CineMagaziNet! | 0 | 1 | 2 | 3-1 | 3-2 | 3-3 | 3-4 | 4.リアリズムとネオレアリズモ | (8/8)

ロッセリーニの『白い船』に見て取れるリアリズム的手法を中心に検討してきた。それらは、30年代後半から40年代初頭にかけて論じられた当時の劇映画およびプロパガンダ映画のコンヴェンションを逸脱するリアリズムを体現したかのようにみえる。そしてさらにそこにネオレアリズモ期の映画を透かしてみることも可能であろう。しかし一本の映画として考えるなら、やはり『白い船』1941年の歴史状況の産物であることから逃れることはできない。ここで心に留めなければいけないことは、映画と映画の外側にある文脈との関係である。映画内の形式はそれだけで自律し意味を帯びるものではなく、常に映画外の文脈に引きずられ絡み合うことから相対的にその意味を明らかにするものなのだ。本論で考察してきたように、『白い船』における戦艦内部の描写や、劇映画およびプロパガンダ映画のコンヴェンションから外れる戦闘シーンも、ファシスト政権下のプロパガンダ映画という枠組みに再び回収され、戦意高揚、戦争賛美のメッセージを伝えているのだ。この映画が撮られてから2年後1943年、イタリアの状況にコペルニクス的展開が起こる。いわずもがなそれはファシスト政権の失墜である。ナチスドイツの占領とレジスタンス、終戦を経て、1945年にロッセリーニは彼の代表作『無防備都市』という反ナチズム、反戦の映画を撮る。そのなかでは『白い船』の手法は受け継がれ先鋭化され、1945年当時の歴史的状況をダイレクトに反映し、『白い船』とはまったく反対の機能を担う。ネオレアリズモという批評用語は、戦後直後のファシズムへの嫌悪という文化的な背景から切り離して考えることはできないだろう。40年代初頭に盛んに論じられたリアリズムとその実践として読める『白い船』が、結局そのプロパガンダ性を発揮していることとは対照的に、戦後のネオレアリズモの映画はファシズムへの嫌悪と国家再生のシンボルとなるのである。『白い船』とネオレアリズモの映画群を決定的に分かつものは、映画内の形式や手法ではなく、映画外の歴史的、文化的状況の変動であり、それにともなうイデオロギーの急激な変化といえるだろう。

CineMagaziNet! No. 2
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