CineMagaziNet! | 1 | 2 | 3 | [4] エンターテイメントとしての鉄道恐怖 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | (4/9)

西欧における『列車の到着』神話の背景には、「鉄道恐怖症」が存在していた。信じがたい速度で突進し、しばしば大事故を起こしてしまう「鉄道」への日常的恐怖心こそが、リュミエール映画へのパニックを引き起こしたのだ。しかしむろんこうした鉄道恐怖は、単なる精神病理としてのみ当時存在していたわけではない。それは同時に「巧みにイラストレーション化されたり、コメントされたり、ジョークの材料にされ」(Kirby(3)[1997:61])たりすることによって、一種の大衆的な「鉄道恐怖」文化を形作ってもいたのだ。言わばそこでは、人々はたんに鉄道に消極的に恐怖するだけでなく、その恐怖をスリルとして楽しんでしまおうとする能動的な姿勢が見られるのである。例えば私たちはその一端を、図8図9のようなもっとスピードの遅い路面電車に対する恐怖のイラストレーションから窺い知ることができるだろう。とてもありそうもない、大勢の通行人をなぎ倒して暴走する路面電車というセンセーショナルなイメージは、当時の読者に対しても恐怖よりも笑いを引き起こしてしまったに違いない。あるいは実際に起きてしまった路面電車の人身事故に対しても、大衆紙は以下のような驚くべき過剰な表現で報道していた。

 「アイザック・バートルというニュー・ブランズヴィックの傑出した市民が、今朝ペンシルベニア鉄道の市場通り駅で轢かれて即死した。彼の体はあまりにバラバラになってしまったため、その遺体はシャベルを使ってかき集め、籠の中へと片付けられなければならなかったほどだ・・・彼は重量のある恐るべき機関車の車輪の下に、認識不能の塊となって横たわっていた。機関車はバートル氏に背中からぶつかり、線路に沿って何ヤードも引きずって、彼の身体をひどいやり方で粉々にしてしまった。ほとんど全ての骨が折られ、肉は引き裂かれて線路に沿って散らばっていた。・・」(New Daily Advertiser,9 May,1984 、Singer(1)[1996:83]に再録)

こうした新聞の読者は間違いなく、こうした残酷な事故の記事に対して恐怖心を抱くのではなく、そのセンセーショナルな紋切り型を楽しむ習慣を持っていたはずである。つまり鉄道恐怖はここでは楽しみの対象に変貌しているのである。こうした鉄道恐怖のエンターテイメント化の極限として私たちは、1896年から1920年代にかけてアメリカ各地の定期市等のさいに行われた「鉄道衝突ショー」(Head-On) を挙げることができるだろう(Kirby[1997:60](4)図10) 。つまりこれは、同じ線路上を二台の機関車に向かい合わせで走らせてわざと正面衝突させることによって、その衝撃の激しさを観客に楽しませる見世物である。テキサス州で3万人を集めて行われた最初のショーにおいて、飛び散った汽車の破片によって二人の観衆が死んだというのだから危険極まりないものだったに違いないのだが、しかしここで人々は間違いなく消極的に汽車の重厚な走行の迫力に脅えるのではなく、より積極的に列車衝突の衝撃を楽しみの対象としている。
従って当然のことながら、映画においてもこの鉄道恐怖の娯楽化は起きていたはずである。たとえば『列車の到着』でさえ、最初期においては恐怖と強い刺激を観客に与えていたとしても、その恐怖が何度も新聞で語られ、人々の噂になり、何度もリメイク作品が作られ、それがまた評判を呼び、といった神話化のプロセスのなかで、このようなセンセーショナルな「鉄道恐怖文化」の一つに変貌していったと思われる。つまり、しばらく後から『列車の到着』を見る者には、もはや最初の観客たちが抱いたショックはないというわけだ。たとえば、『ブラック・ダイアモンド急行』を売り物にして巡回上映を行っていたブラックトンとスミスは、この作品の上映前に次のような口上を述べるのを常としていたと言う(Gunning(1)[1995:120]に引用) 。

「紳士、淑女の皆さん。これから有名なブラック・ダイアモンド急行の写真をご覧にいれましょう。まさにその瞬間、激動の瞬間にして歴史的瞬間、皆さんは列車が素晴らしく、最も驚くべきやり方で生命を得るのを見ることになります。列車は皆さんに向けて突進してくるでしょう、その怪物のような鉄の口から煙と火を吐きながら。」

 つまり『ブラック・ダイアモンド急行』の観客たちは、最初のリュミエール兄弟の上映会の観客たちとは全く違ったかたちで走行する列車の映像を見たのだ。リュミエールの観客たちが何の予期もなく唐突に「突進する列車」に出会ってしまったとするなら、ここでの観客たちは、映画を見る前に予め「走行する列車」映像の迫力について予告されている。だから彼らはどんな恐怖とスリルを味わえるのだろうとワクワクと期待しながら、列車映像に出会っていたことになるだろう。いやそもそもそれ以前に、彼らは新聞記事や広告や噂などを通して、列車映画のスリルについて何度も知らされていて、それを楽しみに上映会に出掛けていたに違いない。従って彼らにとっての「列車恐怖」とは、あくまで楽しみの材料にすぎなかったのだ。
そして、こうしたエンターテイメントとしての「列車恐怖」を、映画というジャンルに最も見事に取り込んだのが、アメリカで1906年から07年くらいにかけて大ヒットした「ヘイルズ・ツアーズ」という上映形態だったと言えよう(Fielding(1)[1983])。走行中の機関車前面の牛除けに乗ったカメラマン (図11)が捉えた、過ぎ行く風景の映像を、まるごと列車を擬して作られた観客席前方の半透過式スクリーンの背後から映写することで(図12) 、観客に疑似乗車・旅行体験を楽しませるものである。座席の下にはモーターがあって座席を振動させ、窓の外からは巨大な扇風機によって風を吹かせることによって、一層その疑似的な列車体験を強化していたと言う。1898年頃から『列車の到着』の変形ヴァージョンとして普通の上映形態で楽しまれていたイギリスの「ヴァーチャル・ライド」を、アメリカの元消防夫ジョージ・ヘイルたちが上記のような見事なエンターテイメント・ショーに変貌させ、それから彼の名を冠して「ヘイルズ・ツアーズ」と呼ばれるようになった。こうして「ヘイルズ・ツアーズ」に至って、映画は『列車の到着』恐怖を完全に馴致してしまったと言えよう。なぜなら、ここで走行列車の「スピード」を (擬似) 体感している観客にとって、もはやその「走行」は「恐怖」を感じさせるものなどではさらさらなく、逆に走行の心地よさをもたらしてくれるものでしかないのだから。こうして映画においても、走行する列車の意味は「恐怖」から「快楽」へと変容したのである。

以上私たちは、まず『列車の到着』神話が当時の西欧社会に広く普及していたこと、次にその背景には文化としての「鉄道恐怖症」が存在していたこと、しかしその後の映画の歴史はこの鉄道恐怖症を巧みに利用して、列車の突進のスリルをエンターテイメント化して観客を楽しませてきたことを確認してきた。しかしここには何か取り残してきた問題があるように思えてならない。私たちは、『列車の到着』へのショックの問題を論じるさい、それを映像の被写体としての「鉄道」の問題に還元して論じてきた。むろん、そこには日本における『列車の到着』への鈍感さという証拠が存在してはいたのだから、それが間違っていたとは思わない。しかし『列車の到着』への最初の観客たちの恐怖には、被写体としての「鉄道」の問題に還元されてい何かがあったのではないだろうか。そもそも、このエピソードは「映画」という新しい視覚文化に出会った人々の戸惑いを表現するためのものであったはずだ。しかし私たちの分析が「鉄道」の方へ傾斜するにつれて、いつの間にかこの「映画」自体への驚きが捨て去られてしまっていた。起源の映画観客たちは、本当は「列車」にのみ恐怖を感じたのではなく、「映画」そのものにも恐怖を感じていたのではないか。この映画自体への恐怖についても私たちは考察する必要があるのではないか。では、それは改めて次に考えることにしよう。

CineMagaziNet! No. 2
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