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30年代後半から40年代に初頭における映画ジャーナリズム

このように映画産業の発達にともなって、映画をめぐる文化的な環境も豊かなものになっていった。なかでも特筆すべきは、映画雑誌が数多く創刊されたことである。ドゥーチェの息子、ヴィットーリオ・ムッソリーニが後に加わる36年7月創刊の「チネマ」誌(月2回、5日と10日発行)と37年創刊国立映画実験センターの機関誌「ビアンコ・エ・ネーロ」(現在も存続している)誌は、質の高い論考を載せ活発な議論をおこなっていた。両誌に参加していたメンバーは、戦後ネオレアリズモにおいて監督、脚本家、理論家として活躍している。ルキノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ジュゼッペ・デ・サンティス、チェーザレ・ザヴァッティーニなどである。この時期イデオロギーの左右に関係なく、ファシストから共産主義者までさまざまな雑誌で「イタリア映画はどのようにあるべきか」が盛んに論じられていた。興味深いことにほとんどの論者の見解は次の点で一致をみている。イタリア映画が活路をみいだしうるのは、リアリズムにおいてないということである。たとえばもっとも早いものでは、反共雑誌「イタリアーノ」1933年の17、18号では、レオ・ロンガネージが次のような論考をよせている。「私たちは人工性なしの映画をつくる必要がある。シナリオなしで撮影された映画、できる限り現実に近づく映画である。道に出てカメラを街に持ち出さなければならない 」(注4)。また1942年に、ネオレアリズモの先駆的映画のひとつ、ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が製作公開されてから、「ビアンコ・エ・ネーロ」誌にもリアリズムに関しての論文が多く掲載されはじめる。そのなかで、アントニオ・ピエトロアンジェリは、「現実とは慣習的な様式主義やレトリック的な風景とはまったく異なるものである」(注5)とし、現実の光景への信頼を表明している。また1936年10月の「チネマ」における「現実性を捕まえること」というレオ・ロンガネージの論考の主旨は、「ジガ・ヴェルトフがおこなったように、無名の市井の人々の生活を撮影すべき」(注6)というものである。さらに同誌1941年4月には、のちに『にがい米』を撮るジュゼッペ・デ・サンティスが、イタリアの実際の風景を捉えることの必要性を説いている。そしてこの種の議論をもっとも要約しているものとして、奇しくもムッソリーニが失脚した1943年7月の「チネマ」169号、7月10号の4箇条の1条と3条を最後に引用しておこう。「イタリア映画はつぎの条件のもと探求されなければいけない。1.私たちの映画製作の大多数をかたちづくっているコンヴェンショナルなものや手法の外側に。3.歴史的事象や小説化された歴史の精気を欠いた再構築の外側に」(注7)。

若き映画人がこのようにリアリズムを渇望したのはなぜか。その一因は30年代商業劇映画において主流であった傾向にある。1934年に映画ジャーナリストからファシスト政権の映画部門の総責任者に抜てきされ、1939年までこの要職につき「フレッディの時代」とも称される一時代を画した、ルイジ・フレッディの映画への態度をみてみよう。この要職につく前にフレッディがハリウッドを訪れていることに注目したい。ハリウッドの見学の際に彼がもっとも感銘を受けたのは、ハリウッドの四大メイジャースタジオの1つMGMであった。口当たりの良いメロドラマを得意としていたMGMが理想であったことは、ファシズム期の商業映画の傾向を分析するうえで重要な手がかりとなるだろう。フレッディは映画の影響力が甚大であることから映画を私企業の金銭欲にまかせるのは危険であるとし、検閲をはじめとする政府の介入を積極的に認める一方で、プロパガンダに対しては批判的である(注8) 。1936年にフレッディはゲッペルスの文化政策に批判的な意見をアルフィエリ情報宣伝相に提言している。「3年前までドイツ映画はアメリカ映画に次いで世界でもっとも強力な映画産業を作り上げていました。しかしナチズムの介入によって情況は急激に変化したのです。実際の作品があらわすようにずっと悪くなってしまいました。私は理由を次のように考えます。1.政治的な意味で有無を言わせない強力な暴力的で支配的である政府の介入。2.映画を支配していたユダヤ人の強制追放(世界のどこでもおこなわれていることでありますが、イタリアだけは例外です)。他の領域と同じく映画にナチスは遠慮をまったくせず、強引に介入してきました。ナチスは他の産業のように、映画も新しい領地を進軍していくと思いちがいをしております。ですが映画とは、技術的性質であれ、経済的性質であれ、あらゆる要素に精神が浸透するものであるため、繊細でこみいった発展を暴力的に強制することは不可能です。無分別で権威的な押しつけよりも倫理的で知性的な絶えまない活動が、映画の滋養となるのです」(注9)。あからさまなプロパガンダ映画、たとえばLUCE製作、ジォヴァッキーノ・フォルツァーノ監督の『黒シャツ』(1933)やアレッサンドロ・ブラゼッティ監督の『老衛兵』(1935)などは彼の考えるプロパガンダ映画ではなかった(注10)。彼にとっては、倫理的、教育的なプロパガンダこそ理想のプロパガンダであった。

フレッディの映画に対する態度は30年代の映画製作の現場と一致をみせる。この時代、評論家が「白い電話」と名づけたジャンルに属する映画が量産された。この奇妙なネーミングの由来は、都市のブルジョワ社会を背景にした軽妙な喜劇のなかで、小道具としてブルジョワのシンボルともいえる当時非常に高価だった白い電話がたびたび登場することである。「白い電話」はスタジオでの撮影が中心の極度にハリウッドの影響を受けたものである。このジャンルの代表作品にはゴッフレード・アレッサンドリーニ、ラファエッロ・マタラッツオ、そして本人は「白い電話」に分類されるのを拒んでいるがマリオ・カメリーニがこのジャンルを代表する監督である。エルンスト・ルビッチュやジョージ・キューカーそしてフランク・キャプラらのコメディーとの類似点が指摘されることが多い「白い電話」であるが、ウェル・メイドで現実逃避的なこのジャンルが観客が求める最大公約数の映画として機能したのである(注11)。

こういった劇映画の風潮を考慮すると、先鋭的な若き映画人の批評言語から読みとれることは、リアリズムは当時の劇映画製作のコンヴェンションから逸脱することを意味していたということである。目指すべきリアリズムの対立項には「白い電話」をはじめとするフィクションがある。しかしこの時期に語られている「リアル」の定義は、コンヴェンショナルと違うという否定形でしか表現されていない。さらにはそれぞれの論者によって、「リアル」および「リアルな」という語が意味するところは微妙に異なるのである。たとえばミケランジェロ・アントニオーニは、リアリズムにおける心理的な要素を強調している(注12) 。しかしこれはのちにチェーザレ・ザヴァッティーニらが主観性を排除することが客観性であり、それがリアルであると定義づけたこととはまったく相容れない。「リアル」、「リアリティ」という言葉が幅広い解釈をもたらす曖昧さ。それは戦後のネオレアリズモの定義が、監督それぞれによって異なるある種のつかみどころの無さを予見するするものといえるだろう。

CineMagaziNet! No. 2
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