CMN! no.1 (Autumn 1996)
『カウチ・イン・ニューヨーク』におけるヒロインの身体表象
シャンタル・アケルマン論
                                竹村みさと

      <スクリューボール・コメディ>

 シャンタル・アケルマンの『カウチ・イン・ニューヨーク』(1996年,以下『カウチ』)は,ニューヨークとパリに住む男と女が互いに部屋を交換し合い,それをきっかけにニューヨークで出会った二人が,ちょっとした行き違いの末に,パリでハッピーエンドを迎えるという恋愛物語である。周到に構成されたこの映画は,異性愛システムを揶揄するハリウッド・ジャンルとしてのスクリューボール・コメディを参照していると思われる。
 スクリューボール・コメディとは,風変わりな男女が愛の絆を深めるために引き起こす荒唐無稽な恋の戦いの物語である。常識を逸脱した自由な女が,権威にあぐらをかく男たちの愛を得ようと戦いをいどみ,彼らを性的,社会的に解放するのに成功する。そこには男女の性的なポリティックスの逆転が見られるが,彼女の勝利は結局男の愛に帰属すること以外ではない(*1)。アケルマンがスクリューボール・コメディを参照枠として利用するのは,それが異性愛システムに最大限揺さぶりをかけるジャンルだからにほかならない。伝統的なスクリューボール・コメディは,男女の身体がぶつかり合い,視線と視線がぶつかり合う性的葛藤の世界であった。ところが,『カウチ』では,男女の身体はほとんど触れ合うことなく,クライマックスでは視線が交わされることさえ避けられている。スクリューボール・コメディの基本条件といってよい性的葛藤が希薄なのだ。スクリューボール・コメディの古典,フランク・キャプラの『或る夜の出来事』(1934年,以下『或る夜』)を参照項としながら,『カウチ』のスクリューボール・コメディとしての新しさ,特異性を検討するのが小論の課題である。

<ぶつかり合う身体とすれちがう身体>
 『或る夜』から始めよう。クラーク・ゲーブル扮する失業中の新聞記者ピーターとクロディーヌ・コルベール扮する大富豪の箱入り娘エレンが,マイアミからニューヨークへと珍道中をする。エレンは過干渉の父親から逃れ,旅先で知り合ったピーターと旅の苦労を重ねるうちに,反目し合いながらも互いに心を通わせるようになり,やがて結ばれハッピーエンドとなる。この映画における男と女の戦い,その身体の関係を端的に物語るシーンがある。それは乗り合わせたバスの中での座席をめぐる争いの場面である。ちょっとしたすきに席を横取りしたエレンに,ピーターは「この席は二人がけだ」と言って強引にその横に座り込む。立ち上がって荷物を置いたエレンは,バスの振動でピーターの膝に座ってしまう。リヴァースショット(切り返し)で口論していた二人は,やがて一つのフレームに入り,その中で反目し,視線をぶつけ合い,見つめ合うことになる。その場は一つの席を半分ずつ占めることでとりあえずの和合が成立する。二人は意地のしこりを残したまま,それでも身体はタイトに触れ合っている。また別の場面で,二人は隣り合った席に互いに遠ざかるようにして寝入るが,ピーターが目覚めるとエレンは彼の肩にもたれ,背広の襟にしがみつき,安心して眠っている。無意識の中で子供じみた意地が溶かされ,二つの身体はまた触れ合うことになる。
 一つの座席を二人で争うという,文字どおり身体を張ったぶつかり合いを軸に,言葉や視線の直接的な駆け引き,さらにはエレンの無意識の加担によって,二人の身体と心の距離が変わっていく。狭いバスの閉ざされた空間の中で近づいたり離れたりする二つの身体,その運動によって物語は展開していく。  『カウチ』の場合はどうか。夕暮れのニューヨークの公園,携帯電話で不平不満を訴える患者,その留守番電話を聞き,思い立って新聞社に部屋交換の広告を依頼する精神科医のヘンリー・ハリストン(ウィリアム・ハート),パリでその新聞広告を読むベアトリス(ジュリエット・ビノシュ)と,尻取りのようにショットがつながっていく。広告に目を落としたベアトリスはニューヨーク行きを決める。マスメディアを媒介にして男と女の身体の移動,すれ違いが始まる。
 ニューヨークに着いたベアトリスはマンハッタンにある高級アパートメントに入る。一方ヘンリーは,アラブ人やアジア人が道路にあふれるパリの下町のアパルトマンにたどり着く。ベアトリスはタクシー運転手やフロアボーイと親しげに話をし,一方ヘンリーは,尋ねに入ったパン屋から異邦人のように疎ましい眼差しで見られる。男と女の,ベアトリスとヘンリーの,ニューヨークとパリのクロスカッティングの反復によって物語が進展する。
 ヘンリーとベアトリスは,『或る夜』のピーターとエレンのように一緒に旅をするのではなく,大西洋を交差する。最初からすれ違うのだ。同じバスの中で一つの席を奪い合うのではなく,互いの部屋を交換する。つまり,二人は場所を取りかえるだけで,時間・空間を共有することはなく,そのため直接に身体が触れ合うこともなければ,視線を交わすこともない。それぞれの時間が平行に流れるだけだ。まだ何も始まっていないということだろうか。しかし,カメラはこの二つの時間を小刻みにクロスさせることによって,すでに男と女の戦い,すなわちコメディが始まっていることを告げる。交換された部屋。それは住みついた者の身体を色濃く宿している。衣類が散乱した床,こわれたガラス天井から光と砂がふりそそぎ,鳥たちが住まうドームのような屋根裏の部屋。ヘンリーが迷い込んだのは,そんなベアトリスの部屋だ。恋人たちからの電話のメッセージや手紙にあふれ,情熱的で感傷的なブラジル風バッハ第五番が流れる。これらに取り囲まれたヘンリーは,すでに不在のベアトリス,その不在の身体に出会っているというべきだ。当のベアトリスはヘンリーの部屋にいる。合理的に片付いた直線的な広い空間,セントラルパーク越しにニューヨークの街が見渡せるテラス,生気をなくした犬が住まい,悩みを抱えた患者が出入りする。バッハのパルティータ第一番が流れる部屋で,ベアトリスもまたヘンリーのいささか抽象的な身体に出会っていることになる。

<不在の身体あるいは想像的身体>

ベアトリスは整然としたヘンリーの部屋をたちまち散らかし,自分の部屋にしてしまう。ヘンリーのほうは,ベアトリスの散らかった有機的な部屋でさえ幾何学的に片付けてしまう。しかし,ヘンリーとベアトリスは,部屋に残された相手のオー・ド・トワレをかぎ,なおも住みつく互いの身体を体験する。散乱したベアトリスの衣服をつまみあげるヘンリーと無頓着にヘンリーのバスローブをまとうベアトリス。そこには,衣服のもつフェティッシュな関係に規定される性的身体がある。ヘンリーはまた,ベアトリスに宛てた男たちの熱烈な留守番電話やラブレターあるいは恋人たちの告白など,他者の声や言葉を媒介にして彼女に出会う。不在の身体にまつわる事物や言葉が二人を媒介し,二人の関係は最初から間接性を帯びる。二人は直接に出会う前に相手の想像的身体に浸透されるのだ。そのもっとも象徴的と思われるシーンについて触れてみたい。
 ベッドに男がいる部屋が映し出される。カメラはゆっくり奥へズームし,静かに停止する。ベアトリスのベッドにヘンリーが横になっている。まわりにはベアトリスに宛てられたラブレターが散乱し,ヘンリーはそれに目を落としている。中央右にスタンドがあり,光がおだやかに画面を満たしている。陰影をたたえた背後の壁は,フレームの外の窓に筋をつくって流れる雨を繊細なブルーで反映している。この雨は二重の手立てでわたしたちに届く(*2)。窓を伝う雨が反対側の壁に映画のスクリーンのように映写され,その青く映し出された壁のスクリーンをわたしたちは映画館のスクリーンの上に見ている。そしてそのスクリーンに雨の流れるさまはフレームの中の時間の持続を現出している(*3)。ヘンリーはベアトリスに宛てられたラブレターの断片を読んでいる。光によって存在する世界の一瞬を断片化し,永遠性を賦与したフェルメールの絵画に,ふっと魔法が解けて時間の持続が与えられたとしたら……。ベアトリスは,手紙を読むヘンリーとともにこの持続の中にこそ存在しているのである。  ベアトリスの部屋を片付け終わったヘンリーにまた新たな試練が課される。料理をしようするとき,天井から砂が落ちてくる。ベアトリスの家事を放棄した部屋は砂に侵食される(*4)。ヘンリーの男の嗜み程度の家事もまたしかりである。しかし,家事に対する砂のような洗礼はほんの始まりにすぎない。ノックする音にドアを開けたヘンリーは,いきなり鼻血を流して転倒する。彼女に思いを寄せる男の子が飛び込んできたのだ。暴力もまた身体と身体の直接的な触れ合いであるが,ヘンリーが殴られる瞬間のショットは扉でさえぎられ,視覚化されることはない。ヘンリーはまた,こわれた水道から吹き出した水にバケツを持って立ち向かうが,羊水とともに投げ出された赤ん坊のように無力でなすすべがない。ヘンリーはベアトリスのいない部屋で,身体を張って格闘しなければならない。ヘンリーにとっては思いがけない災難であるが,それはまた不在のベアトリスが課す試練,その想像的身体に出会うときの試練であり,本当のベアトリスに出会うためにヘンリー自身が生まれ変わる儀式でもあるかのようだ。
 ヘンリーと不在のベアトリスとの想像的葛藤のシーンの間に,クロスカッティングでヘンリーのアパートメントにいるベアトリスのシーンが挟まれる。ヘンリーの患者に代理の分析医と早合点されたベアトリスは,彼の打ち明け話に親身になって耳を傾ける。ちょっとした思い違いから,ベアトリスとヘンリーの患者とのセラピー・ゲームが始まる。ベアトリスは無意識のうちに,むしろその無意識によって彼らを癒していく。ベアトリスは,こともなげにヘンリーの部屋やバスローブに棲みつくように,患者の心にも棲みつき,またヘンリーの心の中にも棲みつくことになる。彼女の無意識(イノセンス)が思い違いや行き違いを生み出すが,それがこれまでの抑圧的な関係を解放し,まわりの人々だけでなく,犬や植物まで癒すものとして肯定されている。すなわち,「風変わりな主人公は,まさにその世間常識からの逸脱ぶりにおいて愛と幸福を約束される」(*5)という,スクリューボール・コメディのカタルシスが踏襲されているのである。
 不在のベアトリスの部屋で試練をくぐるヘンリーと,無意識のうちに不在のヘンリーにとってかわるベアトリス。二人の映像が小刻みなクロスカッティングによって交錯し,ヘンリーが出会うベアトリスの想像的身体とベアトリスが触れるヘンリーの想像的身体とが重なり合う。しかし,二人が本当に出会うのはまだ先のことであり,身体と身体との直接的な触れ合いは最後まで避けられている。『或る夜』が男女の身体が出会ってからの物語であるとするなら,『カウチ』は男女の身体が出会うまでの物語といえよう。二人の身体が直接出会うことがなければ,互いに拘束されることもなく,その分映像は軽くなり,自由と広がりとを手に入れているように見える。それがこの映画に現代的な感覚をもたらしている。

<ベッドあるいはイノセントな性的身体>

 『或る夜』では,エレンとピーターがバスの中で一夜を過ごした後,モーテルでの一夜,野宿のわらのベッドでの一夜,再びモーテルでの一夜と,三度ベッドをめぐる出来事が繰り返される。その反復の間に二人の愛は反目と接近を繰り返しながら深まっていく。『カウチ』では,予定より早くニューヨークに戻ったヘンリーは,患者として初めてベアトリスに出会い,カウチに横たわることになる。このカウチでのセラピー(セッション)も三回反復され,共感とすれ違いを繰り返しながらクライマックスへと導かれる。古典的なスクリューボール・コメディとそれを参照したと思われる60年後のスクリューボール・コメディ,その違いをベッドとカウチをめぐる男女の表象から読み取ることができる。
 エレンとピーターはバス旅行中,雨のために足留めされる。夫婦と勘違いされた二人は,モーテルの一室で一夜を共にすることになる。エレンは不愉快に思うが,ピーターは自分は新聞記者であり,特ダネが欲しいだけだと言って,「エリコの壁」(『ヨシュア記』に出てくる難攻不落の壁)の毛布を二人のベッドの間に掛け,自分のパジャマを貸す。エレンは着替えのときに,うっかりスリップを毛布に掛けて,ピーターに「エリコの壁からはずせ」と注意される。
 ここでは降りしきる雨の中,お金もなく,夫婦と勘違いされるという条件下で,二人は一つの部屋に閉じ込められる。二人のベッドを隔てる「エリコの壁」は,映画製作倫理規定(プロダクション・コード)が要請する男女の愛の仕切りであり,これをはさんで両性の戦いが展開される(*6)。エレンがパジャマに着替えるシーンはピーターには見えず,スリップ姿のエレンは観客に向かって視覚化されている。ピーターが目にするのは毛布に掛かったエレンのスリップだけだ。プロダクション・コードによる禁止とコードすれすれにどう見せるかという工夫が,欲望を挫いては煽るという「ちらつかせ」の手法を可能にする。特にこのシーンでは,ピーターの煽られた性的欲望を毛布でさえぎることによって,欲望の対象であるエレンの下着姿が観客,とりわけ男性観客に開放されるという巧妙な構造になっている。エレンは成人女性として十分美しく魅力的であるにもかかわらず,世間知らずの無頓着さと育ちからくる鷹揚さで,無自覚に男性の欲望をそそる女性としてえがかれる。このアンバランスな性的イノセンスが,エレンをスクリューボールたらしめ,コメディの枠組みの中でプロダクション・コードからも,男性観客からもその批判的な眼差しを回避させているといえよう。しかし,このエレンのイノセンスが,大富豪の父親の庇護下にある一人娘であり,また新聞記者ピーターへの依存という枠組み(拘束)の中で可能であることに留意する必要がある。そのため,エレンのイノセンスは男性の欲望を挑発しながら,最後は男性社会の価値観の中に回収されることになる。

<カウチあるいは交わらない視線>

 ニューヨークに帰ってきたヘンリーは,偽名を使ってベアトリスのセラピーを受ける。ヘンリーは名前を告げるが,ベアトリスは向こうむきに机にかじりついたまま顔を上げようとしない。意識的に視線の交差が回避されている。ヘンリーはカウチに横たわり,ベアトリスはその頭の側に置かれた椅子に座る。ベアトリスがさそいをかける。しかし,ヘンリーは何も言わない,言えない。カウチのヘンリーと椅子のベアトリスのショットが切り返されるが,視線の方向が交わることはない。また,セラピー中の二人は決して一つのフレームに収まることもない。このことは,三回のセラピーを通して一貫している。
 翌日の第二回のセラピーで,ヘンリーは母親のことを話す。上流階級の婚約者にそぐわない母親=自分の出自や,いつまでも息子を気遣う母親へのアンビヴァレントな思いなどを一気に語る。セラピー後,ベアトリスが「自分も母親を愛している」と話すと,ヘンリーは深く感動した表情でベアトリスを見つめる。相手がヘンリーだということも知らないベアトリスの無邪気で真剣なセラピー・ゲームが,分析医ヘンリーを癒してしまうという奇跡的な転倒が起こる。ところが,この後,友人のアンはベアトリスと見てきた映画のことを話し,「役者は下手すぎる。ストーリーはくだらない。ハッピーエンドで,二人で見つめ合ってばかみたい」と,セラピー後にリバースショットで交わされた視線を暗に揶揄するのである。
 二人の最初の出会いがカウチであるというのは象徴的である。セラピー・ゲームという二重にフィクショナルな関係の中で,二人は出会うことになる。すなわち,「カウチの上の想像だから危険はないわ」というアンの言葉のように,カウチは二人の関係を最初から隔てている。二人は直接出会っているが,なおそれは想像的な関係の中での出会いにほかならない。カウチは二人を結びつけるものでありながら,分析医と患者という越えがたい関係を仕切るものでもあり,セラピーでは互いに視線を交わすこともない。二人が分析医と患者という役割を演じ,しかもその役割が転倒しているところにこのコメディの成立基盤がある。スクリューボール・コメディは「荒唐無稽な恋の戦い」であり,「自由闊達なヒロインが,世界の既得権にあぐらをかいている男たちを,ほとんど攻撃といってもいいくらいの強引さで性的かつ社会的に解放する物語である」(*7)。それは二人の間に介在する性的・社会的・文化的差異を越えて恋を成就するために,挑まなければならない戦いである。『カウチ』もまた,「信じられないほど率直」なベアトリスが,ヘンリーを性的かつ社会的に解放する物語といってよいが,それは攻撃的なものでも強引なものでもなく,ほとんどベアトリスの無意識(イノセンス)のうちに実現されてしまう。それを可能にしているのがカウチという舞台にほかならない。
 第一回はヘンリーの抵抗,第二回は二人の間の転移と逆転移と,型通りに展開したセラピー・ゲームは,第三回でゲーム自体の解体の危機を迎える。すなわち,カウチ上のヘンリーは自分の本当の名前を告げてベアトリスに愛を告白しようとし,ベアトリスもワイヤー(ヘンリーの偽名)への愛を小さく口にする。しかし,ためらう二人を突発事故(停電)が封じてしまう。カウチでの想像的関係を解体し,性的身体の直接性を獲得すべきところで,二人は関係の不可能性のうちにとどまってしまうのだ。  もう一つ象徴的なシーンがある。二回目のセラピー後,ヘンリーの婚約者が犬のエドガーを連れ出すという事件が起こり,ベアトリスはヘンリーとともに探しに出かける。エドガーはベアトリスを見つけて池に飛び込み,反対の岸からベアトリスも飛び込む。ヘンリーも飛び込んでベアトリスのあとを追う。池の中でベアトリスはエドガーと出会い,ヘンリーもこれに追いつくが,このとき二人の視線は交わされない。ベアトリスとヘンリーはくるりと向きを変え,エドガーを先頭に等間隔に並んで泳ぐさまがロングショットで律儀に撮られているだけだ。普通ならクライマックスといってよいこのシーンには,水の中で出会った二人が,エドガーを間にはさんで,あるいはそっちのけに見つめ合ったり抱き合ったりするショットがないのだ。

<拘束された身体表象に対する批判>

 スクリューボール・コメディでは,常軌を逸した風変わりな男女が,愛の絆を深めるために戦う。このとき,自由な行動をとるのはふつう女性であり,男性は多くの場合,自由業的な仕事や研究に没頭し,性的には幼児性を残していて,女性に振り回され,性的に征服されて恋愛の成就あるいは結婚に至る。このように女はつねに男に勝利するが,それは男の愛を得ることであり,自らを男の手に委ねることでもある。古典的スクリューボール・コメディである『或る夜』では,エレンは旅の道中において,新聞記者ピーターにたしなめられながらも性的な戦いを繰り広げ,ブルジョワの箱入り娘らしい無邪気な奔放さとイノセントなエロティシズムによって,最後には彼の愛を勝ちとる。一方,『カウチ』の場合はどうか。ダンサーのベアトリスは分析医ヘンリーと部屋を交換したことをきっかけに,まずヘンリーを自らの不在の身体に引き寄せることになる。ヘンリーだと知らないまま好意を寄せたベアトリスは,セラピー・ゲームにおいて,そのイノセンスゆえに彼の上昇志向的な価値観を解体し,抑圧された心を癒し,最後にその愛を成就させる。しかし,そこではほとんど性的な身体の戦い,葛藤が見られないのが大きな特徴となっている。
 『或る夜』と『カウチ』とを最も隔てているもの,それはヒロインの身体の表象の仕方である。もし『カウチ』にスクリューボール・コメディとしての新しさがあるとすれば,そこ以外にないはずである。
 すでに述べたように,エレンはイノセントな性的身体として,そのエロティシズムを発散する。バスの中で居眠りしながらピーターに寄りかかったり,ヒッチハイクで白い脚を見せて車を止めてピーターを出し抜いたり,また,モーテルの一夜,「エリコの壁」の毛布に無造作にスリップを掛けてピーターにたしなめられる。ベアトリスはどうであったか。ヘンリーがベアトリスの性的身体を感受するのは,むしろその身体が不在のときであった。たとえば,ヘンリーがベアトリスの部屋に足を踏み入れたとき,カメラはその足もとをクロースアップでとらえる。ヘンリーは床に残されたベアトリスの足跡に自分の足を重ね,脱ぎ捨てられたキャミソールなどを一枚ずつつまみ上げる。不在の身体を想像させるフェティッシュな表象でえがかれているところに特徴が認められる。
 エレンは,成熟した女性でありながら,性的にはイノセントで無邪気な女性としてピーターとじゃれ合い,その奔放さでピーターの性的欲望を喚起するというようにえがかれている。しかし,見逃してならないのは,エレンのイノセントな性的身体はまた,拘束された存在,そのエロティシズムとして表象されていることである。たとえば,旅のバスの中での大合唱のあと,バスはぬかるみにつっ込む。そのはずみでエレンは座席の前の狭い空間に投げ出される。フレームの中でエレンは脚を折り曲げ,N字形の身体としてはめ込まれている。動きのとれない窮屈な身体と無邪気な表情,投げ出された白い脚。また,川を渡るシーンでエレンは,ピーターの肩に後ろ向きに「く」の字形になってかつがれる。身動きのとれない身体。子供のころ父親にしてもらった肩車だとはしゃぐエレンは,ピーターに肩車ではないとたしなめられ,空いた手にカバンを持たされ,お尻をたたかれる。これらのシーンでエレンは,ほとんど無自覚なまま拘束され,それゆえに性的な身体の輪郭をあらわにされているように見える。ベアトリスの身体はどのように表象されていただろうか。エレンと対比しながらいくつか例をあげてみたい。
・エレンはブルジョアの娘として護衛つきで,どこにも一人で出歩けない不自由な身 であり,そこを脱出するところから物語が始まる。ベアトリスは一片の新聞記事か らの思いつきで,パリからニューヨークに来てしまう自由な身であり,その移動か ら物語が始まる。
・父親のもとから失踪したエレンは,バスに揺れる新聞に,人さがしの記事の写真と して枠どられて表象される。ベアトリスは,セクシャルに動く新聞の背後に,ダン スで汗ばみ紅潮した顔のクロースアップで登場する。
・エレンは結婚相手に会うまで男の人と二人になったことがない。ベアトリスの部屋 には男の子が自由に出入りしている。
・エレンはお金を取られて文なしになり,ピーターの懐をあてにする。そのためピー ターから自由になれない。ベアトリスはセラピー・ゲームで,ヘンリーの患者から お金を受け取り,そのお金でアンと買い物をする。
・エレンはどしゃぶりの雨に降り込められ,ピーターとともにモーテルの一室に閉ざ される。ベアトリスは公園でアンと驟雨に濡れるが,生き生きとして気持ちよさそ うに歩いている。
・エレンはピーターのパジャマを借りる(下心のないことを示す証しとして)。ベア トリスはヘンリーのバスローブやシャツを無頓着に着る。
・エレンとピーターの愛の成就は,ピーターを気骨のある男と認めた父親が,ピータ ーに「エリコの壁」の毛布を落としてよいと許可することによって実現する。一方, ラストシーンのテラスで,ベアトリスは身にまとった毛布を自らの手で落とし,ヘ ンリーと結ばれる。
 『カウチ』のベアトリスは,より自由な場に開かれた存在としてえがかれていることがわかる。特に身体を拘束するような表象は一切避けられている。そこに『カウチ』の『或る夜』に対する批判を読むことができるように思われる。

<根源的イノセンスあるいは性的身体の忌避>

 ところで,男女の性的な戦いであるスクリューボール・コメディを参照した『カウチ』において,上記のようなヒロインの自由な身体表象はどのようにして可能であったか。それは,ベアトリスを性的にイノセントな女性としてではなく,もっと根源的にイノセントな女性としてえがくことによってである。ベアトリスがヘンリーをひきつけたのは,性的ではあるが不在の身体によってであった。また,セラピー・ゲームで分析医ヘンリーを癒すことができたのは,もちろん性的な身体によるものではない。ベアトリスの身体の表象は映像的には強い印象を残さない。たとえば,この映画でベアトリス像と考えられるものを列挙してみよう。「汗ばんで生き生き,解放的」「ブラジル風バッハ五番(感傷的・牧歌的・情熱的)」「無秩序な住まい」「有機的な部屋の空間」「とても美しく魅力的」「生き生きとして直観的」「信じがたいほど率直」「不実で限りなくやさしい」「複雑な女」「普通じゃない」「犬を生き生きさせる」「ヘンリーの患者を明るくさせる」「植物をジャングルのように茂らせる」など。これらのうち,多くはヘンリーが踏み入れた不在のベアトリスの部屋から感受したものであり,出入りする男の子の告白や手紙・留守番電話から得たものである。あるいは,ベアトリスがかかわりをもつ人々や動物,植物から,想像的に表象されるものである。ベアトリスの身体的な表象をともなうものも,そのような存在としてまわりから認知されているという要件がついている。彼女はいつもうわさの中に,他者の言説の中にいるようなのだ。このことは,ベアトリスの存在をファンタスティックなものにしている。ベアトリスに触れることは,その身体に触れることではなく,そのオーラのようなものに触れることになる。ベアトリスがいるだけで,まわりの生命が癒され,セラピー・ゲームで患者ばかりか分析医まで癒されるという奇跡的な物語が成立するのは,ベアトリスの存在感のうすい身体,その根源的なイノセンスと見合っているように思われる。それは,いわばテクノロジカルな文明に対するエコロジカルな価値を表象するものであり,ヘンリーの上昇志向的な価値観を解体し,その出自(母親)への自己回帰を促すものとして作用する。しかし,この通俗的な文明批評は,ベアトリスのイノセンスが引き起こす奇跡的な価値転倒によって,社会的規範からの逸脱の解放感をもたらすコメディになるべき物語を,荒唐無稽なファンタジーのほうに傾斜させている。ベアトリスとヘンリーとの間に介在する友人アンとデニスは,この通俗性を現実の側から批判する存在として,この物語をコメディに押しとどめるために呼び出されたといえよう。
 『カウチ』はなぜこのようにファンタジーに傾斜することになったのだろうか。直接にはベアトリスに,前述のような文明批評に基づく根源的なイノセンスを付与したためであるが,そのようにベアトリスを造形することになった理由は,彼女を性的な身体として表象することを極力回避したことにあると思われる。『カウチ』が参照したと思われる古典的スクリューボール・コメディ『或る夜』のエレンに見られたように,性的なイノセンスにもとづくエロティシズムは,自由なヒロインをえがくかに見えて,そこには拘束された身体があり,男性の手の中での自由あるいは男性観客にとっての快楽をもたらすにすぎなかった。ここでヴィム・ヴェンダースの『夢の涯てまでも』(1991年)の制作メモに書かれたロラン・バルトの言葉を思い起こしてもいい−「愛の領域においては,知ることからよりも見ることから最も深い傷が芽生える」。『カウチ』のベアトリスは,このような拘束された性的身体としての表象を忌避し,より自由な身体としての表象を得ようとしたとき,不在の身体あるいは根源的なイノセンスを付与されることになったのではないだろうか。そこに『カウチ』のスクリューボール・コメディとしての試みの新しさとその限界を見ることができるように思われる。

<注>
*1 ジャンルとしてのスクリューボール・コメディについては,もっぱら次の著作を 参照した。加藤幹郎『映画ジャンル論 ハリウッド的快楽のスタイル』(平凡社, 1996)。特に第6章「スクリューボール・コメディ 常軌を逸した女たち」。
*2 雨は『或る夜』のピーターとエレンにも降っている。どしゃぶりの雨が橋を水浸 しにしてバスを止める。二人はモーテルに一夜を明かすことになる。エリコの壁の 毛布に仕切られた二人のベッドの向こうの窓に,雨が太い筋をつくって流れている。 雨は二人を降り込めるものとして,直接的な映像で撮られている。この二つ映画の窓を伝う雨のショットには,直接性と間接性の明らかな対照が見られる。
*3 これと同様のシーンがヴィム・ヴェンダースの『夢の涯てまでも』の中にある。 ソルベイグ・ドマルタン扮するクレアが,車の接触事故で知り合った二人の男と同 じ宿に泊まることになる。銀行強盗の二人は,彼女のベッドに札束をばらまいて, パリまでの運び屋を依頼する。円柱を横にして半分に切ったような部屋。アーチ状 の天井から続く壁のそばにベッドがある。その夜,クレアはベッドに横になる。ま わりに紙弊が散乱している。向き合う半円形の壁。その右側の壁に窓があるが,カ メラは左側の壁に映ったその窓の影をとらえる。窓の影は,半円形の壁からアーチ 状の壁を経て右側の窓に移行する。カメラがそのすばやい運動を追って右側の窓に 達すると,そこには月が青い光を放っている。時間のエコノミーの秀逸な映像だ が, 時間は持続するのではなく,カメラの動きとともに推移し,壁に映った窓の影は現実の窓に帰着する。一方,『カウチ』の窓を伝う雨は,壁に映る青い光のたゆたいとして,永遠の時間の中に封じ込められる。タルコフスキーが,ショットの中を流れる時間の強度によって決定されるという「映画のリズム」の相違というべきだろうか。
*4 部屋を侵食する砂については,丹生谷貴志『「家事小説」としてのクロソフスキ』(『ユリイカ』199 年 月号,青土社,p.192-198)に次のような指摘がある。
  文明が砂漠に対抗するアベル的な試みであり,家事もまた反自然な身振りである ならば,女たちは部屋に入り込んでくる砂漠の砂を絶え間なく掃き出し,家が砂に よって浸食され占領されてしまうことを阻止し続ける。それは退屈な反復からなる 砂漠との駆け引き,家事とはその宙吊り場所に身を置き,それを耐え続けること, 家事の反復はただ反復だけをしか目的としてもたない反復であり,家事の空間は何 かのための雄々しい努力と反復の場所ではなく,端的に反復のための反復の場所に すぎない。
  ここでアケルマンのフィルム『ジャンヌ・ディールマン』を思い出そう。「19 76年ブリュッセル1080コメルス河岸通り23番地」のアパートの一室,すな わち主婦ジャンヌの家事空間こそ,そのような場所ではなかっただろうか。ジャン ヌはアパートに閉じ込められている(おそらく20年近く)。幽閉されているかの ような狭いエレベーター,深い海のように青い光がゆらめく中で,孤独にきわだっ たジャンヌの表情をわたしたちは何度か目撃した。完璧に家事をこなす主婦ジャン ヌ。アケルマンは,その日常的な家事のしぐさの厳密な反復と,ダムの砂が数粒こ ぼれるほど微細な,しかし確実な崩壊の映像を通して,ジャンヌの目に見えない性 的な身体の変化が殺人に帰結する必然をえがいたのだった。
  ジャンヌから20年を経て,パリの下町に住まうベアトリスのアパルトマンはど うだろう。砂漠の砂を外に掃き出すことを身に課したジャンヌと違って,ベアトリ スははなから家事を放棄している。表情もかたくなに整然たる家事の身振りで台所 に立つジャンヌが,第一ショットでわたしたちの前に登場したのに対し,ベアトリ スは開放された身体をもつダンサーとして登場する。
*5 加藤幹郎,前掲書,205頁
*6 『或る夜』における「エリコの壁」の分析については,加藤幹郎,前掲書,214  頁を参照した。
*7 加藤幹郎,前掲書,204頁

最新更新日1997年4月24日