CMN!  no.1(Autumn.1996)

田中登監督ロング・インタビュー

「優美なる死骸遊び」
に魅せられた作家
プログラム・ピクチャーの遺産


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 本インタビューは、京都スペースベンゲットで開催された「ロマンポルノ大全」上 映会でのトークを採録したものです。

1994年3月13日
 於:スペースベンゲット(京都市)

聞き手:鴇明浩
(tokiaki@mediawars.or.jp) テープ起こし:石原秀起

 インタビュー本編は5部構成となっています。お好きなページへここからジャ ンプできます。

1.助監 督時代、デビュー、日活製作中止、映倫検閲、『秘(まるひ)色情めす市場』

2.田中 陽三、『人妻集団暴行致死事件』、『女教師』、『牝猫たちの夜』、ロマンポルノの 普遍性、弟子たち

3.『江 戸川乱歩猟奇館・屋根裏の散歩者』の穴、東映映画『神戸国際ギャング』、安藤昇、

4.宮下 順子、『丑三つの村』、古尾谷雅人、『妖女伝説’88』

5.フィ ルム・ジャンク問題、岡田裕・前田米造とのトリオ、再び宮下順子、監督のやさしさ 、世代を超える感性について


田中登プロフィール

 1937年、長野県白馬村生まれ。明治大学文学部卒業。在学中、黒澤明の『用心 棒』にアルバイトとして参加する。卒業後、日活入社。数多くの作品に助監督として 携わる。72年、日活がロマンポルノ路線の製作体制となり、『花弁のしずく』で監督 デビューを果たす。各方面から、ロマンポルノの質的水準を超えた作品として評価を 受け、ファンを生む。その後、12年にわたって、意欲的なロマンポルノ作品を発表し 続ける。また、75年の『神戸国際ギャング』、76年の『安藤昇のわが逃亡とSEXの記 録』では東映に召還され、ヒットを飛ばす81年にフリーとなり、現在は火曜サスペン スなどのテレビドラマの演出をコンスタントに続けている。88年の『妖女伝説88』( ロッポニカ)が現在ところ、最後の劇場公開作品となっている。現在の日本映画界が 70年代の撮影所システムで強烈な個性を発揮し続けた作家の才能を見落としているの は、観客として遺憾であり、スクリーンへの復帰がもっとも望まれる作家のひとりで ある。

フィルモグラフィー(劇場作品のみ)

1972
花弁のしずく
牝猫たちの夜
夜汽車の女
好色家族・狐と狸
官能教室・愛のテクニック

1973
昼下りの情事・変身
秘(まるひ)女郎責め地獄
真夜中の妖精
女教師・私生活

1974
秘(まるひ)色情めす市場

1975
実録阿部定
神戸国際ギャング(東映京都)

1976
江戸川乱歩猟奇館・屋根裏の散歩者
安藤昇のわが逃走とSEXの記録(東映東京)

1977
発禁本「美女乱舞」より・責める!
女教師

1978
人妻集団暴行致死事件
ピンクサロン・好色五人女

1979
天使のはらわた・名美
愛欲の標的

1980
ハードスキャンダル・性の漂流者

1981
もっと激しくもっとつよく

1983
丑三つの村(松竹映像=富士映画)

1986
蕾の眺め

1988
妖女伝説88

・()表記以外はすべて日活(もしくはにっかつ、ROPPONICA)作品

田中登 スタジオシステムが生んだ異端の作家

鴇 明浩


 1971年8月、日活の製作中止発表は、日本映画が斜陽と言われて久しい当時、にわ かには信じがたい衝撃を各方面と一般観客に与えた。京都を濫觴の地としたそのあま りに長く貴重な日本映画史上の軌跡が終わることは大映の倒産に続いて、日本映画の 黄金期がすでに遥か過去のものとなったことを知らしめた。

 しかし、そのわずか3カ月後、事態は急変する。ロマンポルノ路線が華開いたのだ 。エロスということであれば、戦前からの多くの映画が扱ってきた題材、付加価値で あったが、そのエロスを公然と、直営館を持つ製作会社の一ジャンルとして流通させ てしまうということは、わが国の映画史の中でも大事件であった。長年のプログラム ・ピクチャー製作のノウハウと粒ぞろいのスタッフたちをもてすれば、定額予算の小 規模作品の安定供給はシステムの上で、けっして無理ではない。観客の嗜好と時代性 をあまりにストレートに突いたこの企業決断は、果たして観客から熱狂的に受け入れ られたのである。

 その後の、制作者とスタッフたちの戦いは、激戦地での最前線をゆく兵士のそれで ある。映画が娯楽産業のトップたりえない低迷の時代、日本映画界の人材がその才能 を発揮させる場、大衆のニーズに小気味よく応えながら、劇場興行の存続をめざす戦 いは、かつてのお色気プログラム・ピクチャーの小振りな陽動作戦とも、集中砲火的 な大型作品の製作とも違う、正当な突撃であった。制度と倫理が容赦ない攻撃を浴び せ、多くの非難と罵倒が彼らに集中する。もちろん、新境地に踏み出した真のクリエ イターたちは、つねに異端者とされて攻撃されるのは歴史的必然であるから、映画史 の上では、彼らはすでに勝利者だったのだ。何よりも、彼らの背後には、陳腐なタブ ーを打開したエネルギーに魅せられた多くの観客の支持があった。
 
 田中登という異端の作家は、そのようなプログラム・ピクチャーの存続をかけた戦 いの最中に降誕した。中平康や今村昌平、鈴木清順、西川克己らの現場からたたきあ げられた男に宿る活動屋のエネルギーと若い闘争心は、社会的な規制はもとより、所 属する企業の固定化しつつあった方針にすら迎合しなかった。それまでの一般映画と は異なり、予算内で挑発的な性描写さえ盛り込めば、詳細不問という一面もあったロ マンポルノというジャンルを絶好の舞台として、一般映画であれば許されることはな かったさまざまな手法を駆使し、めくるめくような傑作を産み落としたのだ。もちろ ん、エロスそのものは先人たちが、表現上遠慮しがちに触れていた題材であるゆえに 、若い作家たちは自らが拓く新境地であるという意識をもち、これに挑む。実際、『 花弁のしずく』が公開される数カ月間、この風俗を乱す「猥褻」な「エロ映画」の量 魂的ジャンルに、豊かな映画表現がしたためられるとは、多くの観客、そして批評家 が想像しなかった。
 田中登のその後の躍進は、上記フィルモグラフィーや本インタビューに見られる通 りである。もちろん、彼の軌跡は結城良煕、三浦朗、田中陽三、宮下順子、芹明香ら に代表される数々の才能との蜜月に彩られて輝いている。また、彼の入念な演出ぶり を傍らで見てきた助監督たちが、現在日本映画の主柱となっていることも忘れてはな らない。我々は本インタビューをけっして作家田中登に終始した資料にはしたくはな い。ひとつのスタジオが、これらの才能をロマンポルノという異端のジャンルに投じ た歴史は、今日の製作事情からは、めまいのするような贅沢さに満ちており、田中登 の言葉からにじむ、かつてのプログラム・ピクチャー製作に賭けた映画人たちの創造 力結集の様をあらんかぎりの精密さと客観性をもって伝承することが使命であるとCi neMagaziNet!は考える。
 1988年、ロマンポルノは脚本家であった石井隆を監督としてデビューさせたことを 実質最後の業績としてその幕を閉じた。一企業内のひとつのプログラム・ピクチャー が一定の雛形を逸脱せずに、17年間続いた例は私の知るかぎりない。

1996.8/30