だったんだけど、そう いうことはどうでもいいんだけど(笑)。
 つまり作っていく時に全部がヘビーになっちゃ困るね。ライト感覚、体を軽やかに するって感性で時代と向き合っていかないとダメですね。だからもうちょっと多少理 屈めいたことを言うと、今って時代はね、やっぱり自分自身の存在感覚をちゃんとこ うイデオーグにおいてもね、いろいろにおいてもはっきり取っ捕まえられない時代じ ゃないですか。そういう感覚は僕は『牝猫たちの夜』を作った時に既にあったんです よ。まあ、僕は浮遊感覚って言葉を使ってるんですけどね。空間の中で浮遊感覚でし か生きられない辛さってのはあるんだね。そうすると、辛うじて例えばイデオーグで 、今、共産主義も資本主義も壊れたような時代になると、ポーンと戸惑っちゃうわけ なんだけども、やっぱりこう強い締め付けがなくなると国家主義が台頭してきたりし て各国で争いが始まるよね。だけどね、ロマンポルノっていうか、エロスには幸いに して死がいつも張り付いているんだね。死と生きることが、死と生が張り付いてる。 つまりセックスをしてくってことは一つの生殖本能でもあるけどね、一つの生きるも のを生み出す行為でもあるんですよね。そして、生きてくってことは死ぬことに結び 付いてる。だからロマンポルノは何十年経っても、多分色褪せないと思う。なぜ色褪 せないかっていうと、そこの原点のとこで結び付いてるからだね。そこで時代がどう 変わろうと風化しないだけの知恵を出すっていうか、そういう努力をその時にもうし きりに考えた。
 例えばガラスの皿の破片があると皿の破片からいかに水を感じさせるか。『牝猫た ちの夜』なんてのは、僕は割れた皿の中から水を感じさせる映画ができないかなと思 って作ったところもあるんですよね。『夜汽車の女』なんかもそうなんです。「オネ エサマ」じゃないけど。
 だから時代と向きあうっていうのは単にヘビーでハードであったらダメだと思う、 見えてこないと思う。今の若い人の映画を見てるとね、思い付きの映画感覚にかなり 思えるんだね。つまり、そう思ってライト感覚で、軽い感覚で作ることは大事なんだ けども、そこから詰めてくる、絞り上げてくるものに対してもうちょっとね、時間を かけて、一つ一つがやっぱり時代を切り拓いてくっていうかさ、これは誰かやったっ ていうよりも、こんな程度ではね、掴まえてこないじゃないかっていうことを自問自 答してね、何かもっと無いのかっていうことを真剣に考えて、そこから出てくるもの で映画を作っていかないと風化しない映画なんか出来ないんだよね。だからロマンポ ルノの、特に初期はね、そういう時代相とも全部が真剣に関わり合ったわけですよ。 だからセックス映画だから照れ臭いとかそんなことはナンセンスな話でね。映画です よ、要するに。映画なんですよ。ましてや日活で作った連中ってのはね、そうやって 全部映画作ってきた、裕ちゃんから始まって全部作ってきた連中が撮ってきたわけだ からね。要するに映画を作ろうってことなんですよね。

−−まさにロマンポルノが時代の申し子だなということだと思うんですけども。

田中 それにしても18年よくやったね。

−−そうですね、五百何十本だったかと思うんですけどね。

田中 でも、この中から随分出たね。

−−人材がですか。そうですね。



田中 長谷川和彦くんは僕の『夜汽車の女』のチーフやってんだけど、相米(慎二) くん、それから金子修介も僕が助監督で入れたやつだからね、中原俊もそうだよ。あ れも助監督で入れたんだけど、それから那須。

−−そうそうたるメンバーです。

田中 だからみんなね、相米くんもクマ(神代辰巳)さんとこにいたり、日活でうろ うろしてたね。だからみんなそういう自由な空気の中から育ってきてるよね。森田芳 光もそうだし、今、若くて撮ってる連中はロマンポルノ出身であるなんてことを以外 と恥じてるようなやつもいるんだよ、情ないことに。日活が18年間作って育てた土 壌ってのは、映画、純粋映画から見たらどんなに素晴らしいことかっていうか、その 初期の志を忘れてるやつはダメだね。

−−中原さんの『桜の園』という映画ですね、あれは監督自身のご意向ではないでし ょうが、作品パンフレットには監督のロマンポルノの経歴が一切書いてないんで、や はり『桜の園』という映画のイメージとして配給会社がそれを出さなかったんでしょ うね。

田中 中原と那須(博之)は、僕は最後に二人に絞ったのはね、どうも那須は東京育 ちなんだよ、それで中原はラサールから東大なんだよね。よく見てくとね、助監督採 るときには大体ね、同じ系列のやつは採らない。最低三人ぐらいは採ってほしいって 会社に言うんだけどね。と、田舎育ちの中原の方がシティ感覚派なんだよね。で、那 須は東京育ちなのにね、汗飛ばしてウワーッてやる方なんだよね(笑)。これは違う タイプを採ろうと。
 金子の時はね、とっちゃん坊やみたいな感じするんだよ、いつまで経っても。あ、 とっちゃん坊や的発想するやつもいていいなっていうね。あの軽み、軽やかさって言 うかさ。採るときには全部そういう感覚でね、全部採っていきますよ。池田敏春の時 には、ちょっと体が不自由だったからね、あいつの創作見るとやっぱり透明度がある んだよね。
 だからみんなそれぞれいい個性持ってて、そこで偏らないようにしてみんな採るん だけど、僕も助監督の時には多分今村昌平さんやなんかで試験やってたって、後で聞 くとそうだから、そういう感覚でみんな採ってきたんだろうね。そうやってみんな採 ってきたわけよ。今の、そういうことがいいことか悪いことか知らないけど、そうい う大会社が助監督を育てるっていうことが無くなってきたから、むしろ誰でも自由に 映画が撮れる時代になったわけだけどね、だからそうですね、いい面もあるしね。
1996.8/30