CineMagaziNet! no.1(Autumn 1996)

『ビリケン』

鴇 明浩

 世の映画には多かれ少なかれ、水平運動と昇降運動による動態を顕著に示すシーンというものがあり、特定の映画ではその運動が説話的な作用にまでその威力を発揮させてしまう場合がある。
 たとえば、相米慎二の『東京上空いらっしゃいませ』は聞くところによれば、一般公募のシナリオであったらしいが、同監督の作品の流れから見ても、中井貴一扮する主人公の部屋と毬屋友子の部屋が隣同士ではなく、1階と2階であるという設定は監督の改編によるものではと私は思っている。「隣人」の部屋へ赴く際にロープづたいに昇降することで、緩慢な(つまりそれはサスペンス映画のような宙づり状態とは無縁の遊戯である)、しかし実に豊かな運動がスクリーンを支配するのだが、それはどう見ても相米の専売特許のようなシチュエーションとして「はまって」いたからである。
さて、阪本順治監督の「新世界3部作」と呼ばれるシリーズの最終作である『ビリケン』が大阪であるが、ここでは映画における昇降運動の豊かさが通天閣を舞台にたっぷりと楽しめる。
 観る者に不断ともいっていい昇降感覚を感じさせてくれる仕掛けとしては、垂直の力が作用するストレートな構図、運動など、さまざまな要素が豊かに補完し合っているのだが、中でも「ビリケン」という神様の身ぶりや、人々の動態が高度に沿って変化するという設定が高低の差を否応なく感じさせる点は何ともユニークである。実際、スラプスティックな軽やかさが展開されるのはほとんどが、展望台をはじめとする通天閣の内部であり、「下界」では、この建造物取り壊しにもめる人々のシリアスな表情が中心にシーンが展開される。なにより、ビリケンは下界に降りることで、やがてはパワーを衰弱させてしまっている。まるで展望台が重力から自由なまでの非現実的な高みを感じさせ(神が住まう場所なのだ)、そのために登場人物たちはかつてのドタバタ喜劇さながらの軽快な運動をみせてくれると言わんばかりだ。『素晴らしき哉人生』や『メイド・イン・ヘブン』など、天国=下界というメルヘンチックな空間の二分割を行うドラマの流れは映画史に存在するが、『ビリケン』もまた、それらに属するメルヘンである。
 しかし、ここで、ある二重構造を見いだしてみたい。そもそもこの映画の舞台である新世界自体が劇中では、もはや下界ではないことも確かなのである。外部からの使者はビリケンではなく、ゼネコンの雇われ者であり、ここでの新世界は急速に時間の進行する下界から、あきれるほどに変わらない「天国」へ戻ってきた男の「浦島太郎物語」でもある。ビリケンと雇われ者が鏡面関係にあること(説話的には古典的手法である)で、舞台もまた通天閣-新世界-外部の三つの階層を持つに至り、それぞれの世界に属する住民たちの奇妙にすれ違う、あるいは対立する様がコメディとして豊かに物語を持続させている。

付記:新世界の「交流住民」である筆者から見た追加情報
・実際の通天閣にはずっと前からしっかりとビリケンさんは飾られている。ビリケン発掘のエピソードは素敵な創作である。
・上記では新世界は変わらないと記したが、もちろんこのまちも実際は細部で変化している。映画館が近年みるみる間に減ってしまったことは私には痛かった。戦後の大映、東映作品をフィルムで大量に鑑賞できる希少な空間だったのだ。