脚注

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(1)本稿の前半は、加藤(1)[1997] における列車映画の分析と中村(2)[1997]における『列車の到着』神話の読み直しに直接的な刺激を受けて書かれている。記して感謝する。なお本書の後半は、長谷(1) [1995] と一部内容が重複するところがある。

(2) ここでは二つだけ例をあげておこう。

 「さらにもっと衝撃的だったのは汽車が駅に到着するフィルムであった。これを見て、観客の多くの人たちが汽車をよけようとして、座席の下にもぐったといわれている。」(Armes(1)[1974=1985: 14])

 「最後の映画が最も大きな観客の反応を引き起こした。観客は列車が彼らに向かって突進するのを見て、悲鳴をあげ逃げようとしたのだ。」(Mast(1)[1992 :21])

(3) だだし、このメリエスの証言にはいささか疑わしいところがある。それが以下のような、1895年12月30日の「ラ・ポスト」紙の記事とあまりにも良く似ているからである。メリエスが自分の記憶を、この新聞記事を読むことによって修正した可能性は十分にあるように思う。「スクリーンの上に写真が投影された。ここまでなら何も新しいところはない。しかし突然、イメージが生命を吹き込まれて動き始めたのだ −そのサイズは各シーンによって等身大だったり縮減されていたりするのだが。」(Toulet(3)[1988=1995:130]の英訳より引用)

(4)(5) つまりエジソンは列車の映像にシンクロさせて、列車の走行音を録音して館内に流していたのだ。彼はまた、ダンスを踊る女性の映画で、その衣装に色を塗っていたことも知られている。つまり映画は初めから音も色も持っていたのである。

(6) リュミエール映画の日本語タイトルは、既に人口に膾炙している一部のものを除いて、基本的に『光の生誕 リュミエール! 』カタログ(1995 年) における「1907年版リュミエール映画総カタログ」 (小松弘訳) によっている。

(7) もっともエジソン社は、リュミエール映画のアメリカ上映より6週間早く、『高架鉄道、23番街、ニューヨーク』という列車の映画を撮っている(Musser(8)[1991a:66])。

(8) 『映画ショーにおけるジョシュおじさん』には実に様々な問題が孕まれていて、その読解も尽きることがない。Hansen(1)[1991:25-30]長谷(2)[1996]小松(1)[1991:345-9]などを参照せよ。

(9) 「表定速度」とは、列車が始発駅から終着駅に着くまでの平均速度で、所要時間に停車時間も含んでいる。停車時間を含まない場合は、「平均速度」と呼ぶ。

(10)法律家の関心は、この鉄道恐怖症に対して、鉄道会社が賠償金を支払うべきかどうかという問題にあった。つまりそれが、鉄道会社から賠償金をせしめるための仮病ではないかと疑われていたのだ。実際驚くべきことに、こうした精神的トラウマが賠償の対象として法律的に認知されたのは20世紀中頃になってからのことなのだ(Schivelbusch(3)[1979=1982:183])。

(11)小池(1)[1979:69-92]は、文学と鉄道の関係を論じるなかで、ディケンズ( やゾラ) の小説における鉄道の描写などについて詳しく論じていて興味深い。

(12)ここでも、メリエスは新聞記事によって記憶を修正している可能性が見られる。

(13)従ってエジソンも( 興行者たちの強い要求により)、リュミエールと同様に野外で自然の光景を撮影することを余儀なくされるのである。そこから『ブラック・ダイアモンド急行』のような傑作が生まれるのである。

(14)前田英樹(1)[1993]は、その秀れた小津安二郎論のなかで、こうしたカメラ的視覚のことを「非= 中枢的視覚」と呼んで分析している。前田の議論は、ベルグソンとドゥルーズの突出したイメージ論を前提にしている。むろん私たちの議論も同様に、これらの先行業績に多くを負っている。

(15)クレイリーはマネの絵画において、こうした失認症的視覚を見いだしている。つまり印象派的な視覚とカメラ的視覚との親近性について指摘している。さらに敷衍するならば、印象派以降の現代絵画は、画家がカメラ的視覚を獲得することを目指してきたところがある。