bplist00�_WebMainResource� ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO�G CineMagaziNet! no.17 加藤幹郎教授 Wikipedia

加藤幹郎教授 Wikipedia

加藤幹郎(1957年〜)は、日本の映画批評、映画評論家、映画学者。京都大学教授。日本映画学会初代会長(2005年~2012年)。

==経歴==
 長崎市生まれ。筑波大学比較文化学類卒業。同大学院博士課程文芸・言語研究科単位取得満期退学。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。博士(人間・環境学)。英文学者として出発し、ジェイムズ・ジョイスに関する論文「''Ulysses''の謎--第15挿話"Circe"を中心に」により第9回(1986年)日本英文学会新人賞受賞。1987年に京都大学教養部助教授に着任後、映画学|映画研究にシフトした。蓮實重彦、四方田犬彦らとともに、日本に学術的映画研究を定着させることに最大の功績があった人物の一人。ミシガン大学客員教授、フルブライト客員研究員(カリフォルニア大学バークレー校、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、ニューヨーク大学、ハワイ大学システム|ハワイ大学マノア校)などをへて2006年より京都大学大学院人間・環境学研究科教授。日本の映画研究および関連学会のあり方を刷新すべく、2005年、中心となって日本映画学会を設立し、初代会長(2005年-12年)。2012年からは顧問を務める。旺盛な研究・執筆活動を続けるとともに、大学および学会において後進の育成に力を注ぎ、諸氏の助力もあって目覚ましい成果をあげている。加藤幹郎教授の京大指導院生たちは、現在、神戸大学大学院准教授(映画学、第2回京都映画文化賞受賞者[100万円])、早稲田大学准教授(映画学、第3回京都映画文化賞受賞者[50万円])、東京国立近代美術館フィルムセンター研究員(2名)、花園大学准教授(映画学)、国際日本文化研究センター助教(映画学)、九州大学大学院言語文化研究科助教、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手(映画学)、シンガポール国立大学客員研究員(日本研究)、特別研究員|日本学術振興会特別研究員PD(映画学、第3回日本映画学会賞受賞者)その他2名、NHK職員(2名、ディレクターとエディター)、その他の国立大学准教授など多数。

==主要著書==

==単著==

*『映画のメロドラマ的想像力』(フィルムアート社、1988年1月)ISBN 9784845988709
*『愛と偶然の修辞学』(勁草書房、1990年5月)ISBN 9784326851072
*『鏡の迷路 映画分類学序説』(みすず書房、1993年7月)ISBN  9784622042471
*『夢の分け前 映画とマルチメディア』(ジャストシステム、1995年9月)ISBN 9784883091102
*『映画ジャンル論 ハリウッド的快楽のスタイル』(平凡社、1996年7月)ISBN 9784582282320
*『映画 視線のポリティクス 古典的ハリウッド映画の戦い』(筑摩書房、1996年9月)ISBN 9784480872838
*『映画とは何か』(みすず書房、2001年3月、第11回吉田秀和賞受賞作品)ISBN 9784622042648
*『映画の領分 映像と音響のポイエーシス』(フィルムアート社、2002年3月)ISBN 9784845902316
*『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』(筑摩書房〈リュミエール叢書〉、2004年9月)ISBN 9784480873156
*『映画の論理 新しい映画史のために』(みすず書房、2005年2月)ISBN 9784622071297
*『ヒッチコック「裏窓」 ミステリの映画学』(みすず書房〈理想の教室〉、2005年6月、第6回本格ミステリ大賞最終候補作品)ISBN 9784622083030
*『映画館と観客の文化史』(中央公論新社〈中公新書〉、2006年7月)ISBN 9784121018540
*『表象と批評 映画・アニメーション・漫画』(岩波書店、2010年4月)ISBN 9784000245029
*『日本映画論 1933-2007 テクストとコンテクスト』(岩波書店、2011年10月)ISBN 9784000242837
*『列車映画史特別講義 芸術の条件』(岩波書店、2012年12月)ISBN 9784000256612
*『荒木飛呂彦論 マンガ・アート入門』(筑摩書房〈ちくま新書〉、2014年1月)ISBN 9784480067586

==編著==

*『時代劇映画とはなにか ニュー・フィルム・スタディーズ』(共編、人文書院、1997年11月)ISBN 9784409100080
*『世界の文学44号 ハリウッドの時代』(分冊百科集、朝日新聞出版社、2000年) https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=6308
*『映画学的想像力 シネマ・スタディーズの冒険』(人文書院、2006年5月)ISBN 9784409100219
*『アニメーションの映画学』(臨川書店、2009年2月)ISBN 9784653040248

==監修==
*「映画学叢書」(全10巻監修、ミネルヴァ書房、2010年 - )
**第1巻  杉野健太郎編『映画とネイション』(2010年12月)ISBN 9784623059072
**第2巻 塚田幸光編『映画の身体論』(2011年10月)ISBN 9784623059645
**第3巻 杉野健太郎編『映画のなかの社会/社会のなかの映画』(2011年12月)ISBN 9784623061785
**第4巻 杉野健太郎編『交錯する映画 アニメ・映画・文学』(2013年3月)ISBN 9784623064878

==編集協力==
*『日本映画は生きている』(全8巻編集協力、岩波書店、2010年~2011年)ISBN 9784000283915

==訳書==
*スティーヴン・ヒース『セクシュアリティ 性のテロリズム』(共訳、勁草書房、1988年7月)ISBN  9784326650897
*コリン・マッケイブ『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』(筑摩書房、1991年3月)ISBN 9784480831095
*タニア・モドゥレスキー『知りすぎた女たち ヒッチコック映画とフェミニズム』(共訳、青土社、1992年11月)ISBN 9784791752232
*スーザン・レイ編『わたしは邪魔された ニコラス・レイ映画講義録』(共訳、みすず書房、2001年12月)ISBN 9784622042686

==日本版編集委員==
*ジャック・サリヴァン編『幻想文学大事典』(国書刊行会、1999年2月)ISBN 9784336041081
http://www.green.dti.ne.jp/ed-fuji/gensojiten.html

==講演==
*加藤幹郎 「ニコラス・レイ映画講演 We Can't Go Home Again」 京都みなみ会館(2013/9/21)
http://www.youtube.com/watch?v=R8kTPGclBtA

==シンポジウム==
*FUTURE CINEMA─来たるべき時代の映像表現に向けて
シンポジウム「意識と感覚のプロジェクション─映像表現の諸相」
http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20040222

==論文等==
*[加藤幹郎]の論文検索結果

http://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&q=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%B9%B9%E9%83%8E&btnG=&lr=

==主な著書の概要==
『映画とは何か 映画学講義』(文遊社、2015年)
https://twitter.com/BaddieBeagle/status/553494744794284032
https://twitter.com/real_zombiee/status/553776554820374528
https://twitter.com/campintheair/status/553514760570810368

『荒木飛呂彦論 マンガ・アート入門』(筑摩書房[ちくま新書]、2014年)
著者は本書のなかで芸術家(アーティスト)の本質とは「芸術家(アーティスト)とは、伝統的なメディア文化史をふまえたうえで、その延長線上で革新的な作品を創造する人のこと」だとシンプルな言葉で、明晰に述べている。
『ジョジョの奇妙な冒険』は著者が本書で多彩に考察してみせたように、芸術史の諸ジャンルの横断性から、伝統的な作品から現代的な作品まで幅広くマンガ作品中に取り入れて、それをオリジナリティ豊かに革新的に革新化している。それゆえ、荒木飛呂彦は著者が定義した通りの最高のマンガ芸術家だということになり、『ジョジョの奇妙な冒険』は現代、世界最高の芸術漫画(アート・マンガ)なのだということになる(たんなる、おもしろい娯楽マンガの水準をダントツに超えている)。例を挙げて具体的に説明するならば、著者は『ジョジョの奇妙な冒険』の「斜形コマ割り」は1970年代の石森章太郎(石ノ森章太郎)からの影響であるが、荒木はそのコマ割り内において主要登場人物の身体も斜め(斜形)に描いていると指摘し(これは漫画史的な考察)、『ジョジョ』で手(マ二)が現実的な表現とは違った形で提示されていることは、ダ・ヴィンチの後輩的イタリア人画家パルミジャニーノの正円形絵画の『凸面鏡の自画像』に起源があるために、荒木は「正円形コマ割り」までパート5からたくさん開始する、いろんな観点から、すぐれたマニエリスム芸術漫画作家であると解説したり(これは16世紀の「絵画論的な考察」だけにとどまらず、20世紀のすぐれたポップ・アーティスト、ロイ・リクテンスタイン(ロイ・リキテンスタイン)、その他すばらしい芸術画家たちをオマージュ引用する、荒木飛呂彦の革新的漫画の創造性の分析、解釈、説明)、ディオが「人間をやめる」と断言して吸血鬼化したパート1の主人公の名前が「ジョナサン」であることにふれて、これは19世紀にブラム・ストーカーが書いた吸血鬼小説『ドラキュラ』からの影響であることを見事に分析したりしている(これは文学史をふまえた考察)。このように、著者は『ジョジョの奇妙な冒険』は多様な長い芸術の歴史の作品のオマージュから成り立っていて、さらにそれを刷新しているすぐれたオリジナルな芸術テクストであると読者に説明している。
著者は本書で『ジョジョの奇妙な冒険』が様々な芸術作品からのオマージュ的画期的引用を実践していることを解説して、『ジョジョの奇妙な冒険』が単純な娯楽漫画だけにとどまることのないあらゆる芸術分野へと開かれた芸術テクスト、芸術漫画であると言い、読者が多様に『ジョジョの奇妙な冒険』を読むことができることも示唆しているのである。
http://www.nano-architects.com/column/%E3%80%8E%E8%8D%92%E6%9C%A8%E9%A3%9B%E5%91%82%E5%BD%A6%E8%AB%96%E3%80%8F%E3%80%80%E8%91%97%E8%80%85%EF%BC%9A%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%B9%B9%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93%EF%BC%9A%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE/
https://twitter.com/tanzents66/status/279985929966465024
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/37479394
http://www.jsscc.net/books/2536
http://www.tfm.co.jp/timeline/index.php?itemid=77314
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN6/kato-bisyoujo.html
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http://book.akahoshitakuya.com/cmt/34719933
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https://twitter.com/fermat1665/status/421447312473214976

『列車映画史特別講義 芸術の条件』(岩波書店、2012年)
映画学者=批評家は、映画の芸術的革新を通じて映画史を考察しなければならないと考えてきた著者は、本書においても、それを見事に実践してみせる。著者はすでに吉田秀和賞受賞をした『映画とは何か』(みすず書房、2001年)の「列車の映画あるいは映画の列車―モーション・ピクチュアの文化史」チャプターで映画と列車の関係について重要な視点を提供しているが、本書はそれとまったく異なる別の新しい観点から列車映画史の刷新を実践し、それに成功している。本書は、まず3人の偉大な映画作家たちのすぐれた文字通りのオムニバス・トレイン映画『明日へのチケット』(2005年)の分析をとおして、列車映画史のみならず、映画史の古典性と革新性の映画館的同乗列車性を分析する。第一部(エルマンノ・オルミ監督)では、古典的な「主人公の視点ショット」と反古典的な「非人称視点ショット」(いわば映画館から列車に同乗している観客の視線)との革新的編集がなされている点に注目し、それが観客の物語世界(仮構世界)への没入を婉曲的に阻もうとするものであると同時に、第一部の最後に主人公が自らの主観的世界(仮構世界)を脱し現実世界への参入を果たすことの予兆ともなっていることを指摘する。第二部(アッバス・キアロスタミ監督)においては、列車内コンパートメント内の人間的葛藤と、それを文字通り(映像通り)等間隔に分割するコンパートメントの鏡面ストライプ上に、車窓外の緑色の風景が反射して流れていく様子を捉えたロングテイクの驚くべきショットが、画面内の地(風景)と図(背景)の関係を無効化しているという点を精確に掴みとり、それが人間中心的単線的構成を旨とする古典的画面構成に比して、いかに破格的な演出で人間精神を表象しているかを鮮やかに分析してみせる。そして個人的な第一部、自然的な第二部に対して、個人社会的ともいうべき第三部(ケン・ローチ監督)が快活な若者たちの友愛と葛藤を左翼的画期性のうちに見事に描き出すことで、「オムニバス・トレイン・フィルム」たる本作が、明快なハッピー・エンディングを迎えることの意義を強調する。つづいて著者は、列車映画とロード・ムーヴィーという二つの異質なジャンルを意識的に混淆させたヴィム・ヴェンダースの『アメリカの友人』(1977年)に目を転じ、本作が、単に従来主張されていたような映画史を取り込むオマージュ映画であるにとどまらず、列車の産業史と絵画史と映画史を交錯させた映画であることを正しく指摘し、タイトル通り反古典的ハリウッド映画『イージー・ライダー』(1969年)の監督・主演デニス・ホッパーを暗黙的かつ直接、列車映画とロード・ムーヴィーに連関させるヴェンダースの映画史的友愛観が、親子夫婦友人そして敵対関係に延長されることを分析する。またアラン・ロブ=グリエの画期的映画『ヨーロッパ横断特急』(1966年)の分析も驚嘆に値する。あるいは別の観点から映画媒体史の終焉そのものを象徴的かつ具体的に映画化したタル・ベーラの『ニーチェの馬』(2011年)の分析では、列車とならぶ人類の歴史における運動媒体たる馬がモーションレス化することで(映画史開幕の一つの契機となった元英国人写真家マイブリッジによる走行馬の連続写真との連関性、つまり連続写真といえども、写真はあくまでもスティル・ピクチャーであり、映画『ニーチェの馬』もまたモーションレス化するのであるから)、映画(モーション・ピクチャー)の本質たる運動媒体に終止符が打たれることとなり、それが映画史最初期(十九世紀末)における列車鉄道産業の世界的浸透によって馬車時代が終焉を迎えたことと、二十一世紀にコンピュータ産業の浸透とともに映画史もまた終焉を迎えたこととを端的に象徴するというのである。このように列車映画史上の特異な意義を次々に明らかにしてゆく本書は、くわえて、ハリウッド映画史上もっとも偉大な映画監督の一人であるハワード・ホークスその他、世界中のさまざまな画期的映画作家たちの列車映画の芸術的アスペクトをも精密に分析している。

https://twitter.com/ruroa2/status/538647221726507008
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http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=169598&id=937439
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http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0256610/top.html

『日本映画論 1933-2007 テクストとコンテクスト』(岩波書店、2011年)、432頁、2段組み。
本書は徹頭徹尾、映画を見て聴くことについての書物である。映画を見て聴くことは表象の倫理的領域にかかわる。それはイデオロギーの領域に、そしてそれが実践される社会的時空間の問題にかかわり、とりわけ還元不可能な個性の想像力の領域にかかわる。その意味で本書は映画史の書物ではない。映画史が映画の歴史の切断や区分にもとづく編年体的記述を意味するのであれば、なおさらそうである。そもそも概念的、歴史的理解だけでは真に映画テクストを理解したとは言いがたい。映画テクストとは歴史的、概念的説明を超絶する映像と音響の具体的構築物だからである。それは全体化理論では説明しがたい経験生活である。経験のなかでも、もっとも還元不可能な経験のひとつが、芸術テクストを見て聴くことである。言いかえれば、本書はこれまでの日本映画|日本映画史の言説の山のなかに埋もれていた個々の映画テクストの具体的な表情を生のままに回復する試みである。本書は映画の多種多様な偶有性をあるがままに記述し、社会的統計のような全体的な視点からは明確な距離をおいている。映画テクストの可能性をその凝縮性において汲みつくし、映画を現実再現的な見方から解放し、一方向的に社会的機能に還元する傾向を改めること。それは映画テクストそのものをして語らしめることである。
http://realtime.wsj.com/japan/2013/09/07/%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%AB%E5%80%A4%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%93%E3%81%A0%E3%80%8D%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%8C%E5%BC%95/
https://www.facebook.com/pages/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E-%E6%9D%BE%E9%98%AA%E3%81%AF%E9%9D%92%E6%98%A5%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%A1/639397399404822?hc_location=timeline
http://www.amazon.co.jp/review/R119CASSZSLDP0/ref=cm_cr_dp_title?ie=UTF8&ASIN=B006DTNUD6&channel=detail-glance&nodeID=561958&store=dvd
http://booklog.jp/item/1/4000242830
http://honto.jp/netstore/pd-review_0603464340_191.html
https://twitter.com/MAKKOTBRAIN/status/287151826871144448
http://blog.goo.ne.jp/nyoze-en/e/b2ae44393ec3c913f423e9b4f08ff810
http://www.ogata.soft.iwate-pu.ac.jp/LCC2_Web/Proceedings/Proceedings%2827%29/27G-04Kanai.pdf
http://book.akahoshitakuya.com/b/4000242830
http://blogs.yahoo.co.jp/minehiroy/8120020.html
https://twitter.com/qurari_/statuses/375978732126621696
http://calamel-books.jp/?pid=3194044
http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20140114/p1
http://www.slowmobility.net/columns/vehicles/2013-07-31_16-35/

『表象と批評 映画・アニメーション・漫画』(岩波書店、2010年)
映画論、アニメーション論、漫画論の3部構成。序章を含む8つの章はそれぞれ独立した批評的テクスト分析でもあるが、「ポピュラーな視覚媒体のなかに芸術的アスペクトを見いだすこと」という共通のテーマで繋がっている。主眼がおかれているのはテクスト分析である。これまでの著書でもテクスト分析の定義はなされてきた。しかし芸術的テクストは絶えず読解され、従来の意味から逸脱し続けるものであり、外部からの理論の一律的適用(フェミニズム論や精神分析学|精神分析の適用を例としてあげている)はその特異性を疎外するとの主張から、本書でも、まず序章においてアルフレッド・ヒッチコックの『レベッカ 』の主題論的テクスト分析を通して、その再定義を試みている。そしてその方法論でもって、第1章ではスティーヴン・スピルバーグのスペクタクル映画とジャン=リュック・ゴダールの反スペクタクル映画を、第2章ではエドガー・G・ウルマー(エドガー・G・アルマー)のB級映画を、第3章ではクリント・イーストウッドの西部劇映画を吟味している。第4章では新海誠のアニメーション映画が可能にした風景映画の特質を規定している。漫画的テクストの分析もなされている。第5章では漫画家荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』を分析し、それが古典的漫画における人間身体表象や齣割りや画面構成から逸脱した世界的に画期的なマニエリスム芸術漫画であることを論じ、第6章では、石森章太郎、ちばてつや、はるき悦巳らを取り上げ、それぞれが描く独自の漫画テクストの分析を通して、空間芸術と考えられがちな漫画が読者との時間芸術であることを論証する。
http://kifumi-k.hatenablog.com/entry/2014/08/31/180503
http://geopoliticalcritique.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-db78.html
http://www.eiganokuni.com/yoshida/28-2.html
http://www.fresheye.com/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89/f/24.html
http://blog.livedoor.jp/basedonfacts/archives/67464531.html
http://gyosei.mine.utsunomiya-u.ac.jp/since2001koki/yoka09/090707asakuras.rtf.htm
http://blog.goo.ne.jp/khar_ms/e/7d0b1cdee901b0aac9b1db072800660c
http://cafenardis.blog27.fc2.com/blog-date-20100918.html
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A3FL5AJCT75DOM/ref=cm_pdp_rev_more?ie=UTF8&sort_by=MostRecentReview#R3KXPS9VX8I1R1
http://twilog.org/smapumman/date-121126
http://blogs.yahoo.co.jp/ochikoboremaru/51731082.html
http://www.ogata.soft.iwate-pu.ac.jp/LCC2_Web/Proceedings/Proceedings(24)/24G-01ohtomo&kanai.pdf
http://ameblo.jp/motokichi26/entry-11510177777.html
http://neeeeeew.tumblr.com/post/134970126
http://www.douban.com/note/202816358/
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1717779.html
http://ore.to/~gekka/syohyou/MangaHihyouSengen.htm
http://www.amazon.co.jp/review/R1JT77IFM2UWAF/ref=cm_cr_pr_perm?ie=UTF8&ASIN=4757101325&linkCode=&nodeID=&tag=

『映画館と観客の文化史』(中央公論新社[中公新書]、2006年)
本書は、アメリカ、日本、それぞれの映画の黎明期から今日までの上映形態と観客の関係を分析解説する。著者は、映画館(映画が上映される場所/装置)を、観客を世界の中心に位置づけ、世界を視覚的に統御したいと思う人間の欲望を満足させる装置だと捉える。そして上映形態、当時の文化的・社会的背景から、各時代の観客が映画観賞によってどのような欲望を満たしてきたかを入念に考察する。観客が観る場所と媒体が変われば、映画体験は異なるものになる。しかし、これまで上映形態を軽視し映画自体に一定不変のもの(解釈)が存在するという誤解から、上映形態の議論は日本では全く行われてこなかった。本書は、そういった立場から、映画館をめぐる日本初の網羅的省察を試みている。映画がいかに「場所」と関係づけられてきたか、19世紀のパノラマ館から始まり、日本の活動弁士、京都市をふくむ世界中のヘイルズ・ツアーズ(擬似列車映画館での列車映画興行)の模様(1900年代初頭から1910年代まで)、アメリカのニッケルオディオン、ピクチュア・パレス/映画宮殿、ドライブ・イン・シアター(1950年代ブーム)、フライ・イン・シアター、列車内映画館、客船内映画館、テーマパーク内映画館、IMAX、シネマコンプレックスその他、映画と結び付きのある様々な上映形態を網羅している。そして、それらから映画を享受する観客を再定義し、また映画産業都市京都と観客との特異な関係、日本初の包括的な映画館(観客)論を展開する。

http://www.memorandom.tokyo/random-library/215.html
http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200710020129.html
http://booklive.jp/review/list/title_id/240210/vol_no/001
http://analysis-nz.hatenablog.com/entry/2014/05/10/080131
http://okdm.hatenablog.com/
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080828/1219914637
http://numabe.exblog.jp/4404426/
http://senkanburian.jugem.jp/?eid=1255#sequel
http://ba-jie-bookreview.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_4265_2.html
http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/132445/1/18804314_64_03.pdf
http://blog.goo.ne.jp/hy223606/e/5d187735b6bbbf6a53bf225ce4e62803
http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110619/1308456390
http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/NIKKI4/301.html
http://www.critiqueofgames.net/data/index.php?%B4%D1%B5%D2
http://es.favstar.fm/users/osamuhirota/status/318120339123105792
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4044983
http://hattori.cocolog-nifty.com/book/2006/09/post_e38c.html
http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/e75c6a3e74fd0e84419a19a909e42cf7
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『映画の論理 新しい映画史のために』(みすず書房、2005年)
本書の第3章ではハリウッドの特異な映画作家ニコラス・レイの1950年代の作品群が論証され、人間精神の諸問題を構図や配色によって表象する手法のたくみさが個々のテクスト分析によって明らかになる。そうした優れた映画的センスとともに解き明かされるのは彼の映画における外見と本質の乖離と分節である。同時代に看過されたニコラス・レイ作品の本質はここにジェンダー・トラブル、二元論的ジェンダー観の否定という言葉によって見直され、『黒の報酬|黒の報酬 ビガー・ザン・ライフ(身の丈を越えて)』『危険な場所で』の主人公たちのように、あやまてる対象への過剰な自己投入の結果、自ら抑圧したものの暴力的回帰によってヒステリーを発症する男性中心社会イデオロギーの姿が逆説的に浮き彫りになる。章末においてはフィルム・ノワールや「年少犯罪もの」といった従前のジャンル的枠組みを揺るがす、そうした「男性メロドラマ」の誕生の瞬間が最初期の監督作品『暗黒への転落』の法廷(「善」と「悪」の二元論的枠組みの場)を舞台とするクライマックス・シーンの考察によって明らかにされ、ニコラス・レイの同時代の社会的問題にたいする独創的表象が考察される。
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『ヒッチコック「裏窓」 ミステリの映画学』(みすず書房、2005年)
本書はサスペンス映画の巨匠と呼ばれるアルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』を中心に、映画史上、他の誰もまだはっきりと述べていない彼の映画における「本質」(ポスト古典期の始動)というべきものについて検討する。 その「本質」というのは、この映画の外見と内実が食い違うのではないかという前提をもとにしている。本書によると、『裏窓』は一見したところ殺人事件をめぐるミステリ映画に見えるものの、殺人事件が起きたという外見を立証できる、映画という視聴覚媒体に本質的な視覚的証拠はこの映画のどこにも何ひとつ見当たらない、観客の目に届かないところにあるという曖昧性の映画である。ここで筆者はヒッチコック映画における視覚的構造のポスト古典期性を詳細に解き明かす。外見と内実の乖離というヒッチコック映画の特徴がヒッチコック映画が他の凡百の古典的ハリウッド映画と異なる点であると論じながら、筆者は古典的映画の歴史に揺さぶりをかけたヒッチコックの映画的特徴を世界映画史の主流のなかで、さらに検討する。
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『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』(筑摩書房[リュミエール叢書]、2004年)
本書はSF映画/フィルムノワール『ブレードランナー』を梃子に、作品論と映画史、テクスト分析と歴史分析、映画論と諸文化史がどこまで可塑的で創造的な関係を結びうるのかを最大限に追究した、映画学と映画批評の実験の書である。そこでは当然のことながら、映画作品の意味の生成変化を、作者の意図なり既成の文学理論|文化理論なりで堰き止める教条主義的な議論は破棄される。著者は映画的テクスト『ブレードランナー』をショット単位に分割した上で、映画技法と俳優の演技、また映像と音響の主題(「眼球の主題」「弔鐘の主題」等)の多様な展開をロラン・バルトの『S/Z』を思わせる断章形式で追跡し、さらにはその成果を通じて本作に伏流する長大な映画史(「ユダヤ人とハリウッドの相関史」「都市映画の歴史」「シャワーの映画史」等)と諸文化史(写真、絵画、探偵小説、メロドラマと悲劇等)を再考する。こうして再編成された方法論の下に、映画史上もっとも多くの議論が費やされてきたテクスト『ブレードランナー』の新たな解釈が導出される。すなわち本作は、通常の古典的ハリウッド映画と同様に二元論的枠組みに基づくメロドラマとして始まりながら、生と死、勝利と敗北、実像と虚像、人間とレプリカントといった対立を弁証法的に止揚する「主人公」ロイの壮絶な身振りを通じて(著者の見解によれば刑事デッカードは偽の主人公に過ぎない)、そうした近代のイデオロギーを果敢に超克する悲劇として終わろうとするハリウッド映画の類稀なる変異体である。本書はこうした独自の方法論と解釈の提出をもって、過去の映画的テクストが絶えず未知の映画史を生き直そうとするその潜勢力を立証する。
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『映画の領分 映像と音響のポイエーシス』(フィルムアート社、2002年)
1990年代中盤から2000年代序盤にかけて著者が各種雑誌に発表した批評的エッセイや厳密なテクスト分析を集成した映画批評学術論集。その話題は映画学への招待、カリフォルニアにおけるプールと映画の文化史、映画女優論に始まり、映画作家論(五所平之助、溝口健二、伊藤大輔 (映画監督)、アモス・ギタイ、アンドレイ・タルコフスキー等)から、時代劇|時代劇映画論、アニメーション映画論、ポルノグラフィ映画論、フィルム修復論まで多岐にわたっている。もっともこれら一連の論考には映画的テクストの「かけがえのない細部」を梃子に新たな意味の産出をめざすという著者のデビュー以来の批評的姿勢が通底している。質量ともに本書のハイライトをなすのは第4章の溝口健二論である。ここで著者は日本映画最高傑作たる『残菊物語』を題材として溝口の長回し|ワン・シーン=ワン・ショット(とその結果としての切り返しの組織的回避)が映画的テクスト上でいかなる修辞的効果を果たしているかをシーンごとに詳細に論じ、本作のメロドラマ映画としての突出した特異性を明らかにしている。
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『映画とは何か』(みすず書房、2001年)、吉田秀和賞
本書は一見ハリウッド映画というメジャーな領域を対象としているかに見えるが、その栄光の陰に隠れたマイナー映画(知名度の低い映画だけでなく、白人中心主義イデオロギーのために既存の映画研究において重要な議論が看過されてきた無名作品をも含む)を論じたものとなっている。第一部では、観客を前代未聞の恐怖に導いた過程を分析したヒッチコックの精細な『 サイコ』テクスト分析、従来看過されてきた記号の視認についてのアメリカ亡命時代のフリッツ・ラング論、映画史的約束事から分析されたホロコースト映画論が取り上げられ、「理想的な観客」として「映画を見る」行為が再検討されている。一方、第二部では「映画史を書く」という主題のもと映画史の補完が行われている。映画史初期から古典期にかけて密接なものであり続けてきた映画と列車の関係、演劇的フレームから映画を解放した功績によってアメリカ映画の父と呼ばれるD・W・グリフィスのアメリカン・インディアン初期映画、そして米国映画史に重要な足跡を残しながらも決して反映されることのなかった黒人劇場専門映画の歴史とアメリカ映画史上最初の優秀な黒人映画作家オスカー・ミショーの作品群を革新的な視点から分析している。

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『映画 視線のポリティクス 古典的ハリウッド映画の戦い』(筑摩書房、1996年)
本書は1930年代後半から1940年代前半における古典的ハリウッド映画の製作様態、作家とテクストと制度の関係を当時の製作一次資料と映画テクストの複合的分析を通じて検証したものである。第1章では[[プレストン・スタージェス]]監督のスクリューボール・コメディ製作の一次資料と映画製作倫理規定の検閲とテクスト分析の関係が、またフランク・キャプラ監督の人民喜劇というジャンル映画が、第2章ではフランク・キャプラ監修のプロパガンダ映画|戦意高揚映画と陸軍による検閲の問題が、それぞれ検証されている。この二章を通じて、第二次世界大戦前夜から戦中に、喜劇映画からプロパガンダ映画へと転向した映画作家キャプラと、喜劇映画を監督しつづけた映画作家スタージェスが、時代の陰画の陽画として位置づけられる。第3章はキャプラ監修の黒人向け戦意高揚映画に出演した黒人俳優カールトン・モスへのインタビューである。第4章では女性映画からフィルム・ノワールへと戦後公開にあわせて製作変更される特異な複合ジャンル映画『深夜の銃声』(''Mildred Pierce'')のテクスト分析を通じてハリウッドの戦時体制から戦後体制への変化、そしてそのジェンダー表象の水準への影響が論じられる。巻末には本邦初となる映画製作倫理規定(ヘイズ・コード)の全訳が添えられている。
http://k-tanaka.cocolog-nifty.com/hakoniwa/2004/02/post_10.html
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http://fine.ap.teacup.com/whap/486.html
http://fine.ap.teacup.com/whap/372.html

『映画ジャンル論 ハリウッド的快楽のスタイル』(平凡社、1996年)
本書は、1920年代から1990年代にかけての支配的ハリウッド映画を「フィルム・ノワール」、「ギャング映画」、「スワッシュバックラー映画」、「スラップスティック・コメディ映画|道化喜劇映画」、「スクリューボール・コメディ」、「ファミリー・メロドラマ」 、「ミュージカル映画」、「恐怖映画」、「戦争映画」、「西部劇」の10種類のジャンルの歴史と文体から捉え返し、ジャンル映画の特色と歴史を総括して新旧の作品分析を交えて考察している。本書のジャンル論は、ハリウッド映画のジャンル一般の歴史ならびに個々の映画テクストの肌理だけでなく、アメリカ社会においてジャンル映画とその消費者である観客とが交錯した歴史的状況(ヴェトナム戦争映画や新移民労働者向けの初期道化喜劇映画)や社会的諸問題(人種・性的問題や銃規制問題)も広く射程に収めている。本書の「ジャンル映画」という新たな視座からのアプローチは、日本の映画批評および映画学において1990年代半ばまで支配的で強力であった「作家主義」という言説編制から方法論として自由になる契機となった。

http://green.ap.teacup.com/april/51.html
http://d.hatena.ne.jp/Motoharu0616/20141213/p1
http://togetter.com/li/709292
http://review544.blog.fc2.com/blog-entry-59.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~kazu60/zakka2/best100.htm
http://cafenardis.blog27.fc2.com/blog-entry-554.html
http://www.amazon.co.jp/gp/pdp/profile/A2AJA3N3YAVXVK/ref=cm_cr_pr_pdp
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http://geldfelds.seesaa.net/article/387323626.html
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http://www009.upp.so-net.ne.jp/magus/culture/starwars.html
http://coco.to/movie/21966/all
http://www.ikebana-net.com/column/napo/0404/columnnapo040402.htm
http://30min.jp/item/7897862

『鏡の迷路 映画分類学序説』(みすず書房、1993年)
本書では画面の密度、フレームの運動、ショットの編集等、映画の構造的側面からの映画分類学が展開される。たとえば画面の密度に関する第1章では、映画史上もっとも密度の低い画面(ミケランジェロ・アントニオーニの『赤い砂漠』の霧の波止場のシーン)ともっとも密度の高い画面(ルキノ・ヴィスコンティの『夏の嵐 (1954年の映画)』のオペラハウスのシーン)が論証され、その両極間にあらゆる映画を記述分類する可能性が示される。「鏡の迷路」(本書のメイン・タイトル)とは物語映画の別称であるが、これは映画が「現実」を忠実に再現しようとする鏡に似ており、物語が入口と出口を備えた安全な迷路に似ているからである。しかし一方でアラン・ロブ=グリエのような反表象映画も存在する。筆者によれば、こうした反物語映画は伝統的な物語映画が再現構築してきた「現実」を否定し、一連の出来事のなかに因果律を見出すことを放棄して、入口も出口も欠いた危険な鏡の迷路となる。

http://togetter.com/li/675537
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http://www.msz.co.jp/book/author/13980.html
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『映画のメロドラマ的想像力』(フィルムアート社、1988年)
ダグラス・サークという1940年代から50年代のハリウッド亡命映画監督のファミリー・メロドラマ映画の分析からはじまり、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー|R・W・ファスビンダーという、サークのメロドラマ的主題を、ジェンダー論的、年齢的、人種的に変革し、1980年代に37歳で夭折する西ドイツ映画作家の映画的文体の抽出と、彼のおどろくべき代表作『13回の新月のある年に』のテクスト分析が試みられる。本書では、ハリウッド的メロドラマの図式が緻密な分析によって浮き彫りとなり、その過程で映画という媒体におけるポリティクスが詳述される。ただ、本書はそれだけにとどまらず、従来のメロドラマの伝統を継承しながらも創造的に破壊した映画作家ファスビンダーについても踏み込む。また論考の射程は、メロドラマというジャンルの考察のみならず、映画という視聴覚媒体の変革的特徴(「映像と音響の自己増殖」にいたるアラン・ロブ=グリエ論)や物語論やフェミニズム論(マルグリット・デュラス論)が進行する70年代から80年代の同時代の実験的物語研究にまで広がりをみせる。例えば、ヒッチコックの作家論やジョーン・フォンテインの女優論がメロドラマの語彙を活用して新たに考察し直されている。洋の東西や時代を問わず多岐にわたるフィルムの肌理を丹念に追っていく本書の作業を通して、映画がメロドラマと切っては切り離せない関係を取り結んでいる事が明らかになっていく。そしてメロドラマが単なる映画の一ジャンルにおわるのでなく、分析ツールとして有効である事が読者に明瞭になる。
http://yaplog.jp/projectmannex/archive/123
http://www.theatrum-mundi.net/critics/almodovar_ensayo.shtml
http://www.jspanish.com/furuya/furuya14.html
http://www.logsoku.com/r/cinema/1070227495/ID:huz9bh+W

==外部リンク==
*http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/ CineMagaziNet!
*http://jscs.h.kyoto-u.ac.jp/ 日本映画学会公式サイト
*http://jscs.exblog.jp/ 日本映画学会公式ブログ

 



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