CMN! no.1( Autumn.1996)

田中登監督ロング・インタビュー
「優美なる死骸遊び」に魅せられた作家、プログラム・ピクチャーの遺産

5.フィルム・ジャンク問題、岡田裕・前田米造とのトリオ、再び宮下順子、監 督のやさしさ、世代を超える感性について



−−それと、これは田中登の脈絡から離れますけども、本日ちょっと是非とも聞いて おかなければならないことじゃないかということで、ロマンポルノのフィルムがです ね、今ジャンクされています。非常に非常に深刻な問題だと思いますけど、監督がご 存じであることを。

田中 そうですね、これね、僕もしっかりしなきゃいけない。監督協会を通して日活 がジャンクした映画のリストをまず出さしてね。映画会社っていうのはもうすり切れ た映画をジャンクするのはごくよくやることなんですよ、上映に耐えられないプリン トをね。ネガはもちろん映画会社はワヤにするわけないわけだから、ネガはあるわけ ですからね。だからこれは作家一人一人の表現が全然外的な力によってね、ねぐられ て一般のお客さんが見れるチャンスを無尽蔵に潰していくわけだからね。ただしネガ は残ってるから、まあこれは映画を愛してくれるみんなともある意味では共闘しなき ゃいけないと思うけども、こういう映画はとにかくリストアップ、三百何十本ぐらい 、どのくらいなってるのか、とにかくロマンポルノに限らずね、会社がジャンクした 映画のリストを大至急出さしてね、それで例えばそういうものから、どのシャシンも みんな監督さん思い入れあるんだけど、特にみんな見たいような作品をね、ある程度 リストアップして絞り込んでいって、もう一回会社にニュープリントを焼かせるって いうような運動もしなきゃいけないね。そういうことが無言の力になるわけだから。
 それと一人一人の監督がね、自分のジャンクされた作品も、今、定かに自分で分か ってないような状態なんですよ、いいかげんな状態で情ないんだけど。これは各監督 が自分でやっぱり努力して会社にアピールするという運動はしなきゃいけないですね 。これはやっぱりね、ひどい話でね・・・日活はその辺はそんなに分からない会社じ ゃないと思うんですよ、倒産しちまってね、借金だらけだから苦しいってことは分か るんだけども、やっぱり元手、お客さんに見てもらう作品を持たないとダメなわけだ から、その辺はちゃんとみんながアピールすることによってね、もう一回復活できる んじゃないですかね。

−−今の問題は今日の企画とは趣旨が違いますのであんまり深くは触れません。ただ 当然ここにお集まりのみなさんは是非とも今後考えていただきたいなと、これは私か らのちょっと差し出がましい願望です。

田中 手紙作戦にしてもファックス作戦にしてもね、やっぱり映画を見る人がそうい うアピールを会社にすることも、ある意味では力になるかもしれないしね、やっぱり いろいろの方法で見るチャンスだけは理屈なしに奪うなっていう形をね、みんなで言 ってかないとダメですよね。監督自身もそういうこと言える。


(以下観客との質疑応答)

観客A 『女教師』ではですね、製作が岡田裕で、キャメラマンが前田米造さんにな ってますけれども、これっていうのはよく考えてみればまったく新しいトリオなんで すけど、そういう部分でも新しい閃きとかはありましたか。

田中 ホンが中島丈博さんでね、キャメラが前田米造さんですよね。照明が熊谷さん だったかな、今の山田洋次さんの『学校』やられてる照明技師さんですよね。僕の『 秘(まるひ)女郎責め地獄』もそうですけど。
 で、岡田くんと最初の出会いだったんですよね。岡ちゃんはプロデューサーだから 、「田中ちゃん、当てる映画作ろう」ってしか言わなかったなあ、あの時は(笑)。 で、途中でね、黒沢さんの『暴走機関車』、ハリウッドの機関車が暴走する話あった ね、あれの話でね、岡田くん途中でニューヨークへちょっと行ってちょっと抜けたこ とあったけど、帰ってきたらこの映画大ヒットしてね。この大ヒットで撮影所を買い 戻す資金になったんですよ、ある意味ではね。『女教師』が封切られたら各小屋が新 記録続出でさ、それで撮影所が買い戻されたって記憶があって。撮影所長ってのは時 々人が変われば干したりするけど、その時は撮影所長がね、岡田くんと僕を呼んで食 事をご馳走してくれたね。特別。映画会社って面白いね。
 そんなもんだよ。岡田くんと最初の出会いだったけど、プロデューサー的なセンス が、ちょっとの仕事の中でもね、あるなあと思ったね。岡田くんは僕の助監督の一期 後輩なんですけども・・・岡田裕くんていうのを知った映画ですね、その時はね。
 前田米造さんはね、テレビでは僕は『死者をして語らしめよ』っていうテレビドラ マをやってるんで、その2本なんだけど。米造さんはね、説明する時あんまり、キャ メラマンて大体そうなんだけどね、「監督、こうやってこうやって」、こういうジェ スチャーしかしないんだよ、大体。時々ポツポツってしか言わないからね。

観客A 森勝さんもやっぱりそういうジェスチャーですか。

田中 そうそう、どっちかっていうとね。あんまり理屈なんか言うキャメラマン、ダ メでね、監督から見るとね。例えば姫田(真佐久)さんているでしょ、今村昌平さん と組んでた人。するとね、キャメラマンがこうやって腕をむき出しにするんだよ、そ うすると二の腕がこんなに太いわけ。筋肉隆々なんだよ。「ああ、このキャメラマン いいな」と思うわけ。キャメラマンとの関わり合いってそういうことでね、それでま ず間違いないね。

観客A 監督の方からそんなに注文するようなことは。

田中 いや、それはありますよ。映画はそれぞれのパートが知恵を出し合うっていう 部分ももちろんありますからね。でも基本的にはやっぱり一人一人がセンシビリティ に溢れてないとダメだと思うね。監督はそれぞれの個性を生かし切った上で、しかも 自分のやりたいことを入れていくっていう、そういう指揮者としてのセンスがないと ダメだと思うね。それは監督の場合、特にシナリオも書けなきゃいけないし、特にね 、音に関してもね、画以上に感ずるセンスがないと困ると思うんですよね。ちょっと 大変なんですよ。

観客B 宮下順子さんが好きなんですけど、何かエピソードとかありますか。

田中 さっき出た『責める!』ってシャシンでね、宮下くんが長襦袢一つで木に下が るシーンがあるでしょ。あのシーンは日光の戦場ヶ原でやってるんですよ。で、風が 吹いてるから零下15度ぐらいあるのかな、あのカットよく見てもらってると山のき ざ端を吹雪がバーッと舞ってる。映画においてはね、暑さってのはわりかし出しやす いんですよ。だけど寒さを表現するのはとっても難しいわけ。寒いって感じさせるカ ットってすごく難しいんだけどね、あれ、寒いカットなんですよ。で、その時にね、 順子を木に助監督さんが吊したわけ、そしてこっちでヨーイハイでワンカット回した らね、風の間に間に、「ウァー、ウァー、ウァーン」とかなんとか聞こえたんだよ、 そしたら順子が気を失う直前だったんだよね、横でプロデューサーの結城が見ててさ 、「田中ちゃん、ヤバーい」って言うんだよ(笑)。監督は夢中になってこうなって るからね、山谷初男はインバネスを着てるからね、雪の中へ正座して見てるからね。 監督にとっては、あのショットは山谷初男と順子の愛が猛烈純化される、最も綺麗に なってかなきゃいけないショットだからね、そんなに簡単にカットかけられないわけ だよ。ある長さが画として欲しいわけですよ。で、僕がカットかけたら、まず結城が すっ飛んでったな、そしてね、みんなでもって駆け寄ってね、毛布をバーッと掛けて ね、体さすってそしてみんなで担いでいってね、どうも話聞くと日光の光徳の沼近く の温泉の中へぶち込んだんですよ。それで僕がそのカット撮り終わって帰っていった ら、順子が「監督殺してやる」ってウォンウォン泣いてるらしいんだ。それは順子を 愛してるからそういうカット撮るわけでね。『実録阿部定』の後だったしね、あのシ ャシンはね。
 あの中では、いま亡くなってしまったけど、中島葵さんが出てられるんですよね。 中島葵さんの逆の吊しのカットがあるんですよ。葵も凄かったなあ。
あれね、人間は逆に吊すとある時間過ぎると落ちちゃうんですよ。柔道で気を失うよ うにストーンと落ちる瞬間があるわけ。伊藤晴雨っていうあの原作者は女性の美の中 にね、何を見出だしたかって調べていくと、その落ちる瞬間の女の、女性の眼の輝き の中に最も美しい瞬間があるということを彼は言ってるわけですよね。映画はそれを 画にしていかなきゃいけないから、愛情溢るる気持で、何かあったらスタッフを蹴飛 ばしてでも自分で飛び出ていって助けたいんだけども、ぐっとこらえてしないのが監 督でね。だから順子とのエピソードは、ちょっと一つ言えばそんなようなことですよ ね。
 それから女優さんの話でエピソード言うと、『責める!』のときに日光の雪の中を 葵が素足で歩く雪のシーンがあるんだけど、キャメラ据えてると横で葵のこの足先を 見てるとね、長襦袢一つでもう雪の中へ立ってるから指の先は真っ赤になってるわけ 。そうするとヨーイハイが掛かるのを今か今かと待っててね、足がコー、コー、コー って出て引っ込んでる、そういうものを監督ってのはキャメラの横にいて見ててやる とこある。そういう経験はね、僕は、今全く違う監督の話で申し訳ない、『春婦伝』 て映画あるでしょ、清順さんの、あの時に野川由美子が走ってくカットがあって、あ の時土の上に氷が全部薄く張ってるんですよ。

−−あ、そうなんですか。ラストの方ですね。ロングですから、私は気づきませんで した。

田中 で、野川由美子がね、一発バーッと走ったらさ、氷が全部はねてこの裾がみん な切れてるわけ、氷で。それで脛から血が流れてね、そして撮り終わってきてキャメ ラの横へ座ってる野川由美子見てたら、痛さと寒さでグシャグシャ涙流しながらウー ンてやってるんだよ。で、清順さんとこフッと見たら何事もなかったような顔して撮 ってるわけ(笑)。これはね、僕は助監督時代に学んだことでね。何も清順さんの真 似したわけじゃないけどね(笑)。冒頭に話した中平さんの、できれば、「ヨーイ… …」って酔っぱらててね、「カット」って言ったらカクンと寝てしまうようなやり方 とかね。だから監督は優しいですよ。優しいから出来るわけでね。それは特に『責め る!』なんてのは、絶対僕はSMはプレイできないと思うから。嫌いだしね。水物的 なやり方は嫌いっていう言い方おかしいけど、それは表現としてもあると思うんだけ ど。

−−あれは本物の、いわゆるサドマゾの世界ですね。遊戯ではないというか。

田中 だからこのシャシンは1本やったら自分自身がね、もう耐えられないっていう か持たないと思うから、これは1本だけ、これはやってみようと思ってやったシャシ ンなんですよね。女優さんが泣いたかもしれないけど、愛情溢るる、愛情溢るる接し 方ですよ。だから監督は優しいはずです。写った時が勝負ですからね。、女優さんに とって、自分が限りなく美しく綺麗に輝くように見えれば、いいわけですよね。

観客C さっきの話で、時代と向き合うということを言われてたんですけども、最近 見た映画で『二十歳の微熱』という若い監督の作品、非常に不愉快な映画で、ただそ れをいわゆる高校生あたりの女の子たちがすごく共感できるというような話を聞きま して、僕も旧世代になったのかなあという風に感じたのと同時に、今度はケン・ロー チという人の映画をこの前見たんですけど、逆に今度は旧世代の人の説教臭さみたい なものがかなわんなあという風に感じまして。結局、世代間の抗争みたいなものを今 後映画を撮っていく上で時代と向き合うという部分も含めて、監督さんも旧世代の監 督さんなんで、その辺の葛藤みたいなものがあると思うんですよ。

田中 気分的には旧世代に属してないと思ってるんだよ、監督はね(笑)。
 極端なこと言えば、僕が20年前に作ったシャシンがね、今見てもらって昨日作っ たように見えるかどうかっていうのはね、ある意味では勝負なんですよ、映画っての はね。『秘(まるひ)色情めす市場』を見ていただいた時に昨日撮ったように見える っていうことが時代を越えて通底していけばね、それは多分本物なんですよね。あな たが今言った宿題は本当に大きい問題でね、その世代が新世代だとか旧世代だとかっ てことを越えてね、やっぱりこれだけ、さっき『牝猫たちの夜』を撮った時の感性は 浮遊感覚だけで撮りたかったって言ったでしょ、砂糖菓子押し崩すような感覚で撮り たいって。
 どっちかっていうと『二十歳の微熱』の話にしてもね、すごい感性の軽さの中で撮 っていくってとこからリアリティを見てくっていうようなことをどうしても志向する 場合があるわけですよ。若い人にとってそういうことはあるんだけども、年寄りでも そういうことはあるわけ。ブニュエルは80歳になっても撮るわけでね。だからむし ろ時代と向きあうってのはそんな簡単なことじゃなくて、多分みんな今誰でも感じて ることでね、こうやって自分はこれからピュッと越えて次のこっちへ行きたいと、そ ういう感性ってみんなあるでしょ。それで向こうではっきりした答えがないのにね、 今の状況の中からちょっと飛び出てみたいと、そういうものはなかなか見付からなく て、どうやったら答えが、なにが見付かるかっていうことですよね。
 だからどっちかっていうと、例えば中国の映画にしても台湾の映画、侯孝賢にして もね、あるイデオーグなりね、体制なりにある一つのターゲットがあってね、映画を 作れる時代は、まだどっちかっていうと幸せな時代なんですよね。日本映画ダメだダ メだとは言われてるけど、もうそういうところも通過してね、むしろ浮遊して向こう へ行ってどうやったらいいかっていうようなことが、どっちかっていうと頼りになる もの、例えばそれを自分の一つの大綱として認識できるもの、そんなようなものが見 付からない時代だけにね、何を据えるか何を見付けてくるかってことはみんな必死に やってるわけですよ。それはだから答えはなかなか出てこない。
 さっき言ったようにエロスっていうものが、人間の死みたいなものがね、死ぬって いうことはある意味では時代にかかわらず通底できる。人間かならず死ぬというのは 、だから死をターゲット、死を相手にするっていうような形はある意味ではこれと反 発しあえるからね、ある拠り所には出来るわけですよ。そうすると例えばイデオーグ なんかもむしろ分かりづらくなってる、辛うじて拠り所にできるものが何かっていう ことをね、全身全霊で感じてくんだけどもなかなか見付からない時代でしょ。
 吉本ばななくんの本にしてもさ、全部なんかそういう感性に近いようなものが五十 歩百歩であるわね。今度金子が撮る、なんかお父ちゃんと娘の話かなんか夏休みの話 で、布団の叩き方がパシャーンパシャーンってやったり、「お父さん、そんなに強く 叩いちゃダメよ。軽く叩きなさい」なんて娘のような、ああいう感性はどっちかって いうと、そういう詰めたね、感覚から言ったら思い付きだとしか思えないわけだよ。 そういうレベルのそういう思い付きで映画を作ってくことだけはね、ある時期はあっ てもいいけども、やっぱりもうちょっと考えていかないと。
 例えば森田くんが撮った『家族ゲーム』あるよね。あれは金子くんがホンやってる んだけどね、僕は金子を助監督で採った良さっていうのは『家族ゲーム』に出たと思 ってる。彼の感性みたいなものは、今まで軽いと思われてたこと・・・ライト感覚の ものの中に一つのリアリティを見付けてくるっていう、どっちかっていうとそういう 作業ですよね。そういうことを僕がしきりに考えたのは『牝猫たちの夜』の時に考え たんですよ。つまりアトランダムで脈絡がないし、これちょっと小さなリアリティ、 ちょっとこれぐらいのリアリティ、これだけのリアリティが感じられるってようなも のがね、ちょっと追い詰めてくとすぐ先がスポーンと抜けちゃうような軽さのもの、 そういう連続でしょ。だからそういうものの羅列の中から、何が時代と関わり合って くかっていうものをね、コペルニクス的な発想して見付けたやつがその時代、次の時 代を切り拓いていくわけよ。
 だから映画監督に向かって旧世代の人とかね、新世代の人とかっていうのは言わな いほうがいい。それはね、映画監督の場合にはそういうことはね、絶えず考えてます よ。それだけの感性がないと凡庸な監督で終わるね。だからそれは年寄りだから若い ものだからって区別できないような気がするな。
だからあなたの質問はあなたも探してるし、僕も探してるんですよ。あなたがそれを 見付けた時にね、一つの時代が切り拓かれたわけですよ。僕らが期待するのはそうい うことなんですよ。きっと誰かいると思う。まあなかなかね、みなさんと直に会う機 会はあまりないんで、でも膝突き合わしてこういう話ができたっていうのは、僕は今 日は楽しかったですけどね。まあ日本映画諦めずにちょっと頑張ってくださいよ。
 それでただ観客だけじゃなくてね、やっぱり映画を志すんだったらやっぱり自分で シナリオ書いてね、作ってくださいよ。誰か見てるから。今、僕は今村さんの日本映 画学校ってあの学校で1年生の入った人のね、たった5分の創作があるんだけど、そ の指導監督でこの間行ったんだけど、監督さんが女性でしたよ。で、キャメラマンが 女性だったんだよ。スクリプターさんも女性。スタッフが半分女性だったね。実際に 現場で映画学校、京都映画さんもそういう塾あるからね、みんなそういう動きあるん だけど、特に女性の人がかなり進出してるから、だからキャメラマンの女の子とかに は「君、ボディービルやって体鍛えといた方がいいよ」とかさ、そういうこと言いた いぐらい。
 だからものを作るところにおいては男性とか女性とかないわけで、誰か見付けて目 から鱗が落ちるような作品を出してちょうだいよ。僕も努力して作ろうとするし、誰 か君達の中からも作ってほしいんだよね。
 それからここに映画評論家がいるからね、僕が評論家に言いたいのはね、やっぱり 評論ってのは言葉でね、自分の思想出してく人だから、映画監督は僕は評論家って存 在必要だって思ってんだけどね、何か映画に対する言葉の中でね、その言葉によって 10本の映画が作れるようなね、いいダイヤモンドの言葉を発見してもらいたいんだ よね。それが映画を評論してくっていう力になると思うんですよ。映画の解説屋は困 るんだよね。解説はしなくていい、映画は。解説も必要だけど。それはごく入口であ ってね、やっぱりいい評論に出会うとね、「あ、こういう言葉を拠り所にして映画っ て作れるなあ」というようなそういう発見がね、すごく力になるんですよ。

−−今の言葉ですと、もうみなさんも田中組の一員みたいな感じです。

田中 老け込まないでまた映画作りますからね(笑)。僕も含めて日本映画ちょっと 応援してください、とにかく。なんとかして作りますよ。

−−どうもありがとうございました。(拍手)

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1996 8/30
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