CineMagaziNet! | 0 | 1 | 2 | 3-1 | 3-2 | 3-3. 敵の不在 | 3-4 | 4 | (6/8)

『白い船』はとても不思議な映画である。いわゆる戦争映画の戦闘シーンとまったくことなっている点があるからである。スクリーンにイタリア海軍が戦う敵が一切あらわれないのだ。この敵の表象の欠如はカメラをイタリア海軍の戦艦にしかおけないということと深くかかわってくる。艦隊に敵機が来襲し、戦闘が開始する。反撃がはじまる。大砲の上方におかれたカメラは、敵艦隊に砲火を浴びせる大砲をとらえる。砲弾は敵艦隊がいるであろう方向に向かって飛んでいくが、観客は被弾した敵艦をみることができない。カメラは敵ではなく、戦艦内部の様子-不安そうな水兵や、機器を操作する士官をみせる。戦艦はまるで誰もいない水平線に向かって砲火をつづけているかのようにもおもえる(図像5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12を参照されたし)。わたしたちが見慣れている戦争映画では、砲弾の向かう先には、被弾し、負傷した敵兵や、反撃する敵兵がいる。しかし『白い船』の戦闘シーンでは、敵の存在は明らかにされず、だれが敵で、一体どのような正当な理由からイタリア人が敵と戦わなければいけないかは映画の内部では一切説明されない。敵の表象と戦闘の合理的説明を一切欠いたこの戦闘はイタリア戦艦の一人相撲であるかのようさえする。

第二次世界大戦中にフランク・キャプラがアメリカ陸軍のために撮った「なぜ我々は戦うのか」シリーズのひとつ『日中戦争』(1944)は『白い船』と同じくプロパガンダ映画であるが、両者はまったく異なっている。『日中戦争』もドキュメンタリーである。だが全編を覆い尽くすナレーションによる説明に加え、アニメーション、および日本のニュース映画、ドキュメンタリー、過去の劇映画から引用された映像がモンタージュされ、そのメッセージは非常にわかりやすいものになっている。『日中戦争』では、日本が残虐な殺人機械でありアメリカは被害者である中国を助けるべく、日本と戦わなければいけないというメッセージが全編にわたって繰り返され、観客の頭脳にたたき込まれる。映画がはじまってすぐ、映画の主旨は明確に表明される。まず、最初のカットで、日本軍の爆撃機、爆弾を落とすため照準計をのぞく日本兵、次に投下される爆弾、そして逃げまどう中国人の一般市民。この数十秒の5つのカットにより、敵国日本=悪であり、中国人民を苦しめるたたき潰すべき敵であるということが、明確に観客に伝わるのである(図像『日中戦争』1, 2, 3, 4, 5を参照されたし)。プロパガンダにおける最重要課題は、メッセージの受け手に対して敵をつくりだし、受け手が敵を憎悪し、最終的には殺害できるように合理的な説明を与えることであろう。『白い船』は敵を憎む根拠どころか、敵そのものが不在であるために、敵の表象を通してそのメッセージは受け手に直接的に伝えれているとは考えられない。

だが『白い船』の敵の見えない戦闘シーンは、効率の良い語りを持つ『日中戦争』とは異質のリアリティをあらわしていることもまた事実であろう。なぜ敵の姿を撮影できなかったのか。この疑問は映画の冒頭の字幕をもう一度私たちに思い出させる。実際の戦闘を撮影したものであるために、撮影隊はイタリアの戦艦にしかカメラをおけなかったのである。実際の海上の戦闘で兵士がみずからの交戦相手を見ることができないように、『白い船』で観客も敵の顔を見ることはできない。『白い船』での限定された観客の視点は、現実生活で私たちが自分の視点しか持ちえないことを否応なく思い出させるものとなっている。

またこの戦闘シーンが特異なのは敵の不在だけではない。主人公の兵士が負傷する瞬間である。彼が倒れ込むときなんら強調が加えられず、主人公のヒロイックな姿はどこにもない。負傷した兵士のクロースアップも差し挟まれない。負傷、そして死といった登場人物に起こる決定的な瞬間、つまりは物語のクライマックスを、ロッセリーニはいとも簡単に描く。これは、戦後ネオレアリズモ期の『無防備都市』における死にゆく女のクロースアップが一切削除されたピーナの射殺シーンと共通するものである。説明的な部分を省き余分な映像を見せないロッセリーニの手法は、既に長篇第一作『白い船』にあらわれている。

CineMagaziNet! No. 2
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