「満州映画協会の役割とその影響」 

大場 さやか

目次
はじめに
 1、研究動機と先行研究
 2、本論における地名などについての補足

第1章 満映の歩み
 第1節 満映設立以前の状況
 第2節 満映設立へ
   1、満州国映画国策研究会
   2、満映設立
   3、映画法の制定
 第3節 満映初期(1938〜39年)の状況
   1、機構の健全化・人員拡充と俳優養成
   2、映画制作状況
   3、映画館とフィルム配給
   4、巡回映写機構
   5、上映作品
 第4節 満映発展期(1940〜42年)の状況
   1、新スタジオの建設
   2、甘粕正彦の理事長就任と機構改革
   3、映画制作状況
   4、大陸映画聯盟の設立と満映の衛星機構
   5、映画館建設と配給上映
   6、巡回映写
   7、この時期の上映映画
 第5節 満映後期(1943〜45年8月)の状況
   1、制作状況
   2、機構の変遷
   3、上映作品
   4、啓民映画の変遷
   5、配給上映

第2章 満映の役割

第3章 満映作品の与えた影響
 第1節 作品の評価
 第2節 満映の思惑と民衆の反応
 第3節 李香蘭主演映画がもたらした影響
 第4節 中国民衆が注目した作品
 第5節 芸術を追求した映画人

第4章 日本敗戦後の満映
 第1節 満州国の崩壊
 第2節 東北電影工作者聯盟
 第3節 東北電影公司の北上
 第4節 東北電影製片廠へ
 第5節 中華人民共和国建国後
 第6節 養成所卒業生のその後
 第7節 現在

おわりに

参考文献

はじめに

 1、研究動機と先行研究

 私が満州映画協会こと満映という存在を知ったのは、高校生のとき見た劇団四季の「ミュ−ジカル李香蘭」の中でである。日本が満州に侵略し、満州国建国の正当化のために満映をつくりあげたということを、ミュ−ジカルという非常にインパクトを受けやすい媒体を通して知った私は、満映とは何なのか、もっと知りたい、と強く興味を抱くことになった。日本史の授業では教えてはくれない、聞いたこともないこの得体の知れないものを知るためにも、現代史をきちんと見直す必要があると考えた私は、早稲田大学第一文学部で日本現代史を専攻し、卒業論文で満映と正面から向き合うこととなった。
 満映は、日本に侵略された中国人たちにとって、また侵略した側の日本人にとっても、タブ−なものとされてきた。当時満映で働いていた中国人について、「中国側の生存者の中には、その実名をあげて過去の行状を叙述すると、その人の現状に大変な迷惑がかかるのではないか」(註1)と気を配らなければならないほどである。日本がうやむやにしてしまおうとしても、満州国という国を日本がつくり上げたことは事実であり、その宣伝のために満映という国策会社をつくったことも、忘れてはならないことなのである。
 中国と日本は、はるか昔から続く交流があり、今後も互いに切瑳拓磨していくべき国同士である。そのためにも、日本が50数年前に中国に(だけでなくアジア諸国にも)何をしたか、それはきちんと学ぶべきことなのだ。そうしてみると、映画という、民衆に直接訴えかける手段を通して国策を宣伝した満映について、詳しく知ることは、日本の意図や、それに対する民衆の反応から、映画というメディアの役割や効果に至るまで知ることになり、現在のような宣伝広告情報のあふれる中で生きている私たちにも深く関わってくるのではないか、と思うのである。
 満映は、日本映画史そして中国映画史の一構成をなすものであるが、戦後長いことタブ−とされてきたため、研究が進んでいなかった。しかし、1984年に元満映社員の坪井與が「満洲映画協会の回想」と題して『映画史研究』第19号に論文を発表し、これが系統性ある初めての満映史となった。それに続いて、1985年リブロポ−トから出版された佐藤忠男の『キネマと砲聲』、1986年に岩波書店の『戦争と日本映画』中の佐藤忠男論文「満洲映画協会」、1989年平凡社出版の山口猛著『幻のキネマ−満映』などによって研究が進められた。
 1984年に、大阪のプラネット映画資料館にて、満映で1943年に制作された『私の鴬』(『運命の歌姫』と改題、50分ほどカット)が発見され、唯一現存する満映作品と言われていたが、1994年6月、ロシア国立映像資料館に眠っていた満映フィルムが発掘され、音楽事務所「テンシャ−プ」の石井薫氏がおよそ300本の映像の版権を獲得した。(註2)これによって、それまで知られていなかった作品の数々を見ることができるようになり、満映を研究する上で大変貴重な資料となった。
 さて、中国における満映研究としては、1990年12月に胡昶・古泉著『満映−国策電影面面観』が中華書局から出版されていたが、これはきわめて資料性が高く、また中国で現在唯一の研究者とされる胡昶氏の10年に渡る資料収集により完成した、画期的な通史である。これが1999年9月、『満映 国策映画の諸相』という日本語訳となってパンドラより出版された。胡昶氏は、中国側から初めて、満映を通史の中に位置づけ、実態を浮き彫りにすると同時に、その役割も明らかにした。訳者の横地剛・間ふさ子両氏は、「日本映画は戦争を介して東南アジア各国の映画界と深く関わっており、満映のみならず各国で日本映画が果たした役割や影響を明らかにする必要がある」としている。また、最近、アジア・フォ−カス福岡映画祭をはじめ、各地でアジアの優秀な映画が紹介され、日本映画との交流が今後ますます盛んになるだろうということで、過去の教訓としてこの本が日本人の責任を果たす第一歩となることを望んでいる、という。
 私は1999年10月半ば、長春在住の胡昶氏にお会いした。私は中国語が不自由で、少しばかり話せる友人の通訳を通しての会話であったのと、スケジュ−ルがあまりにも余裕がなかったこともあり、ほとんど深いお話はできなかった。しかし、女性二人だけの旅を心配してくださった氏は、長春だけでなく瀋陽・撫順まで案内してくださり、また親戚の方々の温かい歓迎を受け、私は改めて中国の人々との交流を続けていきたいと思うようになった。
しかし、その温かい歓迎の裏で、中国側の一貫した捉え方に常にとまどう。それは、「満映の制作した映画は例外なく、植民地政策を正当化するものである」として、その映画を芸術や文化という観点から分析することなど許されないというものである。列強・日本の帝国主義により土地を分割され、満州事変以降15年にも渡る日本の植民地支配を受けてきた中国にとって、それは当然の態度なのかもしれない。しかし、そうして否定しタブー視することで片付けてしまっては、本当の問題は何も解決されないのではないか。映画(だけでなく音楽、絵画などの芸術)が、政治や経済とどのように絡み、利用されていくものなのか、そしてどれほどの影響力を持つものなのか。そこに目を向けることが今必要なのではないかと思う。
 満映とは何か、その役割とは、そして当時の中国の人々はどのような反応を示したのか。この卒論では、満映の歴史を辿り、残存する数少ない作品を通して、満映の果たした役割や観客や後の映画界に与えた影響などについて、主に考察していきたい。

註1  辻久一『中華電影史話』凱風社 1998年6月序p15
註2  『満州の記録 満映フィルムに映された満州』集英社1995年p246〜7

2、本論における地名などについての補足

 まず、本論を進める上で断っておきたいことがいくつかある。
 一つは、満州という言葉の扱いである。資料に出てくるのは「満州」ではなく、「満洲」である。しかし、教科書などでは、「満州」という表示は一般化されているため、本論では資料には忠実に「満洲」とし、他は「満州」とした。
 また、現在の長春市は、当時「新京」と呼ばれていたため、当時の呼称を優先して「新京」とした。「奉天」、「北平」などについても同様である。さらに、引用文献中出てくる「満人」(満州の中国人)について、現在では蔑称ともとれるが、当時の日本人が中国人をどう見ていたかを知る上で重要と思い、そのまま引用している。
 資料の中で、旧字で現在ほとんど使わない(私たちの年代で)と思われる漢字は、現代表記に直して書いたことも断っておく。
 さらに、基本的に、註には実際に目を通したものだけを挙げることとし、参考文献の中に出てきた資料で実際にはあたることのできなかったものは、文中に括弧つきで記した。
 通史の部分や資料・統計などは、胡昶・古泉著『満映 国策映画の諸相』の資料性の高さを信用し、大部分はこれを基とさせていただいた。
 また、(敬意を十分払っているという前提の上で)敬称は本論では略している。

第1章 満映の歩み

 第1節 満映設立以前の状況

 東北地方最初の映画は、1904年〜5年の日露戦争中にアメリカ人とロシア人が大連で撮影した戦争記録映画であると言われる。北京では、1905年秋に豊泰写真館が撮影した京劇「定軍山」の数場面が、中国で最初に撮影された映画とされている。したがって、東北の映画活動は北京より早かったが、撮影は外国人の手になるもので、中国人による最初の撮影がいつごろであるかは、はっきりしていない。
 東北での最初の映画上映は、ハルピンが1902年、大連が1906年、瀋陽・長春が1907年と言われる。こうして東北の映画上映は、北はロシア人によってハルピンへ、南は日本人によって大連へ伝えられ、それが瀋陽や長春などの主要都市に広がり、大連がその中心となった。今世紀初めは東北に映画専門館はなく、映画は劇場、寄席、茶園などの娯楽施設で上映されていたが、1909年、南満州鉄道株式会社が大連の「電気遊館」内の「電気館」で映画上映をし、これが初の映画館となった。1913〜14年頃、日本人が大連に劇場をつくり始め、1920年までには東北の主要都市に、京劇上演と併せて映画上映をする影劇院が36も設けられた。(表1)
 外国映画の流入がさかんになるにつれ、1920年代中期から大連や旅順、長春などにも映画の専門館が登場した。1932年には東北全体で約30の映画館があり、35年には88館、36年には95館(日本人経営50館、中国人経営37館、ロシア人経営7館、アメリカ人経営1館)に増えた。上映作品は、20年代後半にはアメリカ映画が主流で、上海映画と続き、日本映画は少なかった。30年代中期でもアメリカ映画60%、上海映画25%、日本映画その他(ドイツ映画など)15%となっている(『満洲国現勢』康徳4(1937)年刊p449)。また都市の規模によっても差があり、大都市では外国映画8割、支那映画2割、中都市では外国映画と支那映画半々、小都市では支那映画が7割前後、上映されていたようである。(註1
 1920年代後半は大連警察局保安係が大連から輸入される外国映画の検閲を担当していたが(表2)、満州国建国後、検閲は強化され、有害とされたものは輸入できなかった。1934(康徳元)年7月1日、映画管理規則及び実施細則が公布され、国務院総務庁弘報処が上映映画の検閲を開始し、日本映画の輸入は増加した。(表3)の時点で検閲された日本映画が123件に対し、(表4)では不許可フィルムだけで相当数あることから、日本映画の増加ぶりがうかがえる。
 日露戦争後の1906年、大連に設立された南満州鉄道株式会社では1923年、弘報係と映画班を設立し、記録映画の撮影を開始した。28年映画班を弘報係の管轄に移して芥川光蔵(ドキュメンタリ−映画作家)を責任者とし、1931年の満州事変の際もその経過を撮り続け、3本の長編記録映画『満蒙破邪行第一篇』『満蒙破邪行第二篇−嫩江越えて』『遼西の帰匪』に編集した。これらは日本各地で上映され、同時に満鉄沿線の各地でも上映された。1932年2月、関東軍第四課は満鉄と自治指導部の人員を2班の宣伝映画班に分けて、東北各地で上映し、日本文化の紹介や日本軍の威容を宣伝、満州国建国の機運を盛り上げた。チチハル、ハルピン方面を廻った第1班の観客動員数は、総計4万2150名余、瀋陽・撫順・錦州方面の第2班の方は、4万500名余であったと言われる(『満洲事変と満鉄』上巻p414 昭和3年8月20日)。1936年11月、満鉄は満鉄映画製作所を発足させ、芥川を主任とし、スタッフを増員して制作能力の増強を図った。
 このように、満鉄の映画活動は当初から関東軍の軍事侵略に歩調を合わせ、スポ−クスマンの役割を果たした。映画題材の着眼点は政治にあり、「日満協和」を宣伝し、関東軍の「功徳」を讃えることに終始していた。
 一方、満州国の各部は宣伝のため、映画に対し非常に積極的で、次々に映画設備を購入し、満鉄や日本の映画会社に委託して記録映画を製作した。1933年3月、満州国国務院は情報処を設け、思想宣伝と情報収集を統括し、国内外に宣伝を行うために、満鉄弘報係と協力、記録映画『新興満洲国大観』を製作し、各国に配給した。治安部軍政司は33年8月、『映画利用による宣伝計画』を発表し、豊富な予算をもって活動を推進した。34年7月1日には、映画検閲規則及び実施方法が制定され、全国の検閲制度が統一された。
 文教部教司社会教育科は巡回映画班を設け、各地の要望に応じて、出張映写会を行った(35年に廃止)。民生部衛生司や蒙政局、防空協会なども数は少ないが映画活動を行っていたとされ、また旅順の関東局学務課映画班、大連の満州映画社、新京の満州国通信社映画班及び松竹キネマ満州出張所ニュ−ス部も製作活動を行っていた。
 このように、満州国各部と関係機関が満映設立以前から映画製作に取り組んでいたことが分かる。

 第2節 満映設立へ

 1、満州国映画国策研究会

 満映は、関東軍と満州国の警察部門が先導して進めたもので、文化芸術部門の提唱に始まったのではない。1932年、日本は中国東北部を侵略した末に満州国を建国し、その統治を安定させるための差し迫った必要から、満映は誕生することになるのである。
 満州国に映画統制機構を作る構想は関東軍参謀・小林隆少佐が1933年5月に提起したことに始まる。当時、大阪毎日新聞後援の全日本映画教育研究会が来満し、映画教育講習会を開催、映画教育の必要性を説き、「満州国文化の向上は映画から」と訴えた。これに啓発された少佐は、満州映画国策研究会設立を提案した。これを関東軍と警察部門が支持し、彼を中心に満州国映画国策研究会が生まれることとなった。この研究会の設立目的は、「映画の普及及利用により満州国文化の向上発展を期すため、国策としての統制、検閲、制作、利用ならびに映画に関する一切の事項に就いて研究を行うこと」とされた。1933年9月14日、首都警察総監は民政部警務司長に満州映画研究会設立に関する文書を提出し、9月30日には満州国映画国策研究会が正式に発足した。毎月1回例会を開き、映画の政策問題や映画機構の設立問題を討議した。これと不定期の映写技術講習会を通じて、映画知識の普及、映画による影響の拡大、そして世界各国の映画概況の紹介に努めた。33年11月27〜29日に開催した講習会では、映画技術の問題ではなく、各国の映画発展状況と映画国策について議論され、まさに世界各国の映画概況を紹介する活動であった。彼らの注意は特に、主な資本主義国家の映画政策研究に向けられ、アメリカ・イギリス・ドイツ・イタリアなどの映画政策の重点は、
 1、外国映画による自国市場の壟断防止
 2、自国映画の発展育成
 3、自国映画の輸出促進
であるとした。この目標を実現し、自国の映画事業の発展を促すため、国の投資で国営映画機構を建設し、優れた作品には国が助成金を与え、製作会社の税金を免除した。
 この時点で、満州国における映画国策の考えは基本的に煮詰まった。研究会は、映画の影響を広めるため、映画鑑賞を行い、作品批評を加えながら各地で上映した。

 2、満映設立

 関東軍と満州国警察を中心とした研究会は、映画国策に対する考えを徐々に煮詰めていき、1936年7月には満州国映画対策樹立案が提案された。(資料1)この議案に基づき、満州国は急ぎ映画国策審議会と準備委員会を発足させた。これらの準備作業を経て、1936年末には、満州映画統制機構設立法案が具体化された。1937年8月2日、国務院は映画国策案を可決、資本金を500万円(満州国と満鉄の折半出資)と定め、ようやく株式会社満州映画協会が設立された。8月14日、満州国政府は「株式会社満洲映画協会法」(資料2)を公布し、同時に設立委員会を任命した。さらに協会法全文26条によって、満映の設立目的、業務範囲、資本金額、所在地、株式金額及び払込み、株式の権限、理事長及び理事の権限任期などに明確な規定がなされた。
 1937年8月21日午後3時、設立委員会の主催で日満軍人会館に株式会社満州映画協会創立総会を招集し、満映は正式に発足した。初代理事長には清朝の皇族で川島芳子の実兄、金璧東が就任し、正式に業務が開始された。しかし金はただの看板で、満映の実権は、元満鉄庶務課長で専務理事の林顕蔵が握っていた。満鉄は満映設立以前から大量の記録映画を撮影し、政治宣伝を行っていた経験があり、林は金より映画の専門家ではあった。設立当初、満映は新京大同大街にあったニッケビルの2階を借りて事務所とし、寛城子二道溝の機関庫を借りて臨時スタジオとし、すぐに新スタジオと事務所の建築に着手した。(地図1の北部)
 設立後まず中心となった社員は、満州国の政治をとりしきった協和会、満州国政府の弘報処(満映の監督官庁)や文教部、満洲日報社など現地の新聞社、満鉄の宣伝部門である満鉄映画製作所の技術者などで、日本から映画の専門家もごく少数加わった。のちに日本国内から多数の映画人が来満し、1937(康徳4)年9月10日現在で社員は百名を数えた。「この創立の事情と、出資者、当初集まった人々の出身などを見ると、それは純粋に満洲国の官僚の発想から生れたもので、日本国内の映画業界の海外進出という意図から生れたものではないことが分る。」と映画評論家の佐藤忠男は言っている。(註2
 また、9月20日には東京赤坂葵町の満鉄ビルに東京事務所を開設、10月31日に松竹、東宝、日活、大都など各社と相互配給の契約を結んだ。この時点から、満映のフィルムは日本では各大手映画会社により配給され、日本映画の満州での配給はすべて満映が統括することになった。

 3、映画法の制定

 満州国は映画統制機構である満映を設立し、その政治的使命を明確に規定すると同時に、映画法規の完備を進め、映画に対する統制と管理をいっそう強化した。
 1937年10月7日、全文18条からなる映画法と6条からなる映画法施行令が公布された。(資料3)満州国はこれらの法を採択することで、映画を厳重に国家の監督下に統制し、もっぱらその傀儡統治に奉仕させた。

 第3節 満映初期(1938〜39年)の状況

 1、機構の健全化・人員拡充と俳優養成

 満映は生産体制を整えて、作品を送り出すため、設立早々に機構の健全化と人員の拡充を行った。1938年上半期には、日本の大手各社から多数の人を招請し、満映の要職につかせたため、同年春、理事を入れ替え、機構改革を行った(図1)。6月、元日活多摩川撮影所所長の根岸寛一が製作担当理事兼製作部長として、同撮影所元製作部長の牧野満男は製作部次長として赴任したが、ともに影響力のある映画人であった。この二人が製作の中枢を占めると同時に、日活や松竹、東宝などから美術監督や脚本家、カメラマンといったプロの映画人が次々と来満し、初期の主力スタッフとなった。しかし、監督は特筆すべき人材がなく、牧野は日本のB級映画の焼き直しを中国人俳優を使って盛んに制作した。
 満映は設立後ただちに俳優陣の整備に着手した。1937年10月、満州の大新聞各紙に俳優練習生募集の広告を載せ、同年11月12日に第1期生が入学した。俳優訓練所の専任教師は日本映画初期の俳優で後に監督となった近藤伊與吉で、所長には38年陳承瀚が就任した。陳は国務院秘書処秘書、情報処事務官などを歴任した人物で、このことからも、満州国当局がいかに映画人の育成を重視していたかがうかがえる。
 訓練期間は1年間とされたが、撮影の必要上、多くの生徒はわずか数か月で撮影に参加した。3期にわたる養成に加え、数名の俳優を採用し、満映は急速に俳優陣を整えた。
 設立当初、わずか百名にすぎなかった社員は、8、9か月のうちに5百名近くに膨れ上がり、39年12月1日には690名に達し、うち俳優は142名であった。(『満映社報』第46号)

 2、映画制作状況

 満映は各種の映画を制作し、大量のプリントを現像できる総合映画会社であった。制作された映画は当時、娯民映画(劇映画)、啓民映画(文化映画とも言う。教育・記録映画含む)、時事映画(ニュ−ス映画)の3種類に分けられていた。文化映画という名称をはじめ、満映の組織は日本の映画会社をモデルとしていた。
 満映は新スタジオの完成を待たずに、臨時の簡易スタジオで映画制作を開始した。設立1年目(1938年)には『蜜月快車』など劇映画9本、翌年には『富貴春夢』など8本が制作された。設備不充分な状態にしては、生産のスピ−ドは早かったといえる。
 教育映画、記録映画、宣伝映画を含む文化映画(満映初期の呼び方)は、満映設立当初、とりわけ重視されたジャンルであった。というのも、当時正規のスタジオがなかった満映にとって、スタジオを必要とせず、しかも国策映画を体現する主要な分野である文化映画は重要であった。彼らはこれを利用して、広く国内外に満州国の様子を紹介し、対外宣伝の有力な手段としたのである。
 初期の満映では、文化映画は単独の機構を持たず、製作部に所属していたが、1938年10月25日、文化映画課が設けられ、その後はこの課が文化映画製作の担当となった。同年末に7本、翌年22本の作品が作られたのは、注目に値する。
 1938年10月から39年2月にかけて、関東軍、満州国政府、協和会及び満映は、共同で大がかりな文化映画撮影計画「満洲帝国映画大観」を定めた。(資料4
 満映はこの計画の下、文化映画制作のピッチを上げ、39年には31作品に増加し、記録の対象も広がった。(表5)
 時事映画は、当初製作部文化映画課の指導下にあった。38年文化映画課に時事映画係が設けられ、のちに専門の機構が単独に設けられた。満映最初のニュ−ス映画は『北支事変』。彼らが撮影した映画は満州各地で上映されたほか、日本や北京などでも上映された。

 3、映画館とフィルム配給

 満映は、製作に従事するだけでなく、配給・映写業務にも携わった。また国家の映画管理機構の一部も担っていた。設立当初は業務部が、業務部が配給部となってからは配給部が、配給・映写の責任を負った。配給を拡大するには、映写する場所を増やさねばならず、設立後は映画館づくりに積極的に動き、東京、大連、奉天、ハルピンの出張所を設け、配給網を確立していった。
 満映設立当初、満州の映画館は全土でわずか95館だった。そこで満州各地に数十館を建設し、配給網を全土に張り巡らせた結果、1939年には、全国に120〜130館に増えた。38年9月1日現在で、全土に122館、うち日本人経営58館、中国人経営64館となっている(表6)。満映は1938年1月に支社として設立した北京の新民映画協会を通じ、華北、華東、華中にも映画館(全館日本人経営)を建設した。『満洲映画』に「映画による平和建設を目指し、新民映画協会北京に成立す」という記事がある。
  日支両国民の真の提携を目的に、日本のまことの姿を紹介することが、現下の使命であり、1、日本の文化映画の上映
  2、日本の指導によった満洲国の国家統一が建国後僅か六年にして斯くの如く発展しつつあるといふ点をみせる満洲の文化映画の紹介
  3、更生・支那民衆に対する宣撫映画の製作と上映
  等々を、その具体的使命とするものである。(註3
 こうして満映は着々と中国国内に映画館を増やし、配給網を広げていく一方、国際市場への進出にも力を入れた。設立後、まず日本の映画各社とフィルムの相互配給協定を締結し、続いてドイツ、イタリア、朝鮮などとフィルム交換関係の樹立を図った。契約は1938年に結ばれている。このほかにも、弘報処と台湾総督府を通じ、台湾映画会社などと「満台満映配給組合」を結成、これを通じて台湾全島に満映のフィルムを配給した。このように、満映はこれらの国や地域にフィルム各種(最初は文化映画、ニュ−ス映画、のちには劇映画まで)を積極的に輸出し、同時に輸入も行った。

 4、巡回映写機構

 満映は、映画という形式を利用し、広範な宣伝を行うために、固定した上映の場である映画館や劇場の発展に力を注ぐと同時に、全国各地に巡回映写機構を築き上げた。1938年8月、弘報処、協和会、民生部、治安部と満映は、満州全土に巡回映画映写班を設置する議案を提出、政府はこれを採択した。主な内容は、
 1、各県、旗の公署の巡回映写班は、協和会、学校及び機関団体などと連係し、彼らに対し映画上映の責任を負う。
 2、各省公署に映写本部を設置する。省本部は県、旗の巡回映写班ごとに16ミリ映写機一台を給与する。
 3、各県、旗の巡回映写班の上映するフィルムは、省本部が定期的に供給する。
 4、省本部は、毎月上映するフィルムを事前に各県、旗の巡回映写班に予告すること。
5、本部は、満映の提供する作品目録に基づき、毎月その組み合わせを予告すること。また逐次上映プログラムを拡大すること。
となっており、この議案は39年から実施され、4年間で完成の予定としたが、1年目は特に大きな進展が見られ、上映活動は39年4月から開始された。最初の上映活動は満映が組織し、南満班と北満班の2組に分けられてる。
 1939年4月7日から6月21日(76日間)、牡丹江、チャムス、ハルピン、チチハル、満州里などの北満班の上映回数は145回、作品は劇映画『万里尋母』、文化映画『紅色的威脅』、漫画映画『猿蟹合戦』、ニュ−ス『満映ニュ−ス』『朝日国際ニュ−ス』、日本映画『非常線』で、観客数は5万9472人。
 1939年4月11日より6月24日(75日間)、吉林、奉天、撫順、西安などの南満班の上映回数は102回、作品は劇映画『壮志燭天』、文化映画『捕鯨船』、漫画映画『動物病院』、ニュ−ス『満映ニュ−ス』『朝日国際ニュ−ス』『朝日児童倶楽部』、記録映画『報国驀進』で、観客数は27万7662人。(『満映社報』第36号)
 日本人小学校のための巡映活動は、39年5月22日から7月24日にかけて行われ、上映地108ヶ所、上映回数137回、児童観客数4万1426人、保護者観客数1万2203人、総計5万3629人であった。(『満映社報』第38号)
 この他、僻地や開拓村での巡映活動が行われ、こうした膨大な活動を組織するため、39年3月20日に開発課を設置、配給部の指導を受けて、全国の活動に専従した。(『満映社報』号外康徳6年3月20日)

 5、上映作品

 満映は製作能力を備えると、自社作品の配給拡大に努め、特に文化映画と時事映画の配給上映に注意が払われた。また、日本映画の上映本数を増やし、満州国産映画と日本映画で国内市場を独占し、国外より早く、より多く満映作品を配給するべく努力した。一方、アメリカ映画の輸入には厳しい制限が加えられ、アメリカ映画の占める割合は急降下した。1939年の統計によれば、大連、奉天、新京、ハルピンの四大都市で上映された日本映画の割合は37年の30%から80%に増加した。満州国内で上映された代表的な日本映画は、日活:『五人の斥候兵』『路傍の石』『爆音』『土』、東宝:『阿部一族』『上海』『太陽の子』『牧場物語』『北京』『上海陸戦隊』、松竹:『出発』『南風』『風の中の子供』。
 満州国の映画検閲機関である国務院総務庁弘報処映画班は、国産及び輸入外国映画に厳しい検閲を行った(表7)。これは満州国の国策そのものを見事に映し出している。

 第4節 満映発展期(1940〜42年)の状況

 1、新スタジオの建設

 1937年上半期に、満映は写真科学研究所(PCL)に新スタジオと事務所ビルの設計を依頼した。写真科学研究所の増谷麟が、ドイツのウ−ファ(UFA)映画撮影所の配置を下敷きに設計し、新京西南の郊外、南湖公園の西北側に1939年10月、約100坪のステ−ジ6棟を中心とする大撮影所が落成(地図1の南西部)、11月1日に引き渡された。完成までに250万円を費やした。
 これらが竣工し使用が開始されたことで、各種映画の制作条件が整った。過去2年間の臨時スタジオとロケ多用に頼っていた状況が一転し、数組が同時にスタジオ撮影することが可能になった。これほどの規模の設備はアジア唯一のもので、現像、撮影、録音、特撮など各分野で可能な限りの最新技術を採用し、その制作技術はかなり近代化されたものだったと言える。これらの設備は当時の世界の先端水準と呼ぶにふさわしく、満映の映画制作に大きな役割を果たした。

 2、甘粕正彦の理事長就任と機構改革

 新スタジオ落成を間近にひかえ、満州国当局は新理事長の人選にとりかかっていた。というのも、「映画製作の実績はいっこうにあがら」ず、「統制権の上にアグラをかいた会社幹部は、関東軍報道部の一将校や弘報処(情報局)の役人などと宴会ばかりやっている」(註4)といった汚職にまみれていたため、国務院総務庁弘報処処長武藤富男が提案、総務庁次長岸信介が賛成し、元満州国警察のボス甘粕正彦が満映の第2代理事長に就任することとなった。日本の植民地政策の宣伝機関である満映の理事長に甘粕が就任したことは、甘粕と軍との関係、満映が軍国主義者に指揮されている会社というイメ−ジを浮き彫りにした。
 甘粕就任後、満映の資本金は500万円から900万円に増資され、やはり満州国政府と満鉄が折半した。甘粕は直ちに機構改革を提案し、協議の結果、1940年2月と12月の2回に分けて改組を行い(図2)、職員や俳優の給与も改訂した。また、映画制作の必要性に合わせ、各部門の専門スタッフを拡充した。甘粕はさまざまなル−トを通じて、日本から経験豊かな映画人を満映に呼んだ。また、それまでは助手や通訳にあたっていた中国人監督を起用し、1940年には周暁波と朱文順の2人に単独監督をさせた。脚本も40年以降は、中国人の書いた脚本が採用されはじめた。
 満映はそれまで俳優訓練所で3期にわたり、計140名の俳優を養成したが、新スタジオ開設後は、各分野の専門家を総合的に育成するため、正規の映画専門学校を開校すべく、その下準備にとりかかった。1940年12月27日、俳優及び各分野の専門家養成の目的を掲げ、満映養成所が発足した。赤川孝一主事は「教育された専門家をして、真に満映の国策使命を発揮せしめ、健全なる娯楽を国民全体に普及せしむ」(註5)と述べていることからも、満映が養成所を開設した目的が、国策映画の使命、教化を実行できる専門家を養成することにあったと言える。
 養成所の生徒は中国人を中心に募集されたが、のちには日本人学生にも門戸が開かれ、「日、満略々半分づつで約160名位で年限は3ヵ年であった」(註6)という。

 3、映画制作状況

 新スタジオ使用開始と甘粕の一連の措置によって、満映の創作陣は徐々に充実してきた。1940年には19本、41年には26本、42年には19本、3年間で計64本の劇映画が制作された。前の2年間に比べ2倍に増えている。
 満映は満州国が国策映画によって統制を行うための機構であり、国策映画はその生命線であるというのが、幹部から創作陣に至るまでの支配的な考え方であった。前の2年間に制作された国策映画は観客に不評で、スタッフたちも「面白味に欠ける」と思っていた。それでもやはり満映は国策映画に力を注ぎ、満州映画に「日満親善」「王道楽土」の思想を十分に具現させ、いわゆる宣撫教育を推し進めようとした。代表作に『黎明曙光』『愛焔』『現代日本』(1940年)『黄河』(42年)がある。
 満映の国策映画は露骨に植民地思想を宣伝し、作品的にも質がよくなかったため、観客が少なかった。市場における上映作品の不足を補うため、とりわけ上海映画との競合もあって、満映も娯楽映画を増やさざるを得なくなった。この時期、結婚や家庭生活を描き、あからさまな政治宣伝の色彩のないホ−ムドラマが増え、生活のある側面から当時の社会を描いたり、社会の底辺の人々の生活を描いた作品を作った。これらの作品を撮った理由は、国策映画がますます人気を落としていったからであり、創作陣がやむなく別の道を模索した結果であった。また一方、中国人スタッフが、映画を日本の統治者たちの植民地宣伝の道具とさせないよう努力してたどり着いた新しい表現の領域でもあった。
 満映はまた、観客に広く好まれる喜劇映画を何本か撮ったが、これらは笑いを通して人間を描くまでには至っておらず、ドタバタ喜劇に終始していた。同じく観客をひきつけやすい時代劇や京劇映画も制作し、これらはあからさまな宣伝臭もなく、ある程度の数の観客を動員することができたと言う。1941年の『龍争虎闘』は、上映後観客の好評を得、プリントの数は満映作品の最高記録を達成したという。
 1939年、文化映画課の中に時事映画係が設けられ、それまで製作部の文化映画に組み込まれていた時事映画は独立して制作されることになった。40年2月、甘粕の第1次改革で時事映画は文化映画と同格となり、時事映画課が設けられた。40年12月第2次改革で文化映画を製作部から独立、啓民映画部とした(図3)。この時から文化映画は啓民映画と改称された。実質的な違いはないが、「啓民」という言葉には、人々を啓発し教育するという意味がある。また、これに対して劇映画は娯民映画と呼ばれ、坪井與は「娯民とは民を娯ばせること、大衆を楽しませることが劇映画本来の目的であることを、自らはっきり認識してその目的に向って映画の企画と製作を進めることを意味している」と言っている(註7)。
 国策映画の直接的具現化である啓民映画は、日本側の統治者から重要視されていた。40年以降、甘粕は新たな人材を集め、啓民映画部門の強化を図った。そして関東軍及び満州国各省庁の積極的な支持に加え、陣容が大幅に拡充されたため、迅速な発展を遂げた。初期の3年間(1937〜39年)の啓民映画は60本だったのが、40〜42年には110本(表8)に達した。本数の増加に伴い、題材も拡充し、これまでの軍隊、産業、観光、「日満親善」行事などのほかに、政治活動、皇帝や宮廷の行事、祭や風物、学校、開拓民、衛生・疾病から廃物利用まで何でも描かれるようになり、中でも日本の軍隊と満州の風景の紹介が突出した地位を占めている。この時期の啓民映画は「映画大観」の計画を完成したばかりか、大きくそれを上回り、満映啓民映画の全盛期だったと言える。換言すれば、満州国が映画を利用して占領地の人々に最も盛んに宣撫を行った時期であった。 満映の時事映画は1938年には、『満映ニュ−ス』合計13号のみであったが、この時期の終わりまでに、『満映通訊』(日本語)『満映時報』(中国語)は193号、『満州児童』は29号まで発行された(『満映社報』第118号)。これらは日本ニュ−ス映画社制作『日本ニュ−ス』と交換され、日本各地で上映された。『日本ニュ−ス』は満州各地で上映された。
 満鉄映画製作所も引き続き記録映画を撮影していて、成立から42年10月までにト−キ−映画59本、無声映画176本を制作した。満州国建国以前は関東軍の中国東北部侵略に協力して、主に軍事を題材にした作品を撮り、建国後は主に「日満親善」「王道楽土」を宣伝するものを撮った。満鉄映画製作所は、日本が中国東北地区の人々に対する植民地支配を強化するための宣撫工作を行い、満映設立後は満映と協力し、表裏一体となって関東軍と満州国の宣伝に努めた。

 4、大陸映画聯盟の設立と満映の衛星機構

 1927年7月25日に、田中義一の「田中上奏文」中に提示された新大陸政策によって、日本は中国東北地方に大規模な侵略を開始したが、この政策に合わせて、満映は積極的に大陸映画聯盟の設立に尽力した。これは映画を通じて日本の勢力を華北、華中、さらには全中国に広げようとしたものである。この政策は日本の大陸政策の一構成部分であった。大陸映画聯盟の産物として、上海に中華電影公司が、北京に華北電影公司が設立され、華北電影はほとんどが満映資本、中華電影は約3分の1が満映資本だった。
 満映は映画全体を統制するため、次々にその勢力の拡大を図り、1941〜43年にかけて、甘粕を社長とした衛星機構を前後して設立した。これらは基本的に満映の投資を受け、満映に奉仕することを主な業務としており、満洲電影総社、満洲光音工業株式会社、新京音楽団、満洲恒化工業株式会社、満洲音盤配給株式会社、満洲雑誌社などがあった。
 
5、映画館建設と配給上映

 制作本数の増加と満洲電影総社の設立に伴い、映画館建設と配給上映は、発展期(1940〜42年)に大きな進展を見た。
 1941年11月の満洲電影総社設立以降、全国の映画館の管理は満映の手を離れ、満洲電影総社の管轄に移った。この変化は満州国の映画館管理体制に重大な変化をもたらした。また、配給を拡大し、映画を通して植民地文化を注入するため、満州国当局は映画館建設を重視したため、映画館経営は急速な発展を見た。35年に全国に95館だったのが、40年には156館(表9では146館、坪井前掲文p51では121館とありいずれが正確かは分からない)、41年で165館、42年には201館(表9)。43年には満系95館、日系217館の312館となっており、その所在地82市町の総人口約678万2千人、これは満州国総人口4318万7526人(1941年治安部調べ)の16%(註8)。
 この映画館急増に関して、坪井與は次のように述べている。
  人口1万5千名以上の都市には直営館建設の計画が樹てられ、セメント、木材などの不足を克服して建設は進められた。之は映画文化の都市集中化を嫌い、映画文化を全満に普及させること、又、駐屯地の軍隊の慰問にも役立たせたいと示ふのが、甘粕理事長と根岸理事との宿願であった(註9)。
  甘粕理事長は映画館の入場税は全部、直営館建設に当てたいと示って、政府と交渉し  て、承認をとりつけた(註10)。
 映画館の増加に伴い、観客数も増加した。入場者数の完全な統計資料はまだないが、39年10月から40年2月までの満州国の都市(奉天、新京、大連、ハルピンのみ単独)における観客数と興業収入のデ−タがある(表10)。都市で1人が1年間に映画を観る回数は、奉天4.27回、新京6.27回、ハルピン3.16回、大連5.32回。観客数がそれほど多くなのは、満州国の映画の大多数が「日満親善」「王道楽土」の宣伝であり、被占領地区の人々から好まれなかったことと、入場料が非常に高かったためである(最高1円、最低20銭)。東北被占領地区の大多数の中国人は生活に苦しく、娯楽どころではなかったと言う。

 6、巡回映写

 満州国当局は、「宣撫」の必要から、特に巡回映写を重視した。1939年夏、全国に巡回映写網が築かれ、41年夏には、国務院弘報処、協和会と満映で組織した中央巡映委員会が設立された。同年末、全国巡回映写工作に関する綱領「巡回映写委員会設置要綱」(資料5)が制定され、1942年1月1日より実施された。満映は40年12月、上映部内に巡映課を設け、これと中央巡映委員会の設立により、満州国の巡回映写は一段と強化された。42年の定期巡映は(表11)の通り。特殊巡映はのべ1280回の上映、910ヵ所、観客総数97万2410人、自主巡映は推定のべ1324回の上映、観客総数132万7000人。上映された作品は主に短編で、記録映画、宣伝映画、時事映画などであった。
 辻久一は、中華電影の巡映状況として、
  巡回映写の目的であり効果として期待したのは、中国民衆が日本と日本人を認識、理解することであった(略)必ずしも、成果が大であったとは言えないのは残念である。私見をもってすれば、最大の効果は、未だ文明の恩恵に浴せず、一度も映画を見たことのない中国の人々に、映画を初めて紹介したことだろうと思う。(註11
と述べ、「日本や日本人のことより、映画そのものが焦点であったわけで、これは満映や華北電影の巡回映写と同様の事情だったと思う。」とつけ加えている。実際、「各地に大歓迎を受け、僻地などで電気の光を始めて見る人達は、『アイヤア!』と驚嘆の叫びをあげた。」と坪井與は回想している。(註12

 7、この時期の上映映画

 満州国で上映される満映作品は増加し、太平洋戦争勃発後、満州国の映画検閲機関である国務院弘報処は、アメリカ及びヨ−ロッパの映画に対して厳しい制限措置を採ったため、欧米の映画輸入量は大幅に減少した。その結果、満州国の映画市場で上映されるのは主に日本映画、満映作品、ついで上海で制作される中国映画となった。

 第5節 満映後期(1943〜45年8月)の状況

 1、制作状況

 太平洋戦争が勃発して以降、満州国の国策映画制作を任務とする満映は、この「大東亜戦争」と歩調を合わせねばならないと声を大にして叫んだ。満映編集の『電影画報』にはそういった文章が多く掲載された。侵略戦争の「勝利」を宣伝するため、満映は続けて『敵機撃墜』『仏印進駐』『大東亜戦争特輯』『大東亜戦争一周年』『南海の花束』『空の神兵』『西住戦車長伝』といった「新聞特報」を編集し、素早く満州全土に配給した。
 満映は映画を完全に思想戦・宣伝戦の武器として運用し、日本の侵略戦争宣伝に注意を向けていたが、1942年の劇映画制作にはさして影響はなかった。1943年以降日本が不利な状況に陥りはじめると、満州国経済は日に日に悪化し、兵隊補充のため、満映の日本人も召集されたため、1945年には満映の日本人社員の数は41年に比べて70%も減少している。経済が逼迫したうえに、人員も減少し、満映はどうにか制作を維持できるだけになってしまった。
 戦局が厳しさを増すと、日本の統治者たちは被占領地区の人々に対する思想統制を一段と強化した。1943年9月18日、「保安矯正法」「思想矯正法」の2法を公布し、多くの中国人を逮捕、獄死に至らしめた。満映の中国人社員も逮捕されはじめたため、映画制作どころではなくなり、1943〜45年8月までの2年あまりの間、満映の映画制作は前の2年間(1940〜42年)に比べ大幅に落ち込んだ。

 2、機構の変遷

 甘粕は彼の指揮によってよりスム−ズに機能し、戦争状態に適合するよう、43年6月1日と44年11月1日に機構を再改革した(図4・5)。44年、「満映の母」と言われた理事の根岸寛一をはじめ、映画事業に精通した甘粕の部下たちが相次いで去ったため、満映の映画制作は少なからず影響を受けた。45年1月、最後の機構改革を行った(図6)。
 37年9月10日設立時わずか100名だった社員は、38年末には491名、39年末には690名、40年12月には919名、44年11月1日には1858名(内、日本人1076名、中国人711名、朝鮮人52名、台湾人19名)に達した。何人かのスタッフが加入し、45年春には、戦前戦後数々の傑作を生んだ映画監督内田吐夢が入社した。
 養成所はこの時期も教育・育成の任務を遂行した。42年から43年にかけて、第2期〜4期生を募集した。41年9月25日、青年学校が開校し、青年従業員に政治思想教育と専門知識教育を施すことを目的とし、本社の14〜16歳までの青年を募った。第1期生は54人、第2期生は19人、第3期生は23人の総計96人が集まった。

 3、上映作品

 1938年から42年までの5年間に満映は81本の劇映画を撮ったが、質的にはあまりよくなかった。満映では自社作品を「大成功」「圧倒的人気」とたえず宣伝していたが、被占領地区の観客の評判は芳しくなかった。根本の原因は、日本の統治者が植民地文化を押しつけ、軍国主義的思想統制を厳しく実行したこと、そして映画をその宣伝の道具に使ったことにあると言える。
 この3年間で27本を制作したが、これは前の3年間の半数にも満たない。
 作品の主流は相変わらず国策思想の積極的宣伝であった。これらの人気が出ない中、刑事ものはわずかに目が出た。
 この時期制作された代表的な国策映画は、『大地逢春』『碧血艶影』『夜襲風』『蘭花特攻隊』『銀翼恋歌』などである。
 満映の後期作品群においても、『富貴之家』などの家庭生活や恋愛を題材にした作品は相変わらず多いが、満映の後期にかなり重視されたジャンルとしては、時代劇とアクション映画があり、日本人一人を除きすべて中国人という制作スタッフで、満映最後の時代劇となった『晩香玉』などがある。
 その他に、音楽映画『私の鴬』(李香蘭が満映で撮った最後の作品)『月弄花影』、児童映画『化雨春風』『好孩子』、芸術映画と称された『愛與仇』、喜劇『緑林外史』などがある。
 満映は初期の2年間で17本、中期3年間で64本、後期3年間で27本、8年間で合計108本の劇映画を制作した。また日本の映画会社との作品『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』(大陸3部作)『蘇州の夜』の撮影に協力したり、朝鮮高麗製片社の『福地万里』の撮影にも協力している。45年には未完成の4本があり、これらを合わせて満映は117本の劇映画を撮ったことになる。

 4、啓民映画の衰退

 満映の啓民映画(啓発映画とも称した)は、国家の有力な宣伝手段の一つであり、国民を啓発し、日本及び世界各地に満州国の状況を紹介する最も有効なメディアであると考えられ、重視されたきた。そのため常に有力な役人が派遣され、啓民映画の制作を指導した。満映が初期に制作した啓民映画は60本、中期が110本、この時期に19本(表12)、合わせて189本であった。
 時事映画はこの時期にも『満映通訊』(日本語)と『満映時報』(中国語)、そして『満洲児童』も引き続き編集され、発行数は前の時期より増加している。これは当時、太平洋戦争が緊迫した状況にあり、国内の動きと戦況を速やかに報道するため、啓民映画の制作を減らしてでも時事映画の制作本数を確保していたためである。このことからも、満映が時事映画を宣伝の道具として重視していたことがわかる。
 1944年3月に満鉄映画製作所と満映大連地区事務所が合併し、大連映画製作所が設立された。満映は啓民映画に長く携わってきた坪井與を大連に派遣し、大連地区事務長として双方の関係を調整する任に当たらせた。製作所は記録映画の制作を受け持ち、事務所は主に映画の配給と庶務をこなしたが、制作の映画については記録がない。

 5、配給上映

 満州国の映画館は、1942〜43年にはなお発展の勢いがあったが、それ以降は停滞状態に陥った。満洲電影総社設立後、全国の映画館は電影総社の管理下に置かれた。
 この時期、映画上映を固定化するほか、各種巡回映写も引き続き組織され、辺境及び軍隊向けの巡映に特に目が向けられた。43年、満州国全土の巡映観客数は推定約450万人、44年は約500万人であった(『満洲年鑑』康徳12年刊p434)。
 この時期に配給された作品は、第一位が満映作品、次いで華北電影公司と中華電影公司の映画、そして日本映画(ランクダウン)、朝鮮映画と続き、ドイツ・フランス・イタリアの映画もわずかにあった(『満洲年鑑』康徳12年刊p434)。日本の敗退が続いたこの時期、日本国内の映画制作は完全に戦時「映画新体制」に入った。これにより、10大映画会社は松竹、東宝、大映の3社に統合され、全国に200数社あった文化映画企業も、やがて日本映画社に一元化された。
 また42年4月1日、配給系列を廃止、「一元化配給」体制を実施、映画はすべて内閣情報局第5部第2課の管轄となり、戦地ニュ−スなどの制作以外、劇映画の制作はほぼ停止した。42年5月1日から、満映配給の日本映画は「交換配給制」に移行した。43年から44年までに満州で上映された日本の劇映画は年間30本前後で、前期に比べ大きく減少した。(『満洲帝国年鑑』康徳11年創刊号p578)

註1 「支那の映画種別しらべ−支那映画界の現状−」平塚敏『満洲映画』康徳5(1938)年6・7月号 p63
註2 佐藤忠男『キネマと砲聲』リブロポ−ト 1985年9月 p75
註3 『満洲映画』康徳5(1938)年3月号 p13
註4 角田房子『甘粕大尉』中央公論社 1979年5月 p232
註5 『電影画報』康徳8年11月号 p28
註6 坪井與「満洲映画協会の回想」佐藤忠男・佐藤久子編集発行『映画史研究』第19号 1984年 p35
註7 坪井與前掲文 p23
註8 坪井前掲文 p51
註9 坪井前掲文 p34
註10 坪井前掲文 p35
註11 辻久一『中華電影史話』凱風社 1998年6月 p112
註12 坪井前掲文 p34

 また、この第1章は、胡昶・古泉著『満映 国策映画の諸相』パンドラ1999年9月のp2〜241を主に参考にしている。

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