CineMagaziNet! | 0 | 1. 映画とファシズム | 2 | 3-1 | 3-2 | 3-3 | 3-4 | 4 | (2/8)

イタリアの映画産業とファシスト政権は密接にかかわっていた。だがその関係は単純なものでは決してない。映画はファシズムにプロパガンダとして一方的に利用されたわけではなく、むしろ巧妙にファシスト政権を利用し、みずからの産業発展のために多大な恩恵を蒙ることができたといえる。資金援助、チネチッタ・スタジオの建設、などなど。イタリア映画史、いや世界映画史を遡るならば、1910年代のイタリア映画の隆盛が否が応でも目にはいる。しかしイタリア映画の黄金時代は、第一次世界大戦の参戦と終戦後のハリウッド映画のヨーロッパ進出とともに終わりを告げる。20年代を通して国内映画産業は衰退の一歩をたどり、1930年にはイタリア映画は5本配給されたのみである(注1) 。枢軸国ナチスドイツよりも、イタリアはアメリカ映画に寛容であり、また鈍かったといえる。しかし30年代に入ると遅ればせながらも、イタリアは自国の映画産業を制度的に整備する必要に迫られる。ハリウッド映画購入の際のリラ流出を防ぐことと失業者に職を与えることという現実的な政策が根本的なものであったにせよ、「イタリア人のための、イタリア人による、イタリア映画」を掲げ、ファシスト政権は映画産業の復興に着手するのである(注2) 。大手映画製作会社チネス、ルクス、ティタヌスなど製作会社が加盟していた協調組合は、1935年に映画製作および配給を一手に引き受ける独占配給製作会社Enicとなる。同じく1935年から国立ローマ労働銀行をはじめとする三つの大手の銀行に映画産業のための特別口座が開設され、資金援助が積極的におこなわれた。そのほかにもさまざまな機関が新しく設立され、また国家の管轄下におかれたことも記しておこう。1924年にニュース映画を通して情報を独占し操作するLUCE(教育映画連盟)が、1935年に映画人養成機関として国立実験映画センター(LUCEとともに現在も存続している)が設立され、そして1936年にはファシスト政権の映画産業における最大の功績である国内最大のスタジオ・チネチッタの建設が始まる(1937年4月28日チネチッタの落成式がムッソリーニの参列のもとおこなわれた)(注3)。

CineMagaziNet! No. 2
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