CineMagaziNet! | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | [7] カメラの視線 | 8 | 9 | (7/9)

 ではなぜ、映画創世記の観客たちは、リュミエール兄弟の作品の中に捉えられた「風」や「砂塵」や「波」といった自然現象にこれほどの興奮を示したのだろうか。私たち現代の観客には、それらの自然現象に気づくことさえ難しいだろう。どう見ても私たちにとっては、それらの作品は19世紀末のフランスのブルジョアジーの生活 (家族の食事や海水浴) を捉えた記録映像にしか思えない。だが当時の観客たちは間違いなく、こうした映画作品の中心的主題とは関係のない背景の自然現象に目を奪われている。それはなぜだろうか。この見方の違いはどこから来るのだろうか。
 しかし、実はこの私にしても、ある種のリュミエール作品を見ていると、ふいに当時の観客たちの感覚が少し分かったような気になれるときがある。それを手掛かりにして考えよう。例えば、『水浴』がそうだ。先にも触れたように、この映画は子供の海水浴の光景を捉えた、何でもない映像である。海辺からカメラで捉えられた波打つ海の光景が、画面いっぱいに広がっている。画面右端からは、子供の背丈ほどの低く細長い飛び込み板が海に向かって突き出ている。そして板の手前から歩いて行った何人かの子供たちが、次々とその先端から海に飛び込んでは泳いで海岸に戻って来る。それだけの映画だ。しかし私はこの映画を繰り返し見るたびに何かドキドキして来るのである。撮影者は、確かに子供の海水浴を捉えようとしているにすぎない。私もそれは頭では理解できる。しかし何だか私には、画面いっぱいにたゆたっている背景の「波」の方が段々主役に見えてきてしまうのだ。そして何の意味もなく波打っている海が、説明しがたい実在感を持ってこちらに迫ってくるのである。それに比べれば、ちょこまかと動いている子供たちなど、何だかこの「海」の運動の端っこに偶然生息する小生物にすぎないかのように思えてくる。
 こうして私には、この作品の何が「主役」であり、何が「背景」であるかが分からなくなり、奇妙な胸騒ぎを覚え始める。それは『赤ん坊の食事』の場合でも同じだ。メリエスらの発言を読んだあとで、改めてこの作品を「風」に注意しながら見つめていると、確かに不気味な感じが段々してくる。何だかこの団欒する家族が、「風」の吹きすさぶ空間の中でかろうじて自分たちの場を確保している希薄な存在にしか見えなくなってくるのである。このときも、「主役」としての人間と「背景」としての自然現象は逆転してしまっている。そのとき確かに、私にとってこれは「風」の映画だ・・・。恐らく私が幾分努力と注意を傾けることによって達成したこうした視線を、最初の映画観客たちはごく自然なものとして獲得していたに違いない。だがこの視線は何なのだろうか。
 実はそれこそが、カメラの視線なのだ。映画カメラこそが、こうした奇妙な光景を捉えたのである。当時の観客たちは、そのカメラの視線に同一化することによってこそ、こうした何気ない映像から強い刺激を受けることができたのだ。事実、イギリスにおける最初期のリュミエール映画への批評は、このカメラ的視線の異様さを人間の通常の視覚と比較して鮮やかに分析している(Winter(2)[1982←1896])。彼によれば、人間の視覚においては、「眼と脳」が知覚された光景を調整する。つまり人間は、自分の認識や行動にとって必要な情報のみを受け取って、それ以外の、私たちの認識体系を混乱させてしまうような無数のディティールを認識からは排除してしまう。例えば私が恋人を探すために駅のプラットフォームに立って、列車から降りてくる乗客を見ているとしよう。そしてそのとき乗客の中に自分が探していた恋人を見つけたとする。そのとき私の「眼と脳」は、恋人以外の大勢の人々を見つづけているにも関わらず、不必要な情報として認識から排除してしまうだろう。もはや私にはその恋人しか目に入らない。
しかし、カメラにはこうした調整メカニズムが備わっていない。リュミエールの『列車の到着』でカメラがプラットフォームに立っていた場合を思い起こしてみよう。列車が到着して、たくさんの人々が降りてカメラの方に向かって歩いて来る。だがもちろん、カメラはどれか特定の人に焦点を合わせるわけではない (カメラには恋人はいないから)。その無数の乗客を全て平等に捉えつづけるばかりである。つまり非人称的なカメラ( の視線) は「些細なものも重要なものも、近くのものも遠くのものも」、目の前にある全てのものを偏りなき眼で等価に捉えてしまうのである。言ってみればそれは、それは情報選択機構としての「脳」を介在させない「非= 文化的視覚」だと言えよう(14)
 こうした偏りなきカメラ的視線だからこそ、『水浴』では、子供たちと「波」とが全く平等に捉えられてしまったのだし( カメラは子供たちに愛情の眼など注がない) 、『赤ん坊の食事』では、家族団欒の光景が「風」と同等のものと捉えられてしまったのである( カメラは家族団欒に温かな眼など向けない) 。最初の映画観客たちが、映画を見るという経験のなかで出会い、衝撃を受けたのは、こうした偏りなき視線で捉えられた非= 人間的な光景に対してである。逆に、私たち現代の映画観客がリュミエール映画に衝撃を受けないとすれば、それは私たちがカメラによる「非= 文化的視覚」を、「意味」を持った人間的な光景に素早く還元してしまう技術( 映像リテラシー) を身につけてしまったからだ。たとえば『赤ん坊の食事』を見るとき、自分に関心のある「家族団欒の光景」だけに焦点を当てて、その他の情報( たとえば「風」) を不必要なものとして排除してしまうからである。だから私たちには、リュミエール映画に熱狂などできないのだ。
だが、まだ問いは残っている。カメラ的視線によって全ての光景が偏りなく捉えられたとするならば、なぜ当時の観客たちはわざわざその中から「風」や「水」といった自然現象ばかりに注目したのだろうか。観客たちもまた、カメラに同一化して、全てを平等に見てもよいではないか。なぜとりわけ自然現象に目を奪われたのか。それは恐らく、それらが撮影者の意図を越えて表象されてしまった未知の光景だったからである。たとえば『赤ん坊の食事』の場合、「家族の食事」の光景の方は、それが撮影者が撮影し伝達しようとしたものとして観客は「文化的」に理解することができた。しかし、「風」は違った。撮影者は「風」を撮影しようと「意図」していたわけではない。それは偶然、カメラの視界の隅っこに捉えられたものにすぎない。人間的視線であれば、即座にノイズとして認識からは排除しているだろう。しかしカメラ的視線の特性によって、映像の中ではこの「風」もまた「家族の食事」と平等に捉えられてしまった。だからこのとき観客は、いつもなら認識から排除しているはずの「風」を、通常の認識枠組みを越えた不可思議な何かとして受容してしまったのである。「意味」を越えた存在としての「風」を知らずして感じ取ってしまうこと・・・。こうして、『赤ん坊の食事』の中で「風」という自然現象が際立って観客たちに意識されたわけである。
 ダイ・ヴォーン(Vaughan(2)[1981]) もまた同様に、この自然現象への人々の注目と熱狂の理由を説明している。彼によれば、たとえば『港を離れる小舟』の画面いっぱいに写し出され、観客が水タンクがそこにあると錯覚しさえした「海」は、それまで絵画や文学のなかで描かれていた海とは全く意味が違うものだった。なぜなら絵画や小説で描かれてきた「海」は、作者によって文化的な意味が与えられていたものだった。いかにそれを「自然に」模写していようと、その「自然さ」自体が芸術的に「意図」されたものにすぎなかった。だから私たちは、その「海」が芸術家にとってどのような「意味」を持っていたのか、芸術家がなぜそのように (自然に)表現しようとしたのか、という観点からそれを理解することができた。しかしカメラが捉えた映像としての「海」は全く違う。そこに表象された「海」は、撮影者の意志とは関係なく勝手にカメラに写ってしまったものにすぎない。だから撮影者との関係さえ一切遮断したところで全く無意味に運動するばかりだ。従ってヴォーンはそれを、絵画における「描写」や文学における「メタファー」から解放された、「ある形而上学的意味における海それ自体の存在」と呼ぶ。日常的な人間的視覚からは排除されてしまうはずの、こうした形而上学的存在としての「海」は、カメラ的視線を通してはじめて観客たちの視覚に与えられた。だから観客たちは、生まれて初めてそれを見るかのように、波の運動や水しぶきに新鮮な感覚でなまなましく出会うことができたのだ。これが最初期の映画観客たちの熱狂の秘密であると思われる。

CineMagaziNet! No. 2
back back to top next