CineMagaziNet!Talk: Book Review
ロッセリーニの『白い船』 書評:『INTERVIEW 映画の青春』
『エジソン的回帰』(山田宏一著、青土社、1997)
板倉史明

 山田宏一はわれわれに問いかける。1954年に立体映画として撮られた『大アマゾンの半魚人』(ジャック・アーノルド監督)がヴィデオソフトとなって現代によみがえったときに(それも単なるモノクロのスタンダードサイズで)、なぜこれほど新鮮に見ることができるのかと。あるいは、これは「戦う」兵隊ではなく「疲れた」兵隊だ、と試写を観た軍の関係者が洩らしたという逸話の残る『戦う兵隊』(亀井文夫監督、1939年)が、なぜ現代において、その時代の状況もメッセージも奪われたかたちで観られてもなお「新鮮で感動的」なのかと。

 映画をヴィデオで観ることは一冊の本を読むようなものだ、と彼はいう。彼は現代のヴィデオでの映画体験を悲観してはいない。ヴィデオで観る映画は、美術館の絵画を美術全集の写真で観るようなものだと言われているが、このような言説にはときとして、映画館で観る「映画」こそ映画体験の王道であるというイデオロギーが見え隠れしているものだ。しかし山田宏一はよりラディカルに、ヴィデオ体験をむしろ時代の制約から開放された特権的な映画体験として肯定している。(評者もヴィデオ世代のひとりとして、また映画研究をしているひとりとして山田宏一に賛成であるが)。

 しかし、ここで言い添えなければならないが、山田宏一は彼の主観的・独断的解釈を、時代から開放された「現代的解釈」だと押しつけているわけではない。信頼できる彼の映画史的知識と、貪欲な好奇心を原動力とした資料収集とその分析が、説得力のある「現代的解釈」となっており、映画批評として第一級の風格を備えているといえよう。

 そのような問題意識を持ちつつ、彼は文字どおり古今東西の映画を軽やかに横断し、論じてゆく。ハワード・ホークスの『ヒット・パレード』(1948年)を論じたかと思うとツイ・ハークの映画を論じ、そして忠臣蔵映画を語るかと思えばスクリューボール・コメディを論ずるといった具合である。

 彼の方法論が実りある結果をうみだしているのは、全体の三割を占める日本映画論の中の一章、「歴史映画考」という論考であろう(pp. 189-218.)。1930年代後半、当時の批評家たちから「歴史映画」とよばれた一連の映画について、映画批評や新聞などさまざまな資料を駆使してその輪郭を炙りだしてゆく。「歴史映画」とは一言でいってしまうと、歴史とその現代的意義に目をむけた映画であり、時代考証、せりふ、演技などに長い準備期間をかけた映画であったといえるであろう。それは当時、新しい時代劇を指す名称であり、無自覚的に自然発生したのではなくきわめて意図的に待望されたものだったらしいことが特色であるという。(山田宏一は現在ヴィデオで観ることのできる初期「歴史映画」を三本挙げている。『新鮮組』[木村荘十二監督、1937年]、『大坂夏の陣』[衣笠貞之助監督、1937年]、『阿部一族』[熊谷久虎監督、1938年])。

 まず1937年に映画批評家の間で歴史映画待望論が高まった。その先鞭をつけたのは、1937年の津村秀夫の評論「衣笠貞ノ助氏への手紙」(『映画と批評』小山書店、1939年)であるという。これは当時流行していた時代劇の風潮を批判した文章であった。具体的には鳴滝組の『赤西蠣太』(伊丹万作監督、1936年)に代表される「ナンセンス時代劇」に対して、時代考証があまくことばも現代的であり、「軽薄陳腐な諷刺であり、或いは楽屋落ちであるに過ぎ」ないとして批判しているという。そして津村秀夫は「歴史映画の萌芽」を『大坂夏の陣』に認め、評価したのであった。

 その後「歴史映画」は徐々に国策映画へと接近してゆく。つまり勤王史観や武士道鼓舞の内容をもつ「歴史映画」が戦争中の国策的な要請に答えるようになってゆく(『元禄忠臣蔵』[溝口健二監督、1941・42年]、『独眼竜正宗』[稲垣浩監督、1942年]など)。その具体例として、当時の「同盟通信―映画」(1942年11月13日・14日 第2508号・2509号)のなかの文章「歴史映画についての一私見(上・下)」をみてみよう(京都市文化博物館の伊藤大輔文庫BOX31に収蔵)。この文章は当時内務省映画検閲官をつとめていた中川楽水という人物が書いたものである。彼は「歴史映画」の評価とその使命についてこう述べる。「映画新体制以後の歴史映画、伝記映画には日本精神、武士道精神が強く浮び出ていて誠に結構であり感銘も深い、今後の歴史映画は歴史事実の単なる芸術的叙述表現に止らず、戦時下の国民精神を振興し協同一致国運を開拓すべき熱意を旺んにするものでなくてはならぬ」。

 また、「歴史映画」の要素として指導性、宣伝啓発性とともに重要視しているのが娯楽性であるのはおもしろい。つまり映画はまず観客に楽しんでもらわなくては、その「指導的」効果を発揮することもできないのだ。中川楽水は『独眼竜正宗』について「大戦下国民に高邁なる戦争の理想を教え、この武将の剛勇と人情を見事に描いたのはうれしい、大東亜戦の理念の理解に資し、他面健全娯楽を提供した点において高く評価さるべきである」と絶賛している。まさに『独眼竜正宗』は「戦争の理想」や武士道を観客に教えるとともに、「健全娯楽」でもって観客の興味をひきつける模範的な「歴史映画」だったのだ。この映画検閲官は、たしかに歴史叙述の正確さや娯楽性も大切だが、その両者を包括する「最高次の理念として皇道の厳存することは瞬時も忘れてはならない」と最後に結んでいる。この時点で1937年に批評家によって望まれた「歴史映画」というひとつの傾向(ひとつのジャンルといっていいのかもしれないが)は、太平洋戦争の国策に呑み込まれてしまっている。戦前「歴史映画」の末路である。

 さいごに、「歴史映画」を再考することはリアリズムの問題へとわれわれを導くであろう。リアリズムとは単に時代劇の時代考証を厳密にすれば「リアル」なのだろうか。ロッセリーニの『無防備都市』(1945年)が当時の観客に「リアル」に見えたのは、単に戦後の荒廃した瓦礫のなかで、素人俳優を使って撮影されたからという形式上の方法論のせいであろうか(実際は女優アンナ・マニャーニを使い、3つのスタジオセットを使ったが)。おそらく「リアリズム」ということばの内容は時代によって変化してゆくものであろう。当然のことだが、52年前に『無防備都市』を観た観客がもつ「リアル」さと、1997年に同じ映画を観る観客の「リアル」さは異なっている。われわれが何を「リアル」と感じるかは時代によって、また文化によって違っている。

 同時代に生きた「かたりべ」が着実に消えゆきつつある映画の歴史は、もはや記憶に頼ることはできなくなりつつある。52年前の「リアル」を再発見するために、より大きな視野での映画観客の歴史、または映画観客の欲望の歴史(何を求めてお金を払って暗闇へと入っていったのか)が映画研究に待ち望まれよう。(1997年8月19日)

CineMagaziNet! No. 2
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