CineMagaziNet! | 1 | [2] 『列車の到着』神話 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | (2/9)

 こうして、世界最初の映画観客たちが『列車の到着』を見て、それを現実の列車と取り違えて逃げ出したというエピソードは歴史的事実ではなかったと取り敢えず言うことができよう。しかし先にも述べたように、このエピソードにはそれだけでは済まない問題が存在しているのである。それは何か。実は言説の水準での『列車の到着』神話が存在していたからである。すなわち本当に事実としてあったかどうかは別にして、「列車がスクリーンから飛び出して観客の方に向かって飛び出して来るように見えた」という『列車の到着』に対する評言は、当時から繰り返し語られていたのだ。例えば以下にみるように、リュミエール映画の上映会を紹介する当時の新聞記事を読んでいると、私たちはしばしばこうした過剰な表現に出くわすことになる。つまりメッツの批判とは違って、このいかにも嘘くさい『列車の到着』神話を作ったのは現代の映画観客などではなく、当時映画を初めて見た観客たち自身だったのである。だから私たちはこの神話の内容に疑義を呈するよりは、この神話自体を、最初に映画を見た観客たちの反応の一部として、つまりは起源における映画への社会的反応そのものとして分析すべきだろう。
 まずはこの『列車の到着』神話の、当時における世界的な普及ぶりを、1) 新聞や雑誌における映画に関する最初期の紹介・批評記事、2) 風刺漫画、ポスターなどの種々のイラストレーション、3) 列車を主題にした映画作品、の三つの領域において確認しておこう。
 まずは、4) 新聞や雑誌の記事について見ることにしよう。世界各地における最初期の映画上映を伝える新聞記事や映画批評を読むと、そこには繰り返し『列車の到着』神話が語られている。以下は順に、イギリス、ロシア、フランス、アメリカにおける新聞記事のうち、『列車の到着』神話に関する部分を抜き出したものである。確認して頂きたい。

 「突然、灯が消えた。そしてブーンという無数の回転音が聞こえ、揺れる背景幕が姿を現した。一瞬の間それは白く動かないままだったが、次の瞬間、打ち震える生命の運動と仮装舞踏会がその幕の上を賑わせはじめた。ブーン!  そして一台の列車が(言うなれば)白布から飛び出して私たちの視界の上を漂いだしたのだ。」(1896年 5月,New Review 誌、イギリス最初の映画批評と言われている記事。Winter(1)[1896 →1982])

 「突然何か物音がして、何も見えなくなったかと思うと、スクリーンいっぱいの巨大な列車がわれわれ目掛けて突進してくるではないか− 危ない! 列車はわれわれのいる暗闇に飛び出して来て、われわれを引き裂かれた肉と骨の山にしかねない」(1896 年7 月4 日、Nizhegorodski listok紙、ロシアの作家マキシム・ゴーリキーによるリュミエール映画への新聞批評記事、Leyda(1)[1983:408]より引用)

「もう何度も何度も言われてきたことだが、改めてリュミエールが私たちに提供してくれた光景の自然さと生き生きとした様子について説明させて欲しい・・・列車は最初小さく現れ、それから巨大になっていく。それはまるで観客たちに衝突してしまうかのようだ。私たちの目の前に示されているのはただのイメージだとしても、私たちはそこに深さと奥行きの印象を持ってしまう。」(1896 年 5月30日,L'Illustration 誌、Kirby(1)[1997:271]より引用)

「汽車が遠くの方に見えて、警告の汽笛が聞こえる。仕事中の鉄道工夫が片側の道へとよけて帽子を汽車に向けて振っている。列車が時速60マイル近くで観客の方に向かってまっすぐにやってくると、それはちょうど視界から飛び出して、ステージの前まで飛び込んでまいそうに見えた。」(1897 年 5月 3日,Rome Daily Sentinel、ただし『ブラック・ダイアモンド急行』への批評。Musser(1)[1991b:66]より引用) (4)

( 一人の観客は)「あまり汽車に乗った経験がなかったので、それに飛び乗ってやろうと決心していた。しかし汽車がうなりと轟きとともに近づき、蓄音機がそれに合わせて騒音を発しているのが聞こえてくると、彼は真先にその進行方向から逃れ去ろうとした。」(1897 年 3月 5日、Wayne Independent,これも『ブラック・ダイアモンド急行』への批評。Musser(2)[1991b:66]より引用) (5)

この最後の記事に至っては、映像の列車に実際に「乗り込もう」とする観客の描写さえあるのだから驚きだ。やはり『列車の到着』神話をそう簡単に看過することはできない。「映像」と「現実」を取り違えた観客についての記述は事実ここにあるのだから。確かに本当に列車の映像を「現実」と思い込んでいた観客は確かにいなかったのかもしれない。しかし少なくとも当時の観客たちが「まるで現実そのものだった」と表現したくなるような大きな感覚的衝撃を『列車の到着』から受けたこと、そしてその感覚を大げさな表現によってでも人々に伝えようとしていたことだけは間違いないだろう。言わばここには歴史的事実はないとしても、「神話的」事実が確かに存在しているのだ。
こうした『列車の到着』に対する衝撃の大きさを、2) の諸例によってさらに確認することにしよう。たとえば図2は、当時 (1897年 2月) アメリカのコミック雑誌"Judge" に載った風刺漫画である(Sight and Sound 50-2 (1981)p.127 より引用) 。一人の酔っぱらった男が帰宅途中にトンネルの中に入り込んでしまった様子が描かれている。向こう側からは汽車がもくもくと煙を立てて走ってきている。このままでは彼は轢かれてしまうだろう。しかし彼は次のようにうそぶいていて、身に迫る危険には全く無頓着なようだ。「汽笛なんか鳴らしたってだめだぞ、この馬鹿 ! このサイロスおじさんを馬鹿にすんじゃねえ。こういう光景なら前にもキネトスコープの映画でちゃんと見たことあるんだからな。」 つまり彼は、酔っぱらってトンネルの暗闇を映画館のそれと錯覚し、こちらへ向かって来る汽車を「映像の汽車」と取り違えてしまっているというわけだ。ご丁寧にも、トンネルの入り口はスクリーンのように矩形に描いてある。彼にはそう見えているというわけだ。むろんこの風刺画の背景には、『列車の到着』神話が存在していると言ってよいだろう。サイラスおじさんは、本当は映画館で「列車の映像」を見て恐怖してしまったことがあるからこそ、ここではそれを否認しようとするあまり強がってしまっていると言える。そしてそうしたこの風刺画の可笑しさが成立するためには、『列車の到着』神話が作者と読者の間に共有されていなければならないだろう。
さらに他にも図3図4のように、列車の走行を描いたリュミエール映画上映会用のポスターがあったり(Toulet(1)[1988=1995:14])、図5のように『列車の到着』らしき映画を上映中の映画館の様子を描くときに、列車のレールが観客席に向かって飛び出させてみせている絵画が存在したりする(ibid:11) 。また図6の『サイエンティフィック・アメリカン』誌の1897年 4月17日号は、イラストレーションによって映画の撮影と映写の様子を図解しているが(Musser(3)[1990:182] より) 、ここでも使われているのは「列車」の映像なのだ。これらもまた、当時の人々が、走行する列車の映像に対して抱いていた強い関心やその列車映像の迫真性への恐怖心を示すものと言えよう。
しかし、そうした列車映像への人々の関心の存在を最も端的に証明するのは、やはり3) 映画作品自体ということになるだろう。まず何よりもリュミエール兄弟が世界中に派遣した撮影・映写技師たちが、走行する列車を繰り返しフィルムに収めたことを確認しておかなければなるまい。たとえばニューヨークでは『バッテリー・プレイス駅への列車の到着』(1896)を、日本では『( 名古屋駅への) 列車の到着』(1896)を、またエルサレムでは『列車の到着』の「逆ヴァージョン」とも言うべき( つまり出発する列車の最後尾にカメラを乗せて、徐々に遠ざかる駅の光景を捉えたもの) 『列車でエルサレムを去る』(1896)を撮影するなど、彼らは世界各地において走行する列車を映画化し、各地で上映して人気を博したのである(6)。そしてこの人気に抜け目なく注目して『列車の到着』を模倣した作品を数多く作ったのが、アメリカの初期映画人たちである。しかも彼らは「列車の到着」ではなく「列車の走行」そのものを撮影した。つまり列車映像の迫力を増すために、駅においてではなく、線路脇からトップスピードで走行中の列車を撮影していたのだ( 図5を参照) 。まずバイオグラフ社が『エンパイア・ステイト急行』(1896)を撮って人気を博すと、それにあやかってエジソン社は当時最新型のスピード列車として注目されていた『ブラック・ダイアモンド急行』(1896)を撮影して商業的な成功を収め、その後 6年間に渡って両社は競って同種の映画を製作することになったのである(7)。イギリスにおいても同様だ。ここでもセシル・ヘップワースが『急行列車』(1898 ) を、ロバート・ポールが『ロンドン急行』(1898 年) を撮るなど、走行する列車のスリルと迫力を売り物にした作品が数多く製作されている。たとえば『ロンドン急行』のカタログには「ウッド・グリーンを素早く走り去るA.G.N.R.急行。まっすぐに走って来る機関車は観客のすぐ近くまで迫ってきて、スリリングな効果を生み出している。」(Low and Manvell(1)[1948 →1997:52]に再録) とある。
そして最後に決定打として、『列車の到着』に恐怖して逃げ出す観客たち自体を描いた当時の映画作品を紹介しておこう。ロバート・ポールの『田舎者とシネマトグラフ』(1901 年) である(図7)。踊り子のダンス映画を見て興奮し、舞台に駆け上がって一緒に踊りだした男性観客が、次の作品で、画面こちらに向かって突進する列車の映像を目前に見て、恐怖のあまり逃げ出してしまうところを描いている。実はこの作品は、アメリカでもそっくりそのまま『映画ショーにおけるジョシュおじさん』( エドウィン・S・ポーター、1902年) としてリメイクされている(8)。ここでは、先の『ブラック・ダイアモンド急行』を見たジョシュおじさんが逃げ出すのである。つまり、突進する列車映像に恐怖して逃げ出す観客というイメージは、当時映画作品そのものの中においても表現されていたことになる。こうして『列車の到着』神話は、もはやもともとのリュミエール作品など見たことのない人たちまで含めて広く世紀転換期の社会の中に普及していたわけである。
こうして以上のような様々な資料から、私たちはもはや『列車の到着』神話を嘘として簡単に切り捨てることはできなくなっただろう。それが事実であるかどうかに関わりなく、この神話は世界最初の上映に対する社会的反応それ自体として、その時代の中に息づいていた。言わば「神話的事実」として存在していた。従って私たちは、こうした神話的事実の背景に、当時の人々の映画に対する心性や感性を読み取るべきだろう。すなわち彼らは、画面手前に向かって突進してくる列車の映像に対して強い恐怖心と感覚的刺激を抱いたのだ。だからこそ彼らは、「列車がまるでスクリーンから飛び出して来るかのようだった」とか「観客は逃げ出そうとした」などという大げさな描写によってその衝撃を表現しようとした。だが私たちは、さらに改めて問わなければならない。では彼らはなぜ、『列車の到着』に対してこれほど強い感覚的刺激を受けたのだろうか。彼らがこうした神話によって伝達しようとしていた恐怖は一体何だったのだろうか。

CineMagaziNet! No. 2
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