2. リュミエール映画と失認症的視線
| 1 | 2 | 3 | 4 | [5] 観客の熱狂 | 6 | 7 | 8 | 9 | (5/9)

1895年末のパリにおける最初の上映会から1〜2年の間に、リュミエール映画は世界中に伝わって上映され、各地で大きな評判を獲得した。とくにアメリカにおける観客たちの熱狂は信じ難いほどのものだったと伝えられている。たとえば、1896年の 6月29日のアメリカにおける最初のシネマトグラフ上映会( ニューヨークのキース・ユニオン・スクエア劇場) の様子について、リュミエール兄弟が派遣した映写技師メスギッシュ自身は次のように報告している(Sadoul(2)[1948=1993:139]) 。

「翌日・・・、私はアメリカの観衆と直接接触することになった。大衆の熱狂がどれほどのものかを理解するには、この集団的興奮の瞬間を経験し、ざわめく上映時間に立ち会う必要がある。 (中略) それぞれの場面が嵐のような拍手喝采を伴って過ぎていく。六番目の光景が終わると、私は照明をつける。観衆が騒々しくなる。< リュミエール兄弟、リュミエール兄弟> という叫びが鳴り響き、歓声が聞こえてくる・・・。忘れられないほど大きく熱烈な喝采。こうした熱狂を前にして、私は発明者の二人がいないのを残念に思う・・・。」

 確かに、この大げさな熱狂ぶりの描写には、当事者としてのメスギッシュの自慢話めいた誇張が幾分あるかもしれない。しかしその後( 9 月14日以降) ニューヘヴン市で行われていた上映会における、観客たちの熱狂ぶりを記した次のような記事を読むと、それが全くの誇張とも言い切れなくなってくる。

「このシネマトグラフほど多くの群衆をひきつける見世物を私たちは経験したことなどなかった。そして、観客たちが見世物の素晴らしさにこれほど熱狂して劇場を立ち去るのも初めてだった。」
「シネマトグラフは実際、今日の大流行となっているので、それを見ていないニューヘヴン市民など時代遅れになってしまう。」 ( いずれも、New Haven Register紙、11月7 日及び10月8 日。ここでは、Musser(4)[1990:139]より引用。)

実際ニューヘヴン市の人口は当時10万 8千人程であったにもかかわらず、3週間に人口より多い122,607 人もの観客が訪れるほどの驚異的なヒットにそれはなっていたというのだ。また 8月から 5カ月間続いていたフィラデルフィアの上映会でも「本当のセンセーションを巻き起こした」(Philadelphia Record紙、8 月16日、ここでは、Musser(5)[1990:138]より引用) と伝えられている。こうして間違いなく、最初にリュミエールのシネマトグラフを見たアメリカ人たちは熱狂的にそれを受け入れたらしい。こうした興奮は、日本における最初期のシネマトグラフ上映会(1897 年( 明治30年) 4 月 1日、京都新京極元東向演芸場) についての記録からも窺い知ることができる。『少年倶楽部』に載った読者からの報告によれば、当日の観客たちは、ある作品に対しては「ああ危なし」と叫ぶ者がいたり、別の作品に対しては「拍手喝采場内に満つ」とか「拍手喝采喧騒を極む」といった具合に、やはり熱烈な反応を示しているのだ。( 田中(1)[1975:42-3] もしくは塚田 (3)[1980:108-109] より引用 )。
こうした観客たちは、いったいリュミエール映画のどこにそれほど熱狂したのだろうか。これが先に分析した『列車の到着』に対する熱狂でないことは間違いなさそうだ。何しろ日本のように『列車の到着』神話が存在しないところでも熱狂的反応が見られるのだから。では突進する列車の映像でないとすれば、彼らがこれ程の熱狂を示したのは、いったいどんな映画作品に対してだったのだろうか。実はそれらの多くは、リュミエール兄弟の日常生活を固定カメラで捉えた、一分にも満たないごく平凡な記録映画の数々にすぎないのだ。例えばそれは、若い夫婦が自宅の庭らしき所にテーブルを出し、赤ん坊を囲んで食事をしている『赤ん坊の食事』であるとか、工場の門が開くと大勢の労働者たちが帰宅していく光景を正面から捉えただけの『工場の出口』であるとか、数人の労働者が大きな金槌のようなものを使って塀を倒すだけの『塀の取り壊し』とか、海に向かって突き出た飛び込み台から、次々と子供たちが海へ飛び込んでみせる『水浴』などである。ここには、突進する列車のようなスリルもなければ、とくに物珍しい光景があるわけでもない。誰もが日常的に見慣れた光景ばかりである。しかし当時の観客たちはどういうわけか、こうした何でもない光景を見ることであれほどの興奮を示したのである。
確かに何とも奇妙である。そこで私たちはついつい、初期のリュミエール作品の中に、外国の様々な大都市の光景を捉えた作品 (『ブロードウェイとユニオン・スクエア』や『ピカデリー・サーカス』など) や観光地のパノラマ的光景を捉えた作品 (『船から撮影された大運河のパノラマ』や『エッフェル塔上昇パノラマ』など) を見つけ出し、当時の人たちはきっとこのような珍しい外国の光景に観光的な興味を持って興奮したに違いない、あとは付録品だったのだなどと考えてみたくもなる。しかし、当時の資料にあたってみると、それはどうも違うようなのだ。少なくとも、世界各地における最初のリュミエール上映会において人々の注目を浴びたのは、何でもない日常的光景を捉えた作品の方である。ではそれはどのような興味であり、どのような興奮だったのだろうか。以下で考えることにしよう。

CineMagaziNet! No. 2
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