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序章   第2章 第3章  結論
  第1章 『エイリアン』はいかに解釈されてきたか

1.バーバラ・クリードの『エイリアン』論
 以下、『エイリアン』について検討した主たる先行論文の検討を行おうと思うが、まず精神分析的理論による『エイリアン』論として典型的な、バーバラ・クリードの精神分析的解釈*12の限界を考察することから始めよう。
 クリードはアルカイック・マザーという概念を導入する。アルカイック・マザーとは、「ギリシャ神話に起源を持ち、原初の深淵としての母、始まりと終わりの地点」*13のことで、各地の神話における大地母神、ギリシャ神話におけるガイアに相当する。そして彼女は『エイリアン』の至る所にその姿なき存在を見いだしている。
 クリードによると、アルカイック・マザーは映画における血・闇・死のイメージの中に存在する。具体的には宇宙船の通路、コールドスリープ室、マザーと称されるコンピューター、エアダクト、宇宙船それ自体、モンスターの卵が眠る異星人の難破船(これらのプロダクション・デザインはすべて子宮の空洞を暗示していることになる)。さらにモンスター自体と変態を重ねる生態もアルカイック・マザーぶりを示しているというのである。
 フロイト学派の精神分析的理論によると、女性が自分の子供を溺愛するのは去勢コンプレックス、あるいは子供を「失われた男根」とみなし、それを所有しておきたいという気持ちのあらわれであるという*14。クリードはこの見解をアルカイック・マザーとモンスターとの関係に適用する。つまりクリードによれば、モンスターはアルカイック・マザーのフェチシズムの対象であり、それはモンスターの男根的外見、巨大化する生態にあらわれていることになるのである。
 さらに複雑なことに、クリードは、人間をむさぼり食うモンスターのカニバリズム的側面が、すべてを吸収し同化させるアルカイック・マザーの性質、すなわちヴァギナへの恐れを表象するようなモンスター的でカニバリズム的な母の姿を暗示していると主張する。
 「深淵としての多産な母のイメージが『エイリアン』の中心をなしている。深淵とは、そこからすべての生命がやってきて、すべての生命が帰っていくカニバリズムのブラッ クホールのことであり、もっとも深い恐怖の源として映画の中で表象されている。」*15
(口唇と消化器官、ヴァギナと生殖器官の混同は、フロイトによると、母は口から特別なものを食べて妊娠し、胎児は胃で育って出てくるという多くの子供がおかす誤解にさかのぼることができるという。)*16
 クリードが宇宙船という舞台装置をアルカイック・マザーとし、モンスターをその女性性のネガティブな側面とみなすのは、ただ『エイリアン』というSFホラー映画が女性を抑圧する家父長制的イデオロギーの再構築だということを主張したいからに過ぎない。
 クリードによると、SFホラーの主な関心のひとつは交尾や生殖を異なる形で表象し、出産シーンを再現することにあるという*17。そして彼女はSFホラー映画が、家父長制的慣例の中で、生命の源としての母のネガティブな側面を強調し、怪物的なものとして抑圧していると主張する。彼女にとって、アルカイック・マザーという概念は「家父長制的イデオロギーが、いかに女性の『差異』を映画的表象において否定するために働くか」*18ということを理解する手段のひとつであり、モンスターは「アルカイックマザー・男根のある女・強制された体・去勢する親としての恐ろしい女性像が、ホラー映画の中で単一の姿として表象されたもの」*19ということになる。
 要するに、クリードにとって『エイリアン』という作品は、女性の恐ろしい側面をモンスターの姿を借りてあらわし、それを退治/抑圧することで安らぎを得るという、家父長制的イデオロギーを再構築した保守的な映画ということになるのである。
 では、モンスターと生存をかけて対決するヒロイン、リプリーをクリードはどのようにみているのだろうか。後述する他の批評家の論文との比較の意味も兼ねて以下の文章を引用し、クリードの精神分析的『エイリアン』論批判を締めくくろうと思う。
 「〔リプリーが〕隔離の規則を尊重していたにもかかわらず、自分やパーカーやランバートの命を危険にさらしてまでネコを救ったのは何故か。それは女性のフェティシズムの男根中心的な概念によって説明される。アルカイック・マザーのフェチの対象としてのモンスターの恐ろしげな姿に比べると、リプリーの体は見るに耐えるものである。彼女は女性の『許容可能な』容姿を示す。許容できない怪物的な女性の側面は二通りに表象される。死と結びつけられた偏在的な原初的力としての母/フェチの対象としてのモンスターを通して表象される、人喰い生物としての母。しかしこの母の視覚的に恐ろしい姿は、許容できる記号としての女性〔リプリー〕の表示を通して埋め合わされる。ネコのイメージも同様に機能している。ネコは『普通の』女性のフェチの対象として許容できるものを示しているのだ。」*20

2.ロビン・ウッドの『エイリアン』論
 他方、映画学者ロビン・ウッドは「アメリカのホラー映画 序説」の中で「反動的な」ホラー映画の検証を試み、デヴィッド・クローネンバーグの諸作品と『ハロウィン』に続いて『エイリアン』を取り上げている*21
 ウッドは、『エイリアン』と『ハロウィン』、『遊星よりの物体X』との類似点を指摘しつつも、『エイリアン』を後者の二作品、そして他のほとんどあらゆるホラー映画から鮮烈に区別している特徴を「性の完全な不在である」*22とする。
 「宇宙船の乗員七人のうち二人が女性だというのに、『恋愛対象』はおろか、性に対する冷やかしすら皆無である。実のところ、人物たちは全員姓の方で呼び合うため、性差の認識はどこにもない。」*23先鋭的ゲイ映画批評家として有名なウッドによると、『エイリアン』は、「性が完全に消滅している」という括弧付きの条件においてのみ、性の差異が意味のあるものでなくなるという新しい「正常さ」を構築した映画ということになる。
 ウッドはヒロインのリプリーというキャラクターについて、次のように論じる。攻撃的で自己主張が強く、「母(コンピューター)」と「父(アンドロイドのアッシュ)」に反抗する彼女は、映画の神話である「男性化した女」であり、モンスターの真の脅威に対応する「安全な脅威」として置かれている。そして彼女には同時に、半ば母性愛めいた性格が注意深く与えられており、モンスターに対してもっとも反動的な立場をとっている、というのである。また、リプリーがモンスターに対して反動的立場をとることに関して、ウッドは次のように述べている。
 「だがそれはただこの映画の『他者』に対するイデオロギー的に反動の性質を再確認するだけのことである。」*24
 ウッドはモンスターを、リプリーよりもさらに男性と女性の区別が曖昧となり、映画の中で厳密に抑圧された性がグロテスクかつ恐ろしく復活したものとみなしている。モンスターは類型的な性的脅威の複合イメージであり、怪物じみた男根と牙のある女陰の複合体だというのである。ウッドによると、この映画に登場し、リプリーの女性性を補完しているネコもまた、性差が混在した存在としてモンスターと対置されているという。ネコはハリウッドの伝統からすると女性のメタファーだが*25、『エイリアン』のネコは「ジョーンズ」という名前からしてオスだからである。
 性が抑圧された映画の中で、程度の差こそあれ、両性具有的に表象されているリプリーとモンスター、そしてネコとの対比構造から、ウッドは『エイリアン』の反動的性質を見いだす。すなわち「この映画が男性化した女性のイメージを作り出したのはただ巨大な恐怖の対象としてであり、彼女を父権的抑圧の側に立って戦いに参加させるためなのだ。モンスターを破壊したリプリーは、完全に『女性的』になることができる――優しく受動的で、彼女の飼い慣らされたネコ〔=女性器(pussy)〕は安心して眠っている。」*26
 こうして得られたウッドの結論を、最後に引用しておこう。
 「これは明瞭に、多分に単純なレベル、とくに女性の描き方で『進歩的』な映画とみなされることを望んでいる作品だ。このレベルで映画が実際に提示しているのは『ポップ』なフェミニズム以上のなにものでもなく、ただ性差や何千年にもわたる父権的圧迫のめぐる問題を、女だって男のすることは(ほとんど)できるという明るい提案に縮小してしまうだけだ。」*27

3.『ハロウィン』論とその問題点
 ウッドは「『エイリアン』は一見すると、『ハロウィン』に少し足して外宇宙に持っていっただけのように思える」*28と述べているが、両作品に登場する画期的なヒロインの造形について比較検討を行っていない。ウッドは、セックスに溺れる男女は殺され、清純なヒロインだけが生き残るという『ハロウィン』(そして/あるいは後続のスプラッター映画)のプロットに注目し、『ハロウィン』をピューリタン的・家父長制的イデオロギーに追従した「反動的」映画だと論じているだけである*29。しかし、アンドリュー・チューダーが論じているように*30、両作品のヒロインは確かに画期的なのである。
 『エイリアン』から少し離れることになるが、『ハロウィン』に関して、ウッドのような表層的な読みに対する反論を試みた論文もいくつかあり、そこでは『ハロウィン』と『エイリアン』に共通する物語の要素、自力でサバイバルを生き抜くヒロイン像についても論じられているので、ここで紹介しておくべきだろう。
 アンドリュー・チューダーは『ハロウィン』に関して次のように述べる。
 「三人の女性(ローリーとその女友達)は、みな魅力的な性格を与えられており、いかなる意味においても、彼女たちの活動は不適切あるいは不道徳的なものとして表現されてはいない。彼女らは軽薄ではあるかもしれないが、しかしそれだけで恐ろしい運命を招き寄せているとみるのは困難である。」*31
 
マーク・ジャンコヴィックは「この映画が恐ろしいのは、なににもまして、もっとも苛立ちを覚えさせるティーンエイジャーの登場人物でさえ、観客はその人物が殺されるところをみたいとは思わないがゆえなのである」*32と述べ、『ハロウィン』において、男性にとっての脅威として描かれているのは、性的に積極的な女性ではなくヒロインのローリーであると指摘する(ウッドが『エイリアン』のヒロインを「安全な脅威」と定義したことを思い出していただきたい)。
 ウッドのような批評家によれば、ホラーのヒロインは家父長制的慣習を遵守し、その清純な「処女性」ゆえに生き残ることができるということになるだろうが*33、ジャンコヴィックが指摘している通り、ローリーを他の女性たちから際だたせているのは、彼女の知性、まじめさ、自律性であり、「処女性」ではないのである*34。
 
『エイリアン』と『ハロウィン』におけるヒロイン像の共通項が見えてきたところで、キャロル・J・クローバーの著作*35から引用してみよう。
 「最後まで生き残る女性は、一言でいうとボーイッシュだ。ちょうど殺人鬼が完全に男性的ではないように、彼女も完全に──いずれにしても彼女の女友達たちのようには――女性的でない。そのスマートさ、まじめさ、機械や他の実用的なものごとに対処する能力、性に対する嫌悪は、彼女を他の女性から切り離し、皮肉なことに(殺人鬼はいうまでもなく)彼女が恐れ嫌う男性と同盟させるのである。」*36
 
クローバーはまた、『ハロウィン』や『13日の金曜日』などの映画が、ジェンダーとセクシュアリティとの間にある等号関係をゆるめる働きをしたことを指摘している。そこでは、女性の社会的役割が、必ずしもその生物学的な特徴によって決定されるものではないということが描かれているというのである*37。彼女によると、ヒロインは普通男性的なものとされる特性を示し、確かにそのように行動するが、映画は決して男性性を特権化しているわけではないという。映画が特権化しているのはむしろ「女性性と男性性の結びつき」であると彼女は主張する*38。
 
クローバーの主張を受けてマーク・ジャンコヴィックは、「犠牲となることを拒む者が、女性的なものとされる無力さの状態にとどまることを拒む女性が主人公となる。通常男性的なものとされる属性は、女性によって取り入れられ、変形されて初めて積極的なものとなりうる」と述べる*39。つまりヒロインは、男性的な部分と女性的な部分とをバランスよく持ち合わせていたから助かったというのである。
 (『エイリアン』や『ハロウィン』などのヒロインたちは、男性的であるか両性具有的であるかというよりはむしろ、もっと単純に、他の登場人物たちより「大人」だったと言えるかも知れない。ユング学派の心理学によると、人は生物学的に成長する過程で様々な「他者」と出会い、その関わりの中で精神的に成長するという。「他者」には物理的な存在はもちろん、鏡に映った自分自身や無意識の中の異性性(男性にとってのアニマ・女性にとってのアニムス)なども含まれる。一人前の大人になるためには、人生のどこかで無意識の中の「他者」と向き合い、抑圧・排除するのではなく受け入れる過程(すなわち広義のイニシエーション)が必要だ、という考え方がこの際有効かとも思うが、ここでは定式的な(フロイト学派的な)理論がすべてではないということを示唆するだけにとどめておこう。)
 以上、『ハロウィン』がホラーのジェンダー・システムに変革をもたらしたと主張する先行研究の見解を紹介してきたわけだが、これらはウッドも含めて、重大な事実をいくつか見落としている。すなわち、『ハロウィン』や『エイリアン』のヒロインは男性的だから一人で戦いを挑むのではなく、誰も助けてくれない(『ハロウィン』にはヒロインが隣家に助けを求めて冷たくあしらわれるシーンがある)か、あるいはすでに自分一人になってしまっている(例えば『エイリアン』)からこそそうするのである。そういう状況では性別に関わらず、自力で危機に立ち向かわざるを得ないであろう。また、先行論文では『ハロウィン』のヒロインはいかにも男性的なキャラクターのように述べられているが、実際には、ただ異性に消極的な女性でしかない。『エイリアン』のリプリーがネコを助けたように、彼女はベビーシッターとして面倒を見ていた子供たちのことを気遣っている。つまりヒロインたちが生き残れたのは、女性的なたくましさ(=母性)を発揮したからだという議論も成り立つはずである。ホラー映画に関する論文とはいえ、ホラー・ジャンルの映画に議論を限定し、同様にたくましい女性を描いたジョン・カサヴェテス監督の『グロリア』について論じないのは、ジェンダー論としては片手落ちではないだろうか(1978年の『ハロウィン』、79年の『エイリアン』に続いて『グロリア』も80年に公開されているのだから)。

4.『エイリアン』の同時代的解釈
 『エイリアン』のヒロイン像をめぐる議論が予想通りジェンダー論の袋小路に陥ることを確認したところで、次はそれを超克しようという取り組みを紹介するのが筋というものだろう。マーク・ジャンコヴィックや、もとSFホラー作家の批評家、デヴィッド・J・スカルはホラー映画を歴史的コンテクストの中に据え、一般大衆、とくにアメリカ社会の不安を映し出す鏡としてとらえようとしている。
 ジャンコヴィックは『エイリアン』やそのシリーズについて直接には論じていないが、デヴィッド・クローネンバーグ作品に対するジェンダー論的批判*40を乗り越えようとして用いているディスコースは参考になる。
 ロビン・ウッドやバーバラ・クリードのクローネンバーグ批判は、「しばしば身体のボディー・ホラー的な表現の特徴となっている快楽と嫌悪という矛盾した感覚があることを見落としている」*41とジャンコヴィックは主張する。彼によると、性的接触や生殖行為への関心は、現代社会の「健康ブーム」の文脈において理解される必要があるという。つまり、医療などのテクノロジーへの依存が、かえってアイデンティティの最後の砦となるべき身体の境界を曖昧にし、自立性(自律性)の喪失という恐怖を煽っている現代の状況下において考えるべきだというのである。この文脈においたとき、クローネンバーグ作品において提示されるもの──身体の境界を曖昧にする性的接触、合理的支配のシステムによって生み出され、模倣され制御される性的欲望、意識的な動機付けを脅かす生殖プロセスに対する関心──が「現代社会におけるアイデンティティの危機を表現し検証する方法」*42であることを明らかにできるとジャンコヴィックは主張している。
 クローネンバーグ作品が、偏執狂の科学者による人間の肉体や精神の異常を描いたものであるとすると、『エイリアン』は、人智を越えたモンスターによる人間の肉体の侵犯を描いたものと言えるかも知れない。デヴィッド・J・スカルは、経口避妊薬ピルやサリドマイド、堕胎といった現代のテクノロジーによるセックス・コントロールの顛末をふまえ、奇形児の出産や堕胎児をテーマとするホラー映画のサブジャンル論を展開する。その文脈において、彼は『エイリアン』における表題のモンスターの寄生的な生態に注目し、テクノロジー時代に生きる人間の生殖、とくに出産に対する恐れや嫌悪を提示したものとみなしている*43。
 
『エイリアン』から子宮やレイプ、出産、胎児、堕胎のイメージを読みとるスカルのスタンスは、最初に紹介したバーバラ・クリードに近いように思えるが、SFホラーをあくまで女性を抑圧するイデオロギーの産物だとみなすクリードに対して、スカルはテクノロジーとセックスの融合による恐怖が提示されていると述べるにとどめている。
 ウッドがモンスターを男性と女性の混沌とみなしたのに対し、スカルはモンスターを機械と有機体の混沌とみなす(それはテクノロジーに依存している人間の姿を暗示しているとも言えるかも知れない)。そして、様々な要素の混在する生物がヒトの、それも男性の腹を食い破って「誕生」するという有名なシーンについて、「生殖を不自然な寄生とみなす時代の空気を反映」*44していると述べている。
 スカルは『エイリアン』という映画について次のように結論づけする。
 「『エイリアン』は、生殖が一種の死であり、身体と個人の自律性に対する圧倒的な侮辱であり、セックスとテクノロジーが不気味で醜悪な形で融合しているという、すでに誰もが薄々感じていたことに対する確認に過ぎない。」*45
 テクノロジー時代の性や生殖に対する社会的恐慌という同時代的文脈においてみれば、『エイリアン』が提示する恐怖は確かにジャンコヴィックやスカルの主張する通りであろう。しかし『エイリアン』で描かれている恐怖は、そうした現代の文脈におけるものばかりではない。実際、映画にはモンスターの寄生という恐怖とともに、未開の世界に対する恐怖、そして何より、モンスターの捕獲のためなら乗組員の犠牲もやむなしという会社の非情さに対する恐怖も提示されているのである。『エイリアン』について直接論じていないジャンコヴィックはともかく、スカルは精神分析やジェンダー論、フェミニズム的解読を乗り越える上で歴史的コンテクストを導入したが、かえって議論の幅を狭めてしまったようである(著書の目的が映画の同時代性の分析にあるのだから、当然といえば当然だが)。

5.先行研究批判
 以上、『エイリアン』の先行研究、ならびに周辺的ホラー映画論を検討してきたが、これらに対する筆者なりの批判をまとめると次のようになる。
 まず精神分析やポスト構造主義的分析では、やはり理論が優先されて、作品の部分的細部が理論に奉仕するためにだけ取り上げられた結果、極論に走りがちだということである。バーバラ・クリードの解読では、テクスト内部の差異がすべて、彼女のいうアルカイック・マザーのメタファーへと一元化されることになり、さらにはテクスト間の差異までもが、父権制的イデオロギーの再構築と均一化されてしまうことになる(例えば、彼女はモンスターの血にまみれた牙や唇をすべて、ヴァギナへの恐れを図像化したものとみなし*46、モンスターを抑圧することは女性を抑圧することだと主張する)。つまりホラー映画が女性の抑圧であることを主張せんがために、皮肉にも多様な読解の可能性を抑圧してしまっているのである。
 またクリードやウッド、そしてその反対者たちの間の議論は、男性/女性、革新/反動、保守的イデオロギーの再構築/脱構築というようなあれか/これかの二者択一へと集約され、遅かれ早かれ二項対立的な袋小路に陥っていくように思われる。そうした行き詰まりを乗り越えようと歴史的文脈を導入した試みも、『エイリアン』に関して言えば、現代の生殖や出産に対する恐慌に議論が限られていて、やはりフロイト学派的な性をめぐる分析に回帰してしまっている。
 次に、『エイリアン』を既存のジャンルの枠組みの中だけで論じていることも、非難されてしかるべきだろう。
 例えば、『エイリアン』を同時代に流行したスプラッター映画のSF版だとみなすことには問題がある。『エイリアン』は確かに『ハロウィン』や『悪魔のいけにえ』などに似通っているが、それはホラー映画としてのサスペンスづくり、演出方針が類似しているだけのことであって、映画で語られている内容はずいぶん違う。『エイリアン』のモンスターは、いかに危険な存在であろうとあくまで「凶暴な動物」であり、スプラッター映画の「凶悪な殺人鬼」とは別物である。殺人鬼は、時として不死身だったりするが本来人間であり、彼らがもたらす恐怖はあくまで人間の狂気である(時としてスプラッター映画は理由なき殺人の恐怖を提示しているといわれるが、『ハロウィン』は少年の姉に対する倒錯した欲望を原点としているし、『悪魔のいけにえ』は『サイコ』と同じエド・ゲイン事件を題材にしている)。『エイリアン』は生きるために人を襲う動物の脅威を提示しているわけだから、これをスプラッター映画とみなすことは、『ジョーズ』と『サイコ』をひとつの括弧にくくることと同じである。
 監督リドリー・スコットのモンスターの創造方針*47や、その後のシリーズ展開を考えると、『エイリアン』のモンスターがほかならぬ生物として映画の中に存在していることは明らかである。したがって『エイリアン』は、超自然や絶対的/形而上的な存在(悪魔や悪霊など)をテーマとする「オカルトもの」とも無縁である。そして『エイリアン』は寄生をキーワードとして「ボディー・ホラー」の関心とも関わりがあるが、この映画(とそのシリーズ)の関心の中心はあくまで不可触的な未開の地を探検させられた者の恐怖、時空を越えて不幸にも遭遇してしまった異生物との共存の道を模索することなのである。
6.『エイリアン』の新解釈
 『エイリアン』は、従来こうした観点から論じられてこなかった。それはテーマがホラー映画らしくなく、同時代性に欠けるからかもしれない。『エイリアン』の基底、その前提条件たる「会社の利益のために、乗組員を犠牲にしてでも標本を持って帰ろうとする話」という見方は、確かに一面的ではあろう。しかし、この基底条件こそが宇宙船で展開する全物語を支える大前提である。会社と(彼らが主張するところの全人類的な)利益のために、たとえ全乗組員が犠牲になったとしても、モンスターを地球に移送することが乗組員に秘された絶対命令だったとすれば、これはこのホラー映画における最も「ホラー」的な主題のひとつたりうるだろう。
 (会社は乗組員に語られるだけで姿をあらわさない存在だが、モンスターと同じ審級にくりあげたとき、自動化された未来の宇宙船はモンスターを生きたまま運ぶ飼育箱であり、乗組員ははじめから餌として用意されていたという解釈が可能となる。)
 また、「危険を省みない利潤追求」をテーマとする物語の範囲があまりに広いのも事実である。『エイリアン』にごく近い『キングコング』から、原子力エネルギーやバイオテクノロジーの無計画な研究、環境破壊などに対して警告を発するものまで、文明批判というテーマの集合は広大に過ぎる。テーマを「聖域に対するタブーの侵犯」に読み替えれば、生命の神秘やオカルト、無意識の中の狂気などを題材とする物語もこの集合に含まれることになるし、「希少動物の利益への転化」とみなせば、『キングコング』はもちろん、障害者への偽善を描いた『フリークス』や『エレファントマン』も入ることになってしまう。
 したがって次章以降では、未開の土地で航海者が遭遇した「他者」に対する恐怖、そして航海者を犠牲にしてでも標本を持ち帰らせようとする非情な組織の「使命」にテーマを絞り、航海に関する伝説や史実を記した文献にあたって、『エイリアン』が人間(とくにヨーロッパ人)の海外進出の歴史をSF世界で再現した映画であることを論述したい。
序章   第2章 第3章  結論
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*12 Creed, pp.16-30.
*13
ibid., p.17.
*14
ibid., p.22.
*15
ibid., p.25.
*16
ibid., p.19.
*17
ibid., p.17.
*18 ibid., p.20.
*19
ibid., p.27.
*20
ibid., pp.23-24.
*21ロビン・ウッド著、藤原敏史訳「アメリカのホラー映画 序説」、岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編『新映画理論集成1』(フィルムアート社、1998年)所収、44-76頁。なお、Robin Wood, Hollywood from Vietnam to Reagan (Columbia U.P.,1985)は、"An Introduction to the American Horror Film"を5章と9章に分割して収録しているが、『エイリアン』について記述した部分は省略されている。
*22
前掲書、74頁。
*23
前掲書、74頁。
*24前掲書、75頁。
*25
前掲書、50、75、271頁。
*26
前掲書、75頁。
*27
前掲書、74頁。
*28
前掲書、74頁。
*29
前掲書、72-74頁。
*30 Andrew Tudor, Monsters and Mad Scientists: A Culture History of the Horror Movie (Basil Blackwell, 1989), p.127.
*31 ibid., p202.
*32
ジャンコヴィック、前掲書、173頁。
*33
Robin Wood, Hollywood from Vietnam to Reagan (Columbia U.P., 1986 ), pp.188-201.
*34
ジャンコヴィック著、前掲書、173-174頁。
*35
Carol J. Clover, Men Women and Chainsaws (British Film Institute, 1993).
*36
ibid., p.40.
*37
Carol J. Crover, "Her Body, Himself : Gender in the Slasher Film," in James Donald, ed., Fantasy and the Cinema (British Film Institute, 1992).
*38
ibid., p.126.
*39
ジャンコヴィック、前掲書、176頁。
*40 Robin Wood, "Cronenberg : A Dissenting View," in Piers Handling, ed., The Shape of Ring : The Films of David Cronenberg (General, 1983); Barbara Creed, "From Here to Modernity : Feminism and Postmodernism," in Screen, vol.28, no.2, 1987, pp.47-67; Barabara Creed, "Woman as Monstrous Womb : The Brood," in The Monstrous-Feminine (Routledge, 1993).なおウッドは「アメリカのホラー映画 序説」(“An Introduction to the American Horror Film”)においてクローネンバーグ作品について記述しているが、この論文を分割所収した著書 Hollywood fron Vietnam to Reagan (Columbia U.P., 1985)では、それは省略されている。
*41
ジャンコヴィック、前掲書、183頁。
*42
前掲書、184頁からの引用。
*43
デヴィッド・J・スカル著、栩木玲子訳『モンスター・ショー 怪奇映画の文化史』(国書刊行会、1998年)、337-359頁。
*44
前掲書、354頁。
*45前掲書、355頁。
*46
Creed, p.107.
*47映画業界誌『シネフェックス』の編集長ドン・シェイによる、リドリー・スコットへのインタビュー。LD『エイリアン・スペシャルコレクション』に収録。この中でスコットはモンスターの創造方針について語り、神秘的な側面を取り除いて生物学的に実在しそうなものにしたと述べている。
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