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リュミエール兄弟のアルケオロジー(1)
長谷 正人

1. 『列車の到着』の神話学
| [1] 起源の神話 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | (1/9)

 世界で初めて映画を見た人々にとって、映画はどのようなものとして体験されたのだろうか。動いている写真を見るという全くの未知の経験を彼らはどのように受容し、それにどのような意味を与えて理解したのだろうか。それは現在私たちが映画を見るという経験に与えている意味とどれくらい違うものなのだろうか。これから私は、こうした問題について考えてみたいと思う。つまり「起源における映画経験」について考えようと言うのだが、そのとき私はあえて、世界最初の映画上映における、あのあまりにも有名なエピソードを取り上げることから始めたいと思う。多くの人々にとってそのエピソードは、既に語り尽くされてしまって何の想像力も喚起しない凡庸な話にしか思われないかもしれない。しかし私には、そこにいまだ汲み尽くしえていない実に豊かな含意が隠されているように思えてならないからである。
 その有名なエピソードとは何か。つまり世界最初の映画上映会 −1895年12月28日、パリのキャプシーヌ通りはグラン・カフェにおいてリュミエール兄弟がおこなったシネマトグラフの最初の有料公開上映会− において映写された『列車の到着』を見た観客が、画面奥から手前へと突進してきた列車を現実の列車と錯覚し、そのままスクリーンを突き破って観客席まで飛び出して来るのではないかと恐怖して逃げ出したと言われる、例のものである。このエピソードはいまや、映画の起源を語る時の紋切り型になった感さえある。世界で初めて映画を見た人々にとってそれがいかに衝撃的な体験であったか、あるいは当時の人々が (私たちとは違って) いかに素朴にナイーヴに映画に接したかといったことを示してくれる格好の材料として、映画史の書物は繰り返しこのエピソードを語り続けている(2)
 しかし、このエピソードはそもそもいかにも嘘くさい。こんな話を本当に素直に信じられるだろうか? この最初の上映会を訪れていた観客たちの多くは、19世紀末のフランスの中産階級の人々のはずであり、既に写真や幻灯( マジック・ランターン) といった映画以前の映像文化に親しんでいたのだ。そうした文化的に洗練されていた人々が、既に馴染んでいた「幻灯写真」が動き始めたからと言って、それを「現実」そのものと錯覚することなどあり得ることだろうか。いやそもそも正気な人間であれば、カフェの地下室のスクリーンから本物の列車が飛び出して来るなどと本気で考えるわけがないではないか。
 しかも事実、リュミエール兄弟が考案した最初の上映会の演出方法は、むしろ「映画」を「現実」と混同することが不可能な形態を取っていたことが知られている。当日の上映会を訪れていた (正確には、上映会直前に開かれた試写会にだが)メリエスの証言を参照して欲しい(Sadoul(1)[1993=1948:85]) (3)

 「私を含めた招待客が <モルテーニ映写機>に用いられていたものに似た小型のスクリーンに向かい合っていると、しばらくして、リヨンのベルクール広場を撮った<スチール>写真が映写された。私は少し驚いて、隣の客に間髪入れず次のように話しかけた。−− こんな映写のために私たちは足を運ばなきゃならんのか? こんなものは私だって十年も前からしてることだ!
 私がほとんどこう言い終わらないうちに、一頭立て荷馬車が私たちに向かって動き始め、他の馬車、また通行人たち、要するに街の賑わい全体が続いて来たのである。私たちはこうした光景を目にして、茫然自失し、言葉にならないほど驚き、呆気に取られたままであった。」

 つまりリュミエール兄弟は、まず静止した映像 (フィルムのひとコマ) を幻灯ショーのようにスクリーンに一瞬の間映写してみせ、それからおもむろに映写機 (のクランク) を回転させてその映像を動かして見せていたわけである。従って彼ら自身、観客に対して「映像」を「現実」と錯覚させようと意図していなかったのは明らかだろう。彼らがやろうとしていたのは、「動く」幻灯写真によって観客を驚かすことだったはずだ。だからここには、観客が「映像」と「現実」を混同するような余地など全くない。むしろ、観客にとってそれは、現実的というよりは魔術的な光景にさえ見えたに違いない。従ってどうやら「列車に轢かれると信じて逃げ出す観客」など、後から作りだされた神話であると言って良いように思えてくる。例えば映画理論家のクリスチャン・メッツが言うように(Metz(1)[1977=1981:147]) 、このエピソードは、現代の映画観客が映画に熱中するあまり心の奥底では映画が「現実」であるかのように信じ込んでしまっていることを否認するために繰り返し語っているのではないだろうか? つまり自分はもはや最初の素朴な観客たちとは違って理性的に映画を見ていると信じ込みたいがために現代の観客たちがでっちあげた話にすぎないのではないのか? 従ってこんな大げさな作り話を真に受けてはいけないのではないか? しかし以下に見るように、ことはそう単純ではないのである。

CineMagaziNet! No. 2
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