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序章   第1章 第3章  結論
   第2章 恐ろしい「他者」との遭遇

1.ギリシャ語文献『ハノニスの航海』と「ゴリラ伝説」
 クリスティアン・ジャコブは、古代ギリシャの文献を読むことによって古代における旅のイマジネールを画定し、神話における空間表象の意味を明らかにする作業を試みているのであるが、その中には『エイリアン』のプロットに酷似したエピソードに対する分析もあって参考になる*48。
 
ジャコブが取り上げているのは、三万に及ぶ人々とともにカルタゴを出発し、アフリカ西岸に沿って進んだ航海者ハノニスの物語である。写本として今日に残されたこのギリシャ語文献の真偽のほどはともかくとして、ジャコブは風景や土着民の描写の中から独自の一貫性を持った特徴を選別し、古代ギリシャ人が組織した恐怖のトポグラフィーを明らかにしようとしている。
 ここでいう古代ギリシャ人にとっての恐怖とは、人間を神と動物の間に位置させ、人間としてのアイデンティティを確保する境界が消失することである。文明を離れて未開の地に植民地を築こうという試みは、進んで野蛮のただ中に飛び込んでいくことであるから、こうした遠征につきまとう不安は、未開に近づくにつれ(文明から離れるにつれ)増大していく。
 ジャコブは、文明と未開/野蛮の境界が劇的に揺らぐ場所を、『ハノニスの航海』の中の入れ子構造の島に見いだす。入れ子構造の島とは、島の中に湖があってその中にまた島がある島のことで、いささか抽象的で幾何学的な形象を呈しているが、問題はその隔絶/閉鎖したところで生活する原住民である。
 彼らは女の数が男よりも多く、しかも女たちの身体は体毛におおわれている(毛深いことが野性を意味していることはいうまでもない)。彼女らは、部族の男たちがハノニスら一行から逃げ出しても踏みとどまって抵抗した。さらに興味深いことに彼女らは武器を使わず、捕縛されまいとして噛みつき、肉を引きちぎったという。
 ここで暗示されているのは、肉食動物の捕食を思わせるカニバリズム、食人の風習である。ハノニスらは彼女らを「動物」とみなし、「狩人」として行動した。すなわち、彼女らを殺して皮をはぎ、死体をカルタゴに持って帰ったのである。文明人をもって自負する彼らが何故そのような行動をとったのか。それこそが、入れ子構造の「島の中の島」という場所のもつ意味である。そこにある「野生」は文明人の境界を犯し、彼らをも「野生化」してしまう恐怖の場所なのである。
 さて、入れ子の島の女たちが、ハノニスらの水先案内をつとめていたリクシット人に「ゴリラ」と呼ばれていたことから、ジャコブの論文はさらに展開する。彼によると、動物的な人間(言葉をもたない原始的な暮らしを営む人々)と人間的な動物(つまり類人猿)との混同・分類学的な混乱が、事実に反する「ゴリラ伝説」を生んだという。
 古代の博物学者は、島に住むのは毛深い女だけで男は存在せず、彼女らは男と交接せずに生殖が可能だ、などと考えていたらしい。二重の「障壁」(陸地と湖)に囲まれたところで自閉的/自足的生活を送っている彼女らが、どうやって外界から男を得ていたのかわからなかったからである。ギリシャ神話のアマゾネスは、女だけの社会をつくっていたことで有名だが、「ゴリラ」と違って、彼女たちは生殖のための男が必要だった。アマゾネスはいかに変わった習慣を持っていても、あくまで人間とみなされていたのである。
 『ハノニスの航海』における「ゴリラ」の記述が伝説となり、アフリカのジャングルでそれらしき動物が発見されても、依然として誤解されていた。「ゴリラ」のオスは、(アマゾネスとは逆に)人間の女性をさらっていって、その腹を借りて生殖すると信じられていたのである。それは、ハノニスから数世紀を経た時代においても、人間と動物の区別のあいまいな生物が人間にとって恐怖の的であったことを意味している(今日、人間ではないことが確認された彼らは、言うまでもないことだがゴリラと呼ばれている。それは、この類人猿を研究して伝承を否定した学者の頭に、『ハノニスの航海』の「ゴリラ」に関する記述があったからに他ならない)。
 クリスティアン・ジャコブは『ハノニスの航海』について次のように結論する。
 「『ハノニスの航海』の航海は・・・拡大し続ける人間世界の境界を位置づけようとする叙述の試みなのであり、固有の論理的一貫性をもち、劇的要素を内包する虚構の物語である。パニックにも似た恐怖が航海者たちを襲い、彼らは魔的で獣の姿をした他者の出現に困惑し、人間存在そのものの解体という脅威にさらされたのである。」*49

2.恐ろしい「場所」
 以上は、アフリカに住む大型の類人猿がゴリラと呼ばれるようになったエピソードだったわけだが、「遭遇」に伴う恐怖を描いた物語に共通するキーワードが明らかになったように思われる。
 まず、入れ子構造の場所。古代ギリシャ人は、人間が足を踏み入れてはならぬ場所、人外魔境を表象するのに、陸地と湖という二重の障壁に囲まれた入れ子構造の島を考案した。この障壁は、旧世界と未知なる新世界との間に横たわる広大な大西洋でもあり、太平洋の大海原でもあり、『キングコング』では文字通りの壁としてあらわされ、『エイリアン』ではテレビカメラやトランシーバーを使用不能にする未知の天体の磁気嵐としてあらわされている。
 大宇宙を航海する『エイリアン』の探検隊は、磁気嵐に包まれたところで異星人の巨大な難破船を発見するわけだが、航海中に立ち寄った場所で不気味な建造物を発見した例は過去にもある。
 マゼランは、のちに彼の名を冠することになる海峡で大きなクジラの骨と原住民の祭壇を発見している。壇の上には身長7フィートの巨人の死体、槍、サメの歯を植え込んだ棍棒、鉱石と火打ち石が置かれていた。上陸した偵察隊は、気味の悪い風景(低緯度地方特有の灰色の空、荒涼として強い風の吹く大地、風できしむような音を立てる死者の小屋)に恐れをなし、急いで船に戻ったという*50。
 
絶海の孤島にある謎の建造物といえば、イースター島のモアイほど有名なものは他にないだろう。イギリスの高名な航海者ジェームズ・クックは二回目の大航海でイースター島に立ち寄り、モアイ像について、滅び去った高度な文明によるものだという感想を持ったという*51。

3.フィクションにおける恐ろしい「他者」
 次に、障壁に囲まれた場所に棲んでいるものたち。トラやライオンのような猛獣も確かに人間にとって恐ろしい存在だが、彼らは完全な四足動物である。壁の中のものたちが人間に与える脅威は、見る者の、人間か動物かという認識を混乱させる「人間的形態」によるものである。捕食という動物としての正当な行為が、彼らの場合、その外見故に人間同士のカニバリズム性を帯び、見る者の混乱をいや増す。また、生殖のプロセスにおいて彼らがよく似た他の動物、すなわち人間の身体を必要とするという考え方も、人間と動物の混同から派生したものだ。
 『キングコング』が「ゴリラ伝説」に基づいてつくられていることは全く言うまでもないことだが、『エイリアン』も実はこの「ゴリラ伝説」をSFに脚色した物語だったのである。この映画のモンスターは実際、現実のゴリラと伝承上の「ゴリラ」の特性を併せ持つように創造されている。モンスターはゴリラのように怪力を持ち、真っ黒でキバをはやしているし、「ゴリラ」のようにその生殖プロセスは単為生殖であり、かつ人間の身体を必要としているのである。
 そして何よりモンスターには、ギーガーのデザインによって、グロテスクな中にも「人間的形態」という肝心の要素が注意深く与えられている。『エイリアン』をSF版スプラッター映画とみなした批評家は、古代人と同様に、モンスターと殺人鬼とを混同してしまったのである。本来「異邦人」を意味する「エイリアン」という言葉をタイトルとした制作者の意図が、まさに的中した結果と言えるだろう。

4.史実における「他者」との遭遇
 さて、ここで問題となるのは、古代のアフリカから現代のインドネシア(『キングコング』の舞台となるのはスマトラ島沖のインド洋である)、未来の異星へと時間や場所は違っていても、フィクションの中で表象されたパニックに一貫性があるという事実である。しかも、こうしたフィクションの中で語られた恐怖は、これまでの人間の歴史の中で、実際に体験されてきたものなのである。
 実例を挙げてみよう。「アメリカ」の語源になったというアメリゴ・ヴェスプッチは、南米を探検して出会った人々について報告している(ヴェスプッチの第三書簡・第三航海の記述)。
 「人々は裸体で黒人ではない。彼らが食べる肉は、普通人肉である。・・・共同で住み暮らし、所有の概念がなく、家庭や相続もない。従って、ごく近い近親(親子)以外の誰とでも自由に交わり、子供をつくる。女たちは儀式張ることもなく、痛みを感じることもなく出産する。好戦的で・・・(他の部族と)残酷に殺し合い、・・・敵の死者はバラバラにして食べる。・・・私(ヴェスプッチ)は薫製にした人肉をたくさん見た。」*52
また、ほかにも次のような報告がある(第六書簡・第三航海の記述)。
 「新しい陸地が見え、ボートを降ろして住民がいるか、いかなる人々なのかを調べに行った。住民がいることはわかったが、けだものより劣る人々でした。・・・次の日、勇敢な者が二名、交易用の品物をもって下船した。・・・七日目、人々は女連れでやってきた。そこで勇敢な若者を一人差し向けた。一人の女が山から下りてきて、女たちに取り囲まれていた彼を棍棒で殴った。彼は倒れて死に、女たちは山へ引きずって行った。・・・われわれはすっかり恐怖に陥って、誰もまともに武器を取れなかった。臼砲を打ち放すと、轟音に驚いて山の上へ逃げた。そこではすでに、女たちがさっきの若者を解体し、たき火で焼いていた。女たちは肉をわれわれに見せびらかして食べ、先日の二人もいかにして食べたかを身振りで示した。」*53
 
オーストラリアやニュージーランド、南太平洋の島々の冒険航海で有名なキャプテン・クックも食人族に遭遇している。クックの伝記から引用してみよう。
 「クックたちが親しくしていた当地(ニュージーランド)のマオリ人たちが、敵のマオリ人の死体をひとつ担いできて、イギリス人たちが見守る中、さもうまそうに食べた。」*54
 
友好的な関係を結ぶことができた相手が、実は食人族だったことを知って驚いたことだろう。また、クックの部下が実際に食べられてしまうという事件も起きている。
 「クックの乗船レゾリューション号とはぐれてしまった僚船のアドベンチャー号は、ニュージーランドで修理を行った。10人をボートで上陸させ、友好的なマウリ族の案内で野菜を集めようとした。しかしそれは彼らの策略で、10人とも帰ってくることはなかった。」*55

5.史実とフィクションにおける「他者」
 「真実は小説より奇なり」とはよくいったもので、大航海時代の航海者が遭遇した恐怖はフィクションを遙かに凌駕している。なぜなら、ヨーロッパ人が出会ったのは空想上の半獣半人やモンスターなどではなく、正真正銘の人間であり、カニバリズムだったからである。『ハノニスの航海』のようなフィクションの中の「他者」と違って、自分たちとは全く異なると思いたい、しかし同じ人間であることを認めざるを得ない「他者」との遭遇は、ヨーロッパ人をこれまでにない混乱に陥れ(アラブ人やムーア人、東洋人も「他者」には違いないが、これほどのインパクトは持ち得なかっただろう)、彼らの人間という概念を揺さぶった。そして結局、ヨーロッパ人は彼らを同じ人間とは認めず、動物に対するような態度をとることによって、この混乱を鎮めようとしたのである。
 (ヨーロッパ人が「発見」した原住民のすべてが食人族だったかのような表現になってしまったが、カニバリズムの風習をもつ人々は極端な例である。肝心なことは、かつてのヨーロッパ人が原始的な生活を送る人々を人間と類人猿の間に位置づけて対処した、ということなのである。)
 つまり、ここでも『ハノニスの航海』の「ゴリラ」に関する記述、「他者」を「動物」とみなし「狩人」として行動したというエピソードが有効となる。『ハノニスの航海』や『オデッセイア』、そして『エイリアン』のようなフィクションは、「他者」を「動物的な人間」から「人間的な動物」へ変更することによってカニバリズム性を弱め、「狩り」を正当化し、史実を覆い隠そうとした試みのひとつなのかも知れない。
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*48クリスティアン・ジャコブ著「恐怖のトポグラフィー」、今村仁司監修『トラヴェルス4 恐怖』(リブロポート、1989年)所収、78-93頁。
*49前掲書、89頁からの引用。
*50
イアン・カメロン著、鈴木主税訳『マゼラン 初めての世界周航』(草思社、1978年)、113頁。
*51
アリステア・マクリーン著、越智道雄訳『キャプテン・クックの航海』(早川書房、1982年)、188-189頁。
*52色摩力夫著、『アメリゴ・ヴェスプッチ』(中央公論社、1993年)、193-198頁。
*53
前掲書、198-201頁。
*54
マクリーン著、前掲書、176頁。
*55
前掲書、178頁。
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