CineMagaziNet! | 1 | 2 | [3] 鉄道恐怖症 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | (3/9)

 こうして私たちは、『列車の到着』神話それ自体を分析すべきところまで来た。しかしそのためにも私はここで、ある奇妙な事実を紹介しなければならない。これまで私は西欧諸国における『列車の到着』神話の普及ぶりについて詳しく紹介してきた。従ってそれはあたかも普遍的に各地に存在していたかのように見えたかもしれない。ところが全く奇妙なことなのだが、他ならぬこの日本においては、『列車の到着』に関する神話的記述(スクリーンから飛び出すように見えた)が全く見られないのである。一つには、日本における最初期のシネマトグラフ上映会では、あの有名な (ラ・シオタ駅への) 『列車の到着』そのものは上映されなかったという理由があるようだ。しかし例えば日本おける最初のシネマトグラフ上映会であったと言われる、1897年2月15日における大阪の南地演舞場の上映会の作品の中には、ニューヨークで撮影された『バッテリー・プレイス駅への列車の到着』が間違いなく含まれていた。あるいは先に触れたように名古屋駅で『列車の到着』が撮影されると、それが名古屋や仙台で上映されてもいる。にもかかわらず、『列車の到着』への恐怖と興奮はなかったのである。たとえば大阪での最初の上映会の、翌日の新聞批評を読んでみることにしよう。

 「今回南地演舞場に於て公衆の観覧に供するシ子マトグラフなるものは従来世に行われたる写真術の一歩を進めたるものにして其の特色とするところは事物の時々刻々に変化する有様を詳細に描写し更に電気燈の力を借りて幻燈の如く之を白幕上に反映せしむるにあり其精細なるものに至りては一分時間内に生ずる活動の有様を九十回に分ちて描写することを得ると云ふ右は佛人リミエル氏の発明せるものにて其演ずるところ千状万態紐育街頭五階の層楼宏々として相連るところ車馬絡澤雑然踏然たるの間幾個の列車煙を揚げて走り去り走り来るあれば電気燈影絢爛たる巴里の演舞場内に綺羅翻々として紳士淑女の手を携へて相舞あり・・・」(1897 年 2月16日大阪毎日新聞、塚田(1)[1980:100]より引用)

この紹介記事には、確かに『バッテリー・プレイス駅への列車の到着』への言及がある( 「幾個の列車煙を揚げて走り去り走り来るあれば」) 。しかしこの表現には、列車の映像に対する特別な恐怖は感じられないだろ (後で論じたいと思うのが、むしろこの記者が刺激されたのは列車が揚げている「煙」の方になのだ)。またその数日後の、東京の新聞における最初のシネマトグラフ紹介記事の中にも同じ「列車の到着」映像に関する言及は確かにあるのだが、「汽車の如きは其到着して運転を停止する所人の出入する所再び汽車発する所等一として実況そのままならざるはなし」(2月24日読売新聞、塚田(2)[1980:96]より引用) といった具合で、到着から発車までが漏らさず全て見ることができることへの驚きはあっても、やはり「列車の走行」に対する興奮や恐怖心は全く見られないだろう。
こうして見てくると、どうやら『列車の到着』は、日本では何の衝撃も与えなかったようだ。これはやはり西欧における「列車」映像への執着ぶりと比べたとき何とも奇妙に映る。なぜ当時の日本人たちは『列車の到着』に対して何の恐怖心も感じず、何の関心も抱かなかったのだろうか。西欧と日本とのこの差異はどこから来たのだろうか。それは恐らく両者における当時の「鉄道文化」における差異の反映なのだ。以下にみるように、西欧文化のなかにおいては、走行する「鉄道」は既に近代都市文明を象徴する重要なメディアとなっており、またその鉄道事故の悲惨さが人々の注目を集め、恐怖されてもいた。しかし、日本においては「鉄道」はいまだそのような文化的地位を獲得していなかった。この文化的差異こそが、リュミエールの『列車の到着』を見るときの反応に大きな違いを与えたと言えよう。
ではその「鉄道文化」に関して、どのような差異があったのだろうか。まずは何と言っても「スピード」の問題がある (以下、山之内(1)[1984:9-23] による) 。西欧社会における鉄道のスピードは、『列車の到着』上映当時既に驚くべき水準に達していた。実は19世紀中に鉄道会社同志でスピード競争を繰り広げていた西欧では、1846年に既にイギリスの「グレート・ウェスタン」号が最高時速120km を記録しており、リュミエール兄弟の映画上映直前の1893年ともなれば、アメリカのニューヨーク・セントラル鉄道が時速180km まで出していたのである。つまりリュミエール兄弟の『列車の到着』を見た当時の人々は、既に日常生活のなかで、こうした信じがたいスピードで突進する列車を実際に目撃したり乗車したりした経験があったわけである。従って、改めてスクリーン上に列車の映像を見たときにも、恐らくその興奮や恐怖心をどこかで思い起こしていたに違いないのだ。それが『列車の到着』神話を普及させていく原動力になったと考えられる。
これに対して日本はどうだったろうか。シネマトグラフ上陸当時の1896年( 明治29年) に新橋〜神戸間を走っていた急行列車は、表定時速34.8kmであり( 最高時速はせいぜい70km〜80kmと予想される)、それは1872年( 明治5 年) に日本最初の鉄道が新橋〜横浜間を走行したときの表定時速32.8kmからほとんど進歩していなかった(9) 。つまりこの時代における日本の鉄道は、西欧におけるように猛烈に速く走るものではなかったのである。このような「スピード」文化の不在こそが、日本の観客の『列車の到着』への反応を鈍感なものにしたと言って良いだろう。
さらにこの「スピード」の差異は当然のことながら、「鉄道事故」に対する恐怖心の差異にもつながっていた。このような激しいスピードで走る列車が、その分だけ悲惨な事故を次々と引き起こしていたのは当然と言えよう。アメリカのある鉄道業界誌のレポートによれば、1904年の7月から 9月における鉄道事故による死者数は 411人、負傷者3,737 人というのだから驚くべき数字なのだが、もっと驚くべきはこの数字を報告したレポートが、乗客の死者数が今期は減少したと言って喜んでいることである(Kirby(2)[1997:261]) 。こうして頻発していた鉄道事故に対して、19世紀の西欧社会は「鉄道恐怖症」とでも言うべきメンタリティーが一部の人々の間で共有されるようになってしまった。鉄道に乗っているだけで、事故が起きるのではないかと過剰に心配してしまうという病理である。たとえば、1862年の医学雑誌『ランセット』の記事を読まれたい (Schivelbusch(1)[1979=1982:257]より引用) 。

「こういう人には、衝突の可能性が常にあるわけなのだ。そして列車が予期せぬところで停まったり、速度を落としたり、汽笛がけたたましく鳴ったりすると、列車のどの窓からも、忽ち顔を突き出して、何か迫って来る危険でもあるのかと、心配そうに目を配る姿を、誰もが実見して知っていよう・・・」

このような「鉄道恐怖症」は、実際に鉄道事故を経験した被害者たちにおいては、しばしば深刻な精神病理にまでなってしまっていた。たとえ事故自体による外科的な傷は軽くすんだとしても、事故後しばらく経ってから、様々な精神的後遺症 −疲労、頭痛、集中力の減退、消化不良、健忘症など− に悩まされてしまう者が大勢いたのだ。この奇妙な病理は、当時の医学者や法律家の関心を集めていた(Schivelbusch(2)[1979=1982:165-208])(10)。最初(19世紀半ば) のうち、これは「鉄道性脊柱」(railway spine) と呼ばれ、鉄道事故の機械的振動が脊柱を破壊したために起こった身体的病理だと考えられていた。しかしやがて19世紀末になると、「外傷性ノイローゼ」(traumatic neuroses)と名前を変えて、純粋に「恐怖心」から生じる精神的病理として診断されるようになったのである。何の前触れもなく突然起こった事故の心理的衝撃が、被害者の精神に深い傷を残し、それがノイローゼを引き起こすのであると。実際重い患者になると、繰り返し「鉄道事故」の夢に苦しめられ、鉄道を見ただけでも恐怖して逃げ出してしまうほどだったと言う。例えば1835年、鉄道事故に会ってこの病気に罹った作家ディケンズは(11)、事故後しばらくたってから線路脇で列車を見物したときに襲われた恐怖心について次のように記している(ibid:175)。

 「列車がわたしのいる橋に近づいてきたとき、わたしはもう列車の姿を見るのに堪えられず、逃げ出したくなった。というのも、列車がわたしの足下から橋を運び去るのではないかと、恐れたからである。わたしは思わず身震いした。そして列車を目で追うことなぞできなかった・・・だが事故は、私の大げさな空想の中でしか起こらなかったのである。・・・」

こうして私たちは、『列車の到着』に逃げ出した観客たちが、ディケンズとよく似た一種の「外傷ノイローゼ」 (鉄道恐怖症) を被っていたのではないかと考えることができるだろう。彼らは、現実に鉄道の猛烈なスピードを経験したり目撃していたばかりか、新聞や雑誌などで鉄道事故についてのセンセーショナルな記事を何度も読んでは、鉄道に対する恐怖心を密かに心の奥底に胚胎させていた。恐らくその恐怖が、『列車の到着』を見た瞬間にショックを受けて暴発したと思われる( ディケンズのように本当に逃げ出したかどうかは別にして)。実際、リュミエールの最初の上映会のときにも、その二ヵ月前(10月22日) にモンパルナス駅で列車が暴走して駅のファサードを突き破り、一人の新聞売りの女性が死亡するという事故があり、人々の鉄道への恐怖は否応なく煽り立てられていたばかりだったのだ(Barsam(1)[1992:3])。言わば最初の映画観客たちは、走行する鉄道に対するトラウマを抱え込んだ、鉄道ヒステリー患者だったのである。あるいは、これが言い過ぎだとしても少なくとも『列車の到着』についての記事や批評を書いた人々の頭の中に、文化としての「鉄道恐怖症」があったことは間違いあるまい。彼らは、大衆的に普及している「鉄道恐怖症」のメンタリティーを煽り立てるようにして『列車の到着』への恐怖を書き記したのである。
従ってむろん、日本における『列車の到着』神話の不在の原因は、こうした「鉄道恐怖症」の文化的不在ということになる。たとえば夏目漱石『三四郎』(1908 年) の冒頭、三四郎が九州から上京する車中の場面において、彼は少しも速度のことなど気にせず居眠りしたり、回りをじっくりと観察したりしているだろう。彼にとって列車は、のんびりした移動でしかないように見える。私の知る限り、日本で「鉄道恐怖症」的言説を書き記した最初のものは、1913年( 大正2年)の谷崎潤一郎である。彼がこの年の1月、『大阪毎日新聞』に発表した『恐怖』という短編小説の主人公は、まさに「鉄道病」と名付けられた病に罹っている。彼は汽車に乗り込むや否や、それが走り出したときに与えられる「神経を脅迫するに足る刺激の強い運動」を想像して恐ろしくなり、「冷汗がだくだくと肌に湧いて、手足が悪寒に襲われたように震えて」しまうのである。恐らくこの小説の主人公であれば、『列車の到着』を見るなり、恐怖のあまり逃げ出してしまっただろう。しかしむろんこのとき、映画は既に新しい時代に入っていて、『列車の到着』が上映されることなどなかったのであるが。

CineMagaziNet! No. 2
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