CineMagaziNet! | 0 | 1 | 2 | 3-1 | 3-2 | 3-3 | 3-4.『白い船』のプロパガンダ性 | 4 | (7/8)
たしかに戦闘の意義を直接的にわかりやすく伝えるという点において、『白い船』は成功しているとは決して言えない。ただしかしまったく違うレベルで、『白い船』もまたファシスト政権下のプロパガンダ映画の性質を露にしていることも見落とすことはできないのである。『白い船』は戦後のネオレアリズモの形式、手法の萌芽をはらむと同時に、戦意高揚映画として映画製作の依頼主、海軍省の要求に答えている。『白い船』は『日中戦争』とはまったく異なるレベルで観客にメッセージを伝えるのである。敵の表象や戦闘シーンによってではなく、負傷兵と看護婦の恋愛物語を通して間接的に観客に戦意高揚のメッセージを伝え、プロパガンダの任務を果たしている。負傷兵と志願看護婦の恋愛は病院船を舞台にした映画後半部の主軸となる。しかしおもしろいことに非常に奇妙な形でかれらの恋愛物語は終結をみる。この終結部こそが『白い船』をプロパガンダ映画として成立させているのだ。負傷兵と志願看護婦は文通をしており、互いにペンダントを交換していたことが示される。しかし女は看護婦という任務のために、男に自分が彼のペンダントをもっているとは言えない。かれらが名乗りを挙げることなく物語は終わる(図像13, 14を参照されたし)。

『白い船』のプロパガンダ性が明らかになる最後のシークエンスをみてみよう。戦闘から帰還してくる戦艦をまるで自らの恋人に注ぐようなまなざしで戦艦をみつめる負傷兵たち。自分で起きあがって戦艦を見ることができない男を女は支える。船窓に戦艦が姿をあらわす。映画をかろうじて横断していた二人のロマンス的なプロットは、ここで戦艦があらわれることで突如切断される。結局、男が視線を注ぐのは、かたわらで自分を支えている女ではなく、戦争のためにだけにつくられた機械であるからだ(図像15, 16, 17, 18を参照されたし)。冒頭のシークエンスが大砲の超クロースアップからの幕が開けられたように、映画の真の主人公は戦艦そのものだ。負傷兵の視線と欲望は生身の女性に向けられるのではなく、戦艦へと向けらる。この映画において、兵士、将校といったすべての男性の欲望はかれらの戦艦へと向けられているのである。女性が脱性化され、恋愛の成就が、戦艦の帰還ときれいにすり替わる。映画の結末を戦艦におきかえることで、観客の欲望も戦艦と戦艦が象徴する戦争へと向けられ、ここにおいて『白い船』は戦意高揚のメッセージを観客に伝えることができるのである。さらに『白い船』の女性の表象についても述べておく必要があるだろう。志願看護婦は元教師である。ファシズム期のプロパガンダ映画ならびに劇映画において、女性登場人物に当てられた役割とは母親、良き妻、良妻賢母になることだけをのぞまれる娘である。仮に女性登場人物が職業を持っていたとしても、教師や看護婦といった男性を支える母的な脱性的なものであることが多い。従軍看護婦と負傷兵という登場人物の設定も戦争を彩る紋切り型であることもつけ加えておこう。

『白い船』の観客を驚かせ、その目を楽しませるのは戦艦内部の細密な描写である。だが一見するとネオレアリズモとも共通するようなこのリアリズム的描写こそが、映画のプロパガンダ性を減ずるどころか逆に強めていることに指摘したい。憎み、殺害すべき敵の存在をみせたり、負傷兵を英雄化することよりも、戦艦の内部の精密機器や弾丸を砲身に詰め込む作業をカメラは延々と写しつづける(図像19, 20, 21, 22を参照されたし)。だがプロパガンダ映画のレトリックから外れると賞賛されたこのカメラワークは、結局のところ最終シークエンスでの負傷兵の戦艦への盲目的な賛美の視線へと還元される。カメラの研ぎ澄まされた視線は、最後の最後に負傷兵をはじめとする兵士たちの熱狂的な戦艦への視線として意味づけられる。通常劇映画ではなかなか目にすることのできない戦艦の仕組みや内部は、リアリズムの手法によって見事にスペクタクルとして成立していることがわかる。 1932年にL' italia fascista in camminoというプロパガンダ写真集が、ファシズム十年を記念してLUCEから出版された。さまざまなファシストの活動の記録写真が収録されているのだが、このなかで強調されているのは、ファシストイタリアの近代性である。615枚の写真のうちそのほとんどにおいて機械が姿をあらわす。溶鉱炉、工場、建築機械、バイク、戦車、戦闘機、戦艦など。コントラストの強い光のなかで、無機質な光を発しながら威風堂々と鎮座する機械は近代性の象徴である。『白い船』の戦艦内の機械がそうであったように、複雑に込み入った機械そのものの構造が観者を圧倒する。イタリア海軍の近代的な設備、負傷兵の救助技術の高さなどを唱いあげる手段として、ロッセリーニの詳細なカメラワークは機能しているのだ。『白い船』の戦艦内部の機械機構の描写は、ファシズムの称揚する近代性のなかにその居場所をみつけていることがわかる。
CineMagaziNet! No. 2
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